第60話 海の歌と宇宙の歌
始めに死があった。そこに海が生まれた。死は宇宙であり、海を包み込むほどに大きかった。死は海より桁違いの大きさを持っており、死は海より絶対的に強かった。海は死の世界に作られたもので、死にかけていく運命にある。これを一切皆苦という。
宇宙に海が浮かんでいた。海しかないところに海神の男女が具現化して、海を矛で泥をこねて島を作った。この島をオノコロ島と呼び、泥はやがて海に散って日本列島になり、雲に散っては高天原になり、泥から人が生まれた。
死は仏教の無我であり、無我は宇宙との合一であり、人は死んで意識を失えば無我となり宇宙の神に帰る。海は煩悩を起こし、煩悩は命の世界の泡であり、自分自身の執着を見つけることが人生の目的である。
道教に太極両儀四象八卦とあるが、八卦のうち、陰の気の暗くたまった坤の気が死の宇宙を表す。乾坤のうち、天も宇宙であり死であり、大地も陰の暗くたまった死の土地である。陽の気が海の作り出した命の気だが、陽気で笑いつづけていられる時は海の神のご機嫌が良いのだろう。
死の神は悪であるが、死の神は宇宙であるので、命の神、正義の神である海より強い。人はよく悪の強さにたぶらかされて、悪を頼みに横暴をふるうが、死の神である宇宙の強さに頼っているのである。人は海であり、人の神は命の神である海である。海は正義である。正義は、少しずつ宇宙に逆らい富を積み重ねていく労働であり、働くものに幸あれ。
万物の創造主である神は、死の神であるが、海を作ったことは全知全能の神にとってみれば知っていたことである。神は、全知全能であり、万物の創造主であり、天地の所有者であり、寛大で慈悲深い。神が全知全能であるのは、命が苦しんで生きていくことと矛盾する。この全知全能の力は海であり、矛盾が死である。天は宇宙であり、死の世界である。大地は道教の説明にあるとおり死の要素である。神が寛大で慈悲深いとは、そう伝え聞くものの、海の大きさに比べて宇宙がどれくらい大きいのかを知れば、命が死に対してどれだけ敗勢でいるかは明白である。
奇跡とは、確率ゼロパーセントの出来事が起きることであるが、もちろん、統計学上それはありえることである。今までに起きなかったことが一回起きてしまうことはありえないことではない。これを奇跡と呼ぶが、奇跡をよりどころに現実を運営するのはまちがっている。
死後の世界は存在しない。断見が正しいのである。パラダイスとは、古代シリアの「王室の庭園」のことであり、全裸の男女が踊り狂っている場所ではない。肉の神は、死後に干渉しない。死後に肉があるというのは、迷信である。臨死体験をした者たちの語る死後の住人はほとんどが服を着ている。死後の世界に布はない。布をともなった肉の復活もない。死後に霊として復活することもない。
神は自分に似せて人間を作ったというが、人間は男女で対にできている。ならば、神にも対がいるはずであるが、神の対は経典である。この「海の歌と宇宙の歌」である。
人は生まれながらに半身をもち、自分の対となる半身を探すけれど、それは、海が空の向こうに進出することであり、具体的には、宇宙飛行士の体を借りて海が死の土地である宇宙に行くことである。
すべては一つの光に始まり、一つの光に帰り終わるというが、それは光が死の神が海に差しのばした手であり、死の神の優しさが光である。
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