第41話 消えた小説家
ぼくは本を読んでいた。観測外刻印とか悪食界の出てくる小説だ。それはとても幻視的で、ぼくの想像力を刺激する。本を読むのは楽しいものだ。作家の一部の連中は、まったく想像だにしない出来事を次々と起こしてくる。
沢村桂果が訪れた時は、ぼくはまだ本を読んでいる途中だった。だから、なぜ沢村桂果がぼくを訪れたのか、その時のぼくにはまだわからなかった。ぼくはただ、観測外刻印と悪食界に関わる小説を読んでいただけなのだ。
ぼくは沢村桂果に、ぼくは何でもない凡人で、とりたてて特徴のない人物で、何の能力もないと説明した。ただ、ぼくは本を読んでいるだけなのだと。だが、沢村桂果にいわせると、ぼくはとても特殊な状況に置かれているのだという。
「シュレディンガーの猫って知っていますか?」
沢村桂果が聞く。ああ、知っている。シュレディンガーの猫だろ。量子力学に出てくるやつだ。シュレディンガー方程式を解いたことは一回もないけど、どのような概念なのかはどこかで聞いたことがある。ぼくと、ぼくではない誰かが、同じ空間に同時に存在しているのだ。それがどちらの誰かに決定されるのは、観測者が観測するまでわからないということだ。
「そうです。あなたと、あなたではない誰かが、同じ空間に同時に存在しています。それは大眼者が観測するまで、決定されることはありません。わたしは、大眼者が決定する前の世界をのぞく量子力学の研究者です」
ふむ。いいたいことはわかるぞ。大眼者が観測したら、ぼくはいくつかの確率で消滅してしまうのだろう。
「そうです。あなたは大眼者が観測した時に半分の確率で消滅します。ですが、わたしが興味を持ったのは、あなたともう一人のあなたの関係です。とても奇妙な因果の関わり方をしています」
もう一人のぼくだと。いったいどういうやつなんだ。
「あなたは読書家です。そのあなたが読んでいる本は、小説家のもう一人のあなたが書いたものです。大眼者が観測する前の揺らいだ世界を、悪食界と呼びます。そして、悪食界の現象が同じ悪食界の現象に観測する前に因果関係を与えることを観測外刻印と呼びます。あなたは観測外刻印に遭遇しているのです。あなたの読んでいる小説はまだ現実世界に決定されていません。悪食界に存在するものです。もし、読書家であるあなたがこの世界に決定されたとしたら、あなたは現実には存在しなかった小説家の書いた本を読んでいることになります。これを観測外刻印と呼びます。あなたは観測外刻印に遭遇しているのです」
もう一人のぼくは小説家なのか。しかし、ぼくの読んでいる小説がいまだ存在しない小説家の書いたものだったとは考えもしなかった。いったい、ぼくはどうなってしまうのだろう?
小説家が顕在化することもありえるのだろう?
「そうです。小説家が顕在化した場合は、観測外刻印は起きません。小説家はただ小説を書いただけですから。ですが、読書家のあなたが顕在化した場合、因果関係は壊れてしまいます。量子的観測をしなければ、あなたが読んでいる小説を誰が書いたのかわからなくなるのです。これは観測外刻印です」
なんか、申し訳ないな。ぼくが存在したらいけないみたいだ。
「そうです。あなたが読んだ小説は、存在しない小説家の書いた小説なのです。ああ、では、ついに大眼者があなたを観測するみたいです。どちらに決定されるのかわかりません。それでは、さようなら」
そして、沢村桂果は去った。大眼者に観測され、読書家のぼくが残った。そして、観測外刻印によって、存在してはならない小説がこの世に残された。誰が書いたのかもわからない小説。観測されたことによって消えてしまった小説家の小説が。
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