第40話 カバチェス
哲学者はいった。自由意思が存在する論理も正しいし、自由意思が存在しない論理も正しいと。
「きみには自由意思があるかい?」
「ありえないよ。すべての人の意思は因果律に従う。それは、造物主が押し倒したドミノのようにだ。造物主のドミノを乱すものは、悪しきものだ」
「そんなことはない。神は、すべての人間に因果律から解き放たれる奇跡を与えてくださった」
未来の脳科学研究所において。計算機の演算量は、すべての人間の脳を演算するには足らず、一人の人間を演算するので精一杯だ。一人の赤ん坊の脳を、その人生において完全に演算を記録する計画が始まった。人の脳を理解するためには必要なことだったし、精神病を始めとして、精神的な人の悩みを解決するのにどうしても必要な計画だった。
赤ん坊とその環境の行うゲームをカバチェスと研究者は呼んだ。赤ん坊が打つ手に対して、研究者が手を打ち返す。その様子は、シャンチー(象棋)のゾウの代わりにカバを当てはめ、カバのチェス、すなわちカバチェスと呼んだのだ。
研究者の間で意見が割れた。赤ん坊にどの程度、満足する人生を送らせるか決めなければならなかったからだ。人生の満足感が他人によって完全に決定される。これは、まさにカバチェスだった。赤ん坊の脳は観察され、記録された。
ある日、赤ん坊が研究者に贅沢を頼むようになった。研究者の意見は割れた。赤ん坊は贅沢をするべきだという意見と、赤ん坊の満足感は世界人類の平均的であるべきだと考えるものに別れた。研究者の最高会議は、政府からの予算の限り最大限満足させると決定した。
その結果、赤ん坊の満足感は非常に小さなものになってしまった。隔離された生活を送り、不自由な生活を送った。
これに対して、赤ん坊は成長すると、自分の人権に対して弁護士を雇って主張し始めた。赤ん坊は、先進国の平均より上の満足感を得るように政府は予算を出すべきだと主張した。政府には、そんな予算がなかったために訴えは棄却された。まさに、カバチェスだった。
脳科学の被験者が脳科学の研究者に対して、さまざまな謀略を用いることをカバチェスと呼んだ。赤ん坊は、自分に女の子の相手がいなければ、研究データがしっかりとれないといった。研究者は、どのくらいの若さで異性の快楽を与えるかでもめた。
政府は、十八歳までは女性の裸を見てはならないと決定したため、カバチェスは荒れた。赤ん坊は、十八歳になれば、美人の恋人が与えられるんですねと要求した。研究者は、なぜ美人を与えるのかわかならいと反論した。そもそも、女性の平均は美人よりもっと醜いものだと研究者は主張した。美人にもてる感情を記録するより、美人にもてなくて嫉妬する感情を記録した方が有益だと決定された。
赤ん坊は、十六歳で自殺を考えた。それは記録された。こんなことはおかしいと、研究者の意見が割れた。
「正直にいえ。十六歳までに自殺を本当に考えなかった者はいるのか」
何人かの研究者は、本当に自殺は考えていないと手をあげて、カバチェスは荒れた。
「彼を犠牲にしてでも、ひとまず、成人男性までの脳のデータがとれればそれでいい」
そう研究者は決めた。赤ん坊はしょせん、モルモットだった。
赤ん坊が、人権団体に意見をとりあげてもらうように運動し始めたが、すべて封じ込められた。カバチェスは、研究者の圧勝だった。
赤ん坊は、十八歳で与えられた恋人が美人でないと泣き叫んで、大問題になった。相手の女性は、
「なんて失礼な男なの」
といったが、赤ん坊は、
「ぼくもきみもモルモットなんだよ」
と答えて、女性を黙らせた。そして、赤ん坊は自殺未遂をした。本格的なカバチェスの始まりだ。赤ん坊は、非情緒的行動が増え、やがて、カバチェスは新たな展開を迎えた。赤ん坊の精神状態が不安定すぎて脳科学のデータには不適切との決定が出されたのだ。
赤ん坊は、被験者から資格を外された。赤ん坊がまずしたことは離婚の訴えで、女は激怒してそれを認めた。
「わたしの人生を何だと思っているの、あの男は。わたしは必死に勉強して医学部に入ったエリートなのよ」
女は赤ん坊を蹴飛ばしていった。それ以後、赤ん坊を相手にする女性は現れず、赤ん坊は、泣き暮らした。三十一歳で自殺して死んだ。
赤ん坊が自殺してから、研究者に問題があったのではなかったかと問題になったが、その時にはすでにデータが増え、研究は順調に向かい、研究者は人類の希望とまで呼ばれていた。
赤ん坊の遺書には、「もしかして、ぼくに自由意思があって、ぼくの研究データなんてまったく無意味になればいいのに」と書いてあった。
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