第42話 大学のベンチ

 ぼくは、大学のベンチに座ってため息をついていた。いかにも疲れ果てた大学生で、若者らしいはつらつさがなく、今にもこの世が終わるかのように大きなため息をついていた。その時のぼくは暗たんたる気持ちでいたのだけど、もちろん、その日の快晴の天気のもとでは、ぼくなんかは地上にさまよい歩く一匹の虫けらほどの価値しかなかった。誰もぼくに関心をもたず、世界はぼくに関心がなく、日常は当たり前のことが当り前に行われて進行していった。ぼくは大学生の日常に置いてきぼりにされ、一人暗たんとして、大学のベンチに座っていた。

 すると、一人の女子大生がぼくの姿を見咎め、こっちに近づいてくる。この女子大生は同窓の一人だ。顔も見た覚えがある。なかなか可愛い女で、面倒見のよい世話役的な連絡係を引き受けているような活動的な女性だった。それだけでも、ぼくには眩しかったのだけれど、女子大生は、もっさりとぼくの隣に腰かけて、

「どうしたの。元気い?」

 と聞いてきたのである。

 もちろん、ぼくは身体的には健康な男子学生であるのだが、いかんせん精神的に不健康なのでこれはいけない。話しかけてくれた隣の女子大生に、どう対応していいのか戸惑ってしまった。

 精神的重圧を感じたぼくは、彼女には悪意などなく、優しげに話しかけてくれたのだと信じるに足る分析を完了すると、思い切って打ち明け話をすることにしたのである。

「それがさ、いまだ忘れられないんだよね」

 とぼくは言った。重々しく下を向いて暗く沈んでいるように見える。

「忘れられないって何が?」

 と彼女は聞く。けらけらと明るい悩みなど何もないかのような元気溌剌とした女子大生だ。

 忘れられないって何が、と質問されて、ぼくはより一層重々しげに語りかける。

「それは、むかしの彼女がだよ」

 女子大生は大笑いする。

「ええええ!」

 こんな会話を彼女としたことは今までもちろんない。彼女は大いに興味を引かれたようにぼくの顔をのぞき込んだ。

 そして、少し考えて、低い声で聞いてきた。

「別れたの?」

 予想通りの反応だ。彼女はぼくの過去の彼女が気になって仕方ないのだ。ぼくの別れた彼女の話題だけで御飯三杯はいける。そんな雰囲気だ。

「ああ、別れたんだよ、高校の時に」

 ぼくはしれっと答えて見せる。なお、この彼女は架空の存在であり、現実には存在しない。つまり、嘘である。作り話なのだ。だが、どうせ、この女子大生がぼくのむかしの彼女を嘘だと見破る可能性は皆無に等しい。ぼくは平気で嘘をつける男なのだ。

 男子十九歳にして、なぜ、こうも歪んで育ってしまったのかは知らない。だが、ぼくは女子大生との会話に、過去の架空の彼女の話をする、そういう男なのだ。

「今でも好きなの?」

 と、女子大生は聞いてくる。彼女たちはこういう話題に飢えているので、どんどん食いついてくる。

「それは、秘密だ」

 架空の彼女の話をしているのに、何が秘密なのか知らないが、秘密だといって話を焦れさせるのが話術というものだ。だいたい、今でも忘れられないっていっているんだから、つまりは今でも好きだということに決まっている。だが、あえて秘密だというのが話術だ。

「どんな子だったの?」

 女子大生が聞いてくる。どんな子だったか。それはぼくが架空の設定を作りだして語ればそれはその通りでこの話は通る。少なくても、この場は収まる。

「かわいい子だったよ。顔もかわいいんだけど、仕草とか性格がね、かわいかったんだ」

 女子大生はちょっと対抗心を燃やしてくる。この女子大生はそこそこの容姿をしているので、その女子大生に顔がかわいかったということは、ぼくが相当なモテ男だと風潮していることと同意義なので、それなら、それくらいいい男なところを見せてみろと女は要求する。そのように女子大生はできている。

「でも、あなたと付き合うくらいじゃ、あんまり男を見る目はないかも」

 といって女子大生は笑う。わかっている。女子大生の自尊心を満たさなければならないのだ。そこで、ぼくはいってやる。

「きみよりもずっとかわいい女の子だったよ。本当だよ。ぼくにはもったいない器量よしだった」

 とふかしてみる。

 女子大生は、ぼくのようなへんちくりんのことなどどうでもいいのだが、自分より美人だという女の子に失礼があってはいけないと、ちょっと頭で考える。そして、女子大生は謙虚に出るのだ。

「幸せ者じゃん、このお」

 とぼくの背中を押す。

「いや、別れたんだけどね」

 と、ぼくは答える。ぼくは深刻な表情をしている。

「いつ別れたの」

「高校の時だよ。高校で付き合って、高校で別れた。二年半つづいたんだぜ。これでも。落ち込むだろ」

 と、架空の話をする。女子大生はこういう話が好きなので、ぐいぐい食いついてくる。

「そっかあ。きみにもいろいろ人生があるんだねえ」

 としみじみ信じ込んで感心している。まんまとだまされているのがこの女子大生だ。ぼくにそんな美人の彼女なんていなかったんだけどね。まあ、社交辞令の挨拶みたいなものだよ、これは。

 ここで話を終わらせてはいけない。ここからが肝心なのだ。

「それが、どうしても忘れられないんだ。二人で裸を見せ合った時の彼女のおっぱいが」

 女子大生は若干引き気味になる。こういうプライベートな話題は本来、してはいけないのだけど、それが恋人の礼儀作法なのだけれど、つい口に出てしまうこともある。

「あはははははっ」

 女子大生は笑っている。恥ずかしげに頬を軽く赤くして、仕方なく話に付き合っている。だけど、この話のつづきに興味は深々だ。

「それで、落ち込んでいるんだ。彼女はもう戻って来ないんだ」

「やり直せばいいじゃん」

「無理だよ。完全に嫌われた」

 そして、女子大生は聞く。

「どこまでいったの?」

 このことばを引き出すのがぼくの目的なのだ。ぼくは、明朗解析に陽気に笑って生きているこの女子大生のような人種に女としての屈辱を与えたいのだ。それによって、ぼくとこの女子大生が付き合う可能性は皆無になってしまうけれど、別にぼくはかまわないのだ。どうせ、もともと付き合える可能性なんて皆無だ。皆無が皆無になるのがなぜ悪い。だから、ぼくは架空の作り話をするのだ。

「受験勉強をするという名目で彼女の家に行った。そこで、真面目に勉強なんてできないんだよ。どうしても、体を触っちゃうんだよ。ぼくだけじゃなくて、彼女の方も触ってくるんだ。彼女は、ぼくのあそこがどうなっているのか見たいっていうのさ。そして、勃起したら見してあげるよっていったんだ。彼女は意味がわからなかったみたいだから、説明したよ。彼女の体を触らしてくれて、白い肌を見せてくれれば、勃起するって説明したんだ。ものすごく気まずい状況だったよ。でも、彼女が長いこと考えたあげくに承諾してくれて、ぼくは彼女のおっぱいを触り、揉みしだき、裸にして見たんだよ。彼女のおっぱいを」

 女子大生は、少し興奮して聞いている。相づちを打つこともできないようだ。女子大生の呼吸がきつくなっている。

「それで、ぼくらはお互いに全裸になって、交尾したんだ。彼女はぼくの勃起したちんぽを触ってすごく興奮していたみたいだ。今でも忘れられない思い出だよ。その彼女に振られたんだ。もう生きていく気力がわかない」

 女子大生は怒った。興奮している。

「どうして別れたの! そういういやらしいことは本当に好きな人としかしちゃいけないんだよ」

 ああ、わかっている。これは作り話だからな。ぼくは作り話を続ける。

「ああ、彼女に男ができたんだ。金持ちのエリートらしい。それで、浮気に気づいたぼくが彼女を殴ったのさ。そしたら、殴るなんて信じられないっていって、それきり、完全に縁を切られたよ。口も聞いてくれないし、顔も見てくれない。目も合わせてくれない。完全に嫌われてしまったんだ」

 女子大生は涙を落とした。たぶん、女子大生は胸がきゅんきゅんいっている。自分より早熟な女の話を聞かされて、憧れと嫉妬を同時に抱え込んでいるのだ。

 女子大生はしばらく何もいえなかった。完全にぼくの作り話に打ちのめされたのだ。ざまあみろだ。これで、ぼくに得になることは何もないが、高慢ちきな女の鼻をへし折ってやったので、気がせいせいしている。

 女子大生は、

「その子、ちょっとマジい?」

 とか聞いてきたけど、いや、作り話だから。架空の話。ぼくは最低の男です。次に会ったら、ぼくの高校時代の友だちが自殺した話をしてやろう。もちろん、架空の話だ。

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