第30話 かけがえのない一冊
きみはゴミ箱に捨てられた一冊の本だ。その本に触れたものはぼくしかおらず、その書物はゴミ収集車に回収され燃えるゴミとなるだろう。
きみは自分の体に刻印された傷を知ることもなく、焼却場で燃えるのだ。
簡単にいえば、これがぼくときみの関係だろう。
その書物にどんな浪漫的な物語が紡がれていようと、ぼくはそれを読んでいないし、きみはそれをなぞったことはない。
どんな劇的な物語が描かれているのかも知らずに、書物をゴミ箱に捨てるようなやつがぼくという人格で、きみの分身は別の図書館に所蔵されているのだろう。その図書館の本がどのように読まれたのかをぼくは知らない。誰も読まなかったかもしれないし、荒ぶるようになめずりまわされたかもしれない。
だが、ぼくという人格は、書物をゴミ箱に捨てるような男であり、その本を読んだことがない。読んだことのない本の題名すら忘れてしまい、ただ、あんな本があったなということだけを覚えている。ぼくはゴミ箱に捨てただけの本のことを思い出して、十年をすごした。ぼくは、捨てられた本の内容を身勝手な空想で思い描いて、ひょっとしたら、あの物語にはぼくが登場したのではないのかという期待をもってしまった。だから、その本のことが忘れられず、その本にぼくがどう登場したのか、好かれていたのか、嫌われていたのか、ただ、夢想する。夢想して苦悩する。本はすでにゴミ箱に捨てられ、焼却場で燃やされたのだから、どんなことをしても、その物語を読むことはできない。ぼくは本の題名も覚えていない。
このとんでもない粗暴なグズがぼくだ。この本を捨てた行為がぼくの恋愛だったのだ。
いってみれば、こうして二十代の壮健の時をすごしたぼくは、本を読まず、書架は空で、読書記録には一冊の記もない。
ぼくは、歳月の重みに耐えかねて、心身ともに消耗し、愛を語らなければならなくなった。そして、ぼくは愚かにも、捨てた一冊の本のことを思い出すのだ。こんなものは恋愛ではない。愛を奏でる音楽は、旋律を外し、癇癪を起こす。ぼくが悪いのだ。
だが、あの本を捨てずにどうしたらよかったのだ。ぼくにはその本を読むだけの読解力はなかった。識字率が低いのだ。ぼくという人物は白痴なのだろう。
ああ、答えはわかっていた。ぼくは本を読むことのできない白痴だったのだ。決して、読書を怠ったわけではない。読む力がなかったのだ。ぼくは一生、物語を知らずに人生を終えるだろう。
ぼくがゴミ箱を漁ったことが一度だけあった。その時、ただ距離だけが遠く、すれちがいだけしかなかった。触れ合うことはない。ぼくはそんな知能をもっていないのだ。ぼくは本を読まなかった。だから、いつまでたっても本が読めない。
ゴミ箱に捨てた本に書いてあったかもしれない物語を夢想し、苦悩する。
ゴミ箱に捨てたのはぼくだ。ぼくの責任だ。
人生でひとつの物語も知らないことは、とても寂しいよ。
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