第29話 友紀村慎二の高潔な趣味
蜘蛛塚拓馬は偉大にして崇高なまごうことなき天才である。その著作は、現在たった三冊の長編と四十七篇の短編が発表されただけであるが、まだ世間ではあまり名が売れてはいない。時代を変えるべき天才が未だ、人知れず不遇をかこっているのは、誠に憂慮すべき事態であり、社会の損失である。
蜘蛛塚拓馬という売れないSF作家の存在を知ってから、ぼくはおこづかいのすべてを蜘蛛塚拓馬の作品を買い求めることに費やし、その金額は高校生としては異常な十万円を超える金額に達していた。その作品にはひとつとして捨て作品はなく、どれも機知に富み、斬新な着想によって築かれた文学の芸術品であった。ぼくはむさぼるように蜘蛛塚拓馬のSF小説を読み、すっかりその魅力の虜になっていた。これほど優れた天才がいまだ世間で売れずに無名の存在として見捨てられているのは耐えられない。
蜘蛛塚拓馬はすべての日本人に読まれるべきだ。いや、全世界の言語に翻訳され、世界中の人類が蜘蛛塚拓馬のSF小説を読むべきだ。
蜘蛛塚拓馬の著作はすべてネット古書店でしか手に入らなかったが、なんとかそれをすべて買い揃え、ぼくは自分の部屋に蜘蛛塚拓馬図書室ともいえる書庫を作っていた。蜘蛛塚拓馬の著作は発行部数が少なくて貴重だから、湿気でかびるとかいうことがあってはいけない。本の安全な保存の仕方など知らないが、ぼくは買い揃えた蜘蛛塚拓馬のSF小説を中学の頃から、毎日くり返し読んできたのだ。
蜘蛛塚拓馬だけがぼくの青春だ。ぼくから蜘蛛塚拓馬をとり上げたら、何も残らないんだ。
「趣味は何ですか」
と聞かれたら、
「蜘蛛塚拓馬です」
とぼくは答えることにしている。蜘蛛塚拓馬と聞いて、それをSF作家の名前だと理解する人はまずいない。人によっては、蜘蛛塚拓馬をスポーツの名前だと勘ちがいする人もいるだろう。だが、蜘蛛塚拓馬はスポーツではない。蜘蛛塚拓馬はSF作家なのだ。まったく世間に知られておらず、まったく世間で売れていない貧乏な独身SF作家なのである。そんなちっともお金にならないのに、人生をかけてせっせとSF小説を書いているSF作家がぼくは大好きなのだ。特に、蜘蛛塚拓馬がいい。蜘蛛塚拓馬を読むといい。あれは、天才の技だ。
だから、高校に講師を一人読んで、講演してもらうと聞いた時、ぼくは無我夢中で蜘蛛塚拓馬の名前を紙に書き、『現代におけるいまだ知られざる天才、蜘蛛塚拓馬先生に講演に来てもらうべきである。これは全校生徒及び全教師に対する救済である』と書いて、投票用紙に投票したのだ。高校に呼ぶ講演の講師のことなんかに興味のある生徒は、ぼく以外に我が校には一人もおらず、ぼくの投票用紙が唯一の生徒からの要望ということになり、学校の講演に蜘蛛塚拓馬を呼ぶことが決まったのである。
ぼくは、学級中の友だちに、蜘蛛塚拓馬を講師に呼ぶことを頼んだが、引き受けてくれる友人は一人もおらず、ぼくは絶望の中で数週間をすごした。生徒会において、生徒の要望を重視するべきだという方針のもと、蜘蛛塚拓馬を講演に呼ぶことが決定したことをぼくが知ったのは、その決定が生徒会の掲示板に張り出されたのを見てからだった。
「いやったあ」
ぼくは飛びあがって喜んだ。あの憧れの蜘蛛塚拓馬に会える。そのことばを聞ける。こんなに嬉しいことはない。
ぼくは、学級で蜘蛛塚拓馬の評判を聞いてみた。
「ねえねえ、今度、講演に来ることになった蜘蛛塚拓馬をどう思う?」
「ああ、なんでも官能小説家らしいねえ。なんか、職員室でもめているらしいよ。官能小説家を質実剛健を目指す我が校の生徒に聞かせる講演の講師に招いていいものかって」
官能小説家あああ?
まったく理解できなかった。
「世間では、蜘蛛塚拓馬は官能小説家だと思われていたのか。なんということだ。蜘蛛塚拓馬の小説には、たしかに人間の交尾を書いた作品も存在する。時には過激で、青少年が読むにはふさわしからぬと一見、思わせる作品もある。しかし、一見、そう思わせておいて、官能小説において、哲学的テーマへと発展していくさまはまるで芸術であり、迷える少年少女の青春を豊かにする思索に満ちたものなのはまちがいないのに」
「友紀村くん、考えてることが外にもれてるよ」
はっ、しまったあ。うかつにもぼくは、己が考えていることをそのまま口に出して話してしまうという失態を演じてしまったのだ。
「ちがう。これは、ちょっとしたぼくの煩悩によって生まれた事故だ。大切なのは、蜘蛛塚拓馬の書く官能小説には哲学的テーマが含まれていることなんだ」
「ふうん。やっぱり、官能小説家なんだあ」
全然、通じてない。蜘蛛塚拓馬の素晴らしさがまるで通じてない。
「蜘蛛塚拓馬はSF作家であって、官能小説家ではない」
「ええ、SF作家も、官能小説家も、あんまり変わらないんじゃない。どうせ、不潔なことが書いてあるんでしょう」
「ちがうんだ。蜘蛛塚拓馬の小説は、読んでいて性的興奮を覚えることはあるが、それは蜘蛛塚拓馬の追及する真理への探究があまりにも深淵であるため、ぼくたちはそれを最高の快楽として感じてしまい、射精へと至るのだ」
「やだ。友紀村くんって、蜘蛛塚拓馬の官能小説を読んでオナニーしているの?」
「ちがう」
なぜだ。なぜ、伝わらないんだ。
目の前にいる女子、桜葉もみじは、完全に蜘蛛塚拓馬を官能小説家だと思い始めているし、ぼくは、高校生にして官能小説を読んで自慰にふけっている変態にされているじゃないか。
ちがうんだ。蜘蛛塚拓馬には哲学があるんだよ。真理への探究の思索があるんだよ。
「でも、わたし、官能小説って嫌いじゃないかも」
なにいいいい!
予想外の反応だ。学級の同級生、桜葉もみじは官能小説が好きだったのだ。そんな女子高生いるのかあ。
ぼくは、己の若さゆえの未熟さをかみしめながら、しばし呆然としてしまった。
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