第4話


僕は本が好きだ。自分が持っている唯一の趣味で、本屋に訪れて、一時間以上本を眺めて過ごすこともしばしばだった。本は如何様にも姿を変えて、自分を楽しませてくれるから、本の世界にいる間は、僕の退屈で嫌な人生を忘れさせてくれるから。といった理由ではない。ただひたすら、ページをめくり、文字を読むこと自体が、僕は楽しかった。しかし、著者の伝えたいことだったり、情景描写などは考えたことがなくて、大量に本を読んでいたにも関わらず、中学の授業で、初めてそれらについて知ったくらいだった。

初めて自分が本を読んだのは、小学三年生の頃だった。母とともに、本屋に行った時、一つの本が目にとまった。表紙が、夜の海で、月明かりだけの中に立っている一人の少年を描いたものになっていた。僕は、その表紙の絵に惹かれて、母に「僕、これが読みたい。」と言った。自分から何かをしたいと言ったのは初めてのことだったらしく、母さんは喜んで僕にその本を買ってくれた。本の題名は「夢の海」。小学生には読めないような純文学だったが、僕は辞書を使ったり、親に意味を聞いたりしてなんとか読み切った。夢の海は、主人公の少年が、ゴミで汚れてしまった海を一人で毎日片付け続け、その姿に心打たれた人々が一人、また一人と協力していき、最後に綺麗になった夜の海を少年が一人で眺める。という話だった。もちろん深くまで読み取れるほど当時の僕には読解力がなかったので、表面だけの内容しかわからなかった。しかし、僕は、話を読み終えたあと、両親に「すごい!本って面白いね!」と嬉しそうに言ったそうだ。

その本が川崎にバラバラにされた時、僕は自分が引き裂かれたような思いがした。その次の日から、僕は本を読まなくなった。僕が小説を読んだ原点であり、そして、初めて一生懸命になってやり遂げた事そのものだったその本を破かれた事で、本を読む楽しさを、自分の唯一つの生きがいを失った気がした。以来、一度も自分の本棚には触れていない。本屋に冷やかしをしにいくことも、なくなってしまった。


やがて、意識がはっきりすると、また草原に寝転がっていることに気づいた。アパートのベッドで目覚めると思ったのだが、毎回不動産屋を通じてあの世界に行くということだろうか。僕は、交番のような建物に歩み寄っていく。

交番の中には、昨日会ったばかりの熊のような不動産屋が、窮屈そうに椅子に座って、机に書類を広げていた。僕はひょこりとドアから顔を出すと、

「こんにちは。」と彼に挨拶をした。

「おお、来たな。まあ、ここに座れよ。」不動産屋は声を轟かせると、毛深い手で自分と向かい合っている椅子を指差して言った。僕は相変わらずの彼の荒々しい雰囲気に、少しおどおどしながら、席に座った。

「ここへは毎回来るんですか?」僕はさっき思った疑問を口に出す。

「ああ、次からはアパートで目覚めるとかじゃないんだ。俺と毎回少し話をする。お前がもうあの物件には行かなくていいと思ったら、その時に言ってくれ。そのように手配する。」不動産屋はそういうと「あの世界はどうだった?お前に合っていたか?」合っていないようなら、別の物件を探さなきゃいけない。と言うと、書類に目を落とす。

「いえ、大丈夫です。きっと、どこに行っても無意味なことなんてないですよ。」僕がそう言うと、不動産屋は目を上げた、彼は、少し驚いたような目をしていた。

「お前、少し変わったな。」と言った。僕が現実世界でやったことを知っているわけではないだろうが、前の僕と、吹っ切れたあとの僕の微妙な変化に、気づいていたようだった。やはり繊細な男だ。人を見る仕事をしているのだから、当然なのかもしれない。

「実は、少し怒鳴ったらスッキリしてしまいまして。」僕はかなりざっくりと言った。が、不動産屋は「そうか、大声を出すのは気持ちがいい。俺もよくむしゃくしゃした時なんかは、目の前に広がっている草原に向かって叫ぶんだ。」やまびこみたいに、自分の声が返ってくるわけじゃないけどな。と、彼は豪快に笑った。今の声が正常だとすると、彼の大声はどれくらいの大きさになるのだろうか。想像して、彼を怒らせるのはやめよう。と心に誓った。

「鳥居間には会ったか?」と、不動産屋は話題を変えて、僕に質問してきた。

「ええ。すごく綺麗な海を見せてもらいました。」昨日の景色を思い出しながら、僕は答える。

「そうか。あの男、豆のように小さいが、芯はしっかり持っているやつでな。たくさん人を見てきたが、俺が話す前に、俺が書いた看板を褒めてくれたのは、あの男だけだ。」この男はドリーマーとは呼ばないのか、それとも、ただ単にその名前を知らないだけなのだろうか。そういえば、佐藤という郵便局の彼も、彼のことをドリーマーとは呼んでいなかった。親しい人間こそ、あだ名で呼ぶべきではないのか?と考えて

「彼のあだ名は知っていますか?」と尋ねる。

「ああ、ドリーマーだろう?思うんだが、あだ名ってものはなんであるんだろうな。その人間の名前は、ちゃんと呼んでやるのが礼儀だろう。」なるほど、そういう考え方もあるのか、あだ名というのは人の価値観によって、それのもたらす意味が変わってくる。ということだろうか。

「確かにそうですね。僕には、あだ名はありませんが。」

「欲しかったら、誰かに頼んでつけてもらうといい。俺はそんなことはしないけどな。」彼はニカッと笑うと、 話を切り上げて、本題に入った。

「それで、またあの世界に行くか?」不動産屋はそう言って僕の顔を覗き込む。

「は、はい。お願いします。」向こうにはそんなつもりはないのだろうが、近づいてきた鬼のような形相に、思わず少しびっくりしてしまう。

「わかった。じゃあここに立て。」不動産屋はそう言って立ち上がると、入り口とは反対側のドアの横に立って、僕にここに立つように促す。僕も椅子から立ち上がると、彼の横に立った。

「よし、行ってこい。また明日会おう。」不動産屋はそう言って、ドアを開けて僕をその中に押し込んだ。今日の夢も、どうやら長くなりそうだ。


最近、小説の「夢の海」について、よく思い出す。内容を事細かに覚えているわけではないが、ぼんやりと、月明かりに照らされる海の情景が頭に浮かぶのだ。僕も、いつかこの目でそんな景色を見てみたい。と思うようになった。しかし、あの日から僕は本を読んでいない。少年が、その海を見て、何を思ったのか、どうして、海を綺麗にしようと思ったのか、僕にはわからなくなってしまった。忘れてしまった。という方が正しいかもしれない。過去と決別して、僕は変わることが出来たのだろうか。トラウマの呪縛から、逃れることはできたのだろうか。

ふと、読んでみようと思った。あの本を、もう一度読んでみようと思った。病気を治すために、学校へ行くために、変わる努力を始めた僕と、海を綺麗にしようと奮闘する少年。僕らは、やっていることは違うけど、とても似ていると感じた。フィクションとノンフィクション、本の中の話と現実という違いはあるけど、きっと、何か得られるものがあるはずだ。次現実に戻ったら、やることが決まった。だけどまずは、次の夢の世界で何かを見つけよう。その何かが、どんなものかはわからないけれど。


アパートの部屋は、相も変わらず無機質なままだった。僕はベットから立ち上がる。そういえば、服はパジャマのままだろうか、そうだったら少し恥ずかしい。と思い、自分の姿を確認する。僕が着ていた服は、昨日中学校に行って、ずぶ濡れになっていたものと同じもので、服は洗濯した後のように綺麗になっていた。都合が良かったので、僕はそのまま外に出る。

町は、昨日と同じく、ちくはぐな景色を僕に見せた。今は何時だろうか、この町の自分の部屋には時計はないし、携帯電話で確認するしかない。と、ポケットを探るが、何も入っていない。おかしいな、昨日は確かに入っていたのに。どういうことだろうか。と考えていると、少し疲れた様子の鳥居間が階段を駆け上がってきた。

「やあ。おはよう。」彼はニコリと笑って挨拶をする。

「おはようございます。何かあったんですか?」僕は鳥居間を見て聞く。

「いや・・・。その、また捨てられてたんだ。ごみが。」昨日聞いた、海に捨てられていくごみのことだろう。三〇一号室の元住人らしいが、この部屋に住んでいるということは、おそらくその人間も、現実からあの不動産屋を通してこの世界に来ているのだろう。しかし、今はこの部屋にはいない、どこかに隠れているだろうか。と、眉間にしわを寄せて考えていると、鳥居間は困りきった顔で呟いた。

「探してはいるんだけど、どこにいるか本当にわからないんだ。誰に聞いても、返答は『見ていない。』さ。」

「僕も探しましょうか?」その犯人を探しているうちに、自分も何かを見つけられるかもしれない。

「ほ、本当かい?ごみは増える一方だし、正直僕にはもうお手上げだよ・・・。」鳥居間は顔を輝かせると「なにか犯人を捕まえるいい方法はないかな。」と手を顎に当てて考え始めた。

「昼間は芝さんが一日釣りをしているんですよね?じゃあ、捨てているのは夜の時間帯になります。人目があるところで、ごみはきっと捨てにくい。」

「実は前回待ち伏せして捨てているのを見つけたのは、夕方だったんだ。その時間帯は、芝さんもちょうど帰る時間で、捨てやすかったんだろ。」前に注意されたのと同じ時間帯にごみをまた捨てるなんてことは、もう出来ないだろう。なら、町の人間が寝静まった深夜に、ごみを捨てているかもしれない。

「なら、夜中に砂浜に行って犯人を待ちましょう。」しかし不思議だ。顔が広そうな鳥居間が聞き込みをしても、尻尾すら出さないで、昼間はどこに隠れているのだろうか。鳥居間も、それは思っていたようで

「隠れている場所さえわかればなあ。だけど隠れられそうなところなんてこの町にはないし・・・。」と首をかしげる。それと、疑問はもう一つ。捨てられているごみの事だ。このアパートの元住人ということは、おそらく犯人もあの不動産屋にこの世界を紹介されて町に来たのだろう。そして、その犯人は、夢の世界を頼ってまで何を捨てているのだろうか。鳥居間は、使えない事くらいしかわかる事がない、正体不明の廃棄物。というような事を言っていたけれど。

「鳥居間さん。そのごみを見せてもらえますか?」僕は鳥居間に言った。聞くより見た方が何倍も話が早いだろう。

「うん。一階の僕の部屋に来てよ。そこに一応置いてあるんだ。」と彼は言うと、先に階段を下っていった。僕は、昨日みたいに手を黒くしないように、手すりに手はかけずに鳥居間についていった。

鳥居間の部屋は階段のすぐ隣にある一〇一号室だった。彼は持っていた鍵を使って、ドアを開け、部屋に入っていく。僕もそれに続くと、靴を揃えて脱いで、部屋に上がる。そして、狭い部屋に置かれていたものを見て、少し驚く。

鳥居間が言っていた正体不明のごみとは、おそらくこれの事だろう。冷蔵庫、電子レンジ、掃除機・・・。他にも数種類の家電と、ポリ袋に詰められた、普通のごみ達。いや、ポリ袋がこの世界にあるかはわからない。これも、彼にとっては正体不明のごみの一つなのだろうか。犯人は、捨てるのにお金がかかる粗大ごみや、放っておくと臭いを発してしまう生ごみなどを、海に廃棄していたのだ。もし現実世界でごみの処理に困っている人間がいたと仮定して、この夢の世界の存在を知ったとする。そして、犯人にとって、ここは現実の人間の誰にもバレずにごみを捨てられる絶好の場所だと気づけば、毎回この町に来る度にごみを捨て続けるかもしれない。しかし、どうやってごみをこの世界に持ってくるのだろう。

「こんな四角い物、見たことがないし使ったこともない。どう処理すればいいのかてんでわからないんだ。もし危険な物だったら困るし。君はこの廃棄物について何か知らないかい?」と彼は聞いてくる。知っているも何も、僕はこれらを毎日見ている。しかし、正直に話しても、信じてはくれないだろう。実は、僕はもう一つの世界の住人で、夢の中でこの世界に来ているんです。と前提から話しても、あまりにリアリティが無さ過ぎる。夢の中にリアリティを求めるのも変な話ではあるが。とにかく、この場ではごみの正体は問題ではない。

「いえ、わかりませんね。」と言うと僕は冷蔵庫を見ながら「この部屋に置かずに、アパートの外に置いておけばいいんじゃないですか?」と話を逸らした。

「いやあ、それも少し考えたんだけどね。だけどこんな意味のわからない物で、この町の外観を汚したくはないんだ。」きっと、町の人々も不安に思うだろうしね。と彼は笑った。本当にこの町が好きなのだろう。彼の笑顔を見て、そう思った。僕は、小さく頷くと

「夜中に砂浜に集まりましょう。それまでは、各自犯人の隠れている場所を探す、というのはどうでしょうか。」と提案した。まだこの町について全くと言っていいほど無知な僕に、何ができるかはわからないが、二手に分かれた方が捜索の効率は良いと考えたのだ。鳥居間が僕の意見に賛成すると、二人で部屋を出て、僕は海の方に、鳥居間は町の方に向かっていった。

海は、昨日と同じく太陽の光を反射してきらきらと輝いていた。真っ白な砂浜に、僕の足跡だけが残る。砂は、普通の砂ではなく、星の砂と呼ばれるような、細かい一つ一つの形が美しいものだった。昨日はあまり昼の海を見る余裕はなかったが、今はまだ午前。探している間にも、この景色は幾度となく目に飛び込んでくるだろう。僕が海に来たのは、芝から話を聞くためである。昨日は鳥居間に静止されて、話は途中で打ち切られてしまったが、彼も犯人について何か知っている風だった。話は聞いておいた方がいいかもしれない。

芝は、砂浜の入り口から少し離れたところに、椅子を置いて、釣竿を海に垂らしていた。隣にはクーラーボックスとバケツが置いてある。釣れているだろうか。

「こんにちは。」僕は彼に近づくと、後ろから声をかけた。芝はのんびりと振り返り、「おお、どうした。」と、これまたのんびりと言った。

「少し聞きたいことがありまして。」と、さっそく本題に入る。芝は僕の口調で何かを察したのか

「まあ、座れよ。」と、クーラーボックスから椅子をもう一つ取り出して自分の隣に置いた。クーラーボックスは、そういうものを入れるためのものではないと思ったが、それには触れず、ありがとうございます。と椅子に座って話し始めた。海は、低い波をおだやかに踊らせている。

「なるほど、ゴミ捨て犯について知りたいのか。」話終わると、芝もやはり知ってはいたようで、竿を投げ直して、そう言った。

「はい。簡単なことでもいいので、知っていることがあれば教えてください。」

「うーん。俺がドリーマーより詳しいってわけではないが、元三〇一号室の人間は、すごい変わり者だったよ。美人な癖に、ものすごく性格がキツくてな。」美人?あの部屋の元住人は、女性なのだろうか。芝は、僕の思ったことを見透かしたように「女だよ。ごみ捨て犯って名前で男って決めつけるのは、まちがってるぜ。」と言った。僕は少し怒られたような気分になって、少し気まずい気持ちになる。確かに、先入観で、犯人は男だと決めつけていた。人間は、女性と男性としての本質は違うが、そのさらに大元は、同じということだろう。外見や性別だけで、その人間が何を成すかはわからない。逆に、何をしでかすかもわからないのだ。

「だけど、その思い込みは、悪くはない。男って文字だけで野蛮で粗暴なイメージがあるし、女って字面だけで、おしとやかで落ち着きがある雰囲気が出る。言葉ってのは、そんなものだ。」またまた僕の心を読んだように、彼はフォローを入れてくる。鳥居間が言っていたように、この男は哲学的な考えを持っていると感じた。

「女性という言葉を見ても、僕はあまり良い印象は持てません。」いじめをしてきた取り巻きの中にいた女子たちを思い出しながら、僕は言う。

「そういう人間もいるだろうさ。考え方なんて、千差万別。人が違えば、価値観も違う。例えば、虫食いがあるリンゴを見て、『虫に食われているや、きたない。』と思う人間がいれば、『虫が食うほど美味しいリンゴなんだな。』と考える人間もいる。」と、釣り針についた餌を確認しながら、芝はそう言う。

「僕だったら『虫のせいで自分の食べる量が減った。』と思ってしまいます。」

「ははは!それは思いつかなかったな。」楽しそうに彼は笑った。そして

「とにかく、俺がわかることはそんくらいだ。釣り以外にはほとんど詳しくないんでな。」と話した。僕の読書がそうだったように、彼もまた、釣りが生きがいなのだろう。生きる楽しみは、人それぞれではあるが、そのどれもが、本人にとって大きな意味を持っている。その意味が大きければ大きいほど、その生きがいに入れ込んでいくのではないだろうか。芝は哲学家のような考え方をしているが、僕も少し考えすぎだな。と心の中で苦笑する。

「しかし、この海は本当に綺麗だよな。ここまで透き通っているなら、素潜りして捕まえた方が早い。」と自虐的に言いながらも、芝は楽しそうにピクピクと釣竿を動かしている。彼にとっては、釣れる魚の大きさや数が釣りの楽しみではなく、ただそうやってぼんやりしていることが面白いのかもしれない。

「そうですね。僕は釣りをしたことがないので、よくわかりませんが。」それどころか海にここまで近づいたのもあまり経験がなかった。

「なら、今度教えてやるよ。釣りってのは『現実の海に糸を垂らす』ことが楽しいんだ。なんていうか、頭の中がスッキリするんだよ。」前に鳥居間からも聞いた言葉を、芝は言った。ウツツ、ゲンジツ。やはりよくは意味がわからなかった。意味を聞こうと思った矢先、芝の釣り竿に反応があった。芝は

「おっ、来たな!」と言うと、かかった魚と格闘し始めた。竿は大きくしなって、海の波たちの中に波紋を作り出す。やがて、ばしゃばしゃと跳ねる魚が、海面に現れた。芝は大きな網を取り出すと、釣り上げた魚を掬う。

「結構大きいですね。」僕は網に入って跳ね回る魚を見ながら言った。

「大きさはおまけみたいなものだと思ってるんだ。」芝は網から魚を大きなバケツに移しながらそう言う。「俺にとっては、ただ釣り竿を動かしているだけでも、それが釣りなんだ。だから大きさとか取れた量とかはあんまり気にしないな。」と、僕が予想していた答えを話した。そう言ってはいるが、バケツの中でまた泳ぎだした魚を見て、芝は少し笑った。

「じゃあ、俺は釣りを続けるが、お前はどうする?」釣り針に餌を付け直しながら、そう聞いてくる。

「そうですね。僕は犯人探しをしたいので、これで失礼します。釣りは、また明日あたりにお願いします。」僕はそういうと、椅子から立ち上がり、それをたたんで返した。

「おう。じゃあ、また明日な。」芝は椅子をクーラーボックスにしまうと、僕に手を振って、海にまた目を移した。

「ええ。また明日。」僕も手を振りかえすと、海に背を向けて歩き出した。結局、『現実の海に糸を垂らす』について、聞きそびれてしまった。だが、なんでもかんでも答えを聞こうとするのは、少し無粋かもしれない。僕はそう思い直すと、砂浜を出ていった。


「あいつ、少し変わったな。たった一日で。」少年が海から去った後で、芝はそう呟く。奴には背中を押してやりたくなる不思議な魅力がある。とも感じていた。おそらく、必死になって今まで生きてきたのだろう。そして、今も必死に生きているに違いない。命は、絶えずロウソクのように燃え続けているが、その炎の色は、全員微妙に違う。あいつの色は、純粋なブルー。誰よりも優しく、そして、苦しくても、それを受け入れて立ち上がる強さの海の色。どの人間のロウの炎よりも小さく、だが確実に火を灯している。奴の自信が戻れば、炎はまた大きく光り輝き出すだろう。そう思うと、芝はまた透き通った海に釣り竿を投げ直した。この町は、夢の世界であることには変わりはないが、やってくる人間によって、それの成す意味は大きく変わってくる。そして、もたらす影響も、人によって全く違うのだろう。少年は、この海を見て、何を思ったのだろうか。そして、心にどのような変化をもたらしたのだろうか。人自体の本質を変えることは難しいが、その人間の心や感情は、その時によって変わり続ける。一つの考え方を継続して持ち続けることは、とても難しいだろう。そして、少年は、何かしらの意見をずっと持っている。いや、その意見に縛られているという方が正しいだろうか。考え方を持ち続けるということは良いことでもあれば、事を悪く運んでしまう場合もあるのだ。と、ここまで考えて、他人をそこまで詮索するのはよそう。と思い直して、釣りに頭を切り替える。

海は、変わらず小さな波を作り続けていた。


僕は次に、郵便局へ向かうことにした。佐藤と話をするためだ。郵便局員として働いてはいたが、突然の鳥居間の来訪にも応じれていたところを見ると、そこまで忙しくはなさそうだったので、少し話を聞いておく事にしたのだ。

しかし、昨日案内されていたにもかかわらず、どうも道に迷ってしまったようだった。僕はとりあえず、近くを通った人に道を聞いてみる事にした。

「すいません。道を聞きたいのですが。」と、老人に話しかける。人に話しかけて関係の糸を自分から作ろうとしたのは、もしかしたら初めての事だったかもしれない。やはり、少しずつではあるが、僕は変われているのだ。

「道?おや、見た事のない顔だね。引っ越してきたのかい?」と、おじいさんは言うというより、語りかけるといった話し方をした。

「ええ、昨日引っ越してきたばかりなんです。」

「そうか、じゃあ無理ないな。どこを探しているんだい?」老人はゆっくり言うと、持っていた杖に、少し体重を乗せて言った。彼の腰は、大きく曲がっていて、杖なしでは、立つ事すら難しそうだった。

「郵便局なんですが・・・。」

「ああ、あそこならすぐ近くだよ。そこにパンの形をした家があるだろう。その家を真っ直ぐ行って、箪笥の形の家があるから、そこを左に曲がれば郵便局だ。」老人は片方の手の指を使いながら教えてくれた。そういえば、食パンの形の家は昨日見たような気がする。僕はお礼を言うと、歩き出す。

「少し待ってくれ。道を教えた代わりと言ってはなんだが、少しこの老人の昔話に付き合ってくれないかね。」老人は笑顔でそう言った。昔話とはなんだろうか、僕は足を止めると、老人の方に体を向けて

「僕なんかに話しても、つまらないかもしれませんよ。」と言った。しかし、老人は首を振ると

「君に話したいと思ったんじゃ。なぜか昔のある少年と君の姿を重ねてしまってね。」と笑顔で言った。僕と少年を重ねた?僕の何が、その少年と似ていたのだろうか。僕が不思議な顔をしていると

「いや、本当になんとなくなんだ。話がつまらなかったら、そのまま去ってくれてもいい。」少し焦ったように老人は言う。

「いえ、全然大丈夫ですよ。それに、話の途中でどこかへ行ってしまうなんてことは、普通ならしません。」僕はそう言うと、老人に少し近づく。話をよく聞くためだ。それに、その話が、僕があと少し、あと一歩変わるためのきっかけをくれるかもしれない。

「良かった。じゃあ、少しの間、お付き合い願おう。」老人はそう言うと、ゆっくりと語り始めた。


昔の話だ。この町は今よりは人が多かったんだが、何より、汚くてな。あの海を見ただろう?今こそ目を見張るような美しさだが、昔はゴミだらけで、誰も近寄る事はなかった。そこに一人の男の子が引っ越してきたんだ。そして、その少年は海を見るなり、涙を流した。「かわいそう。」とな。汚れきった海を眺めて、そう言った。

そして次の日から少年は、ゴミを拾い始めた。なぜ急にそんなことをしたのかはわからない。他の人間のように放っておけばよかったのに、少年はたった一人で片付け始めた。しかし、ゴミ達はすでにおびただしい量になってしまっていた。それを見た町の住人は、なんと無謀な、と思ったそうな。だから、その活動を助けようとした人間は、一人もいなかった。

だが、少年はそれでもひたすらごみを拾い続けた。そして、ごみは、本当に少しずつではあったが、確実に減ってきていた。何日、何週間、何ヶ月。日を重ねるごとに、綺麗になっていく海を見て、町の人々は、一人、また一人とその活動に参加し始めた。少年の、海を想う気持ちが、たくさんの人間の心を動かしたのじゃ。

そして、ごみを片付け始めてから、およそ一年。海は、見違えるほど美しくなっていた。最初は膨大な数だったごみ達は姿を消し、海岸は、白くて美しい星の砂で埋め尽くされていた。

住人達は、一年前とはすっかり別の景色になった昼の海を見て、ある者は大きく笑い、またある者は、嬉し涙をこぼした。少年も、もちろん喜んだが、彼が見たかったのは、この景色ではなかった。

やがて夜になり、町の人々はそれぞれの家に帰っていった。その少年は、もう一度海を眺める。海は、昼に見せていた姿とは、全く違うものに変わっていた。昼間の華やかさとは打って変わり、静かにそこに佇む海は、少年に、ザザーン、ザザーンと音を聞かせた。まるで彼に海が

「ありがとう。」

と言っている気がしたそうだ。夜の星達が、地上の星の砂達が、少年を祝福しているようだったと、その少年はわしに話した。

それからこの町の人々は、綺麗になった海を守り続けた。海は透き通ったように、町と、少年を見守り続けた。


「・・・話は終わりじゃ。昔話なんて少し若い人間にはつまらなかったかね?」老人はそう言うと、話を締めくくった。

「いえ、僕の昔読んでいた小説みたいな話で、とても面白かったです。あの海は、最初から綺麗だったわけではないんですね。」僕はさっきまで芝と話していた場所の景色を思い出しながら、そう言った。

「わしも、途中から活動に参加した人間の一人なんじゃがな。昔の海は、本当に汚いものじゃった。なぜ少年がこの海にそこまで入れ込んだのかは謎じゃがな。」老人は、少し恥ずかしそうにそう言った。

「その少年と、僕が似てるってことですか?」と、僕は返す。

「ああ。なぜか、その時の彼と君を重ねてしまったんじゃ。」老人はそう話すと「おおっと、忘れていた。ばあさんとデートの約束があったんじゃった。」と歯を見せて笑って「また話を聞いてくれると嬉しいよ。ありがとうな。」と僕にお礼を言って、杖をつきながら歩いていった。腰が曲がるような年になっても、若く過ごせるというのは、とても幸せなんだろうな。と去っていくおじいさんを見ながら、考えた。

老人から聞いた話は、僕が初めて読んだ本である「夢の海」の内容に酷似していた。これが偶然とは少し考えにくい。僕はそう思うと、もしかしたら、この世界に昔来た人間が、その少年をみて物語を作ったのかもしれない。と思った。それを僕が読み、そのあと不動産屋に紹介されて、この世界に来た、とは考えられないだろうか。もしそうだったら、僕がこの町に訪れたのは、運命かもしれない。僕となんらかの人間が、関係の糸で結ばれていて、その人物が、僕をこの世界に呼び寄せたのかもしれない。あくまで可能性の話だが、ここに来てから、変わっていくのを実感している僕にとって、信じられない話ではなかった。

唐突に、今は何時だろうと思った。鳥居間とは、夜に待ち合わせをしたが、できれば夕方には海に着いていたいと思ったのだ。それは、昨日の海に日が沈んでいくあの景色を、もう一度見たいという気持ちが強かったからである。が、今の僕には時間を知る術がない。およその時間を知ろうと、僕は空を仰ぐ。すると、もう太陽が傾き始めていた。この世界にいると、どうも時間が過ぎるのが早く感じる。急いで佐藤の元に向かわなければ。僕は早足で郵便局へ歩き始めた。

老人の言っていたように、まっすぐ進んだ先には、箪笥の形をした家があった。そこを左に曲がる。すると、人がたくさん、郵便局から出てくるのが見えた。そういえば、憩いの場として、たくさんの町民が集まっていたのだった。彼らは、この時間になると、それぞれの家に帰っていくのだろう。住民が出て行く時間に、僕は郵便局へ向かっている。まるで、学校から家に帰る人間を尻目に、提出物を忘れて再登校を先生から食らった生徒のような気分になる。といっても、僕はまだ学校の生徒なのか。最近行けていない高校は、今どうなっているだろうか。と思い出しながら、郵便局へ歩いていく。

ポストの入り口へ入ると、昨日の騒がしいイメージとは反対に、少し寂しさを感じる。人がいるといないとでは、こんなにも雰囲気に差が出るのか。普段賑やかな場所が、途端に静かになると、不気味な気持ちがする「ギャップ」ってやつだろう。

「君は、三〇一号室の・・・。」と言っている声が聞こえる。振り向くと、佐藤が建物の中に入ってきていた。局員には、外で行う仕事もあるのだろうか。

「町中のポストに手紙やはがきを入れに行っていた。交代制なのだが、今日は私の番だったというわけだ。」佐藤はそう言うと、少し疲れたように手首を振って見せた。狭い町とはいえ、一軒一軒に届けに行くというのは、大変なことだろう。この世界には、自転車もないようだったし。

「お疲れ様です。仕事中に悪いのですが、少し話を聞かせてもらえませんか?」

「ああ、手紙を届けに行ったので今日の私の仕事は終わりだ。ベンチに座ろう。」彼は先に、砂でできたベンチに座って、その隣をポンと叩いた。僕は佐藤の隣に座ると

「聞きたいことは、ゴミ捨て犯についてです。」鳥居間と友人関係にある彼のことだ。確実に話は知っているだろう。

「その話なら、鳥居間から聞いている。あの海にごみを捨てるなんて、少し信じられない気持ちだよ。」やはり、海はここの町の人々の誇りなのだろう。佐藤は、少し怒っている雰囲気すら出して言った。

「ええ。僕も彼の犯人探しの手伝いをしようと思って、いろんな人に聞いて回っているんです。」と言っても、たった二人としかこの話はしていないが。

「そうなのか。だけど、私に聞いても、鳥居間以上の情報は出てこないと思うぞ。」と言って、僕から少し目をそらす。

「そうですか。でも、あのままじゃ、鳥居間さんの部屋はごみで埋まってしまいますよ。早いうちになんとかしないと、またあの海は汚れてしまいます。」さっきの老人の話も思い出しながら、僕は頭を掻いた。

「そうだな。だが、鳥居間が一度捕まえてからは、誰も姿を見ていないんだろう?なんとかしようにも、根本を断てなきゃ問題は解決しない。」叙情的な話をする芝とは違い、佐藤は論理的に話を展開する。それとも、仲の良くない人間には無愛想なだけなのだろうか。

「いや・・・。違うんだ、すまない。どうしても初対面の人と上手く話せないんだ。緊張してしまってね。」と、少し恥ずかしそうに佐藤は帽子をあげて話す。僕も人と話すのはあまり得意ではないが、彼はもっと苦手そうだった。だから、愛想良く話しかけてくれる鳥居間は、彼にとって、とてもありがたい存在なのだろう。

「いえ、僕も人見知りです。初めて会う人間が、少し怖いのはよくわかります。」僕は頷いて、そう言った。

「ありがとう。普通の人間は、私が喋ると怒ってしまうんだ。『つまらなそうに喋られるのは気分が悪い。』ってね。」佐藤はホッとしたように言う。

そのあと、二人しかいない郵便局で、軽く雑談をした。そして、さしてくる光が、黄色からオレンジに変わり始めた頃を見計らって、僕は佐藤にまた明日。と言い、建物を出た。そろそろ日が沈んでしまう。僕は走って海の方に向かっていった。


砂浜に着いたのは、日が暮れる寸前だった。鳥居間はまだ来ていなかったので、一人で夕暮れを見ることにした。昨日は雲がなかったが、今日は少し春雲が出ていた。日に照らされた雲が、オレンジから白、白から灰色と、グラデーションで彩られていた。しかし、日が落ちていくにつれて、雲たちは黒ずんでいく。そして、太陽が沈みきると、月と星が現れた。雲に隠されて、ぼんやりと光を見せる宇宙の欠片たちは、雲を通さずに見るより、美しく感じた。海は、その間も太陽の光から、おぼろ月の明かりまで、全てを鏡のように写していた。

「はあ、はあ、待ったかい?」僕が景色に見とれていると、鳥居間が息を切らせてやってきた。僕の姿を見て、待たせたと思って走ったのだろうか。

「いえ、僕も着いたのは日が暮れる直前でした。曇りでも、綺麗な景色が見れるんですね。」僕は、黒というよりは灰色に近い空を見上げながら言った。

「そうだろう。今日は春雲だったよね、見たかったなあ。」彼は日常的に空を見上げるのだろうか、僕は、下を向いて歩いていることが多いので、空の雲の様子は、今日一日で、夕暮れまで気づくことはなかった。きっと、この町の空は、高くて青いのだろう。顔をあげて歩く。当たり前のことだが、それが出来る人間は、半分もいないのではないだろうか。と考えていたが、そんな悠長にするのはどこかに隠れてからにしよう。

「鳥居間さん。どこか、犯人を待ち伏せできるようなスポットはありませんか?」と、所々に雲がかかった月を、額に手を当てて眺めている鳥居間に尋ねる。

「そうだね・・・。あそこの岩の裏なんかどうかな。砂浜全体を見渡せるし、何より、長時間座っていてもあんまり負担がなさそうだ。」きょろきょろと見回した後、鳥居間はそう言うと、ザシュッ、ザシュッ、と音を立てながら、岩の方に歩いていく。僕もそれについていく。それにしても、こちらの季節が春で本当に良かった。夜はまだ少し肌寒いとはいえ、外にいても、まだ過ごしやすいだろう。もしこれが現実世界と同じ冬だったら、ひどい思いをしたに違いない。

岩は、人間が二人隠れてもまだスペースがあるくらい大きかった。僕たちは、交代で砂浜を監視しようと話し合って、ジャンケンをした。チョキで僕が負けたので、先に岩からひょこりと顔を出して、怪しい人物が来ないか見張りを始めた。今日朝に捨てられているのを鳥居間が発見して、一日のこれまでごみはまだ捨てられていない。もし毎日ごみを捨てているのだとしたら、今から朝までの時間の間に犯人は、犯行を行っていることになる。なんだか少し大げさだが、この町では大きな問題だろう。まだ数人しかこの世界の住人に会っていないが、人を殺したり、何かを盗む。という発想すらないのではないか、と思うような人たちばかりだった。悪人は、隠しているつもりでも、普段から悪意の宿った目をしているものだ。川崎や山崎の目を思い出す。しかし、もう怖くはない。僕が思い切り反抗した後の彼らの反応は、予想外に弱々しいものだったからだ。あのあと彼らがどうなったかはわからないが、僕にはもう関係のないことだし、関わりたくもないと思った。

しかし、波の作り出すザザン、ザザーンという音や、烏が鳴くカアカア、という声。そして、ごく僅かしか聞こえないであろう僕たちの吐息が聞こえるほど、静かな夜だった。この世界には電気は通っていないようだし、住人も、暗くなったら寝る。そして明るくなったら起きる。という生活をしているのだろう。

「鳥居間さんは、不動産屋さんと知り合いなんですよね。どうやって出会ったんですか?」僕は、ひそひそ声で退屈そうな鳥居間に話しかけた。それに、前から気になっていた質問でもあった。おそらく現実世界の住人ではない彼が、どうして熊の不動産屋と知り合ったのか、疑問に思っていたのだ。

「僕がアパートを建てたその日に、この町にやってきたんだ。『お悩み解決所を開くから、このアパートを紹介させてくれ。』ってね。ここの町の人たちは、ほとんどが自分で家を建ててしまうから、部屋を使ってくれる人があまりいなくて困っていたんだ。だから二つ返事でオーケイしたよ。」その時に出会ったのか。不動産屋は、あの交番のような建物から、いろんな世界に行けるということだろうか。でないと、紹介できる物件は、ここのアパートだけになってしまう。

「看板を褒めてくれたのを、彼はとても喜んでいましたよ。」

「ああ。次にここに来てくれた時に、あの大きな看板を軽々と持ち上げて現れたんだ。よく目立ちそうだったし、とてもよく書けていたから。」どうやら本気で褒めていたらしい。僕には、まだそれぞれの漢字を覚えたての、おぼつかないイメージの字に見えたが、それは僕の感性が鈍いから、ということなのだろうか。

「それ以来は、忙しいみたいで、次アパートに来る人の情報を手紙で送ってきてくれること以外は、交流はないなあ。」と、彼は少し残念そうに言った。

「あの不動産の仕事は、大変そうですからね。でも、いずれ時間を見つけて、この町に来てくれるんじゃないですか。」鳥居間のことを、芯がある男。と言っていた不動産屋のことだ。きっと彼のことが気に入っているのだろう。わざわざ看板を見せに、この世界へ来ていたくらいだ。

「だといいね。」鳥居間は朗らかに言うと、交代だ、さあ替わって。と僕と場所を入れ替えて、熱心に監視し始めた。僕は岩にもたれかかると、潮の匂いを嗅ぎながら、今は何時だろう。とまたぼんやり考える。時計はこの町にはなさそうだし。現実世界にはないものが色々あるのは確かだが、生活していくには、不便すぎる。郵便局にあったベンチですら、砂で作られていたのを見る限り、他の建物も、椅子やテーブルは砂で作られているのだろう。もしかして、ベッドの土台も砂ではないだろうな。なんてことも考える。

そういえば、この世界に来てから何も食べていないが、不思議と空腹は感じていない。現実では、僕は睡眠状態にあるからだろうか。昨晩寝たのが十九時だと考えると、この世界が今おそらく十九時ごろ。そして、おとといの夜寝たのが・・・。ダメだ。頭がこんがらがってきた。この世界の現在時間について考えるのは、今はよそう。じゃあ、今度は、と次に考えることを探そうとした時に、肩をチョンチョンと叩かれた。

「来たよ!あいつだ!」鳥居間は興奮気味に囁くと、犯人にバレないように指を指した。見ると、黒いフードを被った誰かが、台車のようなもので大きな何かを運んでいる姿があった。その時、鳥居間が、軽くバランスを崩して足を勢いよく動かしてしまう、星砂が

「ジャリッ!」と大きな音を立てた。静かな夜だ。当然向こうに、こちらの存在を知られてしまう。フードの犯人は、台車を置いて、一目散に逃げ出した。

「追いかけましょう!」僕は両手を合わせて謝ってくる彼を置いて、先に走り出した。おそらく女性であろう犯人と、男である僕が夜の海で追いかけっこをしている。一見平和そうに見える風景だが、今の二人には、そんな余裕は微塵もない。犯人はフードを目深に被り続けようと、裾を抑えながら、女性独特のフォームで逃げ続ける。一方僕には、スポーツができるわけではないが、昨日の、中学校から駅までの距離を、ひたすら全力疾走できる程度のスタミナはあった。砂浜で少し走りづらかったが、距離はみるみるうちに縮んでいく。

月と星達が、「頑張れ!頑張れ!」と僕を応援してくれている気がした。僕は小さく頷くと、さらに足の回転を早めて加速する。烏は、「ひどい走り方だ。空に生きる俺たちだって、まだましに走るぜ。」と意地悪を言う。僕はもう一度頷くと、両手をしっかり振ってさらに加速する。最後に海が、「もう少しだよ。手を伸ばせ!」と大きく叫んだ。少し高い波が、砂浜に打ち上げられたのと同時に、僕は両手を前に突き出して、飛んだ。月も星も、烏も海も、揃って「届け!」と僕の背中をぐんと押す。僕は、自分でも驚くほど、高く飛んだ。そして、犯人の腰のあたりを掴むと、地面に叩きつけられる。

じたばたするフードの犯人を取り押さえる。しかし、向こうも走り疲れたのか、力はあまり感じられなかった。すると、暴れた拍子に、フードが脱げて、月明かりで犯人の顔が照らし出された。犯人は、やはり女性だった。そして、芝が話していた通り、はっとするような美人だった。眉はきりりと斜線を作り、目はぱっちりとしていて、鼻は高く、そして整っていた。その下の口はキュッと結ばれ、怒った顔をしているのがわかる。僕は、母さん以外にここまで近くに女性が来たことがなかったので、思わずドギマギしてしまう。犯人は、その隙をついて逃げ出そうとする。しまった。と思った矢先、鳥居間が

「逃がすかっ!」と、犯人の腕を掴んだ。

「離してよ!見逃して!」とわめく彼女を鳥居間は

「なぜ辞めなかった?」と蛇のように睨みつける。おそらく大の大人でも一歩たじろいでしまうような彼の眼に観念したのか、犯人は大人しくなった。僕はその横に大の字で寝そべる。自分でもびっくりするような速さで走って、とても疲れてしまった。息を大きく吐いて吸う、吐いて吸うを繰り返して、ようやく少し落ち着く。このまま夜風に当たって寝てしまいたかったが、そうもいかない。僕は立ち上がると、犯人に尋問を始めた鳥居間に近づいた。

「前に注意してから、一週間が経ちましたよ。トミカワさん。」トミカワと呼ばれた女性は、鳥居間の言葉に無言で俯く。

「すいません。彼女について、少し教えてくれませんか?」僕は、鳥居間にそう言うと、俯くトミカワに目を移した。

「彼女は元三〇一号室の住人。トミカワさんだよ。漢字はそのまま富の川って書いた気がした。ですよね?」少し圧力をかけたような鳥居間の言い方に、富川は小さく頷く。そして、僕が「なんでこんなことをしようとしたんですか?」と聞こうとした時、遠くの方から、誰かが近づいてくる音が聞こえてきた。僕が振り返ると、そこには、佐藤の姿があった。

「佐藤君・・・?どうしたんだい?こんな真夜中に。」鳥居間は、思わぬ人物の登場に、かなり驚いている様子だった。かくいう僕も、なぜここに佐藤が?と考える前に、びっくりしてしまっていた。

「キョウコ・・・。もう諦めよう。」佐藤は鳥居間と僕は見えていないような様子で、富川に話しかけた。下の名前を呼んだのだろうか。キョウコさんとは、おそらく彼女のことだろう。


高校生に上がって、まず真っ先に中学とは大きく違う、と思った点は、恋愛であった。学校が始まって、三ヶ月程度で学校中にカップルが大量に成立する。とにかく自由で、そして、桜色の、恋多き季節というイメージを、強烈に印象付けられた。瞬く間に男女は仲良くなり、そしてそれが一定に達すれば、どちらかが告白し、付き合い始める。なにもかもがトントン拍子で、正直僕はついていけなかった。

僕自身は誰かと付き合いたいと思わないし、意中の女性もいない。そもそも、人間関係の糸を必要以上に増やすことを恐れる僕にとって、恋愛は、恐怖以外の何物でもなかった。関係の糸は、強固になるほどピンと張って、簡単に絡むことはない。と前に言ったが、恋愛も、要するに友達以上の関係、という糸に変わるのだから、糸の張り具合は強くなってしまうはずだ。しかし、それは非常に簡単なことでほつれる糸で生成される仲である。特に付き合って別れるを繰り返す高校生を見て、そう思った。心配しなくても、僕を好きになる女性などいないのだから、何の問題もないわけだが。

とにかく、そのようなものとは縁がなかった僕には、恋や愛は、てんで理解ができなかった。テレビドラマで見た限りでは、自分以上に大切な人間、守りたいと思う存在。なんて言い方をしているのを見たが、それは正しいことなのだろうか。自分が最も大切にしなければいけないのは、自分自身だろう。自分が真っ先に守るべきなのは、やはり自分自身でなければいけないはずだ。と考えてしまう僕は、やはりお子様なのだろうか。どちらにせよ、こればかりは経験してみないことには、何もわかることはない。


落ち着いて僕たちにわけを話した佐藤と富川の言っていることをまとめると、富川には、異常な収集癖があり、大量にいらないものを買って、たくさんごみが出てしまっていた。その結果、彼女の家はごみ屋敷と化してしまい、それらの処理に困っていた。ある日夢の中で、不動産屋にこの世界を紹介されて、この町のアパートに来る。この世界へは、寝る前に触っていたものが持ってこられることを知った彼女は、ごみをこの海に捨て始める。そして、鳥居間に注意された後、彼女はこの世界で知り合った佐藤に助けを求めた。佐藤は、彼女のことが好きで、部屋に富川を匿うようになった。やがて二人は恋仲になったが、ごみを捨て続ける彼女を止めきれなかった佐藤は、富川のことが心配になって、海に様子を見に行ったら、僕たちに捕まっているのを見つけた。ということらしい。

「鳥居間、隠していて本当にすまない。」佐藤は、本当に申し訳なさそうにそう言った。

「いや、いいんだ。ただ、もうしないと約束してくれるなら、ね。」鳥居間は、穏やかな口調に戻ると、二人を見た。

「すいません。でも、こうするしかなかったんです。」富川は、本当に悪いことをしたと反省をしているのか、それとも、悪行がばれたことを後悔しているのか、泣き出してしまった。佐藤が、彼女の背中をさすりながら

「悪かった。もうしないと約束させるよ。」と辛そうに言った。だが、それでは彼女の悩みが根本的に解決するわけではない。

「そのままごみ屋敷に住むことが、富川さんにとっての幸せとは思えません。何か手があれば・・・。」と僕は思案する。

「無理ですよ。私がなんとかするしかないんです。」富川は、嗚咽を漏らしながら言う。触っていた物がこの世界に持ってこれる。だから昨日ポッケに入っていた携帯はこの世界に持ってこれて、今日パジャマで寝て、身につけていなかったため、携帯をここに持ってくることができなかったのか。と合点が行く。なんとか彼女の悩みを解決したかった。何か特別な感情があったわけではないが、夢の世界に頼ってまで自分の悩みをなんとかしようとした富川に、少し親近感が湧いたのだ。僕は、この世界に来て、明らかに大きく変わることができた。なら、彼女も変わることができるはずだ。そう思うと、さらに思考を巡らす。不動産屋との話、芝との釣り、老人の昔話、佐藤と富川の恋、綺麗な海、鳥居間の眼、不便な町、思い出せ、なんでもいいから思い出せ・・・。

ふと、体に触れていたものがこの世界に持ってこれる。という言葉に違和感を感じる。僕はポケットに入れていた携帯電話をこの世界に持ってきた。しかし、それは僕の体というよりは、僕が着ていたものが触れていたものということになる。待てよ。

もしかしたら・・・。もしかしたら、これが上手く行けば、彼女の悩みを解決することができるかもしれない。しかも海を汚さずに、だ。すでに諦めムードになっている三人に

「なんとかなるかもしれません。これからする話をよく聞いてください。」と話し始めた。


話を終えると、三人は驚いた顔でまじまじと僕を見た。

「そんなことが本当にできるのか?」と佐藤が信じられない。といった様子で不安な顔をする。

「そんなのこじつけだわ。保障なんかどこにもない。」富川も、怪訝な顔して言う。

「だけど、やってみる価値はある。僕は君を信じるよ。」鳥居間は、驚きながらも、僕の目をまっすぐ見て言った。

「彼は、僕が困っているとき、意見を出して、犯人探しを手伝ってくれた。」鳥居間はそう続けて、佐藤を見た。

「そ、そして君は、無愛想に話す自分の言葉を、怒らずに聞いてくれた。」佐藤は、少し言葉をつっかえさせながらも、嬉しそうにそう言った。

「そして今は、富川さんの悩みを解決するために、動き出そうとしている。」鳥居間は佐藤の言葉にそう付け足すと、にっこり笑った。

「たった二日間で、君は小さいけど、確かにたくさんのことを成した。他人のことだけじゃなくて、自分の事についても、きっと何かを出来たはずだよ。だって、今日の君は、昨日に比べて、ずっと前を見て生きていた。そして、明日はもっと、明後日はもっともっと、前を向けるはずだよ。」彼はそう言って、力強く頷いた。不動産屋にも言われた事だが、僕は変われている。鳥居間も、そう思っていたという事だ。過去ばかり振り返って、自分の無力さに失望しきってしまっていた僕は、ほんの少しのきっかけで、前に進む事ができたのだ。

ぽろぽろと、目から涙が出た。それは、悲しさでも、悔しさでも、怒りでもない、ただ単純な、嬉しさから来るものだった。僕の涙は、星に落ちて、弾けて輝く。そして、その涙のかけら一粒一粒が、細かい粒子の一つ一つですら、バラバラになって、一つの銀河を作り出した。それくらい、綺麗で、純粋な涙だった。僕は、袖でその涙を拭うと

「では明日、富川さんは僕が言ったようにやってください。鳥居間さんと佐藤さんにも、お願いしたい事があります。とりあえずは、今日は全員部屋に戻って休みましょう。」と言った。三人が頷くのを見た後、無言でアパートに戻っていく。

鳥居間が一階で、佐藤と富川が二階の自分の部屋に戻っていく。僕は三階まであがると、無機質な自分の部屋に帰っていった。靴を脱いでベッドに寝転ぶと、僕は両手を枕にしてすやすやと寝息を立てて意識の海に溺れていった。

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