第3話



死ね。キモい。目障り。なぜこのような言葉が存在するのだろうか。僕はいじめを受けていた中学時代、常にそのことについて考えていた。日常的な暴言や暴力に怯えながら、言葉なんてなくなってしまえばいいのに。手や足なんて、人間にはいらないだろう。そもそも、人間自体が必要ない。と、恨みつらみを思考にぶつけて、必死になって考えた。たぶん、そうしないと僕は確実に気が狂ってしまっていただろう。今現在、そうしてきた結果が「病気」という形で現れてしまっているのだろうが、その頃の僕は、そうでもしなかったら、人を殺していたかもしれない。いじめを行うクラスメイト、それを見て見ぬ振りする先生、気づかない両親、そして、自分自身。誰を殺していたかわからないのだ。

ある日、僕が登校している途中で、蟷螂が蝶を捕食している姿を目撃した。蟷螂は、シリシリシリ、という音を立てながら、蝶を口の中に放り込んでいく。その時、僕は気づいた。この蟷螂が今食べているように、手足は生きていくために必要なもの、そして、言葉はただの音にすぎないことを。

人が聞いたら、なにを当たり前のことを言っているのだ。とバカにするかもしれない。だけど、僕は気づいてしまったのだ。言葉は、人間がコミュニケーションを取るために作られたものだし、手足は、ものを食べたり、歩いたり、何かを掴むものなのだ。

しかし、人間は、それらを悪用することを考えついてしまった。敵意を持って言葉を発したり、手足を使って相手を傷つけることを覚えてしまった。僕もまた、人を殺していたかもしれないのだ。それは、自分も、人間のそういった悪意を根底に抱えているということを表していた。

学校に行けなくなったのは、自分もいじめを行ってきた者と同じ「人間」という種族なのだ。ということに気づいてしまったからかもしれない。


徐々に意識がはっきりしてくる。目を開くと、そこには見慣れた自分の部屋があった。やはりあの世界は夢だったのだ。そして、僕は昨日病院から帰ってきたあと、そのまま寝てしまっていたのだ、と思い出した。ベッドの横に置いてある時計を見ると、針は午前7時を少し過ぎた辺りを指していた。体を起こし、大きく息を吐くと、自分が今、やるべき行動について考えた。なにをすべきなのだろうか。今一番自分が向き合わなくてはならないこと。変わるために必要なこと。中学時代、たくさんものを考えてきた頭だ。思考することは慣れっこである。

過去の自分との決別、真っ先に思いついたのがそれだった。

たぶん僕は、過去の大きなコンプレックスとトラウマを背負って、溜め込んで、病気になってしまったのだろう。ならば、その過去と向き合って、それらを乗り越える必要がある。僕は、そう思うと、部屋を出て、リビングに向かう。コーヒーの香りがする。父が新聞を読みながら飲んでいるのだろう。ジュウジュウと何かを焼く音がする。母が料理をしている音だ。二人は昨日の心理テストの結果を見て、どう思ったのだろうか。息子が病気だと知って悲しむだろうか、それとも精神病を患ったことを恥じたのだろうか。心の病は、甘えだと考える人も少なからずいるはずだ。僕も、学校に行けないことがとても悔しいし、それは今の状況と、過去の自分に甘んじているからと考えてしまっている。その考え方自体が、体に悪いことも分かっているのにだ。

リビングの扉を開けると、二人はすぐさまこちらを振り向いた。できるだけ普段通り接しようとあらかじめ話し合っていたのか、父は「おはよう。」と言い。母は「お風呂湧いてるわよ。昨日入らないで寝ちゃったから。」と笑いながら言った。今の僕には、その対応はありがたかった。腫れ物を扱うように接されても、困るだけだ。

「いや、朝ごはんを食べてからにするよ。」そう言うと、食卓に座る。母は頷くと、平たい皿にベーコンエッグとウインナーを載せ始めた。父のコーヒーから湯気が立ち上り、リビングに置いてある暖房の風に、部屋の空気と撹拌されて、見えなくなる。

少し待つと皿が二つ、食パンとおかずが机に並べられた。僕はフォークを持つと、ウインナーに突き刺し、口に入れる。咀嚼して、飲み込んだあと、ぼそりと

「僕さ、今日はあの中学校に一人で行くよ。」

とつぶやいた。すると、父は驚いたように新聞から顔を出し、母は手前に置いてあったオレンジジュースを溢した。僕が慌てて布巾でふき取るが、ジュースは机から零れ、雫を垂らす。

「なんでまた。あんなところに行ってもお前が傷つくだけだ。」父は僕の体を本当に心配しているのだろう。眉をハの字にして言う。

「そうよ。時間をかけてゆっくり・・・。」母も、父に同調する。

「違うんだ。僕は傷つきに行くんじゃない。この病気を治すために行くんだ。これは、僕だけじゃなくて、周囲の環境にも原因があるんだから、それを解決しようと思って。」夢の話はできない。信じてもらえるわけがないし、なにより、今決心したから、行こうと思った。なんて正直に話しても、両親は外に出させてくれないだろう。とっさに嘘の言い訳を言ってしまった。

「でも・・・。」母が何か言おうとしたが、眉間にしわを寄せていた父が、いや、と父はそれを制止する。

「考えてみたら、この二週間で、初めて自分から何かをしようとしたんだな。父さんもお前には元気になってほしい。ただ、キツくなったらすぐに帰ってこい。母さんも父さんも、いつでも迎えに行くからな。それだけは守ってくれ。いいな。」父さんは、今度はV字の眉になってそう言った。母は、まだ不満げだったが、僕は、父の言葉にうんと頷くと、ごちそうさまを言い、シャワーを浴びに風呂場へ向かった。

昨日、川崎に似た顔の男子を見てから、うっすらと考えてはいた。あの中学へいつか行って、自分自身と向き合う必要があると。過去と向き合って初めて、僕は一歩前に進めるはずだ。服を脱いで、モザイクガラスでできた風呂の扉を開ける。父が言っていた通り、何かをやろうと自分から動く宣言をしたのは、ここ二週間で初めてのことだった。あの夢を見てから、確実に何かが変わって、歯車が動き出したのを感じる。「よし。」僕は小さく呟くと、キュッと蛇口を捻る。シャワーは勢いよく流れ出した。


シャワーを浴び終えて、体を拭くと、洗面所に用意してあった服を着て、リビングへ戻る。母は朝ごはんの後片付けをしていて、父はパジャマからスーツに着替えていた。

「よし、シャキッとしたな。一緒に出よう。」母から鞄を受け取ると、父は言った。まだ髪は少し濡れていたが、わかった。と言うと、母に行ってきますと手を振った。母は、少し不安そうな顔をしていたものの、「無理だけはしちゃダメよ。」と僕の目をまっすぐ見て言った。玄関に揃えてあった靴を履いて、外へ出る。冷たい風が肌に当たる。父さんは車で出勤、僕のこれから向かう駅とは逆方向に車を走らせなければならない。車に乗り込む手前、父は僕の肩に手を載せてこう言った。

「お前は、自分のことを、様々なものから逃げ出した弱虫。なんて思ってるかもしれないが、父さんは、学校へ行かなくなった事や、過去にいじめを受けていた事も含めて、お前は誰よりも強い。そう思ったよ。」

「僕はどこも強くないさ。体だって弱いし、心も衰弱しきってるよ。」

「そういう事じゃない。父さんが言いたい強さは、踏まれても踏まれても、ピンと立ってみせる強さだ。いじめを受けても、病気になっても、最後には絶対に起き上がる強さなんだ。」父さんは、目を赤くして言った。

「父さんも、母さんも、お前の事を誇りに思ってる。どんなことがあってもお前の味方だ。」と強く言うと、パン、と力を込めて僕の肩を叩いた。冬風にあたって揺れる父さんのまばらに生えている白髪を見て、目に目を移す。そして、僕は口を固く結ぶと、大きく頷いた。それを見て、父さんは車に乗り込み、最後に手のひらを見せて、車を発進させた。

仄かに肩に残る父の手のひらの温かさは、冬の寒さを吹き飛ばして、僕の歩みを進めさせる。僕は、病気だけど病気じゃない。僕は、弱いけど強い。そして僕は、今、寒いけど暖かいのだ。

しばらく歩くと、最寄り駅が少しずつ見えてくる。これから電車を乗り継いで、ここから二つ離れた県に向かうことになる。僕は、あまりお金は使わないので、行き帰りで切符を買っても十分余るくらいには貯金していた。駅の切符売り場でスクリーンに映るボタンを押しながら、後ろで無数の足音がプラットホームに向かう音を聞く。人との関わりを恐れ続けた僕は、この人混みが作る雑音は、確かに苦手だったが、今はそんなことは言っていられない。これから、もっと大変なことをするのだ。中学に行って、何かを得ておきたいのだ。あの夢の存在が、僕を前へ前へと歩ませる。切符を持った僕は、改札へ行くために、人混みの中に飛び込んだ。朝の通勤ラッシュで、自分の足場を確保するのも難しい。何度も足がもつれそうになりながら、やっと電車に乗り込む。今が八時、向こうに着くのは、お昼時だろうか。電車で長旅をするのは初めてだ。

僕にはあまり体力はない。正直ギュウギュウに詰められた車両の中で、バランスをとりながら押しつぶされないようにするのには骨が折れた。

この電車には、終点まで乗っていなければならない。そこから大都会の駅で乗り換え、さらに乗り換えて、その先の終点の一つ前が、目的地である。中学二年生の時の担任はいるだろうか。いじめの主犯たちは、まだあの町にいるだろうか。そこまで考えると、電車は大きく揺れた。人と人との隙間から、流れるように景色が移り変わっていくのが見える。乗り物酔いはしないタチではあるが、僕は人が少しずつ電車が止まるたびに減っていくのを見て、少しずつ気分が悪くなっていくのを感じていた。あの時のクラスメイトに会ってしまったらどうしよう。先生はなんと言うだろうか。そのことばかりが、頭の中をぐるぐると駆け回る。外が曇り始めたのが隙間から伺える。

さっきまで何かを得ようと必死になっていたのに、気づくと、弱気の自分がそこにはいた。焦る自分と怯える自分。そのどちらも、顔は不安で満ちていた。父も母も、「無理はするな。」と僕に念を押していた。だけど、僕は無理をしなくてはならないのだ。無理をしなくては、望んだ願いを叶えることはできないのだから。

四十分くらい経っただろうか、車内アナウンスは、終点の駅名を告げた。扉が開くと、次々と人が降りていく。僕もそれに続くと、人の流れの一部になり、乗り換える路線のホームを目指す。階段を上りきると、都会の喧騒の中をくぐり抜ける。次の電車は空いていることが多い。少し落ち着けそうだ。と思いながら今度は階段を下っていく。

予想通り、プラットホームは空いていた。売店のおばさんは、つまらなそうに虚空を見つめている。僕はその隣の自販機に小銭を入れると、お茶のボタンを押す。ガコン、と取り出し口から音が聞こえ、緑色のパッケージの緑茶の姿が現れた。僕はしゃがむと、お茶へ手を伸ばす。しかしプラスチックの板が僕の手を邪魔して、手間取ってしまう。やっとの思いで取り出すと、タイミングよく電車が後ろを走って、車輪が悲鳴をあげて止まる音が聞こえた。振り返ると、キャップを回しながら、電車に乗り込む。中はガラガラだった。隅っこの席に座ると、窓を覗き込む。雨が降り始めたようで、ホームにできた水たまりに波紋ができては消え、できては消えを繰り返していた。

やっと少し落ち着けた。そう思って、これから向かう中学校であったことの、瓶に入っている記憶のコルクを引き抜く。黒いドロドロとした液体が瓶の口から溢れ始めた。


中学校の入学式、この日は雲一つない快晴だったことを覚えている。僕は、その頃から少し引っ込み思案だったが、それでも新しい生活に胸を躍らせ、希望に満ちた学園生活を想像していた。

しかし、新生活は、僕の考えていたものとは程遠いものだった。自分は顔に自信があるわけでもないし、スポーツができるわけでもない。 勉強もそこそこだ。そして、人見知りで、暗い性格。当然自分から動かなかった僕に友達などできるわけもなく、事務的な会話しか一日で発しなかったこともしばしばだった。そして、一年がすぎ、その時は来てしまった。人間関係の糸は、突然喉元に絡みついてきたのだ。

いじめ。嫌な言葉だ。価値観が合わない人間や、気に入らない人間、挙げ句の果てには、単なる暇つぶしのために、相手の尊厳を踏みにじり、蝕み、そして弄ぶ。

始まりは、僕の本からだった。

「暗いんだよ。これ、没収な。」主犯格であった川崎は、にやにやしながらそう言うと、僕から本を奪い取り、目の前でビリビリに破いてみせた。読んでいた小説は、初めて僕が読んだ本で、親が買ってくれたものだった。そして、ボロボロになるまで、何度も何度も読んでいたとても大切なものだったのだ。怒ろうとしたが、言葉を発そうとした矢先、川崎の腰巾着の様な存在であった、山崎が僕の右頬を殴る。ガツン。体に響く痛みではなかったが、頬は大きく腫れあがった。誰かに暴力を振るわれたのは初めてのことだった。僕は、その一撃ですっかり怯えてしまい、何も言い返せなくなった。その一連の流れを見ていたクラスメイト達は、てらてらとした眼で、僕を嘲笑していた。

その次は、万引きだった。コンビニで、菓子パンを万引きしろ、と命令されたのだ。日に日に暴力はエスカレートしていた。もしこれを断ったら、殺されるかもしれない。そう思った僕は、コンビニでパンコーナーに行くと、チョコクロワッサンと書かれた商品をバッグに入れ、少し店内を歩き回った後に、できるだけバレないように普通の表情で店を出た。コンビニの前でたむろしていた川崎とその取り巻き達は、嗤いながら「できるじゃねえか。」と口にした。

「これなあんだ。」とスマートフォンを、女子が僕に見せる。ディスプレイには、僕がパンをバッグにこっそり入れる瞬間が映されていた。

「これでお前は俺たちの奴隷だ。」山崎は薄気味悪い嗤い顔でそう言うと、僕の右肩をバックで殴った。僕は、絶望した。いじめの事を先生や家族に報告してしまったら、この写真を見せられる。優等生の演技が上手い彼らの事だ。涙ながらに訴え、最終的には僕が悪者になってしまうだろう。僕は、中学校生活を、彼らの玩具にされて終わるのだ。もしかしたら、人生が終わってしまうかもしれない。そう思って、恐怖のあまり、僕は失禁した。

男子達は爆笑して、女子達は、「キモい!キャハハハハハ!」と携帯で写真を撮りながら、不快な嗤い声を上げた。

そして、2ヶ月経ったある日、事は起こった。

『裸踊り〜奴隷バージョン〜』と黒板には大きく書かれ、無理やり全裸にさせられた僕が教壇に立たされ、踊らされたのだ。当然、泣いて嫌がったが、川崎が「やれよ。奴隷。」とドスのきいた声でいうと、僕は従うしかなくなってしまった。

泣きながら僕は阿波踊りをする。鼻水と涙が洪水のように流れて、すでに顔はぐちゃぐちゃになっていた。すると、山崎が、大きな声で「笑え!笑え!笑え!笑え!」と手拍子をしながら言った。声はやがて連鎖し、最後はクラス全員が、合唱を始めた。


笑え、笑え、笑え、笑え、笑え、笑え、笑え、笑え!


僕は無理やり口を歪ませると、歯を食いしばりながら阿波踊りを続けた。教室内は合唱と、嗤い声で満ちた。狂っている。こいつらは、狂っている。僕の意識が限界に近づいた時、教室の前を担任の末永先生が通った。助かった。これで馬鹿げた狂気の遊びは終わりだ。僕はそう思って目で先生に助けを求める。しかし、現実は僕が思っていたより残酷なものだった。

末永先生は、僕を一瞥すると、くるりと踵を返して、来た道を引き返していったのだ。それを見たクラスメイト達は、今度こそ腹を抱えて嗤いだした。僕は、聞こえる嗤い声の残響を背に、がくりと項垂れ、失神した。

その後は、保健室で目を覚ました。「起きた?」と僕の顔を覗き込んでくる保健の先生の顔色を見た限りでは、いじめにはまだ気づいていないようだった。服は着せられていたので、きっとクラスの保健委員が、具合が悪くなったみたいです。とでも言って引き渡したのだろう。

その次の日から、僕は学校に行かなくなった。行けなくなった。そして、遠くの県外に引越しをした。生徒たちは、親から何も聞かなかった事を考えると、大した罰は受けていないのだろう。つまるところは、それきり彼らの事はさっぱりわからない。ということである。


コルクを締めると、水流は止み、ドロドロとした液体だけが残った。それを頭の中で雑巾を使って拭きながら、次の駅を、車内の電光掲示板で確認する。乗り換えで降りる駅の一つ前になっていた。過去のことを思い出していたら、随分と時間が経っていたようだ。僕はすっかり暖かくなった座席から立ち上がると、小さく伸びをして、窓の外を見た。かなりの土砂降りになってしまっていた。折り畳み傘はあるが、冬の雨は体の芯から冷える。風邪をひかないよう気をつけなければならない。

やがて、電車は減速し、ゆっくりと止まった。扉が開くと、数人しかいなかった乗客が、一斉に降りていく。次乗り換えるホームに向かうと、近くにあった掲示板を見る。路線図を見るためだ。僕の目は、これから乗る電車の終点の一つ前の駅に釘付けになった。もう少しで、あそこに着いてしまう。僕の不安は、どんどん膨らんでいく。あの時の記憶が、僕の胸から喉元にかけて、不快に恐怖心を掻き立てる。だが、ここまで来たのだ。僕は絶対に変わるのだ。嫌な過去から目を背け続けることは、正解とは言えない。いつかは、誰でも試練と向き合うことになるのだ。そう自分に言い聞かせ、なんとか路線図から目を、もうすぐ来る電車の線路に移した。

電車は十分後くらいに、僕の視界の遠くに現れた。スピードを落として止まると、「急行」と、終点の駅名の隣に書いてあるのが見える。僕の目的地も、丁度急行で止まる駅だった。着くのは、予定より少し早くなりそうだ。僕は電車に乗ると、ポケットの中の携帯を取り出し、時間を確認する。そういえば、なぜあの夢の世界に携帯電話が持って行けたのだろうか、考えようとした時、車掌の「ドアが閉まります。ご注意ください」というアナウンスが聞こえる。そうだ。とりあえず今は、目の前の問題に集中しなければ。不安を胸に抱えつつ、僕はつり革につかまった。電車は僕の体を一度揺らすと、走り出す。

そこから、目的の駅に近づくたびに、胸の鼓動は早くなった。あと5駅、4駅、3駅・・・。底知れぬ悪意を味わったあの地に、もうすぐ着くのだ。思いは揺れに揺れ、何度も途中で下車しようとした。が、足はすっかりその場で固まり、動かなかった。本能は、行ってはいけないと警告を出していたが、それを理性が必死で食い止めていた。僕は変わらなければならない。何もないちっぽけな自分から抜け出さなければならない。母も父も僕のことを信じて送り出してくれたのだ。それにも応えたかった。それらの要素が合わさって、僕の足は動かなかったのだろう。

それからおよそ五分後、電車は僕が降りる駅に到着した。僕は、ざあざあと降り、そしてまるで弾丸のようにホームの屋根を叩く雨の音を聞きながら、切符をポケットから取り出して、改札をくぐる。ここから学校までは、五分ほどで着く。僕は黒い折り畳み傘を広げると、歩き出した。

大丈夫だ。大丈夫。僕に危害を加えてくるような人間は、もうあの中学校にはいない。見知った道を進みながら、必死で自分を励ます。ほら、あともう少しだ。そしたら、先生に会って、すぐ帰ってこれる。そして聞くのだ。「なぜあの時、僕を見捨てたのですか。」と。過去と自分を切り離す。きっとそれができれば、嫌な思い出は、自分を変える大きな手立てになってくれるはずだ。

次の角を曲がれば、学校だ。今の時間が丁度昼休みくらいだから、先生にも会えるだろう。すると、「関東大会出場!」と書かれた垂れ幕がおろされた学校が姿をあらわす。あとは、校舎に入って先生と話をするだけだ。

しかし、何か様子がおかしい。昼休みの時間とはいえ、あまりにも騒がしすぎる。それに、校門前に大量に置かれた自転車にも違和感を感じる。ここまで駐輪されているのは見たことがない。何か自分に予測できなかったことが起こっている気がする。今すぐ帰りたかったが、雨の匂いと高い湿度が、僕を包み込む。まるで、もう逃げることはできないよ。と言われた気がした。恐る恐る歩を進めると、校門の横のガラスに囲われた掲示板が見える。掲示板には「大同窓会」と大きく書かれていた。大同窓会。確か、一年に一度、一期生から、この中学を卒業した人を集めて同窓会をやるイベント、だった気がする。祝日に行われていたはずだから、今日は市か何かの記念日だったのだろう。二年通って、行われた大同窓会の二回とも、大きな賑わいを見せていたのを覚えていた。

そこまで考えて、ぞっとした。つまり、今学校に行けば、二年生の時のクラスメイトに鉢合わせする可能性もあるのだ。僕の手は、すっかりびしょ濡れになっていた。それが汗なのか、雨なのかはわからなかった。

行くべきでない。

僕の本能がそう告げる。

行かなかったら、お前はどうなるのだ。

僕の理性はそう本能に反論する。

行かなかったら、今までと変わらずに、人に怯え続け、自分に自信が持てないまま、人生を終えるかもしれない。一時の恐怖に負けて、何もできないまま、尻尾を巻いて帰るというのか。

嫌だ。本能も理性も、弱虫な僕も焦る僕も、そう言った。そう思うと、僕は歩き始めた。負けるわけにはいかない。ここまで来たのだ。足取りは重かったが、なんとか校門をくぐり、校舎の中に入っていく。末永先生はどこだろうか。とりあえず、職員室に向かうことにした。上履きやスリッパは持ってきていなかったので、びしょびしょになっていた靴下で校舎内を進んでいく。だが、どうやら職員室は無人のようだった。上から騒がしい話し声が聞こえる限り、先生たちも上にいるのだろうか、と思い、階段を上る。そして、目の前に「十五期生」と書かれた紙が教室に貼られているのが見えた。中で大人が楽しそうに談笑しているのが目に飛び込んでくる。僕は二十七期生だ。おそらく、三階に同じように紙が貼られているだろう。そして、なんとなくだが末永先生も二十七期生の教室にいるかもしれないと感じた。ただの直感だった。そして、二十七期生の教室には、おそらく僕の元同級生がいることも知っていた。なのになぜだろうか、自然と足は三階へ向かっていった。ここまで来て、踏ん切りがついたのだろうか。恐ろしいことに変わりはなかったのに、三階の教室へ、僕は歩いていった。靴下は、少しずつ乾いていった。

三階の一番奥の教室に、「二十七期生」と書いてある張り紙はあった。僕は、中の様子を伺う。すると、一番手前に末永先生はいた。僕は、扉を勢いよく開ける。そして

「末永先生。」僕はひとつ、息を吸い込んで言った。ざわざわしていた教室が、一瞬にして静まり返る。声と言う名の音が、ひそひそと聞こえるくらいだ。

あれは誰?わからない。多分、二年の時に転校したやつだよ。ああ。いじめの彼か。急にどうしたんだろうね。今更何か言いに来たんじゃない?

「お前・・・。二年の時の・・・。」末永先生は、かなり驚いた様子で僕を見た。しかし、すぐに顔色を変えると、「よく来たな!お前も話したい人がいるだろう。さあ、中に入りなさい。」と僕に道を開けた。僕はその勢いに負けて、「あ、は、はい。」と言ってしまう。 中を見渡すと、卒業生達が僕を興味津々といった目で見てくる。その中に、ギラリと、明らかに違う眼光で僕を捉えた人間が数人いることに気づいた。川崎、山崎、そして、取り巻きの女子、男子。数人欠けてはいたが、しっかりその場にいたのである。僕は、蛇に睨まれた蛙のように硬直してしまった。いじめの記憶が、鮮明に蘇る。ドロドロとした液体は、雑巾に染み込んだまま「ひひひ。」と嗤った。

すると、川崎がこちらに近づいてくる。

「よお。久しぶり。」奴の目は、常に僕を今にも殺しそうな雰囲気を漂わせている。そして、こちらの状態などお構いなしに話しを続ける。

「俺と山崎さ、城山高校に受かって、今楽しくやってるよ。あの時は悪かった。それをずっと謝りたかったんだ。」城山高校。この辺では結構頭の良い進学校だったはずだ。後ろで、末永先生がうんうんと頷くのがチラリと見えた。いつの間にか、山崎も、取り巻き達も僕を囲んでいることに気づいた。その全員が、恐ろしい目をしていた。

どの口が。

どの口がそんなことを言うのだ。僕という存在を踏みにじり、あの時ゴミを見るような目で僕を見続けたこいつが、なぜこんなことが言えるのだ。口を開いたと思ったら、今は幸せにやっている?僕は、お前達に蹂躙されたせいで、どん底にいるというのに。なぜ僕から未来を奪おうとしたこいつらが、楽しく暮らせるというのだ。そして、彼は手を差し出してさらに続けた。

「ほんの悪ふざけのつもりだったんだ。お前と仲良くしたかっただけなんだ。なのにあんな結果になってしまって、本当にすまない。今も、気持ちは変わってない。お前とも仲良くしたいと思ってるよ。」手は僕の腹の辺りで止まった。握手を求めているのだろう。

奴の目が、無くしてしまった玩具をまた見つけた。と言っているような気がした。だから僕は、川崎の差し出してきた右手を、払った。喉から、自分が出したことがないような大声が出た。それは、あの二ヶ月を、僕のこれまでの二年間を、全てを吐き出そうとした悲鳴だった。川崎は、初めて反抗してきた自分の玩具に、明らかに驚いていた。

「お前は!僕をどん底に落とした人間だろうが!僕は!僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕はぁ!」自分でも恐ろしいほどのダミ声で叫ぶ。取り巻きの女子が「狂ってる。」と小さく言った。僕は、その言葉に驚愕した。狂ってる?ああ、そうか。こいつらは、自分を客観的に見ることができないのだ。あの時、人間が絶対に耐えられないような事を強要して、愉しんでいたこいつらは、こいつらはこいつらはこいつらはこいつらはこいつらは・・・。

今思うと、僕は女子が発した言葉の通り、おかしくなっていたのかもしれない。だが、貴様たちには、それを言う資格はない。

「狂ってるのは、お前たちだろうが!一人の人間をダメにしておいて、普通に生活できているお前たちが一番狂ってるんだよ!それともお前たちはもう覚えていないのか?万引きの強要!暴力!暴言!裸踊り!思いつく限りの悪意を僕にぶちまけておいて、忘れたとでもいうのか!許さない・・・。絶対に許さないぞ。」怒りのあまり、声が震える。

「お、おい・・・。川崎も謝っているじゃないか。それは少し言い過ぎじゃないか?」末永先生はまるで他人行儀な体で言う。僕は白目を剥きそうなほど先生を睨みつけると、さらにまくし立てた。

「あんた・・・。まるで自分が関係ないとでも言いたげだな。なんで、なんであの時僕を助けなかった!いじめの現場を目撃して!なぜ何もしなかった!いや、現場を目撃しなくてもあんたは気づいていたはずだ。日々増える生徒の生傷、周りの人間の穢い嗤い顔。あんたは気づいていたはずだ!」人差し指を、まるでナイフのように向けると、僕はその指を川崎に向け、さらに言葉を放とうとする。が、川崎を含めたいじめの主犯達は、口をぱくぱくさせるばかりだった。

その姿を見た時、僕は心の底から後悔した。気持ちを爆発させて、自分の感情を伝えた瞬間、彼らは僕が叫んで絞り出した言葉を、おそらく理解したのだろう。わかっていなかったら、今までのように、僕を玩具にしていたに違いないからである。だからこそ、僕は後悔した。もっと早くこうしていれば、今自分はこんな目にあっていなかったはずだ。そう気づいた僕は、暴発してとめどなく吹きこぼれた怒りの感情の水が入った鍋の火を、止めた。

騒ぎを聞きつけ、隣の教室の卒業生が集まってくる。僕は、最後に、ぐるりと教室を見回す。そこにいた全員が、怯えていた。急に入ってきた人間が、狂ったように叫び出したのだから当然だ。そして僕は、扉を荒々しく開け、野次馬たちを突き飛ばしながら、走って逃げた。綺麗に揃えられていた靴を履くと、校舎から出て、校門をくぐり、そのまま、全力疾走で駅までメチャクチャに走った。途中で、すれ違う人に、訝しげな目で見られていたが、そんなことを気にしている余裕は、今の僕にはなかった。雨は、容赦なく僕に降り続ける。その一粒一粒さえ、僕は許せなかった。

やがて、駅に着いて、荒く息を吐きながら、僕は号泣した。悲鳴をあげながら、僕は泣き叫んだ。土砂降りの雨の中、僕の泣き声は、車の走り去る音や、電車のがたんごとん、がたんごとん、という音にかき消された。ぐしょ濡れになりながら、それでも僕は泣き続けた。先生を睨みつけたことや、大声で怒鳴ったことが、良いか悪いかなんて、どうでもいい。ただ、幸福や不幸は、不平等に振り分けられることを嘆いて、今の僕の惨めさに、絶望した。

そして、コンクリートの床を、思い切り踏みつけると、顔の歪みを元に戻し、駅名が書いてある看板を睨みつけた。二度とこの場所には来ない。だが、これで吹っ切れた気がした。僕は無表情で、

「負けられるか。」と呟いた。


その頃、教室は先程の怒号が嘘のように静まり返っていた。川崎をはじめ、いじめに加担した卒業生達と、末永は、ばつが悪そうに教室内を見渡した。走り去った彼の言葉は、しっかり教室内、いや、校内に響き渡っていた。その場にいた全員が、彼らを見据える。そして、室内にあったスピーカーから、放送が流れ始めた。

『さっきの怒鳴り声の内容について心当たりがある人は、今すぐ校長室に来なさい。誤魔化しは無しでお願いしますよ。』校長先生だった。軽い口調だったが、声のトーンには明らかに怒気が含まれていた。放送が終わっても、誰も動こうとはしなかった。

校内の雰囲気は、明らかに異様だった。全員が、あの少年の言葉を全て鵜呑みにしたわけではないだろう。しかし、彼が発していた悲鳴と大声、そして何より、苦痛を体現したような怒鳴り声が、演技ではないと示していたのを、一人一人が感じ取ったのだ。そして、校長先生も、それは同じだったようだ。教室内の人間は、動こうとしない末永と川崎達に、冷え切った視線を飛ばす。誰もが言葉にはしなかったが、暗に「行け。」と目で言っているのがわかった。それでも動かない彼らは、しがみつくように、助けを求めて目を泳がせた。しかし、いくら彼らが泳いでも、助け船を出す人間は、一人もいなかった。

そのあとは、駆けつけた体育の先生や、強面の卒業生に首根っこを掴まれ、すっかり怯えきった川崎達と末永は校長室に連行された。

末永は、いじめの報告について、できるだけ自分に影響が出ないように話していた。そしてその結果、生徒達も受ける罰は軽く済んでいたのだ。状況証拠も、最後に行った裸踊りですら、あまり証言を得られず、そんなつもりはなかったと主張し続ける彼らを、校長は信じるしかなかった。いじめを受けた当の本人は、最後のいじめの翌日から、連絡は二度とするなと怒り狂った両親に隠れ、何も言うことはなかった。しかし、思わぬところで、その本人が現れた。そして、その少年が吐いた言葉達には、嘘とは到底思えない真剣さがあった。いずれにせよ、もう彼らは逃げ切ることはできないだろう。

因果応報。自分のしてしまったことに対する報いは、いずれ受けることになる。


そこから僕はずぶ濡れのまま家に帰ったが、電車での記憶ははっきりとはなかった。意識はしっかりその場にはあったが、吹っ切れた自分の頭は、病気と過去の出来事のトラウマから少し抜け出せた自分のことについて考えるのでいっぱいだった。自分が川崎達に抵抗できた要因は、悲しみでも決意でもなく、怒りだった。そして、あとから悲しみや絶望を感じ、最後に決意したのだ。父の、「お前は強い。」という言葉の意味が少しわかった気がした。僕は、困難に踏みつけられて、どんなに時間がかかっても、最後には立ち上がる。そして、先刻の自分の口から出てきた「負けられるか。」という呟きに少し驚いていた。僕は、確かに戦っていたのだ。川崎達と、末永先生と、言いようない絶望感と、悲しみと、そして何より、自分自身と。ずっと戦ってきたのだ。その決着が、あと一歩で着くような気がした。

細切れにされた人間関係の糸は、だんだんとほつれ始め、光を発して、やがて消えた。少し体が軽くなったような気がして、足取りも自然と重みをなくした。僕は、すっかり雲が晴れて、夕方になった空を見ながら、駅から家まで歩いていく。大変な一日だった。おそらくだが、家に帰り、ベッドで寝たらまた夢の世界に行くことになるだろう。あと一つ、なにかを見つけることができたら、僕は自分には無理だと思って諦めてきた夢を、叶えることができるかもしれない。

家に着くと、家の車は、すでに家に停められていた。父さんはもう帰ってきているようだ。僕は、まだ少し湿ったズボンを触ると、一気にドアに手をかけて、開けた。ガチャン。という音にガタリ。という音がふたつ重なる。両親が椅子から立ち上がった音だろう。そして、慌ただしく玄関に父と母が走ってくる。

「大丈夫?なんともなかった?ああ!濡れてるじゃない!なんで傘をささなかったの!」と母は僕に弾丸のように次々と言葉を投げる。しかし、その目は涙をたくさん溜めていた。余程心配だったのだろう。僕は少し申し訳なく思いながらも、それでも信じて送り出してくれた母に、本当に感謝の気持ちでいっぱいだった。

「まあまあ母さん。疲れてるだろ。シャワーを浴びてきなさい。」父も母と同じく、安堵の表情を浮かべていた。僕は父の言葉に頷くと、靴を脱いで、家に上がった。

風呂場には、すでにパジャマとタオルが用意されていた。僕は、上から順番に服を脱いで洗濯機に入れると、朝と同じようにシャワーを浴びた。風呂は湧いていたが、今日は疲れた。さっさと夜ご飯を食べて、寝よう。てきぱきと体を洗うと、脱衣所に戻った。風呂にしっかり浸かって温まらないと、冬の脱衣所はとても寒いので、すぐに着替えをしないと、風邪をひいてしまいそうだ。ただでさえ、ぐしょ濡れで北風にあたりながら帰ったのだから、今日はしっかり、布団をかぶって寝るべきだ。

着替えを終わってリビングに戻ると、室内は暖房がきいていて、暖色の照明が、目に優しかった。

「お腹すいたでしょ、シチューあるわよ。」母さんと父さんは、僕を待っていたのだろう。僕のシチュー以外、湯気が立っていない。冷めてしまっているのがわかる。きっと、家族ですぐに食べられるように、自分たちのものだけ、先によそってしまっていたのだろう。僕は、そんなことまでしなくていいのに。と思いながらも、心の底は、本当に喜んでいた。席に座ると、一斉に「いただきます。」と言った。そういえば僕は、朝のウインナーと、行きに買ったお茶以外口にしていなかった。緊張や不安でいっぱいだった僕の体は、リビングに来て安心し、家に帰ってきたのだと実感した瞬間に、つかえがとれて、堰を切ったように空腹を感じた。

腹にシチューを詰め込んで、そして、両親に今日学校であったことを話す。大同窓会が偶然やっていたこと、先生や川崎にあったこと、そのあと僕が言ったこと。最後に泣いて飛び出したところは恥ずかしかったので喋らなかったが、父と母は、僕の報告を真剣に聞いてくれた。ただでさえ冷めていたシチューが、さらに冷たくなっていたが、話を聞くことに集中していた両親には、そんなことはどうでも良さそうだった。

「そうか。初めてお前はあいつらに自分の気持ちを話せたんだな。」僕が話し終わった後、父はそう言った。

「頑張ったわね。」と、母も涙ぐみながら言う。シチューを食べ終わると、急に眠たくなってきた。

「じゃあ僕は、歯を磨いてもう寝るよ。ごちそうさま。」と言い、洗面所で歯を磨いて、自分の部屋に戻った。倒れるようにベッドに寝ると、布団に潜り、目を閉じる。意識は、すぐにかき消えていった。

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