第2話


「へえ、珍しいな。変わった願いを持つやつもいるもんだ。」彼は少し驚いたように言う。

「願いを手助けしてやるって言ったら、金や名声が欲しいなんていうやつがほとんどなものだが。」

「悩みなんてものは、お金と人間関係から来るんだと思いますよ。」人は、お金に心を散財し、人間関係に頭を悩ませる。僕も例外ではない。しかし、人と関係を持つのが怖くて避けてきた僕が、人間関係で悩むことになるとは皮肉な話だ。

「言われてみれば、そうかもしれないな。」彼は、無精ひげを指でじょりじょりさせながら言う。

「さて、お前の願望に合った物件を探そう。ずいぶんざっくりしているから、沢山あるはずだ。」ひげから手を放すと、彼は書類にひとつひとつ目を通していく。

「おお、これなんかどうだ。」不動産屋は、僕の前に一枚の紙をバンと置いた。一回の動作がいちいち豪快に見える。

物件というものだから、書類には家賃や広さなんかが書いてあると想像したが、僕に渡された紙には「今の自分に嫌気がさしたあなたへ」とあった。

「変わりたいって願いに最適に見えないか?」彼は少し前屈みになって聞いてくる。眉間にしわを寄せた怖い顔が、僕の顔の目の前に押し出てくる。威嚇する気はないのだろうが、とても威圧的で、まるで交番で怒られている気分になる。

「こ、これでいいです。」はやくこの状況から抜け出したくて、僕は早口で言った。

「そうか?だがまだ二、三個候補があるぞ。他のも見てみるか?」

「いえ、これでお願いします。」何度も尋問を受ける気分になるのはごめんだ。

「そうか。」彼は少し残念そうに書類を整えて机の隅に置いた。見た目や雰囲気はとても迫力があるが、意外と繊細なのかもしれない。

「じゃあ、この紙を持ってここに立ってくれ。」ドアを指さす。不動産屋がさっき入ってきた方のものだ。さっき見たときは入り口と同じように見えたが、目の前に立ってみてみるとうっすらと消えかかったマジックペンで「入り口×」と書いてあるのが読める。彼自身が何度もこのドアと入り口のドアを間違えていたと想像すると、口元から少し笑みが漏れる。笑ったのは久しぶりだ。

「何を笑っているんだ。さて、ここから先の説明をするぞ。」少し怪訝な顔をしながら、説明を始める。

「このドアをくぐると、お前は物件のベッドで目を覚ます。元の世界に戻るには、もう一度その世界で寝ればいい。物件の外にはお前の知らない世界が広がっている。その世界のそこらかしこに願いを手助けする人や物があるはずだ。」それじゃあ、頑張ってこいと、僕の背中をトントンとたたく。行け、ということだろうか。

「わかりました。行ってきます。」初対面の相手に“行ってきます”を言うのは、とても奇妙な事に感じられた。がちゃり、とドアノブをひねる。今日の夢はとても長い。


 人は誰でも少なからずコンプレックスを抱いている。運動が得意でも、勉強が出来ても、顔がよくても、コンプレックスからは逃げ切ることが出来ない。そして自分の汚点が明るみに出ないようにと、コンプレックスをゴミ箱に放り込んで、ふたをしておくのだ。時々中身が消えていないか期待してゴミ箱を開けて、顔をしかめてため息をつくのだ。

 僕は目立った特技も欠点もない平凡な人間だ。そして、それ自体が僕の汚点だと感じた。

じゃあ僕は何をゴミ箱に放り込めばいいのだろうか。

 この欠点を捨ててしまうということは自分自身を捨ててしまうということにならないだろうか。それが怖くて僕はこのコンプレックスを捨てきれないでいる。

そして、今もそれは僕を見てニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべながら言う。

「いくら目をそむけても、捨てなければ隠すことはできないよ」


 目を覚ますと、見知らぬ天井が広がっていた。どうやら、今日の夢はまだ続くらしい。起きたらそこがまだ夢の中とは不思議な感じだ。なんだか、マトリョーシカを見ている気分に似ていた。人形の中から、一回り小さい同じ顔の人形が出てくる。さらにその人形からは・・・というものだ。しかし、だんだん顔の作りは、雑で粗暴になってくる。小さいと、顔を描きづらいのかもしれない。小さい頃、それを見て、僕は泣いた。いつかは中から人形が出てくることはなくなるが、当時の僕は、キリがないと恐怖に思ったのだろう。ループというものには、人間を不安にさせる何かがあるのかもしれない。

僕はベッドから起き上がって、部屋を見渡した。殺風景な部屋で、家具は今座っているベッドと箪笥しかない。窓がなく、光が入ってこないせいか、部屋の雰囲気も暗い。

不動産屋は願いを叶える手助けをする世界と話していたが、外はどんな場所なんだろう。

この部屋ではろくに外の様子も確認することが出来ないので、僕は外に出てみようと思った。自分から進んで外出しようと思うなんて、普段の僕からは想像もできないことだった。夢の中までは病に縛られないということだろうか。

自分の体温で少し暖かくなったベッドから降りると、ドアに向かって歩き出す。この部屋は息がつまりそうだ。ここまで無機質な部屋にいると、だんだん気がめいってくる。 

玄関に立つと、きれいに並べてある靴があった。サイズが合うか心配になったが、履いてみると、どうやらピッタリの大きさだったらしく、しっかりと僕の足になじんだ。トントンとつま先を鳴らすと、ドアノブを捻る。そして開けた瞬間、ふわり、と暖かい風が部屋の中に入ってくる。現実世界では冬のはずだが、この世界の季節は、今は春なのだろうか。せらせらと体にあたる風が心地よい。

どうやらここはアパートのようだ。自分の部屋のドアの、のぞき穴の上の辺りに「三〇一」と書いてあることから、ここが三階であることもわかる。

手すりの向こうには、不思議な世界が広がっていた。遠くに、海と浜が見える。その手前にはたくさんの家があったが、家のつくりがどれも似ている。それらは砂漠に建てられる土で塗り固めたような家ばかりで、水がある場所には少し不釣り合いな風景だった。

確かに「変わっている」世界だが、自分も「変わる」ことはできるのだろうか。夢だから、多少の矛盾はあってもおかしくはない

そもそも、こんなことを夢に頼って解決しようと思うこと自体間違っているのか。

そんなことを考えながら目の前のちぐはぐな世界を眺めていると

「やあ。」

と声が聞こえた。誰だろう、声がする方に目を向ける。するとそこには、やせ気味の男が、にこやかな顔で立っていた。

「こんにちは。いい天気だね。」彼はにこにこしながら言う。

男は少し小柄で、高校生の僕を少し見上げるようにしていた。声はおっとりとしていて、笑っている表情が、より言葉に和やかな雰囲気を持たせていた。

「そ、そうですね。」急に話しかけられたので、少し声が上ずってしまう。

「君が今日ここに引っ越してきた人かい?」彼は笑顔を絶やさず言う。「不動産屋さんは、あの熊みたいな人でしょ?怖くなかった?」

見知らぬ場所で見知らぬ人に話しかけられた。それだけで、僕は恐怖を感じて逃げ出したくなるはずなのだが、この男が出しているのんびりとしたオーラが、話すことを苦にさせていなかった。

「少し・・・。怖かったです。」優しげな空気の中だったので、つい素直に話してしまう。

「あはは、彼の見た目は確かに、雷のような怖いおじさんだけど、とても温和な人なんだよ。仕事熱心だしね。おかげで僕のアパートは人が一杯さ。」

「僕の、ってことは、あなたはこのアパートの管理人ですか。」

「そうだよ。って、自己紹介がまだだったね。僕はこのアパートの管理人のトリイマ。鳥に家の居間って書くんだ。トリイマなんて苗字だし、皆面白がって僕のことをドリーマーなんて呼ぶんだ。格好悪いからあんまり好きではないんだけどね。」そういいつつも、彼は少しうれしそうだった。ドリーマーか、いかにも夢を叶えてくれそうなあだ名だけど、彼は僕の願いを叶えてくれるだろうか。そう考えつつ、僕も自分の名前を告げる。

「よろしくね。」彼は僕が名前を言い終わった後、そう言ってまたニコリと笑って見せた。

僕はこれからどうすればよいのだろう。もう一度部屋に戻って寝てしまえば、元に戻れるそうだが、僕はそれが嫌だった。僕が日常を送っているあの世界で、僕は自分が飲み込まれそうなほどの悪意を味わってしまった。そんな世界に帰るよりは、自分を変えてくれるという希望がある、この世界の方が、はるかにマシに見えた。


僕は携帯を持っている。みんなが持っているようなスマートフォンではない。開けたり閉じたりして使う、ガラケーってやつだ。暗い青色の、シンプルなデザイン、メールや不在着信があると、側面のランプが光って知らせてくれる機能も付いていた。高校に入ってから、連絡が取れないと何かと不便だろうと親がもたせてくれたものだ。だけど僕には連絡を取るような友達もいない。電話帳に乗っている名前は、家族くらいしかいなかった。

滅多にいじることはないが、ある日、僕はこの携帯の着信音を変えてみた。「鐘」という設定だったものを、「オーロラ」という音に変更した。たった少しの変化だったが、僕は気分が少しリセットされた気がして、嬉しくなった。暗い青色の携帯は自分の部屋の照明を反射して、着信を待って期待のこもった目で見つめる僕の眼を輝かせた。

しかし、いくら待っても着信が来ることはなかった。当然のことだ。僕は自分の家にこもっていたし、家の中にいれば、連絡先を知っている数少ない家族は、直接用件を伝えることができるのだから。それに気づいた僕は、携帯から目をそらした。反射していた光は、行く先を失って、元からなかったもののように、悠然と部屋の中を漂い、やがて消えた。

その後も携帯の側面は、暗い青色のまま、僕のズボンのポケットに入っている。


そういえばここの世界は携帯は通じるのだろうか、唐突に疑問に思った僕はポケットに手を当てる。すると手のひらに硬い感触が伝わってくる。夢にしては、本当に現実の携帯に触っているようで、少し不気味な気分になる。

ポケットに手を滑らすと、携帯を取り出して電波を確認する。ディスプレイの上の方に書いてある「圏外」という文字を確認して、このアパート以外は、砂の建物しかないのだから当然だろう。と考えていると、鳥居間がこちらを覗き込んでくる。

「どうしたんだい?それにその四角い箱はなんだい?そんなものを持っている人は見たことがないや。」

「ああ。これは前に住んでいた町で買ったものなんです。」僕はつい嘘を言ってしまう。この世界の住人に、僕の世界の話をしても意味がないと思ったのだ。できるだけ人に不快に思われるようなことはしない。僕は昔の経験から人間関係の糸を乱すことを極端に恐れている。挨拶をして面識を持った時点で、彼とは糸を持ってしまったのだから。それが夢の中の人物だとしても、である。

「へえ。」彼は物珍しそうに携帯を見ると、振り返って「これから君にこの町を紹介しようと思ってね。ついてきてよ」と言った。トントントン、軽快に階段を下りていく。僕はそれに続いてトストストス、と慎重に足を降ろして下っていく。手すりに手をかけながら降りたせいか、一階に着く頃には、手のひらは真っ黒になっていた。

黒ずんだ手から、「ああ、うちの手すりはいつも掃除してるのに汚れるんだ。」と声をかけてきた鳥居間に目を移す。

「いえ、手すりっていうのは老人と妊婦の為にあるものですから。」僕は手を払いながら鳥居間の鼻のあたりを見つめながら言った。

「はは。なるほど、だから僕の手もこんなに汚れるのか。」彼も、黒い手を見せると、人差し指を立てて、少し離れたところに見える海に向けた。

「海が見えるだろ?あれがこの町で一番綺麗で僕の好きなところなんだ。といっても、他に何もないんだけどね。」とは言いつつも、彼は誇らしげに、砂の建物を一つ一つ眺めている。僕もそれにつられ、町を見回す。

先程アパートから見た時は、すべて同じの建物に見えたが、よく見ると一つ一つ模様だったり、造形だったりが違うことがわかる。目の前に見える建物には、雪の結晶が彫られていた。その隣は、本を適当に積み上げたような独特な形をしている。さらにその奥には、鉛筆の形をした家もあった。住人の好きなものや、何か自分の心に残っているものをモチーフにしているのだろうか。どれも、見ていて楽しい。

「すごいですね。誰が作ったんですか?」

「大抵はそこの家に住む人が自分で作るのさ。そうしたら自分達がおのおの自由な形で建てられる。あのアパートに住む人以外はみんなそうやってここに住むんだ。」鳥居間は楽しそうに説明してくれた。誰か彫刻家が掘ったのではないかと思うほど、建物は精巧に作られていた。それとも、町の人間が全員芸術家か何かなのだろうか。と考えていると

「よお、ドリーマー!」と通りかかった男が声をかけてきた。男は、釣り竿を肩に乗せて持って、クーラーボックスを、小学生が水筒を体にかけるように提げていた。さらに、片手には水の入っているバケツを持っている。かなり重そうな見た目だったし、僕だったらこれらを全部一気に持つことは、無理だな。と思った。

「やあ、シバさん。今日は釣れたかい?」ドリーマーと呼ばれているのには慣れているのか、鳥居間は手をあげて、シバという男に挨拶を返した。

「いやあ、全然。釣れたのはせいぜい小魚程度さ。それと、隣の君は?」バケツに入った小魚を見せると、シバは鳥居間から僕に顔を向けた。僕は自分の名前を告げると、今日あのアパートに引っ越してきたのだ。と伝えた。

「おお、君が三〇一号室の新しい住人か。かくいう俺もあそこの一階に住んでいてね。いやあ、変わり者アパートにこんな真面目そうなやつが来るとはな。」シバは、荷物が重いのか、何度かバケツを持ち直しながら言った。

「真面目も一種の変人ですよ。」僕はだんだん言葉が滑らかに出てくることに気づいた。夢は、人の行動を大胆にするのだろうか。自分の頭の中の世界では、少しは自分の理想の姿でいられるのかもしれない。そして、疑問に思ったことを口に出す。「それと、変わり者とはなんですか?」

「うちのアパートには、何故だか少し変わった人達が住まうって言われてるんだ。」鳥居間はちょっと困ったような口調で答えた。

「少しなもんか。生粋の変人ばかりだよ。前の住人なんか・・・。」と、シバが口を挟んだところで

「シバさん。」と鳥居間が言った。僕は、その時の彼の目を見てぞっとした。さっきまでにこやかに話していた目の奥は、今にも人を絞め殺しそうな、毒を孕んだ眼をしていたのだ。蛇のような一瞥をシバにほんの一瞬向けると、すぐに先程の朗らかな表情に戻った。

「ああ。ああ悪かったよ。ここでする話じゃなかったな。」シバも、鳥居間の目の奥を見たのだろう。少しおどおどしながら言った。そして、

「じゃ、俺は部屋に戻るよ。釣具の手入れをしなきゃな。」長い釣竿と、大きなクーラーボックスに目をやると、彼は僕に、「真面目は変人なんかじゃないさ。自信を持てよ。」と声をかけて、アパートの方に歩いていく。

「彼はシバさん。芝生の芝って書くんだよ。今日は珍しく早めに切り上げたみたいだけど、普段は一日中釣りをするために海岸にいるんだ。」と芝が去って行く姿を見送りながら、説明をしてくれた。しかし、それより前の住人のことについて聞きたかったが、僕と鳥居間との関係の糸は、だらんと垂れて、なにかアクションを起こせば別の糸と絡まってしまいそうだった。僕はまたそれを恐れて「さぞ釣りが好きなんでしょうね。」と答えた。

「『釣りは現実の海に糸を垂らすこと』って彼は言っていたよ。」

ウツツ?ゲンジツ?僕にはよくわからない。糸というワードが少し気になったが、簡単にはわかりそうになかったので、「はあ」と、煮え切らない返事をしてしまった。

「まあ、わからなかったら彼に聞いてみるといいよ。飄々と生きているように見えるけど、哲学家なんだ。」と言った。そして「じゃあ、行こうか。」と言うと、鳥居間は僕に背を向けて、ゆっくりと歩き出した。僕は食パンのような形をした家から目を背けると、彼についていく。

しばらくの間、鳥居間は手を軽く振りながらゆっくり歩き、僕は建っている家を眺めながら歩く時間が続いた。その間も、鳥居間は何人かに挨拶をされていたが、その誰もが彼のことをドリーマーと呼んでいた。僕はあだ名などつけられたことはなかったので、少し羨ましく感じた。だが、あだ名は、良くも悪くも他人からの評価がわかってしまうものだと思う。親しみを込めて呼ぶ場合はもちろんみんなに好かれているということだし、悪意を持って呼ぶものは、相手に悪く思われていたり、バカにされていたりする。鳥居間はもちろん前者だろう。でも僕は彼をドリーマーとは呼ばない。僕は、人を評価して、そしてそれを他人に見せることは、とても残酷なことだと思うのだ。人間を見て、彼は何点です。と公表することは、酷いことだと思ってしまうのだ。なぜだろうか、僕自身が自分の採点をしてしまっているから、そう感じてしまうのかもしれない。もちろん、僕は赤点。補習を受けなければならない存在である。だから、芝の「自信を持てよ。」という言葉が深く胸に突き刺さっていた。自分が変わるためにどうしても必要で、だけどなかなか手に入らないものを、彼に見透かされていたからかもしれない。だとしたら、本当に彼は哲学者なのだろう。

やがて、鳥居間は郵便ポストの形をした建物の前で立ち止まった。

「ここが郵便局。手紙やはがきを送ったり受け取りたいときはここに来るといいよ。中に入ろう、会わせたい人がいるんだ。」彼はそういうと、先に中に入っていった。砂で固められてできた郵便局、現実世界ではメールが主流になっているだけに、手紙という言葉を久しぶりに聞いた気がする。実際に、人の手によって書かれた文字は、電子が織りなす記号や言葉には表現できないことも伝えられるのではないだろうか。手紙を出す相手は、僕にはいないけれど。

この世界では、暑中見舞いや年賀はがきは出すのだろうか、なんてことも考えながら、郵便局に入る。すると、中は思ったより明るかった。建物に空いている穴、郵便ポストの形だから、これは投函口なのだろう。そこから太陽の光が差し込み、これも砂で固められた受付や、ベンチを照らしていた。ざわざわと、たくさんの人が談笑をしている。少し窮屈に感じるくらいで、ここが町民の憩いの場であることがわかる。

人の波をかき分け、男と話している鳥居間を見つける。男は、いかにも郵便局の係員といった格好をしていて、電車の車掌が被っているような帽子を目深に被り、ぴっちりとスーツを着こなしていた。だが、交番で会った不動産屋のような、形だけでこれを着ています。という雰囲気は感じられなかったし、そのスーツのどこを見ても、パリッと糊が効いているようだった。近づくと、鳥居間は「ああ、彼だよ。」と僕に目を向けて言った。

「なるほど、君が新しい住民か。」男は、私の名前は佐藤だ。と名乗ると、握手を求めてきた。僕は、佐藤という男の握手に応じると、自分の名前を告げた。

「彼は僕の一番の友人なんだ。」鳥居間は笑顔で言うと、楽しそうに踵を鳴らした。

「私もあのアパートに住んでいるんだ。」スーツを来ていて少しわかりにくかったが、彼は、かなりがっしりとしていた。小柄でひょろりとした鳥居間と、大柄の佐藤、印象が真逆なだけに一見仲が良いように感じないのは、僕に友達と呼べる人間がいないからだろうか。

「それにしても勤務中に何かと思えば、後でも出来たことじゃないか。」とは言いつつも、佐藤は嬉しそうだ。

「いや、なぜか彼を君に紹介しておくべきだと思ったんだ。いつもの勘だよ。」鳥居間もにこやかに言葉を返す。

「お前の勘は大抵外れるさ。彼が入ってきても、この町はいつもと同じだよ。」楽しそうに話を続ける住民を見ながら、佐藤は言った。


友達、友情、親友。世の中の人間はどのようなつながりを持っているかが、大きなステイタスになっていると思う。どのような人と友人関係にあるかで、その人の顔の広さがわかったり、人生の楽しみも変わってくる。人と人との出会いが、その人間個人を変化させるのだ。

しかし、ちゃんとした交友関係と顔見知り程度の関係では、糸の張り方が変わってくる。

その人に大して無知であればあるほど、糸は垂れて絡まってしまいやすい。反対にその人物と親密であればあるほど、糸はピンと張られ、簡単なことでは絡まない。しかし、それは逆に言ってしまえば、糸のせいで身動きが取れないし、動こうとしたものなら、糸が振動して相手に伝わってしまう。関係が強固であればあるほど、その関係から逃れることは難しい。

僕にはそのような糸はほぼない。膨大な数の糸に雁字搦めにされていることは事実だが、そのほとんどが、だらんと垂れていたり、途中で自分がハサミで切って、細切れになっていたりと、他の人よりは少しは動きやすかった。

だけど、それは良いことなのだろうか。誰にも糸の振動は伝わらない。僕が動いたことに誰も気づかない。それは、本当に良いことなのだろうか。伝わるということは、伝えるということでもある。伝わってしまうということは、伝えることができる。ということでもあるのだ。鳥居間と佐藤を見て、僕は大きな孤独を感じた。そして、ほんの少しだけ、そういった関係が欲しいと思った。しかしすぐに思い直す。僕は一人で良いのだ。細切れになった糸を見て、二度とあんな思いはしないと決めたのだ。僕は、きっと正しい。きっと、悲しいくらいに誰よりも正しいのだ。


仕事に戻るという佐藤と別れ、鳥居間と僕は町案内の最後に海を見に行くことにした。郵便局から出ると、外はもうオレンジ色に染まっていた。鳥居間が前を歩き、僕がその後ろをついていく。鳥居間は、海を見るのが楽しみなのか、心なしか足早になっていた。海の青が近づくにつれて、潮の匂いも強くなってくる。そして、シャリ、と砂浜を踏んだ僕は「うわあ。」と声を漏らした。

その海には、よくあるリゾート地のような派手さはなかった。その代わり、どこか落ち着いていて、全てを受け入れてしまうような包容力を感じた。夕方の暖かな日差しが照らして、エメラルドブルーの海は光り輝いていた。僕は、綺麗な夜景や絶景を見ても、ピンと来るほどの感受性はないが、この白い砂浜に寝そべって、いつまでもこの景色を眺めていたいと感じた。夢の中の世界とはいえ、ここまで汚れのない海は見たことがなかった。

「きれいだろう。今は夕方だから日が暮れるのを見れる。」だから少し早歩きをしていたのか、僕は合点が行くと、鳥居間の隣に立って、海を眺める。

やがて、日は徐々に沈んでいく。海が夕日を、だんだん飲み込んでいく、太陽は、せめてもの抵抗と言わんばかりに、海を橙色に染め上げていく。そして二つが溶けきると、今度はだんだん空と海が黒を帯びて、星が瞬きだした。

この一連の色の変化は、僕の心の色も次々に塗り替えていった。最初に海を見たときの爽やかな青、日が落ちていく不安、月が現れる高揚を示す橙。そして、潮が満ちた海の波音を聞きながら、星を眺めて、黒に落ち着いていく。まるでひとつの物語を見ているようだった。

「すごい。夢みたいな景色だ。」と言ったあとで、ここは夢だった。と思いなおす。しかし鳥居間は、その言葉が嬉しかったようで、大きく頷く。

「だろう。僕はこの景色を見てここに住もうと決めたんだ。」彼は、まるで自分が褒められたかのように胸を張って言った。

「だけど、今は少し困ったことになっていてね。」

「困ったこと?」今日一日、この町を見て回ったが、その住人たちからは、そのような気配は全く感じられなかった。

「ああ。海にごみを捨てていく人がいるんだ。」鳥居間は本当に困りきったという口調でそう話した。ここまでごみや汚さがない海はなかなか存在しないと思ったが、そこを汚そうという考えは僕には理解できなかった。積み上げたジェンガを崩したり、並べたドミノを倒したりする感情に似ていたりするのだろうか。

「でも、ごみはさっき見渡した限りでは見当たりませんでしたが。」

「僕が片付けているからね。でも見たことないようなごみばかりでさ。もう使えなさそうということがわかるくらいで、他はさっぱり何の廃棄物なのかわからないんだ。」だから、持ち帰っても処理に困っているという。

「待ち伏せして注意するのはどうですか?」と、僕は浮かんだ解決策を口に出す。ふと、この世界には法律はあるのだろうか、と思った。不法投棄は立派な犯罪だ。しかも捨てる場所が場所なだけに、やっている人間もいけないことだと、はっきりわかっているはずである。

「とっくにやったさ。だけど、今度はさっぱり姿を見なくなってね。気づいたら、また捨てられているんだ。」口調から、鳥居間が憤っていることがわかる。それにしても、人口が、そこまで多くなさそうなこの町で姿を消すというのは、至難の業だろう。人とのつながりは、人数が少なければ少ないほど、強くなるものである。

「その人間は鳥居間さんの知っている人だったんですか?」顔見知りなら、どこに潜んでいるか見当がつきそうなものだ。

「知っているも何も、うちのアパートの元住人なんだ。それも、君の引っ越してきた部屋の、ね。」


その後、僕たちは無言の時間を過ごして、アパートで別れた。三〇一号室に戻ると、無機質なベッドに横たわる。ベッドは、ぎぃ。と鳴くとそれきり何も言わなくなった。

この部屋の元主がゴミ捨て犯。芝が話そうとした前の住人とはその人間のことだったのだろう。それなら、鳥居間の雰囲気が一瞬ガラリと変わったことにも納得がいく。暗くて見えなかったが、彼は犯人について話しているとき、きっとあの時の恐ろしい目をしていたにちがいない。

リアリティと非現実が混ざり合った不思議な夢だった。このまま寝てしまったら、不動産屋が言っていたように自分の世界に帰ることになるのだろうか、結局自分を変える手立てが見つからないままこの時間になってしまった。なにも起こらないまま終わってしまうのが口惜しかったが、もしかしたら、と考える。もしかしたら、また現実の世界で寝れば、この世界に戻れるのではないだろうか。この夢から始まって、現実世界、夢、現実世界、夢と行き来して、自分を変える手立てを見つけていく。ということではないだろうか。だが、これが本当にただの夢で、今日限りのものだった。という可能性も捨てきれない。それでも僕は、またここに来たいと感じた。

だから、それが事実なら、現実世界でも何かしらのアクションを起こす必要がある、と思考した。何をするかは、向こうで目覚めたら考えることにしよう。ここまで積極的に何かをしようと思ったのは、久しぶりのことだった。自分にまだこれほどの気力があったことに、少し驚いてから、目を瞑る。やがて、意識は小さく、細かくなっていった。

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