現実の海

熊野 豪太郎

第1話


僕は校門の前に立ち尽くしていた。

日が短くなるにつれて、少しずつ冷えて行ったアスファルトを歩いていく高校生達は、僕の視界に現れては、校舎へと姿を消していった。

なぜかこの門をくぐれない。一歩踏み出してしまえばなんてことは無いただの何の変哲もない校門のはずだが、僕は、これをくぐると、何か恐ろしいものに飲み込まれてしまいそうだと感じて動けなかった。

コンクリートでできた校舎は、朝独特の鬱屈な雰囲気を漂わせている。

僕はこの場所があまり好きではなかった。

僕は変わるつもりだった。あの頃の自分とは違うという確証が欲しかった。しかし、今こうしている自分を見て、何も変わることが出来ていないと思い知らされたような気がした。

「帰ろう。」

ポツリとつぶやくと、僕は逃げるように学校から立ち去った。


その日を最後に、学校には行けていない。あの経験からか、親も簡単に休むことを許してくれた。 


僕は駄目な人間だ。学校ひとつすら、まともに行くこともできない。そう考えては、自分の部屋のベッドに寝転がって枕を握りしめる。普通に学校に行くことが出来ている人間がいるのに、僕にはそれが出来ない。恐怖、苛立ち、虚無感、何もする気になれない。何もすることが出来ない。僕は駄目な人間だ。そんなことを考えながら、ただ枕を握りしめる。布が皺くちゃになって、僕の指の形がくっきりと残る。僕はこのままでいいのか、いや、いいはずがないのだ。

ダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだ・・・。

休む日が重なっていくごとに、死んでいく感情が、どんどんどんどん増えていって僕を苦しめる。水の中に僕という存在が沈んでいく。

やがて僕は枕を掴むのをやめた。捕まって沈むことから抗うことをやめた。そうしたら、僕はすごい勢いで水の底へと急降下する。息が出来ない。水を掻いても掻いても、上へ行くことが出来ない感覚。泡ばかりが僕の目の前に現れて、割れて、消えていく。僕は声にならないような悲鳴を上げて、必死で枕にしがみつく。息も荒く、暗い自室を充血した眼で見渡す。誰かが今も僕を嗤っている気がする。今すぐドアを開けて、真っ暗な夜をかけて逃げていきたい感覚に襲われたが、枕を離せば、僕は沈んでしまう。僕は逃げることが出来ないのだ。


「ここに行ってみましょうか。」

休み始めて二週間くらいの頃だった。母さんは僕にパソコンのディスプレイを見せながら明るく言った。

「『スマイルカミングクリニック』・・・?心療内科?」

僕は疲れきった声でつぶやいた。ただ時間を浪費してしまっている自分に失望してしまっていて、もう一生、幸せになれないような気分だった。

「そうよ、今のままはつらいでしょう。なにか薬でももらえるんじゃないかしら。」

そう言うと『スマイルカミングクリニック』なるホームページで、病院へのアクセスを調べ始めた。

辛くて仕方がなかったのは確かだし、なにか少しでも楽になれる希望が見えた気がして、診察だけでも・・・。という気持ちになる。

それから母に行くという旨を伝えると、僕は自分の部屋に戻った。ドア越しに母が予約を取っている声が聞こえる。それから今日の十八時からだとノックもせずに伝えに来た母を見るのは間もなくのことだった。


「これが心理テストの結果です。」

心療内科の依田先生は、僕に一枚の紙を手渡した。僕はそれを受け取ると、ゆっくりと内容に目を落とす。グラフに数字が書いてあって、下に説明が丁寧に書かれてあった。

数字の意味はよくわからなかったが、説明文に「重度」という文字があったのを見て、

「やっぱりうつ病ですか」

と口にした。

「これからゆっくり治していきましょう」

依田先生はそう言うと、グラフと数字の説明を始めた。しかし、それらの説明はあまり頭に入ってこなかった。

そうか、僕は病気だったのか。


僕は人が苦手だった。だから一人でいることを好んだし、雰囲気が暗いと思ったのか、人が僕に話しかけてくることもなかった。

人とつながりを持つ。そのつながりを大切にすることを、現代の人間は「絆」と呼んでいる。僕にはその絆は糸のようなものに感じられる。自分とたくさんの人が膨大な数の糸で結ばれる。そして、その糸に雁字搦めにされて一歩もうかつに動けない。ひとつひとつ周りの糸が絡まらないように気を遣いながら生きていくことは、僕にはとても難しいものに感じた。

だから僕は、間違って目の前を行きかう糸が自分の体を固結びしないように、ただじっとしていた。

でも、その糸は僕の首に、猛然と襲いかかってきたのだ。

 いじめである。

中学二年生のときだった。僕はいつものように教室に入ると、席に座って読みかけの本を開いて読み始めた。この時、なぜか教室中の目線が僕に集まっている気がした。不自然に感じて目を上げると、胸が急に締め付けられる気分になった。

明らかに彼らの目は僕に向いていて、その眼のどれもがぎらぎらと鈍く輝いていた。

その日から、僕は日常的な暴力や暴言に耐えて行かなくてはならなかった。今思えば、僕には学校内での「ひも」がほとんどないから、僕にいくら暴れてもほんのちょびっとすらひもが絡まらないことに彼らは気づいたのだろう。普通の日常に飽きてきたら刺激を求める。人間の本能なのかもしれない。

彼らは僕をこれから先にある受験の不安や、多感な時期独特のマイナスな感情の捌け口にした。

始まってから二か月がたってからだろうか、僕は学校に行かなくなった。

親も日々息子の傷が増えて行っていることに気付いていたのだろう。「休みたい。」

僕はそう言って、わけを話した。父は激怒し、母は涙を流して、何もしてあげられなくてごめんね、と僕の頭を撫でた。

それからクラスで話し合いが行われたそうだ。「人への思いやり」みたいな内容の作文を原稿用紙何枚書きなさい、とでも先生は言ったのだろうか。転校してその学校はそれきりだったのでわからない。


「というわけで、これから少しずつ治療していきましょう。」

昔のことを思い出していると、先生の話が終わっていて、待合室に戻るように言われる。待合室には数人、人が座っていて、その誰もが、暗い表情をしているように思える。リラックスを促すためか、室内には小さくオルゴールの音楽が流れていた。曲の名前は知らないが、僕にはとてもいい曲に聞こえた。

そのあと会計を済ませて、処方箋を受け取って、病院を出る。このビルは三階にこの心療内科があって、エレベーターを使って一階に処方せんと看板に大きく書かれた薬局がある。一階に向かって自動ドアをくぐると、薬局独特の薬品のほのかな香りが僕の鼻をつく。

受付のおばさんに病院でもらった処方箋を渡すと、近くに置いてある椅子に腰かける。古くなっていたのか、座った場所がギシギシと音を立てた。

天井に固定されて椅子から見上げやすくなっているテレビからは、ニュースのペット特集が放送されていた。ペットは、愛玩動物なんてよく言われているが、僕には玩具の玩が入っているだけで、遊びで命を管理していることのように感じて、人間に対して嫌悪感を抱いてしまう。人間は嫌いだが、自分はもっと嫌いだ。

しばらくたつと、薬剤師のおばさんに呼ばれて薬を受け取るために席を立つ、椅子はさっきよりも大きく鳴いた。


薬局を出ると、時間は午後七時を回っていた。停めてあった自転車の鍵を開けて、サドルにまたがる。 

そして漕ぎ出してすぐのことだった。ずどん、僕は後頭部を思い切り殴られたような衝撃を受けた。そしてすぐに視線を下に向けて帰る道と逆側に漕ぎ出そうとするが、動けない。体の震えが止まらない。なぜ、こんなところにいるのだ。

学生数人が僕の目の前をわいわいと歩いていて、その中の一人が中学校で僕にいじめを行った主犯格の一人の川崎の顔とそっくりだった。彼らが近付いてくるたびに、胸の鼓動が早くなっていく。そして、彼らは僕を一瞥することもなく、通り過ぎて行った。

ありえるはずがない。そのあとすぐに気付いた。僕はあの中学校のあった地域からうんと遠い県外に引っ越したのだ。

すぐに違うとわかったはずなのに、体の震えは簡単に収まらなかった。動悸がする。ハンドルを握っている手のひらの中が汗でびっしょりだ。植えつけられたトラウマには、あのうすら寒くなるような川崎のにやけ顔が今も刻まれている。

 落ち着くまで待ってから、僕は急いで家に帰った。玄関で靴を脱ぐと、「おかえり、どうだった?」と訊ねてきた母に心理テストの結果と薬を押し付けると、自分の部屋のドアをこじ開けて、ベッドに横たわる。

なんと情けない。

なんて情けないんだ。

中学二年生のころ、僕を悪意のこもった双眸で見つめてきた彼らは、僕と同じく高校生に上がり、面白おかしく日常を送っているのだろうか。僕の中の平穏を壊していった彼らが。それが悔しくてたまらなくて、僕は久しぶりに泣いた。みんな死んでしまえばいいと思った。そんなことを考える自分すら醜く感じた。胸が何か黒いものでいっぱいだった。

すると急に眠たくなった。これが「泣き寝入り」というやつか。僕は自嘲的にそう思うと、眠気に身を任せた。

意識は、だんだん薄れていった。


僕は、今でもいじめられた時の心境や、されたことを明確に覚えている。よく嫌な思い出や悪い出来事は、時間がいずれ風化させてくれる。などと言ったりするものだが、「トラウマ」というものは、自力で乗り越えない限り、いつまでも本人にまとわりつくものだと思う。傷は、かさぶたが出来て治るもの。だけどそれを自分で剥がしてしまっては、傷はいつまでも治ることはないのだ。周りがいくら「そのかさぶたを剥がしてはならない。」と強く言っても、どうしてもその傷を覗き込んでしまう。少なくとも、今の僕は、かさぶたを剥がし続ける。されたことを忘れるなんて、できないし、認めない。

たとえそれが、トラウマとして残ろうとも。


 気が付くと草原に横たわっていた。夢だろうか。そう思ってあたりを見渡してみる。

 あたりは緑一色で、自然の良いにおいがした。草原の先にぽつんと一軒の交番が建っている。それ以外はなにもない。僕は興味を持ってそこに向かうことにした。歩くたびに草に僕の靴の形がうっすらと残る。少しずつ建物が近づいてくる。やがて、その建物に看板が掛けてあることに気付く。

「お悩み・・・解決所?」

看板には下手くそな字で『お悩み解決所』と大きく書いてある。草原にぽつんと存在する交番にかかる妙な看板。不思議に思ったが、とりあえず入ってみることにした。

建物の内部は、明らかに交番だった。ひんやりとした空気、やはり見るからに古びた机に取調室で使うようなライトが置いてある。壁にはところどころポスターが貼られていて、交番にあるような「いじめ、ダメ、絶対。」という内容のものだった。胸が少し重たくなる。

奥には入り口と同じようなドアがあった。机にセットのような形で置かれている椅子に腰かけてみて、ここはどこかと考えてみる。夢のなかの世界なのだろうか。その割には、ずいぶんと置かれているものや、今座っている椅子にリアリティを感じる。

考えていると急に入り口ではない方のドアがばたんと開いた。僕は飛びあがって驚いた。

この建物の持ち主だろうか。

「おう。来たみたいだな。」

僕はその姿を見て、熊みたいだ、と思った。

ドアから姿を現したのは、大柄の中年のおじさんだった。スーツを着込んでいているが、裾はくたびれていて、襟はよれよれになっていた。書類を鷲掴みにしている拳は、いかにも強そうだった。顔は、無精ひげに覆われていて、いまにも僕に襲い掛かってきそうな荒々しい雰囲気を思わせる、熊そっくりだった。

「看板はみたか?」

野太い声で尋ねてくる。なぜかとてもなれなれしい。

「え、ええ。」

「俺が書いたんだ、とても良く書けているだろう。」

彼は誇らしげに胸を張った。

「はあ。」

彼は僕の返答を肯定ととったのか、満足そうにうなずく。そして僕の向かいの椅子に腰かけて持っていた書類を机に広げる。

「すいません、ここは一体どこなんでしょうか。」

僕も質問を返してみる。

「看板を見ればわかるだろう。俺は迷える子羊たちを導いているんだ。」

書類に目を落としながら彼は言う。彼の目から見たら確かに、どんな生物も子羊だろう。

「訪ねてきた人の悩みを聞いてあげているんですか?」僕はぼそぼそという。

「そうだな、そして、解決の手伝いをする物件を紹介するんだ。」

彼は僕が消え入るように話しているにもかかわらず、全て聞き取って話す。

「物件?」僕はオウム返しに聞く。

「ああ、物件だ。悩みを持つ人がここに誘われる。俺はそいつの願望に沿った物件を紹介するんだ。」

「願いを叶えてくれるってことですか?」

自分でも驚くほど、この理解しがたい状況に戸惑わず、目の前の男と会話できている。自分の中で「これは夢だ。」と割り切ってしまっているからかもしれない。

「願いを叶えられるかはそいつ次第だ。俺が介入することはないさ。まあ、手助けのかたちになるな。」

書類から目を上げて言う。そして、唐突に熊の不動産屋は真剣な顔を作って

「じゃあ、さっそく願望を聞こうか。お前は、どうしたい?」と言った。

なんとアバウトな質問だろうか、そう思ったが、僕には、したいものの心当たりがあった。

二週間前、僕はできないと思い知らされたことがあった。

変わりたい。

弱気で逃げ続けた自分に終わりを告げてみたいと思っていたのに、校門の前で、僕にはできないと思い知ったあの願いがあるではないか。

「・・・・・。」

「ん?」さすがに聞き取れなかったのか、彼は手を耳に当てるポーズをする。

「変わってみたいです。」

アバウトな質問をされたのだから、こちらもアバウトに返しても問題ないだろう。

どうやら僕は、追い込まれて困ったときに目の前の希望にすぐ縋る癖があるらしい。

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