おとなしくしてください
夜の森、それも滝の近くともなれば、なんとなく霊験あらたかで厳かな雰囲気を感じてもおかしくはない。ロケーションだけを見るならば素晴らしい場所だろう。
何故か僕はそんな場所で憂鬱な仕事と向きあっていた。
そもそも、僕にとってこの手の依頼はあまり受けたいものではない。
だが、困っている人が居るのだからしょうがないと一応割り切る努力はしてみるのだけれど、
「そう簡単に割り切れるわけもない、っと。どうでしょう、アナタもココは一つ冷静になってみては」
可能な限りフランクに話しかけるが、どうにも相手は警戒心を解こうとしない。
むしろ一層警戒を強めた気配が伝わり、思わずため息が漏れる。
お相手――額に生えた立派な角に赤い肌。僕より二回り以上は大きい巨躯の持ち主は、鬼と呼ばれる存在だ。
普通ならば知性ある存在なのだが、目の前にいる鬼は前情報の通り理性を失っているようである。
先程から口からふしゅーふしゅーと不穏な吐息が響いている。
「一応、義務なので聞いておきます。――アナタには傷害の容疑で逮捕状と調伏許可証が発行されています。大人しくこちらに従うなら所々の権利は保証しますが、そうでない場合は」
と、こちらの台詞が終わってもいないのに鬼が飛びかかってきた。
予備動作は見えていたので避ける事は容易い。相手の溜めに合わせてこちらも膝を曲げ、腰を落としていた甲斐があるというものだ。
間近を通る赤の巨体と響く轟音。振り返り見てみれば、鬼は肩から体当たりをしようとしていたらしい。
強靭な肉体から発せられた瞬発力と速度、そして質量から生み出される破壊力は、太い樹木を根元近くから折り砕いていた。
言うまでもないが、アレに当たれば僕など一発でご臨終だろう。ナムナム。
「――ぉ」
鬼の咆哮は単音の連続。腹の底から全てを吐き出すかのような叫びは、呪詛のような響きと重さで周囲を震わせる。
「では、こちらの指示を無視した上で危害を加えようとしたという事で。現行犯で問答無用に調伏コース決定です」
前口上は適当でも問題無い。そもそも、調伏許可証が出ている時点でほぼ結果は決まっている。
腰に帯びた白木鞘から、一息に刀身を抜き放つ。
なんの飾り気もない日本刀が、薄暗い夜の森に白く浮かび上がる。ウチの神社が祀る御神刀の影打ち。それがこの刀だ。
代々妖物と人との仲を取り持つ『治め役』としての役目を担ってきたのがウチの家系だ。細かい事案になれば夫婦喧嘩の仲裁も残念な事に治め役の仕事の範疇なのだが、今回は分かりやすい部類の仕事である。
妖物は友好的な者も当然多い。だが、どうしても同族含め周囲に害為す者が居る事もまた事実だ。人と違い、「そうあるべし」という方向性を持って生まれる者が多いからか、存在理由に沿った能力を持っている事が殆どだ。
他人よりも優れた能力は軋轢を、優位性は驕りと卑屈の感情を生む。
時代を問わず、争いごとというのは無くならないものだ。
人でも魔でも、他人を害する者あれば治め役の出番。限定的に「調伏」と呼ばれる行為が許される。今回も依頼元は警察だ。彼らの手の届く範囲ならば話は違うのだが、少々相手が厄介だ。
無差別、無軌道に暴れまわる鬼というのは自然災害に近い。
圧倒的な身体能力で人も妖物も区別なく襲うこの鬼はつい最近になって唐突に生じたモノだ。
時間を掛けて理性を得れば良き隣人となれるのかもしれないが、
「生憎と被害を許容出来るわけじゃないんでね」
無闇矢鱈と振り回される豪腕を避け、二度三度と斬りつける。
ギリギリで躱す、などという自殺行為はしない。あれだけの質量が高速で振り回されればその余波も無視出来るものではない。
踏み込みすぎず遠すぎず。
常に余裕のある距離を保ち、鬼の腕に刀傷を増やしていく。
理性の無い鬼は咆哮と共にただ目の前の障害を排除しようと前進。時折、思い出したように突進をしようとするが、
「―――ぉぁあ!!」
「っと」
溜めの動作に入った時点で足を斬る。硬く分厚い皮膚に阻まれて傷を残す事しか出来ないが、それだけで十分だ。
浅いとはいえ傷は傷。
痛みは微かでも体に力みを生み、その力みは動きの遅れとなる。
その遅れた分の時間を使い、鬼の突撃進路から横に逸れればそれだけで回避の動きだ。ただ闇雲に避けるのではなく、あまり最初の位置から動いてしまわないように注意する。
都合よく開けた場所はそこにしかなく、一度森の中に完全に入ってしまえば回避は困難となるからだ。
木々を盾にしようとしても、恐らくあの腕力では盾にした木ごと吹き飛ばされる。
滝側に出てもよいのだが、そうなると今度は足場が怖い。砂利に足をとられた場合は数瞬後に肉塊になっているだろう。
避ける。
斬る。
避ける。
斬る。
避ける。
斬る。
慌てず正確にリズムを刻むように。猛牛の角を躱す闘牛士のように。
避ける動きと斬る動作を結びつける。鬼の腕を執拗なまでに狙い続ける。
何一つ失敗できない綱渡りの連続は、気力と体力を金ヤスリの粗さで力任せに削り取っていく。
鬼と人では生物としての性能が根本からして異なっている。
普通ならばなんの抵抗も出来ずに屍を晒す事になるが、性能差を埋めることは不可能ではない。
工夫を凝らし、策を練り、技を磨き。
積み重ねという智の集積を現実のものとする。
十重二十重に斬りつけられた鬼の腕が、皮膚よりもなお赤く染まっていく。
だというのに、鬼の動きは少ししか鈍らない。痛みを得てもなお動き続ける様は、まさに地獄の悪鬼を連想させる。
思惑通りにはいかないようだと判断し動きを変更。
反撃はせず避けに徹する。がりがりと音を立てて神経がすり減っていく。
恐怖はある。
何か一つを間違えれば、その瞬間に全てが終わるのだと思うと膝が笑う。
胸は締め付けられたように痛み、呼吸をしようにも肺は何かに抑えつけられていて浅い呼吸しか出来やしない。
後頭部から首の付け根まで、氷の塊でも入れられたかのように冷え切っている。
死にそうだ。死にそうで、怖くて、泣きそうだった。
自分の胴体と同じ太さの腕が風切り音を伴って眼前に迫る。
上体を反らすだけでは駄目だ。足の力で強引に横へ飛ぶ。
回避の動きだけに専念できるからこそ飛べるのであって、攻勢の為に踏み込もうと考えていたら避けきれなかった。
限界が近い。
いつまでも綱渡りを続ける事など出来やしない。気力も体力も無尽蔵とはいかないのだ。
自分の動きから精度が失われていくのに比例して恐怖心が増していく。
それら負の要素を抑えつけ、ただ一瞬を待ち続ける。
右手で柄を今一度強く握り直し感触を確かめる。決して実用品としては優れていないが、それでも幾度と無く苦境を共にした頼もしい相棒だ。
鬼の咆哮。
それまでもよりも一際大きなそれは、鬼の苛立ちを代弁していた。
無理も無い。あれに自我は無いだろうが、それでも衝動や本能といった部分は既に存在している。
原始的で粗野な原初の感情が、今まさに爆発した。
鬼の動きが加速する。
より一層粗雑になった動きは、しかし速さと力は増している。
浅い傷を無数に作り相手を無力化しようとしたが、その企みは失敗している。手数でダメならば渾身の一撃を見舞うしかない。
待って耐えて偲んで堪え、機の訪れを見極める。
一度、二度、三度。
豪腕が振るわれるたびに血の気が引いていく。
四度、五度、六度。
足捌きで生まれた力を腰を通して上半身に伝える。
七度目。
突き出された鬼の右腕を外側に避けた。
一歩。一歩踏み出せばあとは一瞬だ。死ぬか生きるかの瀬戸際はどのような結果であろうと終りを迎える。その一歩を、
「――――っ!」
踏み込んだ。
踏み込んでしまえば、意識をせずとも体が勝手に刀を振るう。恐怖に縛られていようと、疲労があろうと、体がすべてを覚えている。
振り下ろす刃で鬼の右腕を斬り落とす。
勢いを殺さず身を捻り、体を回し、また踏み出し、
「それでは、また縁があれば」
鬼の首を斬り飛ばした。
「お疲れ様です、ユウキ様」
疲労で重い体をどうにか動かして森から出ると、サヤさんが待っていた。
路肩に停めた車の中で待っているように言ったのだが、どうにも外で立ったまま待ってくれていたようで。
「ん、ありがとサヤさん」
見知った人の顔を見て、心に余裕が戻ってくる。重かった体が更に重く、体の節々が思い出したように痛みを訴え始めた。ぐえー。
「お怪我もなされていないようで安心――いえ、ユウキ様、右手をお出しください」
言われた通りに右手を出すと、手の甲から血が流れ出していた。大した傷ではないようだが、全く気がついていなかった。
おそらく、森の中を移動しているときにそこらの枝で引っ掛けたのだろう。
それを見たサヤさんは躊躇いなく傷口に顔を近付け、ペロリと一舐め。
「えー、サヤさーん?」
「消毒です。おとなしくしてください」
それはちょっと無理がないだろうかと思いつつ、まあしょうがないかとため息一つ。
月の明るい、とある夜の出来事だった。
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