第8話『二つの争い』
わしゃの名はペイザンヌ。N区の野良猫だ。
〈猫屋敷〉の婆さんが亡くなった。
不幸中の幸いだったといえるのは婆さんの亡骸が翌日の午前中に人間によって発見されたことだ。なにせ、こればかりは猫の手におえない。逆に幸い中の不幸だったといえるのは第一発見者が注文の品を届けにきた(御存知?)魚屋の馬場トミオであったことか。
ほとほとついてない人間とはこやつのことを指すのかもしれない。
婆さんが死んでるのを見て、わめくは騒ぐは腰を抜かすわ、終いには警察に事情聴取されて泣きながら「ごめんなさい! ごめんなさい! 私が殺したんじゃありません!」と、わけのわからんことを叫んだ一件などもあるのだが…… まあ、彼の名誉のため黙っておいてやるとしよう。
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オスの成猫たちは庭の隅で早朝から緊急集会を開いていた。もちろんこれからの身の振り方についてだ。中央ではリーダー格である黒猫のフライが熱弁をふるっていた。
「みんな、こういう時にこそ協力し合うんだ。もう僕らに食べ物を与えてくれる人はいない。残された食料を節約して…… 待つんだ!」
「待つんだって、何をさ?」
デブ猫、メタボチックが首を
「それは、助けをとか、いい考えが浮かぶのをとか──」
「ふ、ふぁ……ぁ……」
ヴァン=ブランは戻ってきたばかりの引け目もあるのか、脇の方でじっと皆の討論を聞いていたが実際のところだんだん眠くなってきて必死で欠伸を噛み殺しているのがやっとだった。
「ヴァン!」
ヴァンのそんな姿が目に入り、フライは恫喝する。
「うわ! いや、悪い悪い。いかんせん旅の疲れがまだ抜けてなくてなぁ」
授業中の居眠りを先生に注意されたような、そんなヴァン=ブランを見て皆少しほがらかに笑った。
「旅ね…… だったらその“旅”で得てきたなんらかの知恵をこんな時にこそ披露してもらいたいもんだな、ヴァン=ブラン」
「オレか? あ~、そうだな、 オレは、うーん」
皆がヴァン=ブランの方を注目している。
ヴァンは溜め息を小さくついて、あとは矢継ぎ早に言葉を紡いでいった。
「正直言うと、オレはあまりこの場に長く留まるのは得策だとは思えん。いくら待ってたってやってくるのは保健所くらいなもんだ。ま、そうでなくとも遅かれ早かれ人間たちは必ずここにやってくる」
「やってくるって、何しに? 」
メタボチックがまた恐る恐る聞いた。
「何しに? そりゃもちろんこの家の取り壊しに決まってるだろ?」
場がざわつくのを感じ、フライは横槍を入れた。
「ヴァン、皆を不安がらせるのはやめてくれないか?」
「オレは事実を言ってるだけだぜ」
「おまえが言ってるのは憶測にすぎない!」
「じゃあ、おまえが説いてるのはさしずめ楽観的希望ってとこだな」
「なにっ!」
「まあ、待てよ。“待つ”のが悪いと言ってるわけじゃない。オレはただ、時間をかけすぎるのはどうか、と言ってるだけだ」
「かといって何も考えずに行動するのがいい結果を呼ぶとも思えん」
「そう、そこだ。さすがはフライ、その通りだ。だったらみんな、どうだろう? 二日考え、三日後に結論を出す。四日目に準備をし、五日目に行動を起こす。ってのは?」
こうして計画をたてれば漠然としている問題もなんだか出来るような気がしてくるから不思議だ。
ヴァン=ブランはその心理をついて時に軽く、時には重く、よく通るその声で語ってみせた。
“声”は時に武器ともなる。それに態度が加わればさらに精度を増す。ヴァンにはそのどちらも備わっているといえた。
すっかりお株を奪われてしまったフライに焦りの色が見え隠れし始めた。
「ま、待て、ヴァン。君に決定権はない! リーダーは僕だ」
ヴァン=ブランはあえて次の言葉までちょっとした間を作った。
「ああ、もちろんそうさフライ。今まではな。だが、事態は急変したんだ。それに今オレたちが交わしてるのは誰がリーダーかとか、そんな話じゃないと思うんだが?」
皆はまるでテニスの試合を観戦してるかのごとく首を振っていたが、やがてそれはフライの方で止まった。皆がフライの次の言葉を待っているのだ。
窮地に追いやられたフライはついラケットを大振りしてしまった。
「いや、リーダーは大切だ。誰かが統率する必要がある。でなきゃ皆の意見がバラバラになるだけだ」
ヴァン=ブランは少し何か考えているようだったが「ふむ」とただ唸っただけだった。
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一方、イシャータを含むメス猫たちは朝食を探し求め屋内で活動していた。佐藤や他の子猫たちもそれについてまわる。
「あ~あ、短い飼い猫生活やったなぁ」
「コラ、そんなこと言わないの」
イシャータは台所の冷蔵庫をガリガリやるがなかなか開いてくれない。
「せやかてあの婆ちゃん、なんもボクらが来たとたんポックリいかんでも」
「佐藤!」
「イテテ、あ、あんま大声出さんといてや、まだ昨日の歯みがき粉が残ってるんやさかい……」
と、ぼやいたその瞬間、佐藤の目の前にいきなり“しゃもじ”が落ちてきた。驚いて上を見上げると小さな黒猫がテーブルの上からこちらを睨み付けている。
「その通りだ! おまえらが来たからお婆さん死んじゃったんだぞ!」
イシャータは昨晩の宴の時の記憶をたぐりよせ、リーダーの黒猫フライが家族を紹介してくれた時のことを思い出した。
(紹介するよ、これが妻のクローズ、そして息子のハッシュだ──)
クローズは妖艶ともいえるくらいスタイルもよくアーモンド型の魅惑的な瞳をした三毛猫だ。一方、息子のハッシュはフライをそのままミニサイズにしたような全身真っ黒の子猫だった。
──間違いない。あの子が“わざと”しゃもじを落としたのだ。
「ハッシュ、なんてこというの。降りてらっしゃい! ……ごめんね佐藤、イシャータ」
慌ててやってきたのは母親のクローズだった。
「母さん、そいつらなんかに謝ることないよ。出ていけっ! この疫病神!」
ハッシュが瓶詰めのジャムを蹴落とすと今度はイシャータの首に当たった。
「痛っ……!」
「あっ、何すんねんコイツ!」
カッときた佐藤はテーブルに飛び乗り、ハッシュに向かって突進した。勢い付いてそのまま二匹ともテーブルから転げ落ちる。
「ハッシュ!」
「佐藤!」
イシャータとクローズは同時に声を上げ、お互いに顔を見合わせた。
ハッシュはすぐさま立ち上がり表に逃げ出す。それを見て佐藤も体勢を立て直した。
「待たんかいっ、ゴラッ!」
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「ならば」
ヴァン=ブランは引き締まった体をのそりと起こした。
「仲間内で争うのは好かんが、おまえがオレの意見を通さんというなら仕方ない」
「やるってのか?」
「言っとくがフライ。オレは昔のオレじゃないぞ」
その声はまさに重低音だった。
皆の顔に緊張が走る。
ハッシュが庭の方に飛び出してきたのはまさにその時だった。佐藤がすぐ後を追い、二匹は庭の中央で睨み合う。
ついにハッシュが“フーッ”と毛を逆立てた。宣戦布告だ。佐藤もそれに応じて背中を高く持ち上げた。
「なんだありゃ?」
すっかり虚をつかれたヴァン=ブランは横にいるメタボチックに尋ねた。
「メタボ、あのちっこいのは誰だ? 知らん顔だな」
「き、昨日来たばかりの新入りでさぁ。サトーだかスズキだか」
ヴァンは目を細めた。
「ふーん 」
「ハッシュ?!」
フライが飛び出していこうとするのをヴァンは前足で制した。
「ほっとけ、子供の喧嘩だ。親がしゃしゃり出てどうする」
「ケガでもしたら──」
「ケガなんてほっときゃ治る」
「しかし」
「何があったか知らんが、あの二匹、今夜、傷だらけの体でいろいろ考えることになる。いろいろな。それが血となり骨となる。それより──」
ヴァンはニヤリと笑うとすっかり闘気を無くしたのかその場に腰を下ろした。
「予定変更だ。どうせならあいつらに俺たちのリーダー権を決めてもらうってのはどうだ?」
「なにっ?」
「勝負なんてどうせ水物だ。オレたちの代わりに喧嘩してくれるヤツらがいるっていうんだったら言葉通り“子供たちに未来を託す”ってのも一興だろう」
そう言ってヴァン=ブランは豪快にあっはっはと笑う。
「さあ、どっちに賭ける? 聞くまでもないか」
「あ、あたりまえだ。むろん息子が勝つ!」
「なら、オレはあの新入りだな。サトーとかいう」
そう言うとヴァンはとうとうゴロリと横になってしまった。
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しばらくの間、二匹の鳴き合いが続いた。よく春先の夜中などに聞こえてくるあの声だ。
より相手よりも大きく、そしてより高い声で威圧する。猫のバトルの場合、大半はここで勝敗が決まると言っても過言ではない。
この闘いはハッシュよりも1オクターブほど広い声域を持つ佐藤に有利だった。とどめに全身全霊の
『勝った』と、佐藤は思った。ここで負けを認めるかどうかは劣勢の立場に立った者の判断次第である。しかしハッシュは諦めずに佐藤に飛び掛かっていった。なかば意地である。
すっかり決着がついたと思って油断していた佐藤にハッシュの鋭い爪が襲いかかった。
佐藤は完全には避けきれず左の頬をスッパリとやられた。最初は何も感じなかったものの、次第に鋭利な刃物で切った時のようにじわりじわりと痛みが浮上してくる。
『なるほど、これくらいの攻撃やったら、これくらいの痛みを伴うってわけやな……』
佐藤は頭のどこかでそんなことを理解しつつあった。
今度は佐藤の方から仕掛けてみる。
軽くジャブを打つときは脅しで爪を使うが本気でストレートを出す時はあえて爪を引っ込めたままにした。
ハッシュの方も佐藤の頬から流れ出る血の量を目の当たりにして躊躇したのか爪を使う量を制限し始めた。
ハッシュには佐藤がこう言っているように思えたのだ。『ボクらがやっとるんはただの“ケンカ”や。“殺し合い”でも“争い”でもない!』と。いわば、二匹はナイフを捨て素手の闘いに切り替えたのである。
むしろそれが気にくわなかったのか思わずフライは声を出してしまった。
「ハッシュ、何をやってる!」
そんな黒猫親子の顔を交互に見比べ、ヴァン=ブランはまた「ふむ」と唸った。
佐藤とハッシュのバトルはこれといった決定打もなく三分ほど続いた。が、闘っている側にしてみればそれは何時間にも感じたことであろう。
だがいよいよ決着がつく時がきた。
ハッシュがパンチを繰り出す瞬間、足にきたのかスリップしてしまったのだ。その機を逃すことなく佐藤はその上にのし掛かりマウントポジションを奪う。それと同時に前足を振りかぶった。『これで爪を出せばいつでもおまえの目ン玉を
「決まったな」
「ぐ…… 」
ヴァン=ブランは腰を上げると、奥歯を折れんばかりに食い縛っているフライを見た。
「佐藤!」
イシャータの呼ぶ声が聞こえ、佐藤は肩の力が急に抜けた。それでもまた不意にハッシュが襲いかかってこないとも限らないので警戒を怠らないよう斜に構えながらイシャータのもとへ歩み寄った。
「大丈夫か、イシャータ。怪我あらへんか?」
「何言ってんのよ! 怪我してんのはあんたの方じゃない。こんなになっちゃって…… 」
「たいしたことあれへんよ、こんなん。それより見た? ボク勝ったで! これがオスのバトルや!」
一方、敗者となったハッシュは起き上がるとトボトボと歩き出した。その前にはフライが立ちはだかっている。
「へへ…… 」
ハッシュは力なく笑ってみたが、フライは鬼の形相のままだった。
「…… 父さん?」
「ハッシュ…… きさま、何故負けた……! わかっているのか?! なぜだ? なぜ、負けた?!」
そんなフライの怒号に皆が一斉に振り返った。普段が穏やかなフライであるだけに猫たちは驚きを隠せずざわつき始めた。
『まずいな』と、思うが早いかヴァンは本能的に二匹の間に割って入っていた。
「そうだぞ、ハッシュ。何故、負けたかわかるか? だいたいだな、おまえは左が甘いんだよ左が。攻撃に出る時にクセがある。それさえ直せば今度はきっと勝てる」
そう言うとヴァンは片目を瞑ってみせた。
ハッシュは自分の左前足をしげしげと見てなんともいえぬ悔しそうな顔をしている。
「なあ? フライ」
「…… 」
我にかえったフライは急に自分自身の存在が疎ましくなったような気がした。がくりと肩を落とし、そのまま踵を返す。その姿を見てヴァンはひとつ溜め息をつき、フライの背中に無言で語りかけていた。
──今夜いろいろと考えることになるのは、フライ、ひょっとしたらおまえの方かもな。
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