第7話『鳥の名前を持つもの』
出口のお婆さんは電気を消し寝床についた。
庭ではまだ猫たちがミャアミャアと騒いでいる。もうどれくらいの数の猫たちを面倒みてきたことだろう。いや、ひょっとして面倒をみられたのは自分の方なのかもしれない。
オーストラリアのとある研究所で行われた調査によると心臓病の危険があると診断された人たちのうちペットを飼っている人の血圧はペットを飼っていない人の血圧に対して2%も低いことが明らかにされている。
それほど猫しかりペットの存在は病んだ人間の心を癒してくれる力を持っているということなのだ。だが──
死期を前にした猫がそれを察知して何処かへ行方をくらましてしまうのと同じく、出口のお婆さんも自分に“それ”がもうすぐそこまで来ていることを感じ取っていた。
お婆さんは一匹一匹の顔を思い浮かべつつ、身寄りのない自分のもとに訪れた最初の一匹のことを思い出していた。
あの頃は溜め息ばかりついていたな──と、お婆さんの記憶が鮮明に蘇ってくる。
グレーの毛並みが“陽光”に照らし出されると銀のように光る。
「…… にゃん吉」
お婆さんはいつの間にか声に出してその名前を、呼んでいた。するとどうだ。半開きの襖のところに一匹の“影”が座っているのが見えるではないか。
「おまえ、にゃん吉かえ?」
お婆さんは体を動かす ことなく呟いた。
「婆さん、おれは、にゃん吉じゃないって言っただろ? オレの名前はヴァン=ブラン。生まれた時、鳥たちに名付けてもらったんだ」
「そうそう、あんたは“にゃん吉”って呼んでもちっとも答えてくれなかった…… 」
「間に合ってよかった」
窓から差す月明かりがヴァン=ブランの毛並みを銀色に変えた。
アメリカンショートヘアの血を持つのか、ところどころに独特のストライプタビーの柄が浮かんでいる。
「あんたは追い出しても追い出してもまた戻ってきた。おまけに捨て猫を拾ってきたり、怪我をした猫を拾ってきたり── 」
ヴァン=ブランは首を傾げた。
「そうかと思えば、ある日突然いなくなって……」
「オレもオスだからな、旅に出る必要があったんだよ」
お婆さんは心臓がきゅっと締め付けられるのを感じて呻いた。
「ワシはもう死ぬんかいね?」
「ああ、そうだな」
「そうかィ…… 」
ヴァン=ブランはあの時のように真っ直ぐに見つめてくる。
「婆さん、オレたち猫は九回生まれ変わるから“死”が何かをよく知ってる。ちっとも怖くなんかないんだよ。だってオレたちはもともとそこにいたんだ。もといた場所に帰るだけなんだ。いいね、ちっとも怖くなんかないんだ」
お婆さんの顔が苦痛に歪む。急激な痛みが襲ったのだ。銀色の猫はそれを和らげるかのごとく、お婆さんの枕元に近付き、囁きかけた。
「きっと生まれ変わったらまた会える。オレが必ず婆さんを見つけ出してやるから安心しろ。そしたら今度はオレが婆さんの世話をしてやる、約束する」
その淀みのない声に安心したのかお婆さんの顔がふっと緩んだ。
「人間の一生は長いからな、お疲れ様。ありがとな、婆さん…… 」
やがてヴァン=ブランはその水晶のように透き通る声で静かに静かに歌い出した。お婆さんが大好きだった曲を──
▼▲▼▲▼▲
「よろしく、サトーにイシャータ」
イシャータと佐藤を取り囲む猫の群れから一匹の黒猫が前に出てきた。
「新しい仲間ができて嬉しいよ。僕はフライだ、よろしく」
すかさずギリーが間に入る。
「フライはね、私たちのリーダー的存在なの」
佐藤は鼻をヒクヒクさせ黒猫のフライを見た。隣で喋るギリーの白い毛並みとは対象的に全身真っ黒であったが額に一ヵ所だけ白い部分があるのが特徴的だ。
「リーダーだなんて、ここにそんな上下関係なんかないよ、ギリー。皆が平等で楽しく暮らせる、そんな場所なのさ」
そこに割って入ってきたのは巨漢のデブ猫、メタボチックだった。
「そうそう、何事も楽しくなきゃね。今日は特別な日だし、こんな上物も用意してある」
メタボチックはズルズルと歯みがき粉を引っ張ってくると、ポンとキャップを外した。
「さあ~みんな、やってくれ。ライヨンのクリミカ虫歯プロテクトだ!」
「おおっ!」と、どよめきが沸く。
「すごいじゃない、メタボ。どこでこんなの手に入れたのよ」
「へへ…… さぁ、ギリーもやってくれ。これだけじゃねえぞ、見ろよこれ」
メタボチックは洗剤の箱の上にポンと足を置いた。
「こ…… こりゃあ“トッポ”じゃねえか。しかも〈部屋干しタイプ〉だぜ!」と、誰かが騒ぐ。
ギリーは歯みがき粉のチューブに脚を乗せ、にゅるりと中身を押し出した。そして鼻を近付けると匂いを嗅ぎ、恍惚の表情を浮かべる。
「ああ…… きた、きたわ」
「な、なんやのんコレ?」
ギリーはトロンとした目でウフフと笑うと佐藤の鼻先をペロリと舐めた。
佐藤はドギマギした。
「嗅~げ~ば、わかるのら。ホラ、佐藤も。さいっこぉ~の気分になれるのにゃ♪」
「な、なれるのにゃっ…… て……」
「い~から~、ホラ、ね?」
ギリーの押しに負け、じゃあちょっとだけ、といった感じで佐藤は歯みがき粉に鼻を近付けた。その瞬間……。強烈なミントの香りが佐藤の後頭部に突き刺さり、チクリチクリとひとつひとつの点が頭全体に広がっていった。
まるでガラスの上にスポイトで垂らした幾つもの水滴がぽつぽつと繋がっていくかのように刺激が“ほわん”とした感覚に増殖していく。
「うは…… うはは、なんやこれ。おもろいな、うひひ、なんか楽しくなってきよった…… うひゃひゃ」
「ねっ、最高でしょ。うふふ」
「さ、佐藤」
「うひゃひゃ、“佐藤”やて。うははは、それ以上おもろいこと言わんといてぇな、イシャータ……ひー、ひー、し、死ぬ」
佐藤は仰向けに寝転がり、ぐねぐねと手足を動かした。
猫にとって歯みがき粉や洗剤に混じるミントの類は身近で手に入るマタタビのようなものだ。その効果は十分ほどしか続かないとはいえ、イシャータも飼い猫時代によく酔っぱらった記憶があった。
「さあ、イシャータも楽しんで。今夜は君たちの歓迎会なんだから。人間だって祝い事の時は酒を飲むだろ?」
「そーやぞ、ネーちゃん。ま、ま、ぐっと一杯駆けつけ三杯♪」
完全に出来上がった佐藤が絡んでくる。
「サトー、歌ってよ。わたしぃ~、また、あなたの歌が聴きた~い! みんなぁ、サトーはねぇ、すっごく歌が上手なんらろ!」
「いいぞ、歌え歌え!」と、“洗剤組”の酔っ払いたちもけしかける。
「よっしゃ、気分ええから歌ったる♪」
やがて──
夜の静寂に甘美な歌声が響き出した。聴くものを魅了してやまないその声。闇に光をくべ、魂の隙間を泳ぐようなその……。
──今日は我ながら上手く歌えとるわ…… って、アレ? ボクこんな上手かったっけ?
そう、残念ながらその歌声は佐藤のものではなかった。皆は一斉に歌声の聴こえてくる母屋の方へ顔を向けた。
「……」
急激に酔いが醒めた顔つきになり、ギリーは母屋の方へ走り出した。皆もギリーに続く。その一団につられるように後を追うイシャータにもある記憶が甦った。
──この声には聞き覚えがある。
と、いうよりそれは一度聴けば忘れることの方が難しい声だ。そして、その答えは出口のお婆さんの寝室に“いた”。
「ヴァン…… ブラン?」
イシャータの心の声を代弁したのは他ならぬギリーだった。
銀色のヴァン=ブランはその歌声を
「よお、久し振りだな、ギリー、フライ、みんな。それに…… 」
一匹のシャム猫が視界に入るとヴァン=ブランの顔に驚きが浮かんだ。
「イシャータ?」
おそらくは『……どうしてこんなとこに? 』と続くはずだったその言葉だが、それはまるで
フライは恐る恐る一歩、また一歩とお婆さんの寝床に近付いた。
「死んでる…… ?」
「ああ、たった今亡くなった」
お婆さんの頬には涙がつたった跡があった。乾いた砂漠にほんの束の間流れた川の跡のようだった。だが、その口元は安らかに笑っているようにも見える。
一番最後に寝室に顔を出したのは酔っ払ったままフラフラと皆の後を追ってきた佐藤だった。
重い空気が非常事態を告げる中、佐藤の目に入ったのは銀色の猫を見つめるギリーの姿だった。
そしてその銀色の猫はイシャータの方を見て驚いているようだったが、当のイシャータといえばその視線を避けるかのごとく
それがいったい何を意味しているのか佐藤には皆目わからなかった。
ただひとつ確実なことがこの場にあるとするならば、それはここに三十匹の“集団野良猫”が誕生したことに他ならない。
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