第1話『転落』

──捨てられた?


 そのことをイシャータはすでに頭の中ではわかっていた。だが心と体がうまく反応しない。


『そんなことあるもんか。きっと旅行にでも出掛けてるだけだ。それにしたってご飯も置いていかないなんて、そそっかしいな御主人様は。ひょっとして驚かそうとしてんのかな? 』


( 俺たちがおまえを置いていくわけないじゃないか。ビックリしたか? イシャータ──)

( なぁんだ。まったく子供っぽいな、御主人様は 、あは、あははは──)


 そんな仮説を五十も六十も考えてみたが猫の想像力にも限界がある。これ以上明るいイメージなど逆立ちしても出てこなかった。家族の声がしなくなってからまる三日間、イシャータは玄関先に座り続けた。

 時おり通りかかる人間たちが食べ物を渡そうと手招きすることもあったがイシャータはかたくなにそれを拒んだ。そんなことは『飼い猫』のプライドが許さなかった。だが──


 待てど暮らせど“御主人様”が帰ってくる気配は微塵もなかった。空を見上げるとお日様までが自分をあざ笑っているように思えてくる。イシャータはその視線から顔を背けるようにうつむいた。自分の足は嫌いだった。足が見えるってことは自分が今、下を向いているということだもの。そんなことを考えながら──



 ▲▼▲▼▲▼



 その日の夕方、とうとうイシャータはその重い腰を上げる決意をした。立ち上がったその瞬間から彼女は野良ノラになるのだ。そんな切迫した状況にも関わらず容赦なく腹は減る。そのことがイシャータには屈辱に拍車をかけた。

『こんなに悲しいのにお腹がすくなんて、なんてカッコ悪いんだろう──』

 生まれてこのかた空腹感など味わったことのないイシャータはその珍味をただ苦々しく噛みしめることしかできなかった。

 

 あてなどあるはずもない。

 イシャータの足は自然と〈ギンザ通り〉と呼ばれる商店街へと向かった。『野良猫』たちのテリトリー。彼女の“かつて”の散歩道へ。


──とにかくあそこに行けばなんとかなるだろう。ノラの連中はいつもあそこで何かを食べてるし。


 だが、その日に限って町はやけに清潔感に溢れているように見えた。歩けど歩けど食い物どころかゴミひとつ落ちてない気がする。そもそも腹が減ってから食料を探すこと自体が間違いなのだ。体力のあるうちに確保しておくべきだったと後悔してもすでに遅かった。


 突然、新聞配達の原付バイクが後ろから走ってきた。慌てて飛び退きなんとか避けることができたがイシャータはそのまま道脇にへたへたとしゃがみこんでしまった。


 それが功を成したというわけではないが、低い姿勢にあるイシャータの目が自動販売機の下に落ちている“あるもの”に気付いた。


──あれは、お金だ!


 それも千円札だ。御主人様たちがこれを使っているのをよく見たことがある。食い物と交換できる魔法のチケットだ!


 イシャータは細い爪でそれを掻き出すと口にくわえ意気揚々と魚屋へ向かった。


──とにかくお腹さえ満たされれば、きっといい考えも浮かぶはずだわ 。


 小さな希望と束の間の安心であるがそれだけでも今のイシャータの心を軽くさせるには十分な材料だった。まるで体までもが宙に浮いているようだった。


……が、それは気のせいではなかった。

 気が付くとイシャータは四人組の小学生の一人に首根っこを持ち上げられていたのだ。


「見ろよ、やっぱり金だぜ」

「千円じゃん、うぇーい、ラッキー!」

 子供たちは残酷にも彼女の最後の希望を今にも奪わんとしていた。イシャータは千円札をくわえたあごと牙にぐっと力を込めて抵抗する。


──このお金を奪われるわけにはいかない!


「こいつ、離さねえぞ。くそっ!」


 小学生とはいえ彼女にとっては巨人だ。必死に耐えてみせるがそもそも体力が著しく低下している。イシャータは地面に頭を押さえつけられ無理やり口を開かせられるととうとう金を奪われてしまった。挙げ句には横腹に蹴りまでお見舞いされ道端に転がった。


「何か食おうぜ!」と、小学生たちは無情にも走り去っていく。


 みじめだった。


 イシャータは絶望的な気持ちでしばらく立ち上がることさえできなかった。



 ▼▲▼▲▼▲



 日がまた暮れる。もうすぐ夜がやってくる。

それはイシャータが野良ノラになって初めての夜だった。

 

 N区のそれほど長くないギンザ通りという商店街を抜けると国道にさしかかる。さほど客の入ってないパン屋の向かいにはあまり警官の立っているところを見たことのない交番があり、イシャータはその脇に座り込んでいた。先ほど蹴られた横腹がうずいている。


──このまま今夜も何も食べらないのかしら。


 目を瞑ってそんなことを考えていると、聞き覚えのある声がイシャータの耳に飛び込んできた。

「イシャータさんじゃないですかぁ! どうしたんですか、そんなとこで?」

 それはイシャータの後輩格であるナナだった。ナナはアメリカン・カール種のロングヘアーであり、そしてもちろん『飼い猫』であった。

「ナ、ナナじゃない! ごきげんよう」

 イシャータは咄嗟に立ち上がり、力の限り空元気からげんきをしてみせる。

「なんだか元気ありませんね?」

 ナナはやや後ろに折れ曲がったカール種特有の耳をピクピクさせた。

「ううん、ちょっとね。 いや、ホラ、私、その…… そう! ダイエットしてるのよ。だからお腹が、その──」

「やだぁ~イシャータさんたら。それ以上スリムになってどうすんですかぁ? あ~あ、私もシャムに生まれたかったなぁ」


 食べ物を恵んでくれなんて口が裂けても言えない。そんなことをするくらいなら飢え死にした方がよっぽどマシだ。


「あ、御主人様が呼んでるから行かなきゃ。また遊びましょうね。ごきげんよう」

「ナ、ナナ!」

「?」

 ナナはきょとんと首を傾げ、その悪意なき瞳でじっと見つめ返してくる。

「う…… そうね、また遊びましょ」

 ナナは舌で口の周りをペロリと舐め、走り去った。



 もうすぐ夜がやってくる。


 皆が活動し始めると食料の争奪戦はさらに過酷さを増すだろう。かといって、明日になるとますます体力が落ちるのは目にみえて明らかだ。だいいちこれでは空腹で眠ることさえできない。あまり気が進まないが、イシャータは最後の手段に出ることにした ──



 ▼▲▼▲▼▲



「はて? どこからか高級スペアリブの匂いがするな」

 ギノスはゴミ箱を漁りながら言った。

「お嬢様は御帰宅の時間じゃねえのか?」

「まったく、あんたたちってどこに行けば残飯にありつけるのか肌でわかってるのね。ホンっト感心するわ」

 それは今のイシャータにできうる渾身の『皮肉』そして『本音』のハーフ&ハーフだった。

「近寄んるんじゃねぇっつってんだよ」

「な、なによ! ノラがどんなもの食べてんのか見たいだけじゃない」

 ギノスの夜目がナイフのようにギラリと光る。野良猫に“ノラ”など、黒人を“ニガー”と呼ぶようなものだ。怒らせてどうする。


「…… なか……すいてん …… 」


「? 」


「だから……」


 イシャータはもう全てがどうでもよくなってきていた。

「おなかすいてんのよっ!!!」


 あまりに想定外の言葉にギノスは目を丸くした。はたしてこの言葉のどこに皮肉が隠されているのかを注意深く探してみる。だが、どうにもピンとこない。二匹は共に次の言葉を頭に張り巡らせつつも、互いに相手の出方を待った。


「つまり…… 」と、同時に同じ言葉を選択したが、その続きを先に征したのはギノスの方だった。


「つまり、なにか? おまえさんはこれが食いたいってそういうことか?」

「た、たまにはね。ノラ…… 普通の猫がどんなもの食べてんのか、社会勉強ね、つまり、その── 」


 そんなとぎれとぎれのイシャータの言葉にギノスの嗅覚はいぶかしげなものと何かしらの快楽的要素を嗅ぎとった。


「はは~ん。なるほどね」

「な、なによ」

「見てみろよ、このあたりの鳥の骨なんかまだきっちり肉までついてる。柔らかくて、じんわり口の中に広がっていくような……ん~、この……」

 イシャータはごくりと喉を鳴らした。

「首輪だな」

「え?」

「そのチリンチリン不快な音を鳴らす赤い首輪と交換ってのはどうだ?」

 イシャータは戦慄した。 これは御主人様がくれた大切なものだ。いやそれ以上に物心ついた頃から一緒に育ってきた、いわば体の一部といっていいものだ。今となっては全ての思い出がこの首輪に詰まっていると言っても過言ではない。今となっては──


 イシャータは思いを巡らせ、息を飲んだ。


 ──何なのだ? これを付けていれぱ御主人様は私のもとに戻ってきてくれるというのか?


──それは……ない 。


 イシャータはぐっと奥歯をかみしめる。

「…… わかった。いいわ」

 イシャータは口と爪を使ってすっかり痩せて細くなった自分の首から器用にそれを外した。首輪の下の皮膚が生まれて初めて冷たい外気に触れたような気分がする。それを口で拾い上げ、ギノスの方に放り投げた。


 ギノスは勝ち誇った顔でイシャータを見つめ、足元に転がる赤い首輪をしげしげと眺めると、それをおもむろに太い後ろ足でぐしゃりと踏みつけた。


 イシャータの細い体がビクリと震える。まるで自分自身の体が踏みつけられているようだった。ギノスはその圧倒的優位を満喫するとフンと鼻を鳴らし、前足でイシャータの首輪をそのままドブに払い落とす。イシャータは思わず顔をそむけた。

「俺様は約束は守るたちだ。あとは好きにするがいいさ」

 ギノスは愉悦の限りを尽くすとそう言って踵を返した。


 月。


 汚れきった体。


 荒らされたゴミ袋。

 

 ドブに沈みかけている自分の首輪。


 どれもこれもが、リアリティに欠けていた。


 イシャータはとぼとぼとゴミ袋に近付くと前足を突っ込み、食べられそうなものを引っ張り出した。三日振りの食事だというのに全く味などしない。

 次第に増殖してくる屈辱感の中、やがてイシャータは鳥の骨や魚の骨、野菜、果物、果ては食物かどうかさえわからないものまで、無我夢中で貪り始めた。


 過去の首輪と引き換えにした、明日を生き延びるためのその食料をがむしゃらに、ガツガツと、貪り続ける。そして心に誓った。


『この悔しさを決して忘れてなるものか!』と。

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