第2話『交換条件』

 わしゃの名はペイザンヌ、N区の野良猫だ。


 猫は自殺をしない。

 これは猫に限らずほとんどの動物たちがそうである。

 何故か?

 それは『気づき』がないからである。


 わしゃ達のほとんどが『自分の命を自ら絶つことは可能である』という考えに結びつかないのだ。だからわしゃ達は死ぬまで生き続ける。だって、それがあたりまえだからだ。たとえどんな苦悩や受難に遭ったとしても、ただ、ひたすら生き延びる方法を考え、探し求める。


 そしてイシャータもまたその一匹だった。


 わしゃは彼女が自分の家の前にぽつりと一匹座り込んでいるところから現在まで、ずっと様子をうかがっている。どうして助けてやらないのかって? そこが人間の浅はかなところだ。ならば聞こう。


 助けてあげてなんになるのだ?


 彼女がもし、これから先もずっと野良猫として生きていくというのなら、彼女自身がその方法を見出みいだす他ない。中途半端な同情はそれこそ命とりになりかねないのだ。わしゃだってN区に単身一匹でやってきた時にはそりゃあ…… おっと、昔の武勇伝を語るのはオヤジへの第一歩だ。今日のところはやめておこう。さて、そのイシャータのことだが──


 ギノスによって自尊心をズタズタにされた彼女は翌日、朝一番で活動を開始した。商店街を一番よく見渡せる屋根に上り、そこに腰を下ろしたのだ。彼女はそこで…… なにもしなかった。いや、なにもしなかったというのは正しい言い方ではない。


 彼女は『観察』をしていたのだ。


 わたしはこの行動にイシャータの将来性を感じ、うなった。普通であれば、窮地に陥った際に起こすアクションは“慌てる”だの“走り回る”だの、事態を悪化させることの方が遥かに多い。


 その数多あまたの選択肢からイシャータが選んだのは最も解決に程遠いと思われがちな『観察』だった。今思うとあの時イシャータはもっともっと高いところから自分自身の姿まで観察していたのではないだろうか、などとも思える。ま、それはわたしの考え過ぎかもしれないが。


 本当のところを言うと、そこはわたしが日向ぼっこや昼寝をする時のお気に入りの場所なんだがなぁ。まぁ大目に見といてやるとするか。今、わたしにしてやれることといえばそれくらいなのだから。



 ▼▲▼▲▼▲



 イシャータは瞬きする間も惜しんで街の一日の流れを掴もうとしていた。他の猫たちの行動、その範囲、さらに誰と誰が仲が良くて悪いのかを確認した。


 もちろん猫だけではない。どんな人間がいて、いつそこを通るのか? 魚屋にいつトラックが着き、肉屋がいつゴミを捨てるのかまで、こと細かに目を張り巡らせる。


 そんな中、イシャータの目は空き地で地面をゴソゴソと掘っている一匹の猫を捕らえた。昨晩の記憶が鮮明に甦ってくる。間違いない。あれは憎きギノスだ。何をしているのだろうと目を細めて見ていたがどうやらあれは、どこかで調達してきた食料を地面に埋めているらしい。昨夜の復讐であれを掘り返して食ってやろうかとも思ったが、そんなところを見つかったら今度こそどんな目に遭うかわかったものじゃない。イシャータはぐっと歯を食いしばり、しばし下界から目を上げた。


 遠くで電車が走っているのが見える。


 広い。


 ほんの束の間だが、イシャータは穏やかな気持ちになった。そして改めて思った。

『できないことをやろうとしても無理だ。今の私がやれることをやろう』

 さっと一陣の風がイシャータの細いひげを揺らした。


 その気持ちが流れを呼んだのか、今日の食事はなんなく確保することができた。交番近くのねぐらに戻ろうとした時のことだ。交差点で信号待ちしている軽トラの荷台から魚がボトボトと五尾ばかり落ちてくるではないか。


 おそらく発泡スチロールに詰め込みすぎたのであろう。〈 鮮 魚 馬 場 〉と書かれたそのトラックの運転手はそんなこととは露知らず信号が変わるとそのまま走り去って行った。


── ねぐらが近くて助かった。


 イシャータは尾ひれをくわえ五尾とも持ち帰ることに成功した。一日中、飲まず食わずで“観察”を続けていたイシャータは昨晩ほどではないにせよ空腹を感じていた。魚を見つめくんくんと鼻を鳴らす。


「ああ、これで今日はエサを探さなくてすむ……節約すれば二三日持つかも」


 だが、食べてしまえば、それでおしまいだ。イシャータは考えを巡らせた。


──これはきっと神様が私に与えてくれたものに違いないわ。もしも私がその神様だったとしたらこの五尾の魚でイシャータに何をしてほしいと願うかしら?


 そうやって日中の考えを反芻はんすうしていた時、イシャータのお腹がぐうと鳴った。


──私が出来ることと、出来ないこと。 出来ることってなんだろう? そして ……


 イシャータはハッと気付いた。頭の中で全ての流れがぴたりと繋がったように思えたその刹那、イシャータはさっと一尾の魚をくわえると走り出していた。


──そうよ、出来ないことなら教えてもらえばいいじゃない。そして今私に出来ることっていったら…… 。


 また、お腹の虫がキュウと鳴く。


“我慢”しか、ないじゃない──



 魚   魚   魚   魚   魚


 イシャータは偶然手に入れた五尾の魚を先行投資することにした。昼間の『観察』のおかげでおおよそ誰が何を得意分野としているのか見当はつく。


 まず、イシャータが訪れたのはN区でも指折りの狩猟猫ハンターであるキャンノのところだった。


 キャンノは遺伝子の関係でそのほとんどがメスであるといわれる“サビ猫”であり、その毛並みは近くで見れば見るほど美しい茶色と黒の混じりあったべっこう飴のような色をしている。


 足もとに置かれた一尾の魚を見て彼女は少し考えている様子だった。

「別段食べ物に不自由してるってわけじゃないんだけど…… 」

 キャンノのこの答えをイシャータはある程度予測していた。自分で狩れるのだから食いものなんかで釣られるはずがない、と。

「ま、お互いメス同士だし。助け合わなきゃね」

 イシャータはホッと息をついた。交渉成立だ。


 おそらくは自分の得意分野を誰かに語りたいということもあったのだろう、キャンノは自慢の鋭い爪を見せながら“狩り”がなんたるやを熱く語ってくれた。


 さすがは商売道具だ!


 手入れを怠ってないのか、その爪はマニキュアでも塗ったかのごとく輝いていた。彼女の講釈にイシャータはメモをとるかのように、ふんふんと頷く。

「そうそう、あの時のネズミったら私よりも大きかったんじゃないかしら」

 時おり見せるそんな自慢話にもイシャータは嫌な顔ひとつみせずに相槌あいづちを打つ。機嫌を損ねてはいけない。




    魚   魚   魚   魚



 基本的にメス同士は助け合うというのが猫の本質だ。二尾目の魚は植物に詳しいサラに渡した。三毛猫のサラは身体が小さいせいかあまり狩りはしない。しかし彼女はどの草が食べられ、どの草が危険なのかを誰よりも知っていた。


 アロエやチューリップ、またはジャガイモの茎なども猫にとっては良くないことをイシャータは初めて知った。


 サラはその細くも響きのよい声で植物以外の栄養なども教えてくれる。


「イカなんかも腰を抜かしちゃうから食べちゃだめよ。アワビなんかはもっての他! 耳がポトリと腐れ落ちちゃうんだから!」


 可愛い顔して淡々と恐ろしいことを言う……。


 とはいえ、どちらも大好物であるイシャータにとっては聞き捨てならぬ言葉だった。思わず耳を押さえてブルッと震えが走る。金輪際イカとアワビには近づかないようにしよう。



      魚   魚   魚



 三匹目の魚はオスであるにも関わらず人間にびを売るのがうまい白地に黒のブチ猫、ミューラーのもとに渡った。ミューラーはノラのくせにエサのほとんどを人間からもらうことでまかなっている。


 ミューラーは肉球をペロリと舐めるとチョイチョイとヘアスタイルを整え、言った。

「いかに自分が腹が減っていて可哀想なのかをアピールするのがコツだ」

 イシャータはまるで女優であるかのごとく演技指導を受けることになった。ミューラーは魚をムシャムシャ頬張りながら、「違う違う、わかってないな。もっと、こう“しな”をつくってだね……」と体を触ってくる。


 ベタベタ触るんじゃないよ、この野郎!


「私はあなたが好きですよ~、みゃお~ん、て感じで」

 なんだかバカバカしくなってきた。イシャータは少しイラッとしたが頭をプルプルと震わすとミューラーに対してとっておきの愛想をしてみせた。

「そうそう、いいね。そんな感じ!」

「ホント? 嬉しいっ! ミューラーさんって凄く教え方が上手なのね。なんだか尊敬しちゃう」

「いやぁ、なぁに、エヘ、エヘヘ」


 ふむ、なるほど。これが演技か。



       魚     魚



 さて、残る魚はあと二尾だ。実際ねぐらとの往復で疲れも見え隠れしているのは否めない。このまま食ってしまっても構わないし、正直次のところに行くべきかどうかイシャータはずっと迷っていたのだ。


“その手段”を使うかどうかは別問題として、知識として知っておくにこしたことはないんじゃないか? いわば貯金のようなものだ。イシャータは意を決してもう一匹だけ訪ねることにした。


 その一匹とはギノスの手下であり弟分でもあるロキだった。彼はトラネコの中でもキジトラであり、俗に言うだ。主に人間の家に入り込んでエサを奪ってくることを専門としている。

「おまえ捨てられたんだってな」

 ロキはそう言うとニヤニヤ笑った。まったくもって、こういうところはボスのギノスにそっくりだ。朱に染まればなんとやらである。くわばらくわばら。

「そうさな、侵入しやすい馬鹿な人間の家は山ほど知ってる。それに同じのよしみだ、少しくらい情報を流してやったって構やしないさ。なあ、イシャータ」


 ロキはのところに強いアクセントを置くと、視線だけを意味ありげに斜め下に落とした。

「──だが、魚一匹ってんじゃなぁ」

 イシャータは心の中で舌打ちすると、目を細めた。


 この業つくばりめ!


 二尾とも渡すとなると本当に自分が食べる分まで無くなってしまう。そもそも、これはそうまでして手に入れるべき情報なのか?

 イシャータは迷った。ダメだ。最後の魚は渡せない。

「この一匹は担保のようなものよ。あなただってどうしてもエサに困ることあるでしょ? その時にはまた必ず食糧を提供するから」

 そう言ってはみたものの、もちろんイシャータにそんな当てなどあるわけがない。ロキは品定めするような目付きでイシャータをジロジロ見るとネズミの玩具をもてあそぶような顔つきで鼻を鳴らした。


「フン、まあ、いいだろ。だが、もし俺を騙したりしたらギノス様が黙ってないってことも肝に銘じておけよ」


 ロキに凄まれたイシャータは、まるで人間がいうところの“ヤミ金”に手を出してしまったような心持ちになり少し気が滅入ってしまった。


 かくしてイシャータは四尾の魚と引き換えに四つの情報を得た。


 交番近くのねぐらに戻る途中、今現在の欲望を我慢して明日に繋げた自分をちょっと誇らしく思ったりもした。


 そんな矢先、イシャータは見てしまったのだ。道脇の路地でまだ歩くことさえおぼつかないような子猫がミャアミャア鳴いているのを。その甲高い声があることを要求しているのは明らかだった。


『何か食わせろ』と。


 


         魚



 ねぐらに戻ったイシャータは最後の一尾を見つめ、どうすべきか考えていた。


──どうするかだって? 食べるに決まってるじゃないか。


 だが、先程の子猫の鳴き声が脳裏に焼き付いて離れない。


──イヤなものを見てしまった。あの子も捨てられたのだろうか?


 イシャータは“ぐるぁにゃあ”と鳴いた。


──だって、私だってお腹すいてんだもん! あの子は誰かきっと優しい人間が拾ってくれるさ、そうに決まってる。


 イシャータは大きく口を開け、最後の魚にかぶりついた。



 ▼▲▼▲▼▲



 一口だけかじられた魚が子猫の前に落ちた。


 イシャータは子猫の体をペロペロ舐めてやると魚にかぶりつき、口の中で柔らかくほぐしてやる。そのままのみ込みたい気持ちを抑えて吐き出す。


 子猫は目を瞑ったまま、くんくん匂いを嗅ぐとそれをゆっくり食べ始めた。


 これでいいんだとイシャータは無理やり納得することにした。ようやく芽生え始めた自分への誇りを自ら潰してしまってどうする。何があってもそれだけはしたくなかった。


 それに答えるかのようなタイミングで子猫はイシャータをちらりと見上げミャアと鳴くと、再び魚に顔を落とす。


 その姿を見てイシャータは恨めしそうに言った。


「…… 半分くらいは、残してよね」


 もうすぐ朝がやってこようとしている。



       魚 = 0


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