第2話

 

「イルミネーション見に行こうぜ、みんなで」

 と、提案したのは恭平だった。

 今年から、銀杏並木通りが、クリスマスから正月の三が日までライトアップされるのだという。あれか。町おこしとやらの一環か。

 点灯セレモニーが、イブの夜七時にあるんだって、と恭平は目を輝かせた。

 えーやだめんどくさい、とぶーたれた俺の両肩をつかんで揉む恭平。

「凝ってますねー柚木くん。勉強のしすぎじゃないですかー?」

 ほっとけ。俺は今井と逆で、理系科目は得意だが英語と国語が壊滅的だ。だけど二年からのコース分けでは文系を志望している。二学期はじめの面接で担任は言った。

「普通に考えて理系のほうが向いてるんじゃない? こんなに数学と物理の成績がいいのに、勿体ない」

 将来的にも理系のほうがつぶしがきくし、とも言った。もっともだ。でも俺は将来一流大学に行って大手出版社に入って少女漫画の編集がしたい。キラキラした恋の話がつくりたい。俺は絵は下手だし文章もうまくない。でも読むのは誰より好きだ。

 こんなこと恭平には言えない。

 塾とか行ったほうがいいんかな。でも、ここは田舎で塾は遠くにしかないし、そのくせバスの最終は七時台だし、親に経済力と送り迎えする時間の余裕がないと無理だ。うちは住宅ローンだけでいっぱいいっぱいのはず。

「あーもうため息なんてつくなよ辛気くさいなあ。おまえに必要なのは気晴らしだ」

「でもおまえ、せっかくのイブを、森口とふたりで過ごさなくていいのか?」

「いいんだよ。ってか、高校生カップルがよ、ふたりきりで夜中に出かけさせてもらえるわけないじゃん。つーかうちの母親が俺のことケダモノだと思ってるみたいで、すげえ警戒してんの」

「だけど、グループだとその警戒が甘くなる、ってこと?」

 そういうこと、と言って恭平が二カっと笑った。俺は肩をすくめた。


 しかしながら二十四日は模試だった。二十二日が終業式で、一応冬休みには入っているものの、年末まで模試と補習のオンパレードらしい。げんなりする。

 いつもながら英語の出来が散々で、鬱々としながら、誰かいるか、と理科室をのぞく。今井が奥の席にすわってほおづえをついている。

 おい、と声をかけると、力ない笑みがかえってくる。

「どしたの、うかない顔して」

「ちょっとね、数学が」

 深いため息。

「あーあ、やっぱ理系は無理かなあ。先生がね、理系に進んでも苦労するのが目に見えてるって。やりきれないなあ、やりたいことと向いてることが違うって」

「わかるよ」

 俺も同じ思いをかかえていた。太一くんのように頭蓋骨をぱかっとひらいて、脳みそ取り出して、得意分野を入れ替えられたらいいのにな、俺と今井。

「今日はさ、綺麗なもの見て、いやなことは忘れようぜ」

「綺麗なものって、イルミネーション? あれ、やっぱり行くの? だって、安奈ちゃん、今日休みだったよ」

「え、まじ」

「うん。インフルエンザだって」

 背後で、ゆらりと巨漢の影がゆれた。

「おわ、恭平。気配消すなよ」

「あれ、迫田、顔、赤くない?」

 俺とほぼ同時に今井が言った。

「さすが双葉ちゃん、未来の医者。どうも朝から熱っぽいんだ。やばいな、安奈にうつされたかも」

「彼女にうつされたとか、恭平、やらしいな」

 俺がにやついていると、今井が、

「え、なんでそれがやらしいの?」

 と俺の制服の袖をひいた。一点のくもりもない丸いひとみ。えーっと。

「あー、つまりね、それは」

「やめろ収一。解説するのは」

 恭平の顔がさらに赤くそまった。まるで茹であげられたばかりの蟹だ。

「そういうわけでごめん。俺今夜は家で寝るわ」

「おだいじに……」

 残された俺たちは顔を見合わせた。

「どうする?」

 ながい沈黙。今日も相変わらず色白で髪の乱れもない太一くんの肢体を眺めながら、今井がつぶやいた。

「…………あたしは、行きたいです……」

 あまりにもかぼそくて消え入りそうな声だったものだから、俺は、なんだかむしょうに恥ずかしくなってしまう。

 

 俺は恭平と同様イケメンではないが、あいつとちがって、親にケダモノだとは思われていない。むしろ草食系だと思われている。さっきだって出かけ際、「ねえデート? デート?」と期待に満ちた目で詰問された。まあね、と答えてやったら、おふくろは赤飯でも炊かんかの勢いで喜んだ。「手くらいは握ってくるのよ」とか何とか言ってたけど無視した。

 親っていうのは、息子が女子に興味がありすぎてもなさすぎても心配らしい。ほどほどに健全な性欲をもって、さわやかに節度を持って男女交際する、みたいなのが理想なのだろう。

 めんどくせ。俺は肉食でも草食でもない。たんなる甘党だ。

 待ち合わせの時間を十分過ぎても今井は現われない。珍しい。あいつは、時間にはきっちりしているのだ。

 リュックをごそごそ探ってギンガムチェックの巾着袋をとり出す。小学生のとき家庭科で縫ったやつだ。中には飴ちゃんが詰まっている。「女子かよ」って恭平にはよく言われる。ほっとけ。お菓子を持ち歩くのが女子の特権だなんて、誰が決めた。

 ミルキーをひとつぶ、口のなかに放る。じんわりと広がるやさしい甘さにしばし癒される。と、ジーンズの尻ポケットの携帯が鳴った。今井からのメッセージ。

「柚木、たすけて」

 つう、とつめたい何かが背筋をつたった。ありとあらゆる最悪の事態が、ドラマの予告シーンのようにつぎつぎと浮かんでは消える。震える指で今井に電話をかける。

 一回のコールで今井は出た。涙声だった。

「いま、どこにいる?」

「家。ごめん、むかえにきてくれると助かる」

 今井が言い終わらないうちに、俺は、すでに駆け出していた。


 今井の家に行くのははじめてではない。中二のとき、恭平とふたり、今井と森口に呼ばれて行ったことがある。ちょうどバレンタインで、ふたりでチョコを作ったとか何かだった。今井のおふくろさんがすっげえ高級そうな紅茶を淹れてくれて、今井の部屋全体がいい匂いに包まれていたのと、いつもおしゃべりの森口が、ずっと口をつぐんでうつむいていたのを覚えている。

 昔ながらの年季のはいった家屋の立ち並ぶなか、小さいけど、場違いにこじゃれた白い一軒家。門柱に、クリスマス・リースが飾ってあった。

 深呼吸してインターホンを押すと、すぐに扉が開いて、今井のおふくろさんが出てきた。小さくて若々しくて、おふくろさんっていうより、ママさんって呼び方のほうがふさわしい気がする。俺の顔を見て虚をつかれたようにぽかんと口をあけた。

「あら、えっと、……たしか、柚木収一、くん、よね」

「はあ」

「まあまあひさしぶり。大きくなっちゃって」

 背後からチキンの焼けるにおいが漂ってくる。だだだだ、とすごい音がして、今井が目の前の階段を降りてきた。

「ママあたし出かけるから。約束してたの」

 今井の目が赤い。今井ママは目を見開いて、俺と、自分の娘の顔を、交互に眺めた。みるみるうちにその頬に赤みがさし、目じりが下がり、やわらかい笑みがひろがった。

「やだ、あなたたち、そういうこと? まあまあ、若いっていいわね。いいわ、行ってらっしゃい。イブですものね。でも、遅くならないようにするのよ。まあ、収一くんだったら信用できるし、だいじょうぶね」

 やたらと全身がぞわぞわするのを押さえて、俺は好感度マックスの微笑みを返した。

「もちろん。帰りはきちんと双葉さんを家まで送り届けますので」

 今井ママはとろけそうなスマイルで

「双葉。デートなのにそんな普段着でいいの? ほら、あの、ツイードのワンピは? 嫌? じゃ、髪だけでもアップにしたら?」

と浮かれている。今井は靴を履きながら煩そうにママの手を払った。今まで見たこともないような冷徹な目で母親を一瞥し、じゃ、とそっけない挨拶だけを放つ。

 今井は大きな音をたててドアを閉め、逃げるように早足でずんずんと歩く。住宅地をぬけたところでようやく歩を止める。

 立ち止まって息を整える今井の背後からまわって、ゆっくりと顔をのぞきこんだ。寒さのため頬はばら色にそまり、吐く息が白く綿菓子のようだ。ぶあつい手編み風のニットのうえに、さらに学校指定(!)のダッフルコートを羽織り、防寒は万全なのに、唯一無防備な指先だけが赤くかじかんでいる。

「ごめんね、うちの親、勘違いしたみたいで」

 顔をあげて、さびしげに微笑んだ。

「でも、おかげで助かった。ありがとうございます」

 ぺこんと頭をさげる。俺は所在なく後頭部のあたりをぼりぼり掻いた。

「どしたの一体。たすけて、なんて言うから俺びびっちゃったよ。なに、親とけんかでもしたの?」

 成績、とか。進路、とかのことかな。医学部はあきらめろと説得されたとか。

「あのね、あたし宛の小包を妹が勝手に開けて、びっくりして気絶しちゃって」

「は?」

「定価で十万近くする人体模型トルソーがね、オークションで二万円で落札できたの。ふふふ、五年やってた五百円玉貯金、開けちゃった。むふふふ」

「それで、ブツが今日届いたと。何も知らない妹がびびって泡吹いた、と」

「うん。妹はすぐに正気にかえったんだけど、ママがすごい取り乱しちゃって。あたしのこと、凶悪犯罪者予備軍みたいな目で見るの。カウンセリング受けてちょうだい、って涙ながらに訴えられちゃって」

 たしかに、あのママには、きっついだろう。

「でも、イブに男の子がデートに迎えに来てくれたから、ママ、すっかり安心したみたい。あたし、女子の友達も少ないし、心配されてて、だけど、普通の女の子なんだって思ってくれたみたい。ちょっと予想以上の反応だったけど。ママ、中学の時から柚木のこと気に入ってたし」

 そうか。やっぱり。俺は恭平のおふくろにも気に入られている。あの年代の女性の心をくすぐる何かを持ってるんだろうか、俺。それとも、単に危険な香りが少なすぎるだけだろうか。

 今井は、思いっきり、猫のように伸びた。

「あー、もう、めんどくさ」

 伸びたその手の先に、俺は、ぽん、と小さなまるい包みを置いた。

「ありがと。やった、ミルキーだあ」

 幼児のように目を輝かせて白い飴を口に放る今井。俺も、もうひと粒。

 ゆっくりと商店街の裏道を抜け、駅前の公園を通り過ぎる。手をつないだカップルが早足で俺たちとすれ違う。

 甘い砂糖の玉が、舌のうえで、じんわりと溶けていく。口じゅうにひろがったやわらかな甘味が、血管をつたって、末梢まで行き渡る。俺は聞いた。

「ねえ、ほんとに恭平たちのこと、気づいてなかったの?」

「うん、だって」

 ちらと俺を見上げた目に、一瞬、迷いの色が浮かぶ。

「だって?」

「だって安奈ちゃん、中学のころはずっと、柚木のことが好きだって言ってたんだよ。二年のとき、告白するって、バレンタインにチョコ作り付き合わされたし」

 がつんと鈍器で殴られたような衝撃。目の前に星くずのような火花が散る。

「わあ、きれい」

 それは火花ではなく電飾だった。銀杏並木通りに着いたのだった。

 木々の枝に星が宿ったようだった。つゆのような小さな光のつぶが、交互に、青と白のかがやきを放つ。ゆっくりと光の森のなかをすすむ。

 何だって? 森口は俺のことが好きだったって?

 おかしな動悸がとまらない。森口はずっと恭平にいちずな片思いをして、あふれ出しそうな想いを押さえきれず、友達関係を壊すリスクを犯してまで恭平をものにしたのだとばかり思っていたが。

 違うのか。じつは……違うのか……?

 なにかの拍子に、あっさりと俺から恭平に乗り換え、あっさりと告白したのか。

 恭平も言ってた。「そろそろ彼女ほしいな、って思ってたらコクられて、安奈のことは嫌いじゃないし、まあいっか、って感じでつきあうことにした」と。

 そんなものなのか。恋って、そんなものでいいのか。

 濃紺の闇のなか、冴えて澄んだ空気に星屑のひかりがまばゆく点滅する。まるい瞳にひかりを映して、白い息を吐きながら、今井が、

「あのさあ。葉っぱの落ちた木の枝って、血管に似てない?」

 などとつぶやいている。赤くかじかんだ両の指先を顔まであげて、ほう、っと息を吐きかける。ミルキーはすでに溶けてなくなってしまったが、まだ、口のなかに、全身に、甘さの余韻があって、ちょっとやそっとでは抜けそうになかった。

「こんな発想しちゃうあたしって、やっぱ変かな」

 問われて、俺は苦笑した。変だよ。

「知りたいだけなのにな」

 今井がつぶやく。思いがけずそれは寂しげな気配をまとっていて、俺はじっと、つづきの言葉を待った。

「知りたいの。体の中がどうなってるか、自分では見ることができないでしょう? あたしたちがこうして息をして、歩いて、しゃべってること。簡単であたりまえのことだってみんな思ってるけど、ちがうの。そこには驚くべきからくりがあるんだよ。教科書や本で学ぶことはできるけど、あたし、それだけじゃ足りない。ふしぎを、奇跡を、じかに見たいの。できれば、解き明かしてみたいの」

 熱く語りすぎてしまったことに照れたのか、今井は頬を赤く染めて、へへ、と笑った。つられて俺まで顔が熱くなってしまう。

 こいつの夢が叶うといいな、と思った。純粋に、そう思った。

 俺は今井の手をとってぎゅっと握りしめた。それは衝動だった。

 今井はびくっとからだをふるわせ、信じられない、といった顔で、おそるおそる俺を見上げた。むりもない。俺自身だって信じらんねえよ、こんなことするなんて。

「ごめん。……嫌?」

「……嫌じゃないよ。むしろ……、えっと、つまり」

 しどろもどろになる今井。

「このまま、つないでいたい、です」

 照れが極致に達したとき丁寧語になる今井の癖。瞬間、俺にも、怒涛のように恥ずかしさが襲ってきた。耳たぶのあたりがやけに熱をもっている。イブの夜の雰囲気に流されているのかもしれない。あまりものが身を寄せ合いたくなっただけかもしれない。青くさい今井の情熱にほだされただけかもしれない。甘い飴の毒がまわって、いかれちゃったのかもしれない。

 だけどもう、どうでもよかった。

 俺の手のなかで、凍りつきそうに冷たかった今井の手が、じんわりと熱をおびていく。心地よかった。それで、いいんだと思った。とりあえず俺は、このやわらかなぬくもりを離さない、と決めた。

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