理科室ミルキー

夜野せせり

理科室ミルキー

第1話

 今井の想い人は、太一くん、というらしい。

 放課後の第二理科室で、彼のつるりとした白い肌を撫でながら、うっとりと今井はつぶやいたのだった。「太一くん」と。

 誰も見ていないと思っていたのか、俺が今井の丸まった背中をぽんっとたたくと、彼女は、ぎゃあっとカエルのようにひしゃげた悲鳴をあげて、おおげさにのけぞった。

「あー、びっくりした。柚木ゆのき、いつからここに」

「十分ぐらい前から」

「もしかして、ずっと見てた……?」

 俺は口の端をゆがめてにやにやと笑った。今井の顔が面白いように赤く染まっていく。奴はごほん、とわざとらしい咳払いをしてこの場を丸めようとした。そうはさせるか。

「あのさあ、何で太一くん、なん?」

 ひえっ、と空気の漏れるようなへんな声をあげて、今井はキョドった。しきりに、黒縁めがねの奥の丸っこいひとみを揺らしている。

「えっとお、太一、っていうのは、自分のなかで、なんか、明るいイメージの名前なんだな、それで、つけてみた……」

 最後のほうの声はもう消え入りそうになっている。今井はしなしなとしおれた。

「すいませんもう勘弁してください」

「わかった。このことは誰にも言わない。森口にも迫田にも言わない」

「恩に着ます。今度、なにかおごらせてください」

 俺は微笑むと、「太一くん」の丸い頭を撫でた。それは、冬の理科室の気配をまとって、ひんやりと冷たかった。

 太一くんはにこりともしない。目は見開かれて、というか、瞳孔はつねに開きっぱなしだ。外は木枯しが吹いていてここには暖房もないというのに、一糸まとわぬ姿ですべてをさらけ出している。血管や内臓、骨までも。

 そう、「太一くん」は理科室のアイドル、人体模型だ。

 引き戸が開く音がして、「さむいねー」と言いながら、森口が入ってきた。赤いタータンチェックのマフラーにあごをうずめて、両の手をこすりあわせている。そのすぐ後ろには巨体の恭平。ポケットに手を突っ込んだまま、ういーす、とやる気のなさそうな挨拶をかます。

 今井双葉、森口安奈、迫田恭平、そして俺、柚木収一。生物部のメンバーが全員そろった。みんな一年。上級生はいない。夏までは三年生がふたりいたけど、受験ということで引退した。うちの部は、受験勉強にさわりが出るほど、たいした活動をしているわけではない。なんとなく、ひとつのけじめとして、引退というかたちをとっただけのこと。かくして部員は四人になったわけだが、廃部の危機にさらされるわけでもなく、放課後ここにあつまってはゆるいおしゃべりをしたり、飼ってるクサガメと金魚の世話をしたり、模試の前には勉強を教えあったりしていた。

「ねえねえ柚木、ここがわからないんだけど」

 今井が俺の制服の袖をひっぱっている。ひらかれた問題集のページには、びっしりと付箋がつけられていて、俺は軽いめまいを覚えた。

「ここって、どこ? まさか、これ全部?」

 こっくりとうなずく今井。あたたた、と俺は手のひらを額に押し当てた。

「あのさあ、これ、全部基本問題じゃん。授業まじめに受けててこんなに理解できてないんだったら、医学部とか、むりじゃね?」 

 今井はしゅんとしぼんだ。もともと百五十センチあるかないかのちっこいからだが、さらに三センチほど縮んだ気がする。

 そもそも今井は中学のころから文系科目のほうが得意で、数学は致命的に駄目だった。高校受験でも随分苦労していて、俺がつきっきりで教えてやって何とかなった。なのに医学部志望、だ。

「ちょっと収一、そんな冷たい言い方、ないんじゃない?」

 森口が口をとがらす。丸椅子に腰掛けて、くるくるとシャーペンを指先でまわしている。隣には恭平がぴったりと密着して、森口のノートになにやら落書きしている。ちらとそれを見て、森口が「やあだバカ」と耳たぶを赤く染めた。

 やあだバカ。やあだバカ。やあだバカ。

 甘い。甘すぎる。恋する女子は、とろけるように甘い声をだす。

 恭平は森口の、ボブカットのさらさらした髪に触れた。「もう、バカ」と森口が口をとんがらせて拗ねた。

 もう、バカ。

 バカだなあほんとに。いくら気を許した仲間の前だからって、イチャイチャは謹んでもらいたい。

 バカふたりは無視して、俺は今井に根気よく数学を教えた。真面目だが飲み込みの悪い生徒で、日が落ちるころには、俺はぐったりと疲れ果てていた。

 

 夜、勉強のお供に、俺は飴をなめる。甘いやつだ。カンロ飴とかキャラメルとか、ミルキーとか。高校生になってから、無償に甘いものを欲するようになった。思うに、勉強がハードになって、つねに脳がフル回転しているからだろう。脳の養分はブドウ糖である。はやく供給しろ、と太一くんの頭のなかにあるのと同じ、しわだらけの俺の脳みそが低い声でささやくのだ。

 内臓が見たいから、と今井は言った。

 なんで医学部なん? と聞いたときのことだ。俺たちは中二で、あの時代特有の青さでもって、生きる意味とか人生の目標とか愛やら恋やらほんとうの友情とは何か、とかそんなことについて、もやもやと鬱積を抱えてはたがいにぶつけていた。

 内臓が見たい。何じゃそりゃ。今井以外の三人はぽかんと口を開けて呆けた。

「あのね、あたし、小さいころからね、医療もののドラマが気になるの。ドラマの内容じゃなくって、手術シーンに。ドキュメント番組だと、ちらっとだけど本物が映ることがあって、もう、くいいるように見入っちゃうんだ。それであたし、将来、ぜったいにいつか本物の内臓を見てやるって夢見てるんだ」

 今井の目はとろんと熱をもったまま虚空を見つめ、小学生のころから変わらないロングの黒髪は光を受けてつややかに輝いていた。あれは、恍惚の表情、というやつだった。

 二個目のミルキーに手をのばす。和英辞書を放り投げ、代わりにキラキラした軽い単行本を手に取った。従姉妹のマキ(小六)から借りたマンガの新刊だ。

 ページを繰ると真新しいインクの匂い、あまやかな恋の香り、あふれんばかりの乙女の純情、胸を締めつけるせつなさ、バラエティに富んだイケメン。髪を短く切って化粧を練習してスカート丈を詰めて垢抜けたヒロインが、勇気を出して、大学生の家庭教師(イケメン)にコクるシーンでその巻は終わった。あああ、気になる。猛烈につづきが気になる。家庭教師(イケメン)には同じ大学の美人彼女がいる。この彼女、性格もいい。恋心と良心のはざまで引き裂かれるヒロインのこころ。せつなすぎる。

 

 自分のことを棚にあげて言うのもなんだが、恭平はイケメンではない。百八十センチを超える長身に厚い胸板、オトコくさいルックスに似合わず、手先が器用でお菓子つくりがうまい。口は悪いが気はやさしい。緊張する場面になると腹をくだすかわいそうな体質。

 ぶあつい雲の垂れ込める寒い冬の夕暮れ、俺たちの一メートルほど先を、恭平と森口は互いの体温をわかち合うように寄り添い歩いている。森口のスカート丈は中学のころより五センチは短くなり、髪も、ストパーでもかけたのか、いつの間にやらまっすぐサラサラになった。

 いつものように放課後第二理科室でヒマをつぶしてからの帰り道。コンビニに寄って今井に肉まんをおごってもらった。この前約束した、あれだ。葉を落としてむきだしの枝を寒々しくさらす銀杏並木の通りを、ゆっくりと歩く。肉まんの湯気だけがあたたかい。

「さいきん、安奈ちゃんたち、仲いいね」

 今井がつぶやいて、俺は思わず、えっ、と漏らした。

「仲いいねって、知らないの? てか、気づいてないの?」

「何に?」

「あいつら、つき合ってんだよ」

 今度は今井がえええっとのけぞる番だった。い、いつから、と動揺のあまり声がうわずっている。俺はあきれた。

「中学の卒業式に、森口がコクったんだよ。それからずっとあの調子だよ」

 今井は金魚のように口をぱくぱくさせている。あいつらが恋人同士になってからもう一年ちかく経つわけで、その間なにも疑わなかった今井の感性が、この恋愛至上主義の世の中で、ある意味、貴重だ。というか、森口とその手の話はしないのか。

「コクるって、いったい、どうやってやるのかな。やっぱ、校舎裏に呼び出したりしたのかな」

 しらねーよ、と俺は言った。俺だってそんなの未経験ゾーンだ。彼女いない暦イコール年齢だ。知ってるくせに。

 俺たち四人は小五のとき同じクラスで、生き物係をしていた縁でつるむようになった。それまで班も違ったしクラブ活動も別で接点のなかったメンバーだったが、一緒に過ごしてみると、非常に居心地がよかった。思うに森口は、恭平にコクるとき、かなりの葛藤があったはずだ。友達以上になりたいけど、今の心地いい関係を壊すのは怖い、みたいな。

 今井は黙って肉まんを咀嚼していた。くちびるのはじっこに、肉あんのかけらがくっついている。ぬぐってやろうと、思わず手をのばしかけて、あわてて引っ込めた。

 ――いけない、いけない。

 マキ(小六)からあらゆるマンガを借りて読んでいるが、俺は、仲良しグループのうちふたりがくっついて、あぶれたメンバーがなんとなくくっつく、という展開が嫌いだった。何だそのおまけ感。ついで感。読者をほっこりさせるために、全員カップルでめでたしめでたし、みたいな。何じゃそりゃ。どんなに好きな話でも、ラストがそんなんだったら、俺は単行本を壁にたたきつけるね。

 それに。ちらと今井を見やる。まだ食ってる。万が一にでも、こいつとそんな雰囲気になるっていうのはありえないだろう。

 恋とはきっと、もっとドラマチックで、せつなく身を焦がす感情なのだ。俺はそう信じている。

 

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