第八夜 国を持たない僕たちは
今まで色んなお客と出会ってきたが彼みたいな人に会うのは初めてだった。あんなに両親や先祖を尊敬している若者を私は知らない。今の日本人の若者には真似できないだろう。彼こと金本空、本名キム・ハヌルと会ったのは桜の花が散り葉桜に変わろうとしているそんな時期だった。
「いらっしゃい。ご注文は何にします?」
「うーん、そうだな。ホットドックとゆず茶を下さい」
「ありがとうございます。少々お待ちを」注文を聞き奥に引っ込む。ゆず茶を頼むなんて渋い学生だなと思いながら準備に取り掛かる。
ホットドックの中身は分厚いソーセージと千切りキャベツ、その上にケチャップと特製の粒入りハニーマスタード。ケチャップの酸味とハニーマスタードのほのかな甘みと辛みが特徴のこの店のお勧めの一つ。ゆず茶の方は作り置きしてあるゆずの蜂蜜付けをお湯に溶かす。ゆずの爽やかな香りと甘い匂いが店の中にほのかに漂い始める。
「お待たせしました。ホットドックとゆず茶です。どうぞごゆっくり」青年は軽く会釈をしホットドックに手を付け食べ始める。
「ん、美味しい」
「ありがとうございます。そう言ってもらえると作り甲斐があるってもんですよ。そっちのゆず茶もうちの手作りなんですよ。口に合えばいいですけど」そう付け加えると青年は少し吃驚した顔をみせすぐさまカップに手を伸ばし口にいれる。すると目を細め味わうように少しずつ飲み始めた。
「あまり甘くなくてすごく美味しいです。今まで飲んだ中で一番だ」
「そう言ってくれると嬉しいね。しかし、君みたいな若い学生がゆず茶なんて渋いね。何か思い入れでもあるのかい?」青年は恥ずかしそうに答える。
「思い入れという程ではないんですけど、ゆず茶は僕の国を代表する飲み物何です。マスターは何処の国の飲み物か知っていますか?」私は少し考えああ、と言いながら浮かんだ国の名前を口にする。
「確か韓国だったね。国を代表するって言ったけどお客さんは韓国人なのかい?日本には留学で?」青年は首を横に振る。
「留学生じゃありません。僕の生まれは日本です。所謂、在日韓国人なんです僕」彼曰く、金本空という名前は日本で暮らす為の通称名であり韓国名はキム・ハヌルと教えてくれた。『ハヌル』は日本語で空という意味とも。
「じゃあ空君はずっと日本で暮らしているんだね。両親も韓国人なのかい?」
「そうです。祖父母や親戚一同も皆日本で暮らしています」ゆず茶を啜りながら私の質問に答えてくれる空君はとても優しい気持ちの持ち主だと少しの会話だけで伺える。
「韓国に帰りたいって思った事はないのかい?」何気なしに聞いた私に空君は少し困り顔をする。
「マスター、日本には在日韓国人が僕以外にも沢山います。それこそ何万ほど。どうして日本に留まっていると思います?」質問を質問で返され思わず目を見開くが取りあえず思いつくことを述べる。
「そうだな、日本の暮らしに慣れて帰りたくないとか、永住権を持っているから帰る必要がないとかかな」空君は飲み終えたカップを置き私の答えにプラスアルファをつける。
「勿論それもあります。日本に住んでいる在日韓国人は永住権を持っています。これのお蔭で僕たちは強制送還されなくて済んでいます。でも一番の理由は帰った所で居場所が無いからだと僕は思うんです」
「居場所がない?」空君は頷く。
「これは僕が子どもの頃母に聞いた話なんです。母の憶測も入っていますが聞いてくれますか?」
「私でよければ聞かせておくれ」聞かなくてはいけないと何故か思った。それは日本人である私の義務にも似た感g覚だった。
「あれは僕が小学生のときです。韓国人というのがクラスの子にバレて虐めにあっていたんです・・・」空君は窓越しから外を眺め自分の名前の由来でもある空を見つめ始めた。雲一つない青だけがどこまでも続いていた。
「金本、おまえ韓国人なんだろ?どうして日本の学校にいるんだ。さっさっと自分の国に帰れよー。なんならお巡りさんに言って送ってもらおうか」ニタニタしながら僕に暴言を吐くのはクラスの中心といえる存在。名はもう覚えていないけれど今でも顔だけは鮮明に残っている。ニキビだらけの顔だった。
「そうだ、そうだー。早く帰れよー」取り巻きどもが僕を囲み帰れコールを言い始める。遠巻きで様子を伺っている子たちはただ見てるだけ、誰も僕を助けてくれない。そんなクラスメイトになのか今ここに居ない先生に腹を立てたのか分からないがランドセルをひったくる様に掴み昇降口まで走る。後ろから「やーい韓国人が返ったぞー!」と下品な言葉を浴びながら家までひたすら走った。どうして僕は日本人じゃないんだ、どうしてこんな目に合わないといけないんだ。どうして僕は韓国人なんだ。答えのない迷路を探しながら走ることしか出来なかった。家に着き中に入るとリビングで休んでいた母が僕を見て大層驚いた顔を見せた。
「空、どうしたの?まだ学校にいる時間でしょう。どこか具合でも悪いの?」僕の顔色を見ながら聞いてくる母に僕はさっきまで頭に浮かんでいた言葉を口にする。
「お母さん、どうして僕は韓国人なの?どうして日本人じゃないの?ねぇ、どうして」僕の言葉にさっきとは別の意味で驚いた母に詰め寄るように同じことを言う。
「ねぇどうして?僕たちはここに居ちゃいけないの?お母さん教えて!」母は僕をソファ
に座らせジュースを取りに行き僕に渡す。
「空、少し昔話をしようか」
「昔話?どんな話なの?」いきなり昔話を振ってきた母にどう応えればいいか分からないまま僕は頷いた。
「私達の御先祖様の話よ。空、空の名前は誰が付けたか知ってる?」
「お祖母ちゃんだよね。広い心を持った子になれるようにってお母さんが教えてくれた」
教えられた通りに答えると母はニッコリ笑いかけくれる。
「よく覚えていたわね、正解よ。でもねもう一つ意味があるの。空、自分の韓国名言える?」
「ええっと、ハヌル。だよね?」滅多に口にしないのでおそるおそる言うと今度は頭を撫でてくれた。
「よく自分の名前を言えました。ハヌルって日本語では『空』っていうの。お祖母ちゃんは日本名と韓国名を同じ名前にしたの」
「どうして?」僕の疑問に母は優しい声で答えてくれる。
「忘れないように。自分が韓国人であるってことを。日本に住んでいたら韓国名なんて殆ど言う機会がないもの。でも日本名も韓国名も同じなら忘れないでしょう」
「じゃあお母さんも僕と同じなの?」尋ねると母は首を横に振る。
「残念ながらお母さんは違うの。時々忘れちゃう。だから空にはちゃんと覚えていて欲しいの、自分の本当の名前を」母が何を伝えたいのかよく解らなかったが、でも名前を大切にしないといけない事は子どもの僕にでも理解できた。
「空、私達在日は韓国で暮らすには肩身が狭い人種なの。私達はある意味国を捨てた裏切り者だから。でも私達に流れている血は誇れるものよ、それだけは忘れないで」
「よく分からないけど分かった!あのね、今日学校で『韓国人は国に帰れ』って言われたけど、気にしなくていい?」家に帰ってきた理由を話すと母は強く頷き僕に教えてくれた。
「空、そんな事を言う子にはこう言ってやりなさい。『だからどうした?人と違うことがそんなに悪いのか。僕には名前が2つあるんだ。良いだろう!』って言ってやりなさい。何も恥ずかしがる事はないの。空、自分が韓国人であることを恥じないで、いつか必ず誇れる日が来るから」最後の言葉に説得力を感じたのでつかさず聞いてみた。
「お母さんは誇れたの?」
「勿論!誇れる日が来たからお父さんと出会って空と会えたんだから」とびっきりの笑顔で母は胸を張って言った。
「その話を聞いてから自分でも色々調べる様になりました。母国の事、歴史の事、そしてこの国の事を」外をみると少し夕日が差し込んでいた。その間に誰も客が来ていないことはいつものことだ。
「色んなことを知っていく内に僕は自分の身体に流れている血に誇りと感謝を持つようになりました。僕を産んでくれた両親と僕にまで生を繋いでくれた御先祖に。歴史を辿ると韓国という国は様々な国から植民地や支配下に置かれてきた国です。その中に日本も入っています。支配されるたびに奴隷や殺戮によって何千、何万人という人が連れ去られたか分からない。帰ってこれた人数は半分にも満たないと、殆ど死んだそうです。でも、そんな激動の時代を僕の先祖は耐え、生き抜き、人を愛し子を育んだ。そして僕にまでつないでくれたんです」
「帰化しようとは思わなかったのかい?」この国に住んでいる在日の約半分は帰化していると聞いたことがある。つまり、日本人になった韓国人が半数にのぼる。
「実際、聞かれたことはあります。帰化しないのか?って。僕はそんな事したくない、生まれてから死ぬまで韓国人で在りたい。僕たち在日はいわば国を持たない人種なんです。帰れる国があるのに帰れないんです。だからせめて国籍と名前だけは母国に置いておきたいんです」空君、いやキム・ハヌル君の表情は『自分』という誇りと身内に対する尊敬の念に満ちていた。
「空君はすごいね。私なんてこの歳になってもそんな事考えたことすらなかった。いや、恥ずかしい限りだ」思った事を伝えると空君は慌てて首をブンブン横に振った。見ているこちらが首が取れてしまうんじゃないかと思うぐらい。
「すごくなんかありません。僕自身あの出来事がなければこんな事考えませんでしたよ。ある意味、あの日の出来事は僕に切っ掛けを与えてくれたんです。切っ掛けとそれに対する意思があれば人は変われる事を僕は教わりました」またゆず茶のみに来ますね。次の来訪を約束して空君は店を後にした。私は空君が言った言葉が頭から離れず後片付けもそこそこにぼんやりとあの頃に記憶を巡らした。
「切っ掛けと意思があれば人は変われる。私に足りなかったのは成し遂げようとする意志だったのかもしれない・・・。今更だな」棚の奥に仕舞っていた煙草とライターを取り出す。肺に紫煙を送り込み静かに吐く。ゆらゆらと漂う煙に目を細める。まるで私の中にあった記憶が波のように迫ってききているかの錯覚に陥る。
「もしかした答えが見つかるかもしれない」誰もいない店に私の独り言が響いてる。聞いていたのは奥に飾っている写真のみだ。
夢十夜 蓮見蓮 @hasumiren
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