第七夜 守りたかった心

昼を少し越した辺り、その女性は店を訪れた。名は鈴宮藍さん、この店に最近来るようになった私のお得意様だ。少し浮世離れした雰囲気を醸し出している不思議な女性。彼女の職業がそうさせているのだろう、彼女の仕事は絵を描くこと、画家だ。休憩も兼ねてこの店に訪れるのだ。最近は顔を見せなかったので久しぶりの来店に私は笑みを見せる。

「やあ、藍ちゃん久しぶりだね。いつものかい?」

「久しぶりマスター。ちょっと色々あって来たくても行けなかったの。いつものって言いたいけど、今カフェインはちょっと・・・」言いながらお腹を守る様にさする。それに気付きまさかと思いながらも頭に浮かんだ言葉を口に出す。

「もしかしておめでたかい?」彼女はニッコリと笑う。どうやら大正解だったようだ。

「確かに妊婦にカフェインは駄目だな。そうだな・・・ミックスジュースなんてどうだい?この店オリジナルだよ」

「ミックスジュースなんてあったんですか?初めて知りましたよ。じゃあそれでお願いします」いつものカウンター席ではなく陽の当たる場所に席を通す。私の心配りに彼女は笑みを送る。以前とは違う母親特有の暖かい笑みだ。作り終えた品と自分用の珈琲を持って彼女の許に行く。珈琲の匂いに気付いたのか彼女は私の顔を見てむっとした。

「飲めない私の前で珈琲を飲むなんてマスターのいじわる」

「そりゃ失礼。飲めない分匂いで我慢してくれ」藍ちゃんの前にジュースを出すとグラスを持ちストローに口を付ける。するとむくれていた顔が綻んでいく、どうやら気に入ってくれたみたいだ。私はふぅと息をつく。

「これ美味しい。なんだろ・・・子どもの頃に飲んだ味に少し似てる。マスター、中身なにが入っているの?」グラスを零れない程度に傾けながら私に聞いてくる。

「企業秘密って言いたいが特別なものは何も入ってないよ」私はテーブルに常備している紙ナプキンに材料を書いていく。白桃缶、みかん缶、バナナに牛乳、そして蜂蜜。最後の材料に藍ちゃんが呟く。

「蜂蜜?砂糖じゃなくて?」

「蜂蜜の方が味にまろやかさが出るんだ。缶詰のシロップで結構甘いからね。ひと匙でいいよ」ついでに作り方も書き藍ちゃんに渡す。

「子どもが生まれたら作っておやり。きっと喜ぶよ」

「ありがとう、マスター。絶対に作るね・・・」髪を鞄に直しジュースを口にする。私も淹れた珈琲を飲み始める。お互いしゃべらず沈黙が辺りに漂う。心が穏やかになる沈黙だ。ゆっくりとした時間が沁み込んでくる。だろ飲み終えた頃だろうか、当然藍ちゃんが口を開いた。

「マスター驚かないんだね。子どもが出来た事とか、結婚してたこととか」

「子どもには驚いたが結婚に関しては知っていたよ。指に跡が付いてる。その形はどう見たって指輪にしか見えないからね」普段は服であまり見えないが。と付け加えると彼女は指を凝視し始める。どうやら指輪の跡を探しているらしい。そして納得したのか思わず感嘆をあげる。

「すごいマスター。まるでどこかの探偵ね。よくお客を観察してる」

「常連さんの事は出来るだけ知りたいのさ、嗜好とか。好みの味が分かれば喜んでくれるだろう、そしたらまた店に来てくれる。そうやってひとつひとつお客さんと一緒に気持ちを積んでいくのさ」少し気障すぎただろうかと思い、藍ちゃんの顔を伺うと何やら神妙な顔つきをしている。不思議に思いながらも珈琲を飲もうとした時、やや躊躇いながらしかしはっきりとした口調で私に伝えてくれた。

彼女の生涯忘れることの出来ない出来事を。

「マスター、私が初めてこのお店に来た日の事憶えてる?」

「勿論。あれは夏だったかな、確か。やけに暑かったなあの日は」

「そう、すごく暑い日だった。ここに越してきてまだ日も浅くて右も左も分からかった私はこのお店に出会ったの。あの頃の私は死んでしまいたいくらい絶望の淵にいたの・・・」ゆっくり、流れる様に彼女は語り始めた。


「最善を尽くしましたが残念ですが鈴宮さんのお腹の子は流産されました・・・」担当医の言葉が辺りに木霊する。夫は悲しそうな顔を見せないように耐えている。医者や看護師も助けられなかった命を悔いている。そんな中私だけが意味が分からない、といった表情で聞いていた。流産ってなんだっけ?確か、子どもが流れたって意味だよね。私の子が流れたって事?ぺったんこのお腹を見る。ついさっきまでここには私と透さんとの子どもが宿っていて。でももうここにはいない、と言っているんだろう。実感が湧かない。ぼうっとしている私をみて透さんは私を抱きしめる。医者と看護師はいつの間にか退室していた。

「藍、ごめんな・・・俺が側に居ながら守ってやれなかった。お腹の子は残念だけど、また藍の中に宿ってくれるのを待とう」透が涙を溢しながら私に言うが上手く頭に入ってこない。そもそもどうして病院にいるのかさえ私には分からないのだ。

「ねぇ、どうして私病院にいるの?確かアトリエにいたはずだよね」

「藍、お前憶えてないのか?アトリエで倒れたお前を俺が見つけて病院に運んだんだ。顔が真っ青で心臓が止まるかと思ったぞ」私の記憶が無いことに驚きながらも何があったのかを透さんは簡単に説明してくれた。どうやらアトリエで倒れていたらしい。

「とにかく今日はゆっくり休め。明日には退院してもいいって医者は言っていたから。また明日迎えに来る」面会時間ギリギリまで居てくれた透さんは私の頭を一撫でして家に帰り私は何もない真っ白な空間に取り残された。

「まるでキャンパスのなかにいるみたい・・・」『私』という絵具が無地のキャンパス地に色を乗せていく。さぞ汚い色だろう。改めて自分のお腹に目をやる。つい先程まで居たであろう赤ちゃん、それがもういない、イナイのだ。頭の中で急激にそれを理解し始める。そうだ、思い出した。私は絵を描くことに夢中になり始めてお腹に子がいる事を忘れたのだ。透さんが居ないことをいい事に寝食をせずに絵に没頭した。描いても描いても足りない、表したい絵が頭の中に溢れかえっている。何かに取り憑かれたみたいに筆が止まらなかった、全て描き終えたときにはアトリエは絵で埋まっていた。どこもかしも絵具だらけ、当然私も。そして終わった途端、急激な眩暈に襲われそして派手な音をたて倒れたのだ。

「ははっ、他の誰でもない私の所為だ。私がこの子を殺したんだ、自分の欲のせいで」乾いた声が静寂を破る。すると今度は涙が頬を伝って布団に染みを作る。

「泣いてるんだ私。泣く資格なんて私にはないのに。でも今日だけはあなたの為に泣くことを許して・・・。あなたを産んであげられなかったお母さんをどうか許さないで・・・」泣き叫びたい気持ちを殺して静かに泣いた。そうすることで子を殺してしまった罪悪感から逃れられるのはないかと、逃げられる訳など決してないのに。

次の日に退院した私は一層アトリエに籠る様になりひたすら描き続けた。そうすることでしか壊れたモノを守れなかった。しかしそれも長くは続かなかった。一心不乱に描いていた私を止めたのは透さんだった。

「もういい、もう止めるんだ藍。これ以上、苦しまなくていい」

「手を放して透さん。私にはこれしか残ってないの。絵を描くことでしかあの子に償えない」透さんの手を振りほどきキャンパスに色を重ねていく。赤、青、緑。混ざり合って醜い色が拡がっていく。今の私の心そのものを表している。なお描き続けようとする私を今度は後ろから抱きしめる様に拘束する。背中から感じる温かさに一瞬筆が止まった。それを透さんは見逃さず私の手から筆を抜き取る。「今の君の絵を見たって誰も喜ばない。見てごらん?どの絵もみんな悲しそうな表情をしている。君に必要なのは絵を描くことじゃない、心の静養だよ。藍」私は自分が描いた絵を見る。どの絵もみんな暗くて寒くて寂しいものばかりだ。絵は私の心そのものだ、つまりこれは私の心の表れ、といっても過言ではない。

「じゃあ、どうすればいいの?私から絵を取ったら何も残らない・・・なんの価値もない・・・。透さん助けて・・・」膝から崩れ落ちる私を透さんは支え、正面から抱きしめてくれる。

「一回絵から離れよう。いや、この街からも離れよう。今の藍にここは辛いだろう?何もかも肩から降ろして少し休もう。大丈夫、俺がいるから。藍を1人にはしない」背中をポンポンと子どもをあやす様な仕草に目から涙が溢れてくる。透さんの背中にしがみつき子どもみたいに泣き始める。

「ごめんなさい、ごめんなさい。私の所為で。・・・。透さんとの赤ちゃん産みたかった。産んで3人で幸せに暮らしたかったのに。ごめんなさぁい」

「分かってる、わかってるから。藍の気持ちは痛いほど伝わってる。だからもう一度始めよう、俺達の時間を」透さんの言葉に私は何度も頷く。時間を巻き戻すことは出来なくても上書きする事は出来る。新たな時を進むために私は思い出の詰まったあの街を離れることを決めた。

「いつか、また戻ってくるから。それまで待っていてね、翼」産まれることが出来なかったあなたの為につけた名前、どうか空高く羽ばたいて見守っていておくれ。


「私にとって絵を描くというのは自己防衛なの。何に変えても守らなくちゃいけなかったのに私はそれを見殺しにしてしまった。心が崩壊していく音が聞こえたの。唯一、縋れるものが絵しかなかったの。羊水に浸して壊れていく心を何とか守ってた、逆効果だったけど」氷で薄まったジュースをストローでかき回す。私は何と言葉を発すれば分からず開きかけた口を閉じる。それを合図と受け取ったのか藍ちゃんは更に続ける。

「多分、これからもそれは変わらないと思うんだ。でもね、今度は絶対に手放さない。何があっても必死で守り通す。次の新作はきっと誰もが驚く絵よ。・・・そうね、この絵にタイトルを付けるなら『未来の翼』ね」まだ膨らみをみせていないお腹を愛し気にさする姿は聖母マリアに劣らない慈愛の目と心を宿している。私はその姿がまぶしくて少し目を閉じそして祝福の言葉を一言。

「藍ちゃん、本当におめでとう。元気な子を産むんだよ」

「ありがとう、マスター」日向を思わせるような笑顔を彼女は見せてくれた。

「女性は強いな。絶望に立ち向かう勇気を持っている。私には到底できない事だ」藍ちゃんを見送りながら思わずでた言葉だった。きっと立ち直るのに沢山の苦しみや悲しみがあっただろう、でも彼女は少しずつだが受け入れ自分を許したんだろう。私には無理だ。未だに自分の犯した罪に向き合えない。

「いつになったら私は私の犯した罪に向き合えるのだろうか。せめて墓に入るまでには向き合いたいものだ・・・」また一つ過去を置いていく。次は誰が過去を置いていくのだろうか。

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