第六夜 空っぽの匣
ようやく春という言葉が似合う程気候が暖かくなり始めた今日この頃、客が居ない事を良いことに一息就こうと思った矢先、扉の開く音がした。扉の上に着けている鈴がチロリンと鳴る。
「いらっしゃい。ご注文が何にしますか?」
客は一瞬悩むそぶりを見せたがメニュー表を開いた時に決めていたモノを注文する。
「エスプレッソを。あと何か軽食はあるかい?」
「サンドイッチでいいならすぐにお出しできますよ」じゃあそれで。そう言ったあと客である男は鞄から一枚の紙きれを取り出し深刻そうに悩む姿を見せる。それをカウンター越しから覗きながらも注文された品を作る手は止まることはない。ほどなくして頼まれた品を持って行客に声を掛ける。
「お待たせしました。エスプレッソとサンドイッチです。具は厚焼き玉子とツナキュウリですが大丈夫ですか?」男は人の好い笑みを浮かべて「大丈夫」と答える。下がろうとした時に思わず見えてしまった紙切れに動きが止まる。紙切れの正体は離婚届。妻の所には既に名前が記入されており空白欄は夫の部分のみ。男は紙切れの存在に気付き咄嗟に隠したものの私の顔を見て思わず苦笑いをする。
「お恥ずかしいモノを見せてしまいましたね。すみません」
「・・・いえ。どうぞ、ごゆっくり」一連の言葉を述べたものの多分ぎこちなかっただろう、私は失礼のない速さでカウンターに戻る。見た目は50代半ばに見えるが、今流行りの熟年離婚だろうか。独身の私には離婚など縁がない。そんな事を考えているとおかわりの注文がかかったので新たに淹れた物を持っていくと殆ど手を付けていないサンドイッチが目に入ると男はばつが悪そうな顔で言う。
「折角作って貰ったのに悪いね。あんまり進まなくて」
「お気になさらず。良かったら包みましょうか?そしたらまた小腹がすいた時つまめるでしょう」
「そうしてもらおうかな。ほんと悪いね」再度謝る男に一言添えサンドイッチを包みながら先ほどの考えに戻る。優しそうな感じの人なのになぜ女房は離婚したがるのかね、見当もつかない。そうこうしている内に包み終わりまた男の所に持っていく。
「お待たせしました。今日中には召し上がって下さいね」
「ああ、ありがとう。初めて入った店だが感じのいいマスターがいて良かった。これさえなければ良い一日で終わるのにな・・・」最後に漏らした言葉には先ほどの紙切れが関わっている事が容易に想像がつく。
「理由を伺っても?」男が立ち上がらない事を良い事に私は椅子に腰を掛ける。
「なに、どこにでもある話だ。夫に愛想をつかした嫁が離婚を切り出してきた。ただそれだけ」よくある話と言うその表情は私にではなく自分に言い聞かせている様にも見える。
「私でよければ話を聞くよ。赤の他人に愚痴でもこぼしたら多少は胸の内が整理着くんじゃないかい」男、田辺渉は一瞬私の顔を見、そして踏ん切りがついたのか顔を上げ口火を切る。
「俺は刑事でね、それなりに出世もして金とある程度の権力も手に入れて幸せだった。でもそれが崩壊の始まりでもあるんだ」ぼんやりと硝子の向こう側を見つめながらゆっくりと開けていく、そこにあったであろう家族という名の匣を。
「おい、これは一体どういうことだ。なんで今更・・・・・・」
「今更じゃありません。今だからこそ、なんです」仕事から帰ると畏まった顔をした菜月が俺を出迎えた。何事かと思いリビングに行くと一枚の紙が机に置いてあり手に取った瞬間頭が真っ白になった。しかしそれと同時に菜月の表情の理由も理解した。彼女はもう決めているのだ、俺と別れる事を。俺は手に取った離婚届を見つめながら理由を問う。
「・・・理由を聞いてもいいか?お前が別れたいと思う訳を」菜月は一言「疲れたのよ」と前置きをおく。
「貴方と一緒になって30年。一回でも私のことちゃんと見てくれた?私と一緒に居て『楽しい』って感じた事あった?・・・私は無かった。だって貴方はいつも仕事を優先して家には殆ど居なかったものね。独りで家にいる事に疲れたのよ」本当に疲れ切った顔を菜月は俺に見せた。久しぶりに菜月の顔をまともに見た。所々に小皺が寄りいつの間にそんな風になっていたのかとぼんやりと考える。
「貴方の事、嫌いになったわけじゃないのよ。でもね、貴女が定年するまで独りぼっちでいる事に耐えられない。もう限界なの・・・」
下を向き涙が出ないように耐える姿を見て誰が断れるだろうか、少なくともこんな風にしてしまった原因の俺には「別れる」以外の選択肢は見つからない。これは俺が背負うべき罪なのだ。罪がるなら罰を負おう、菜月と別れる、という罰を。
「お前がこんなに苦しんでいただなんて全然知らなかった、知ろうともしなかった。・・・すまない。俺がもっと家に寄り付いていればこんな事にならずに済んだのにな」今頃謝った所で変わるとは思わないがそれでも謝罪の言葉を述べる。
「貴方の仕事は待ってはくれないもの。仕方ないわ。だから謝らないで・・・。これから別々の道を歩くけど貴方と出会ったことに後悔は一つもない私のかけがえのない思い出よ」菜月は俺の手を取って自分の手と重ねる。久しぶり感じる温かさに柄にもなく涙が出そうになる。それを何とか抑え俺は離婚届に名前と印鑑を押す。最後ぐらい菜月の夫としてみっともない姿は見せたくない、なけなしのプ
ライドが俺に涙を出させなかった。こうして俺と菜月の30年の結婚生活にピリオドが打たれた。
「俺は肩書と名誉を手に入れた。確かにそれらは欲しかったものだ。でも手に入れた時、俺はこの世で一番大事なものを失くしたんだ。一番欲しかったものはもう手に入れていたのに俺は失くす時まで気付かなかったんだ、そう菜月を失くした」田辺は相変わらず硝子の向こうを見ながら語るのを止めない。
「『何かを得るには何かを犠牲にしなくてはいけない』と誰かが言っていたが本当だったな。俺はどうでもいいモノの為にかけがえのないモノを捨てちまった。とんだ大馬鹿者さ・・・」被虐的な笑みを浮かべ田辺は水を飲む。私は空になったコップに水を足しながら聞く。
「その後、奥さんとは会ってないのかい?」
「会ってない、というより会っちゃいけないさ。あいつはもう次の道を他の人と歩いているんだ、邪魔しちゃいけねえよ」今度はふわっと柔らかい笑みを見せる。きっとまだ別れた奥さんの事が好きなのだろう。でなければこんな表情はとてもじゃないが出来やしない。
「そろそろ出るよ。これ包んでくれてありがとう。また休みの日に来るよ」礼を述べながら男は店を後にした。その後ろ姿が何となく男が背負った罪と罰の重さを感じさせた。
「愛する人の次の幸せのために自分は身を引く、か・・・それもまた一つの愛の形なんだな」かつての私もそうだった、自分の幸せよりも彼女の幸せを優先し身を引いた。それが吉と出たのか凶と出たのか未だに分からないが。聞きたくても彼女は私の側には居ない。
「会えるのならもう一度会いたいよ・・・」目を閉じあの頃に想いを馳せる。還りたいあの頃へ。
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