第五夜 桜の樹の下で
季節が冬から芽吹く春に変わる頃そのお客は訪れた。一目見て「ああ、この男は私に似ている」直感がそう告げたのだ。
「ハーブティあるかい?」男は注文を頼む。
「丁度新しい茶葉を購入したんだ。それででよければ」私は最近購入した品を思い出しながら伝える。
「じゃあそれで。夜なのに悪いね」
「構いませんよ。お客の望みには出来るだけ応える、それがこの店のポリシーなんだ」
私はティポットを準備しながらお湯を沸かす。お湯が沸騰したのでポットに茶葉を入れ3~4分蒸らす。辺りにハーブの豊かな香りが漂い始める。
「いい香りだね、何の茶葉なんだい?」男が目を薄く閉じ香りを楽しんでいる。
「この時期に合わせて桜の茶葉だよ。私もこの香りに惹かれて購入したんだ」淹れたてのハーブティを男の前に置く。カップも桜の花びらが舞っているものを選んだ。
「桜か・・・どおりで嗅いだことのある香りだと思った」カップを手に取り口に注ぐ。ふわりと桜の香りが鼻孔をさらに刺激する。
「・・・・・・美味いな、少し塩気を感じる。塩漬けが入っているのかい」
「ご名答。桜の葉と塩漬けが入っているんだ。意外に合うだろ」私は自分のおやつにと買っておいた桜餅を一つ差し出す。
「このハーブティは華月堂の桜餅と相性が抜群なんだ。よかったら一緒に花見でもしないかい?少し早いが」そう言って自分の分も準備を始めようとする私に「ははっ」と男が笑う。
「店は放っといていいのかい?」
「なあに今日は誰も来ないさ、なんせ週の真ん中だし」そうこうしている間に私の方の花見の準備が整った。
「では花見と洒落込もうか、花はあそこの一輪挿しで勘弁してくれ」
「気の早いマスターだな、まあいいか。乾杯」こうして私と男、平塚耕一のささやかな花見が始まった。
お互い世間話に花が咲いた所、平塚が3回目のお茶のおかわりを申し出る。私は頷きついでに自分用のも注ぐ。
「随分このお茶を気に入ってたんだね、少し癖があるから心配したんだ」私は新たに淹れたお茶を平塚に渡す。それを受け取り平塚は口の中を湿らす。
「桜には少し縁があってね。だからかな、桜と名の付くものに目がいくんだ」カップをコースターに置き柄をなぞる様に触る。その触り方が何か大切なものを愛でるかのようなそんな触れ方だった。
「・・・ここには色々な想いを抱えたお客が寄ってくるんだ。さしずめ貴方もなにか大切なモノを抱えているんだろう。折角止まり木に立ち寄ったんだ、話していかないかい?」私はさり気なく話を持ち掛ける。止まり木という表現が気に入ったのか彼は笑みを浮かべる。
「そうだなあ・・・美味いハーブティと桜餅を貰ったんだ。俺もこの店に想いを預けていこうかな」
「預ける、だなんて言われるとは思ってなかった。では預からせて頂きましょう。どんな想いなんで?」彼、平塚は一輪挿しに咲いている花を見つめる。その花は桜。
「いつまでも散ることのない桜の話しさ・・・」彼は枯れることのない思い出を紐解いていく。
「私ね、結婚する事になったの」決して大きくはない声量であったが僕の耳は一言逃すこと無く拾った。拾ったのだが頭に入ってくるのに少し時間がかかった。
「結婚することになったって・・・誰と?」
「父が懇意にしているお得意様の息子さんと。式は来週の日曜日」桜子はどうでもいいような口調で日取りを伝える。僕ぎこちない笑顔で彼女に祝辞を贈る。上手く笑えていただろうか。
「そうか・・・おめでとう」
「・・・・・・、ねぇ、本当にそう思っている?私、他の人のお嫁さんになっちゃうんだよ、耕一は何とも思わないの?」怒っているような悲しんでいるようなそんな表情で桜子は僕を問い詰める。何も言わない僕に桜子は痺れを切らし怒鳴る様に言い寄る。
「もういい!耕一は私が違う男の人と結婚しても良いって言うんだね。・・・耕一の馬鹿!」言いたい放題言い切って桜子は帰っていった。その眼には涙が浮かんでいた事は分かっていた。分かっていても追いかけることはしなかった、出来なかった。だってそうだろう?
「使用人と僕とお嬢さんのお前が一緒になるなんて絶対無理なんだから・・・」僕はただただもう見えない桜子の後姿を目に焼き付けることしか出来ない臆病者なのだ。
僕と桜子が出会ったのは桜が満開の暖かい日だった。僕が7歳で桜子が5歳の時。庭で遊んでいた桜子が僕に声を掛けたのが始まり。
「ねぇ、何をしているの?貴方はだぁれ?」
稚いしゃべり方で大きな目で僕を見ている。その顔は好奇心が隠せない子どもそのものだった。
「庭を掃除しているんです。今日からここにお世話になる平塚耕一です。宜しく尾根以外しますお嬢様」失礼のないように自分が知っている最大限の言葉を彼女に送る。すると頭にポン、と何か当たった。見ると手毬が転がっていた。彼女がさっきまで持っていた鮮やかな手毬。
「一人で遊んでもつまんないから一緒に遊ぼう」僕の手をグイグイ引っ張りながら遊びに誘おうとするお嬢様に慌てる。
「ぼ、僕は仕事中なので無理です!他の人を見つけて下さい!」
「やだ!こういちと遊ぶの!」駄々をこね始めどうしよう、と思っていた時に鶴の一声が降り注いだ。
「耕一、桜子と遊んであげてくれ。ここは他の者にさせるから」声がした方を向くと家の主人、悟がそこに居た。
「ダ、旦那様⁉」
「あ!お父さま!いいの?やったぁー‼」焦る僕と喜ぶ桜子の姿はさぞ可笑しかっただろう。旦那様がクスクス笑っているのが何よりの証拠だ。
「ほら、こういち遊ぼう!はやく!」着物の袖を翻しながら急かす。
「待って下さいお嬢様!」走るお嬢様に声をかけるとピタッと止まり、かと思えば僕の方に向かってどんどん歩いてくる。そして一言、
「さくらこ、さくらこって呼んで!」大声でとんでもない要求をしてくるではないか。
「ム、無理です‼使用人がお嬢様のお名前を呼ぶなんて!」僕は首が取れるんじゃないかと思うくらい横に振る。
「お手伝いさんじゃなければいいの?じゃあ、さくらこのお友達になって!」満面の笑みで言われると断りにくい。僕は縁側に居る旦那様に決死の思いで助けを求めるが当の旦那様はお嬢様を目に入れても痛くない程可愛がっていた事を忘れていた。
「耕一、桜子のお願いを聞いてやってくれ。遊び相手がいなくて桜子も寂しいんだ」
「お願い!こういち!」
当主とその娘に『お願い』されて断れる使用人がいたら誰か教えてくれ。僕は重い重い溜息を吐き「分かりました」と答えるしか出来なかったが内心とても浮かれていた事はきっと死ぬまで忘れないだろう。
あの出会いから10年、僕たちは幼子から青年と少女になった。僕は一使用人から家の仕事を任せられるぐらいまで成長し桜子は幼い頃の明るさを残しつつも年頃の可憐な少女に花開いた。そんな桜子を周りの男は放っておかない。悪い虫が付かないように一体どれだけ払ったかもう数えるのも億劫になるぐらいだ。しかしそれももう終わりを告げる。桜子に縁談の話が来たのだから。それも町一番の金持ち、この縁談を袖にするわけがない。何せあちらの方が桜子に夢中なのだ、きっと桜子を幸せにしてくれる。
「これでいいんだ・・・これが桜子にとって一番良い道なんだ。僕と一緒になったって苦しい思いをさせるだけだ・・・」この町一番の桜の大木の根に座り込み酒を煽る。風に吹かれ桜の花弁が夜空の宙を舞う。幻想のように美しい。まるで夢の中にいる気分に陥る「これが夢だったらどれだけいいだろう・・・」花弁を取ろうと手を伸ばすが届かない、これが現実だと突き付けられる。幼い頃に交わした約束など所詮は夢物語に過ぎず、かといって現実にするための努力もしない僕は臆病者だ。
「ごめん、桜子。不甲斐ない僕を許してくれ・・・」腕で顔を隠しながら呟くと誰もいないのに返事が返ってきた。
「本当よ、情けないにも程があるわ。見損なったわよ耕一」芯の通った凛とする声が鼓膜を貫いた。
「お嬢様・・・どうしてここに・・・」
「小さい頃、2人だけの秘密基地にしようって遊んでたの思い出したの。それでもしかしたって」大当たりだったわね、そう言いながら僕の横に座る。ふわりと香る桜の匂いが鼻孔を擽り言葉に出来ない想いが心の中で溢れ出してくる。
「お嬢様、いや桜子、僕は・・・本当は!」言いかけようとした僕の口を桜子は指で止めた。
「判ってる、私も同じ気持ちよ耕一。さっきは怒鳴ってしまってごめんなさい。私の事を思ってああ言ったんでしょう、だから私はその気持ちに応える」その言葉で桜子の気持ちを悟ってしまった。もう彼女は戻ってこない。遥か彼方に行ってしまうのだ。そうさせたのは紛れもない僕自身だ。
「だから・・・、どうか今宵だけは浮世を忘れて私と夢をみよう」淡く儚いおぼろの夢を。彼女は僕の首に腕を回し抱きついてくる。それに応えるかのように僕も腰に腕を回し隙間が出来ないようにきつくキツク抱きしめる。そんな僕たちを覆い隠すかの如く桜の花弁が一気に舞い上がる。
桜の花弁に身を隠しましょう、身を寄せ合い語り合いましょう。桜の樹の下で共に眠りましょう。そして桜になりましょう。優美で幻みたいに散ってしまう桜に・・・。どこかで唄うかのようにそんな声が聞こえた。
「夢か現か幻か。あの日の出来事はきっと墓に入っても忘れられないだろうな」すっかり冷めきったハーブティを平塚は口にいれ喉を潤すが眉間に一瞬皺が寄る。
「なんだこれ、飲めたもんじゃないな。さっきまであんなに美味しかったのに」
「こういう飲み物は冷めると渋みが出るからね。新しいのすぐに淹れるよ」薬缶に火をかけようとした私を平塚は手で止める
「いや、そろそろ帰るよ。随分長居したみたいだ」残りのハーブティも残すこと無く飲み切り言葉を零す。
「あの後、お嬢さんは縁談相手と結婚して町を離れちまった。ほんと、今更だがあの時お嬢さんの手をとって駆け落ちでも何でもすれば良かったと思うよ。後悔、先に立たず。ってか」まるでこのお茶みたいだ。熱いうちは美味しく嬉しい気持ちで一杯なのに冷めた途端、渋みが増し後味が悪い。彼の内側は『桜子』といういつまでも味が引かないお茶で満ちているのかもしれない。平塚は「またくるよ」と一言告げ店を出ていった。残された私も彼と同じように冷めたハーブティを口にする。感想は彼と一緒、とてもじゃないが飲めたモノじゃない。それでも私は全て流し込む。
思い出を飲み込むかのように。
「まいったな、渋くていけないやこいつは。次は冷めても美味しい茶葉を買ってこないとな・・・」茶葉が入っている缶を棚の奥に仕舞う。茶葉の名は『Memory of a cherry tree』桜の思い出。どうかまだ思い出さないでおくれ、私の夢であり幻であり現だったあの頃よ。
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