第四夜 待つ男

夜の帳が開く頃1人の男が店の扉を叩く。仕事帰りだろうか、スーツと顔に疲れが出ており哀愁が漂っている。男はおもむろにカウンターの端を陣取りJACKDANIELとつまみを頼む。私はナッツ類とJACKDANIELを男の前に差し出す。

「いらっしゃい、お客さんこの店は初めてだろ?家が近いのかい」

「ああ、最近越して来たんだ。これから宜しく頼むよマスター」疲労し切った顔で男、野田光雄と挨拶を交わす。

「この時期に転勤かい?サラリーマンは大変だね」季節はもう冬に指しかかってている。

「いや、住まいをこっちに移したんだ。妻がね、此処にいるんだよ」グラスの中身を口につけ一気に飲み込む。喉が焼けるように熱い。

「ほう、奥さんの為に越してくるとは愛妻家だねぇ」私は茶々を打ち新たにグラスの中身を満たす。野田は独り言を言うみたいに呟いた。

「妻との最後の約束なんだ。妻が愛したこの町で命が続く限り共にいると・・・」グラスの中身を覗く瞳はどこか遠くを見つめている気さえする。この男もまた、何か背負っているのだろうか。愛する人との思い出を・・・

「・・・どんな約束をしたんだい?」聞かずにはいられなかった。さぞ、美しくて儚い約束なんだろう。

「マスター、初対面なのに結構突っ込むんだね。流してはくれないのかい?」

「生憎、客の話を聞くのも聞き出すのも私の仕事なんだ。これに免じて話してはくれないか」差し出したのは一つのカクテル、その名はオーロラ。意味は『偶然の出会い』。赤色の液体がゆらゆらグラスの中で漂う。

「全く、仕方のないお人だ。普段なら話さないがマスターになら話してもいいって思ってしまった。よく言われないかい?」肯定の意を込めて私は微笑む。

「それじゃぁ話すとするか、昔話ってほど古くもないがあれからもう5年も経つのか・・・昨日のことのように感じるよまだ」


 「私あと3カ月しか生きられないって先生に言われているわ」病院の一室で春子は日常会話のようにいつもの口調で私に伝えてきた。思わず「へぇそうか」と危うく言ってしまう所だった。

「3カ月って・・・なんで急に・・・」

「実は随分前から言われていたの。もう長くないって、黙っていてごめんなさい。あなたのそんな顔みたくなかったの」そんな顔とはどんな顔だろうか。鏡がないので解らない。否、解っている。情けない顔をしているんだろう。

「切除したはずの癌が至る所に転移しているって。気付いたときにはもう手遅れだったの。でもね、痛みは全然無いの。可笑しいわよね」点滴を刺している腕を撫でながら柔らかく笑う。きっと点滴の中に痛み止めが含まれているんだろう、痛くない訳がないのだ。私は春子の腕を見る。こんなに細かっただろうか、以前はもっとふっくらとして握り甲斐があったはずなのに。腕だけではない、全体が細いのだ。力を入れて抱きしめたら折れてしましそうだ。そう考えると急に春子に触れるのが恐くなった。思わず握っていた手を離そうとすると春子の手が離すまいと力の限り握り込んできた。力は全く籠っていない、けれど私はその手を振りほどくことは出来なかった。

「今、手を離そうとしたでしょう。離しちゃダメ。大丈夫、このくらいじゃ壊れたりしないわ」私の心を見透かしたかのように春子は言葉を紡ぐ。その声音が優しく私の心を安心させる。

「そうだな、この程度の力で春子が根を上げるわけないな。なにしろ春子の怪力は折り紙付きだし」

「ちょっと、それは言い過ぎよ」笑いながら怒る仕草はいつもと同じだ。これがあと3カ月後には見られなくなるだなんて想像もつかない。私は不安定な心を春子に気付かれないように必死に笑顔を保つのに精一杯だった。

 余命を聞かされたあの日から私は時間が出来れば春子の所に顔を出すようになった。会う度に春子は笑顔で出迎えてくれる。その笑顔に何度救われたか分からない。病室を開ける度にもし、ベッドに春子がいなかったらどうしよう、精神をむしり取られるような恐怖と戦い疲れきっている私にとって春子の笑顔は魔法の薬なのだから。

「今日はガーベラを持ってきたよ。この花好きだっただろ?」

「ありがとう。でもお見舞いに来る度に持ってこなくてもいいのよ。私の部屋をお花畑にする気なの?」呆れながらも花を受け取る春子の顔は嬉しそうだ。春子が表現したようにこの部屋は私が持ってきたもので溢れている。本や塗り絵、果物に花束。特に花が一番多く春子の周りは花で満ちている。

「外に出れない分、花で季節を感じられるだろう。お気に召さなかったか?」

「そんなことない。でもあまり多すぎると片づける時大変でしょう」春子の何気ない一言が私に重くのしかかる。見舞いに来る度に春子の体は少しずつ着実に薄くなってきている。それが死へのカウントダウンに感じ見ていられなくて花で覆い隠した。しかし、逆効果だったことに後から気付いた。これではまるで棺の中にいるみたいではないか。花の中に眠る妻の顔が容易に想像できる程には春子と花は一体化していた。

「貴女が今どんなことを考えているか想像できるわ」不意に春子が私に話しかけてきた。私の考えていることが分かるという。私ですら分かっていないというのに。

「俺が何を考えているか分かるって。ぜひ教えてくれ。俺自身ですら自分の事が分からないのに」春子は軽く微笑む。

「何年一緒に居ると思っているの?貴方の考えている事が何なのか分かるわよ。夫婦だもの」夫婦、その言葉がいやに私の耳にこびり付いた。夫婦だから分かるモノがある。結婚して30年、今頃になって理解した。ぼうっとしていた私に春子が突然、口にした。

「・・・ねぇあなた、私が居なくなっても他のお嫁さんを貰わないでね」雨に打たれた時のような反射で思わず春子を見ると笑っていた。笑っている様に見せようとしていた。

「お願い、約束して。私以外のお嫁さんは貰わないって。じゃないと私・・・・・・お化けになってあなたの前に出て驚かせちゃうからね」その言葉を聞いて私は理解する。私以上に春子の方が恐怖と戦っていたんだと。二度と目覚めることのない深い眠りにあらがって私を出迎えていた事に。そんな事に気付きもせず自分の不安ばかりを押し付けていた私はなんて愚か者なのだろうか。たまらず私は春子を抱き寄せる。想像していた以上に春子の体は薄く細かった。折れないように力を加減しながら抱きしめそして誓いの言葉をささやく。

「俺はお前しか愛さない。この命が続く限りずっとお前だけを愛して生きていく。だからお前も俺だけを愛すると誓ってくれ」固く抱きしめた腕に誓いを立てた。永遠に続く果てのない誓い。すると腕の中にいた春子が声を出して泣き始めた。何年ぶりだろうか泣いている顔を見たのは。

「約束する。私も、・・・貴方だけを愛するって。向こうに行ってもあなたの事ずっと待っているから。だからきちんと生きてね」泣きながら笑顔で伝える春子に私は返事の代わりに抱きしめている腕に力を込める。それが私と春子の最後の日となった。


 「夜中に容体が急変したらしくて。急いで駆けつけたんだが俺が着いたときにはもう春子は旅立ってしまってた」空になったグラスを双眼鏡の様に覗き込んでいる。そこに移るのは己ただ1人。

「苦しんだだろうに。でも俺が見た最後の顔も穏やかに笑っていた。まるでとっておきの楽しみが残っている、そんな顔だった」そう言う野田の顔もまた穏やかな顔つきをしている。

「奥さんにとって彼方あちらに旅立つって事はあんたとの約束を守りにいくって事なんだろう。・・・良い奥さんを持ったね。これはあんたと奥さんの2人で飲んでくれ。俺なりの祝福のさかずきだ」差し出した酒は2種類、1つはキャロル、意味は『この想いを君に捧げる』もう1つはジプシー、意味は『しばしの別れ』この2人にぴったりの酒だ。酒言葉を教えると野田は大層驚いた表情をみせる。

「酒にも花と同様意味があるのか、知らなかった。確かにこの酒たちは俺と春子にはお似合いだな。ありがたく頂くよ」2つの酒を半分ずつ飲む。

「残り半分は妻の分」そう言い残し野田は妻が愛したこの町に夜の闇に溶け込む様にして帰っていった。

「お前だけを愛すから俺だけを愛してくれ・・・か。言ってみたかったよそんな台詞セリフ」最近、あの頃のことをよく思い出す。店に来たお客の過去が私を昔に誘うように迫ってくる。「これが俗にいう『過去からは逃げられない』っていうお告げなのかね」そんな御伽話おとぎばなしのような事をその時の私は既に感じていたのかもしれない。過去はじわじわと私に手を差し伸べていたのだから。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る