第二夜 勿忘草


 丁度15時を廻った辺りだろうか、少し早いが夜の準備を始めようとしていた時馴染のお客、重さんが顔を覗かせた。

「やあマスター。いつものをおくれ」カウンターに座りながら隣に大きな花束をテーブルに置く。

「あいよ。それにしてもその花束どうしたんだい?貰ったのかい」

「いや、この後墓参りに行くのさ。今日は千代の命日なんだ」花束を擦りながら亡き妻に想いを馳せる姿は穏やかだ。

「・・・・・・・そうかい。ならこれは奥さんの分だ。良かったらこれも飲んでくれ」渡したカップは2つ。一つは重さんのすきなブレンド珈琲、もう一つはレモンティ。カップの中身を見て重さんが笑う。

「マスターは会ったこともない俺の嫁さんの嗜好まで分かっちまうのかい、大したもんだ。じゃあありがたく頂いておくよ」レモンティの方に手を伸ばし口に運ぶ。ほのかな酸味が口に広がり顔が綻ぶ。

「懐かしい味だ。千代が去ってから一度も飲まなかった。この味を思い出したら千代に会いたくなる。レモンティはね、私と千代の思い出の味なんだ」

「ほう?レモンティが思い出の味とはロマンチックだね。奥さんと大恋愛でもしたのかい?」茶化しながら言うと重さんは首を横に振る。

「戦時中に知り合ったんだ。よくある話だ。戦場に行く兵士に一夜限りの花嫁って奴さ。マスターの年齢から考えたら戦争に行ったんじゃないか?」

「・・・・・・さてね、憶えてねえや」私は口を閉ざすと重さんは「そうか」と

一言添えて話を終わらす。

「それで?なんでレモンティが思い出の味なのかは聞かせてくれないのかい」私は話題を戻す。

「そうだな。ここまで言ったら話すよ。忘れもしないさ、あの日のことは」重さんは紅茶を眺めながら思い出を紐解き始めた。


 「嫁ですか。この私に」重則はおもむろに両親と顔を合わす。その表情は些かよろこばしい。理由は分かっている。私の許に通達が来たのだ、国ために戦えという喜ばしい通達が。

「お前も明後日には御国ために戦うんだ。その祝いと云ってはなんだが、嫁と娶るのも悪くないかと思ってな。もう準備は整っている」父は早々と伝えると準備のため居間を出ていく。母もそれに習い付いていこうと腰を上げた。私は母を引き留める。

「母さん待って。私は明後日にはもう此処には居ないんだ。どうして嫁をめとる必要があるんですか?相手の女性に失礼です」

「重則、これはもう決定事項です。貴方の為に用意したんです。早く着替えて隣の部屋にいらっしゃい。相手の女性はもう来ていますよ」そう言って今度こそ母も居間から出ていった。私は居間から暫く動けなかった。頭が上手く働かない、というのは正にこのことだろう。余りの両親の横暴さに付いていけなかった。こんな時代だ、戦場に行く兵士に細やかな幸せをと思っての計らいだと解っている。しかし自分にもその風習が降りてくるとは思っていなかった。ここに居ても仕方ない、私は自室に戻り言われるまま着替えて両親らが居る部屋におもむいた。

 部屋に入ると両親をはじめ、相手側の身内も揃っていた。いないのはただ1人、花嫁だ。私は相手の女性がいない事に少し安堵し指定された場所に座る。

「相手の女性は千代さんと言って歳は18歳です。貴方と同じ年だから緊張する事はないでしょう」横で母が花嫁について教えているが生憎私の耳には入っていない。私は気付かれないように溜息を吐き相手の女性が来るのを待った。すると、襖が開き1人の女性が現れる。白無垢をきた女性、私の嫁になる千代さんが付き添いの人に引かれながら私の許に近づいてくる。綿帽子で顔はよく見えないが薄っすらと化粧をしているのか白い肌に紅い紅がよく映えている。私の許に辿り着いた千代さんは横に座る。花嫁が揃った所で婚儀が始まった。私達は目の前に置かれた盃を受け取り三々九度を行う。これで私達は夫婦になったのだ。周りが騒いでいる中、私達だけは静かだった。正直どんな言葉を言えばいいのか分からない。そんな表情が出ていたのか千代さんから声を掛けてきた。

「不束者ですがどうぞ、よろしくお願いします。重則さん」女性らしい高めの声だった。顔を横に向けると綿帽子で隠れていた千代さんの顔が見えた。控えめでいて、でも芯が通っている表情がそこにあった。

 婚儀も終り私達は入浴を済ませ私の布団の上にいる。布団は一組、余りの生々しい風景に思わず眩暈がする。お互い何と言葉を発してよいか分からず、向かい合って正座をしている状態だ。するとおもむろに千代さんが服を脱ぎだし私は慌てて止めにかかる。

「ち、千代さん!何をしているんですか⁉服を着て下さい」

「夫婦になった男女がすることは一つです。これは私の、嫁になった女の義務です」そう言い切りながら彼女は服を脱ぎすて、今度は私の服に手をかけた。その手は震えていた。私は千代さんの手を握り行為を止める。

「千代さん、こんな事する必要はありません。私や貴女の御両親が何か吹き込んだとしてもそれに従わなくていいんです」なるべく優しく諭すように千代さんに言い聞かせる。

「・・・・・・でも、それでは私がここに嫁いだ意味がなくなります。貴方に必要とされなかったら私にはここに居る価値がありません」彼女は私の服を離し顔を覆い隠すように呟いた。その声は微かに震えていて、手のあいだから涙が流れている。私はそんな彼女を愛おしく感じ、腕の中に引き寄せる。

「千代さん。知っているとは思いますが私は明後日には戦場に旅立ちます。帰ってこれる可能性はとても低いです。それでも、私の帰りを待っていてくれませんか?貴女の許に帰って来れた時、もう一度貴女に結婚を申し込みたい」千代さんの目を見て今の想いを伝える。傲慢ごうまんと分かりながらもこの気持ちを言葉にせずにはいられない。私は彼女を愛してしまったから。腕の中にいた千代さんが顔を上げる。目は微かに腫れていたがその顔は微笑んでいる。

「優しいんですね。・・・貴方の帰りを待っています。だから私がこれから言う約束を守ってくれませんか?」声を震わせながら彼女は言葉を発する。

「生きて帰って来てください。生きて、私の許に貴方が戻って来れたとき、私を抱いて下さい。その時初めて私は貴方の妻になれます。だから必ず、私の許に帰って来てください!」

「約束します。必ず、必ず千代さんの許に帰ってくると」私達はお互いを抱き合うように守るかのように一つの布団で眠りに就いた。ああ、人の体温はこんなにも暖かく心地良いものだったのか。帰ってこよう、彼女の許に。国の為なんかじゃない、彼女と共に歩む未来の為に私は此処に帰ってこよう。


 「その二日後、私は戦場に向かった。今でもあの時の千代の顔は忘れられない」紅茶を飲み終えた重さんは冷めきった珈琲に手をかける。美味しくないだろうに。

「戦場に行くときに千代は私に花を一輪くれたんだ。この勿忘草を」テーブルに置いていた花束を愛しげに見つめる。勿忘草の花束を。

「マスターはこの花の意味を知っているかい?」

「確か・・・『私を忘れないで』だったかな」私も花束に視線を移す。ピンクや白、青紫色の花束に彼の妻に対する愛情が溢れ返っている。

「その通り。戦場で何回も死の淵を彷徨った。でもその度に頭の中で千代の顔が、声がこの花が私をふるい立させてくれた。『私を忘れないで』この花言葉に私は何度も救われたよ。マスターにはいないのかい?自分を奮い立させてくれる人は」重さんは私に質問しながらも答えを聞くこともせず愛する妻が眠る場所に足を運びにいった。

「重さん・・・私にもいたよ。私の全てを懸けてでも守りたかった人が。もしあの時に戻れるなら私も送りたいよ、勿忘草を」もうこの場には居ない重さんに私は答えを返す。勿忘草の花言葉は2つある。『私を忘れないで』そしてもう一つは『真実の愛』。私は伝えられただろうか?真実の愛とやらを。


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