五話 喫茶店に来る彼女

 午後四時。ピーク時を過ぎ、にぎやかなおばさん連中がいなくなるのを見計らうようにして、彼女は現われる。


「いらっしゃいませ」


 いつものように、カウンターの奥から二番目の席。

 ゆったりと席に落ち着き、頬にかかったセミロングの髪を耳にかける。

 それを見届けてから、僕はそっとお冷やを差し出した。


「ありがとう。じゃあ、ブレンドをホットで」


 頼むものもいつもと同じ。

 注文を繰り返して去ろうとしたら、後ろから声がかかった。

 心臓がどきりと鳴る。


「ごめんなさい、ミックスサンドも。お昼食べ損なったの」

「はい、ミックスサンドですね」


 仕事が忙しかったのだろうか? どんな仕事をしている? 来店する時間からして会社員ではなさそうだけど。かといって主婦にも見えない。いつもおしゃれな格好で、自立した女性といった雰囲気なのだ。本当に、何をしている人なのかまるで見当が付かない。気になる。でも、聞いてみるなんて……。

 僕はすごすごと引き下がり、カウンターの中にいるマスターに注文を伝える。まぁ、聞こえてるはずなんだけど。

 マスターが彼女に声をかける。


「忙しいんだ、マチちゃん」

「まぁね、クライアントが気まぐれ屋さんなの」


 しかし疲れた様子は見せず、余裕のある微笑みをマスターに向けた。

 マスターはマチちゃんなどと気安く呼ぶが、大人な彼女にちゃん付けはいかがなものか。

 どのみち僕は、そんなふうに気安くは呼べない。

 できあがったミックスサンドとブレンドコーヒーをトレーで運び、彼女の前に並べる。

 その間、彼女はじっと僕を見つめた。

 高鳴る胸の音を聞かれやしないかと気が気でない。


「キミは高校生?」

「あ、はい、この春から高校二年です。マスターの甥なんです」


 声が上ずらないように願いながら。

 すぐそばにある、彼女の美しい顔は見られない。


「じゃあ、春休みの間だけかな?」

「いえ、新学期になってからも続けます」


 本当は春休みだけのつもりだったけど、叔父に懇願して続けさせてもらうことにした。理由は当然……。


「そうよかった」


 意外な言葉にちらりと彼女を見ると、にっこりと笑みを向けてくれていた。

 口紅の赤に引き込まれそうになって、慌てて目を逸らす。


「よかった?」

「ええ、かわいい男の子がいてくれると、おばさんは大いに癒やされるのです」

「男の子……」


 そこに引っかかりを感じてしまう。

 彼女にしてみれば、僕なんてしょせんお子様なのだ。


「あ、おばさんを否定して欲しかったなぁ」

「え! いえいえ! おばさんではないと思いますよ、マチさんは!」


 彼女に向かって何度も手を振って否定する。

 当たり前だ、おばさんなわけがない。

 怒っていやしないかと彼女の表情を窺うと、相手は悪戯っぽい目を僕に向けていた。


「ふふ、少年をからかってはいけないね。顔を真っ赤にしちゃった」


 そう言われると余計に顔が熱くなる。

 居たたまれなくなって、トレーで顔を隠しながら彼女から遠ざかった。マスターがにやにやとこっちを見てくるのがひたすら忌々しい。

 それから僕は、大判の雑誌を見ている彼女を遠くから眺めた。

 堂々とは見られない。気付かれないようにこそこそと。

 それだけで幸せを感じられる自分がみっともなくてみじめで。

 だけど僕にはどうすることもできない。

 彼女は大人の女性で、僕は未熟な子供なのだから――

 三十分が過ぎ、彼女は雑誌を閉じて席を立った。

 残念に思いながらも声をかける。


「ありがとうございました」

「また来るね」


 すれ違った時、彼女の香りが鼻腔をくすぐった。

 何という香水なのかは、僕には分からない。




 毎日ほんの三十分。それでも彼女と逢えるのを楽しみにして、僕はバイトを続けた。

 逢えるというのはおかしい。話らしい話もしないのだから。

 そんなある日、彼女の方から僕に話しかけてきた。


「ねぇ、キミ。『たぬのしん』って知ってる?」

「はぁ、タヌキのキャラクターですよね、女子に人気がある」

「そうか、男子でも知ってるんだ。あれって、不細工だよね?」

「不細工ですね。それがかわいいらしいですけど、女子に言わせると」

「なのよ~、おばさんにはさっぱりよさが分からないんだよねぇ」


 と、難しい顔で腕組みをする。

 そうしても彼女の胸の膨らみは少しも強調されなかった。どうやら彼女は貧乳のようだ。別にいいけど。


「まぁ、大人は分からなくてもいいと思いますけど」


 やんわりとおばさんを修正する。


「そうもいかないの。今度のクライアントが、『たぬのしん』みたいなぶさかわいいキャラクターをご所望なんだよ」


 うーん、とうなる美人。


「キャラクター……。あの、マチさんて、どんな仕事をしてるんですか?」

「ん?」


 驚いた顔でこっちを見た。

 ミスった、余計なことを聞いたか。


「ああ、イラスト描いてるの、私」

「へぇ、イラストレーターなんですか」

「そうそう。あ~、平日のこんな時間にうろうろしてて、こいつ何やってんだ、って思ってたんだね?」


 にぃ、と意地悪げな笑み。

 怒っているのではなく、からかっている。

 それは分かっているが、焦ってしまうのは変わらない。


「いえいえ、その、なんていうか……、ミステリアスな人だな……って、そう思ってて……、すみません」

「ほう、ミステリアス。それはなんだか素敵な響きだね。どう思う、マスター?」


 と、カウンターの中にいるマスターに話を振る。なんだかうれしそうな顔。


「どうだか。子供の頃の腕白振りを知ってるとねぇ」

「ふふ、だよね」


 ご機嫌で頭を軽く振る。


「そんな昔からの知り合いなんですか?」

「そうだよ。私は元々この辺りの人なの。しばらく都会にいたんだけど、独立を機に戻ってきたんだ」

「高校は城山だったよね?」

「そうそう、よく覚えてるね、マスター?」

「あ、じゃあ僕と同じだ」

「お、後輩君だったのか。城山の名に恥じぬよう、勉学に励み給えよ?」

「はい、先輩」


 意外な接点。

 思いがけず彼女のいろいろを知ることができた。なんてラッキーなんだ。


「高校かぁ、随分遠い過去だね。今じゃ、流行り物にも付いていけない」


 と、なんだか寂しそうにつぶやく。

 しかしすぐに明るい声を出す。


「ま、そうも言ってられないか。やっぱり実物を見てみるべきかなぁ、『たぬのしん』」

「小物屋さんによく売ってますよ、ぬいぐるみだとかいろいろ」

「随分簡単に言ってくれるね? あんな若い子ばっかりのお店、私なんか入れないよ」


 と、口を尖らせて軽く睨んでくる。

 予想外にかわいい仕草にどきりとしてしまう。


「だったらこいつを連れていけばいいよ。若い子と一緒なら、ミステリアスなおばさんでも入れるんじゃないか?」

「おばさんは余計だけど、そんな手があるのか。ちょっとしたデートだね」

「デ、デート」


 思ってもみない話が飛び出した。

 この人と……デート? デートしてくれる?

 できるだけ平静を装うが、頭の中はパニックだ。


「なーんてね。こんなかわいい男の子を連れて歩いたら、ミステリアスどころか怪しいおばさんだ」

「そうかい、残念だったな、マサ」


 と、こっちに向かってマスターがニヤニヤ顔。

 がっかりというより、ホッしてしまった自分が情けない。


「『たぬのしん』はネットで買おうか。デートはキミが大人になるまで、オ・ア・ズ・ケ」


 僕に妖しい視線を向けて、キスするみたいに唇をすぼませる。

 大人の色気に当てられた僕は、その日ずっとドキドキが止まらなかった。




 今日の彼女はずっと沈んだ表情をしている。

 心配だけど、僕は何も聞けない。踏み込む勇気がなかった。

 見かねたらしいマスターが声をかける。


「何かあったのかい、マチちゃん」

「ん? んー、彼氏と別れたの」


 カウンターに両手を突くと、後ろに向かって伸びをした。

 彼氏と別れたのか。じゃあ今までは彼氏がいたんだ。そっちのショックがまずあった。


「へぇ、長かったの?」

「長いのかな? 三年。結婚したいっていうのはいいんだけど、家庭に入れって言うの。だから、別れた」

「ああ、マチちゃん、ここまで来るのに苦労したもんな」

「そう、そのとおり。今時ナンセンスだよ」

「ですよね、僕ならそんなこと言わないな」

「ん?」


 あ、思わず口を挟んでしまった。

 しかもなんて図々しい……。


「す、すみません、子供のくせに」

「ううん、ありがとう。キミみたいに理解のある人だったらよかったのにね」


 温かい眼差しを送ってくれるが、それは相手にはしていないという証。

 その視線に僕は我慢できなくなった。

 彼女の方へ一歩踏み出し、精一杯真剣な目で彼女を見つめる。


「僕だったら、マチさんを悲しませたりしません」

「うん、うれしいな」

「僕、須藤将道すどうまさみちっていいます。あなたのことが、好きです」

「え?」

「好きです。好きなんです」

「そう、なんだ……」


 あまりにも突然すぎたか。彼女は戸惑った表情を見せる。

 でも、僕の中に後悔はなかった。

 分不相応だとずっと怖じ気づいていたけど、こうして面と向かって言えた。なんだか誇らしい気分だ。

 彼女がふっと柔らかく微笑んだ。


「ありがとう。キミの気持ちはとてもうれしいよ。大事に受け止めた」


 その優しい言葉は、僕のことを男としては相手にしていないと伝えてきた。

 心が挫けそうになったけど、ここまで来たら言えるだけ言ってしまおうと覚悟を決める。


「付き合って下さい、マチさん。頼りない子供に見えるかもしれないけど、僕はきっとあなたを幸せにしてみせますから」

浜町行子はままちゆきこだよ」

「え?」

「あなたが好きな人の名前。浜町行子。これからは名前で呼んで?」

「行子……さん……。付き合って、くれますか?」


 行子さんが困ったような顔をして大きく首を傾げた。髪が頬にかかる。


「ごめんね、私は今まで、キミをそういう目では見てこなかった。だから今すぐは答えられないな」

「そう……ですよね……」

「キミがもっと大人になってから、それでもまだ私のことを好きでいてくれたなら、そしたらもう一度声をかけてほしいな。その時は私もちゃんと答えられるようにしておくから」

「じゃあ、今は……」


 行子さんがゆっくりと席を立つ。

 芳香が届くくらい迫ると、僕の肩にそっと手を置いた。


「頑張れ、将道クン」


 彼女の吐息が耳をくすぐる。

 その後、彼女を感じさせる柔らかなものが、ほんのわずかな間だけ僕の頬に――

 からんと音が鳴って喫茶店の扉が閉まるまで、僕は身動きが取れなかった。


「おい、マサ、諦めるのか?」


 マスターの声に振り返る。


「諦めたくない」


 ただの憧れかもしれない。始めはそうだったかもしれない。

 でも、僕は確かに行子さんが好きだ。

 この感情はもう、揺るがせにできない。


「三十分やる。落としてこい」


 マスターが扉の方を親指で指す。

 僕は弾かれるように店を飛び出した。




 喫茶店の外は住宅街。

 向こうの方に一人で歩く行子さんが見えた。

 すかさず追いかけ、声をかける。


「行子さん!」


 途端に大げさなくらい身体をびくつかせ、行子さんは歩みを止めた。ゆっくりとこちらを向く。

 僕は彼女の前まで一気に駆け寄り、自分の抑えきれない感情をぶつけた。


「行子さん、好きです! 好きなんです!」

「う、うん、それはさっき聞いた」


 行子さんはキョロキョロと視線をさまよわせる。

 もしかしたら他の人の目があるかもしれない。だけど僕は止まらない。


「待てないんです。今、付き合って下さい。今、あなたと一緒にいたいんです」

「で、でも、私はおばさんだよ?」

「そんなことないです。若くて、きれいです」

「若くはないよ、最近は肩こりが酷くって」

「僕が解します」

「夜、ひとりぼっちになったらお酒ばっかり飲んでるし」

「僕がおつまみを作ります」

「部屋ではずっとジャージだし」

「飾らなくていいと思います」

「じ、実は家の中、結構散らかしてたり?」

「僕が片付けます」


 行子さんはずっと目を瞬かせ、頬を赤く染めていた。

 なんだか落ち着きなく手をごそごそさせたり、身体をもじもじさせたり、喫茶店での様子と随分違う。


「あの、私ってそんな、オトナのオンナじゃないの。お店ではオトナぶっちゃったけど、ホントは告白されてテンパってたし、うまく言い逃れたのはどっかで見たマンガかドラマのパクりだし、せっかく逃げおおせたのにキミ、追いかけてきちゃって私、グダグダだしで、ホント、オトナからは程遠いの……」

「オトナは関係ありません。僕は、行子さんが好きなんです!」


 自分の髪を弄っていた行子さんの左手を、両手でぎゅっと握りしめる。


「ひゃっ!」


 かわいらしい声を上げて、行子さんが身体を振るわせた。


「好きです。今みたいにかわいい行子さんも、好きなんです」

「か、かわいいって……私そういう年じゃないし……」

「いいえ、女の子はいつまでも、女の子なんです!」

「く、くぅぅぅ……」


 眉尻を下げて八の字にし、潤んだ瞳で僕を見る行子さん。

 右手で髪を耳にかけたら、その耳は真っ赤に染まっていた。


「付き合って下さい、行子さん。絶対に、がっかりさせませんから」

「うう……参ったな……こんなにぐいぐい来られるなんて、初めてだよ……」

「それくらいしか、取り得はないですから」

「あ、実は巨乳好きだったりしない?」

「ないです。貧乳でも大丈夫ですから」

「それはよかった。あ、いやいやそうじゃなくて」


 身体をくねらせて困り果てている。

 こんなに困らせるのはよくないのかもしれない。

 でも、ここで諦めたらもう終わりだと思った。


「でもなぁ~、条例がなぁ~、条例がなぁ~」

「大丈夫、付き合うだけなら条例は関係ないですよ」

「そうなのかな?」

「多分」

「あ、キミ、結構眉毛濃いね?」

「それが好みだったり?」

「実は」

「じゃあ!」


 思わず身を乗り出すと、行子さんは大きくのけ反った。


「いやいやいや、眉毛だけでお付き合いとかないですから」

「……そうですよね」


 少し頭を冷やして身体を引く。

 行子さんが右手を僕の手にそっと重ねてくる。


「でもね、将道クンの気持ちはとてもうれしいの。こんなにドキドキしたのは初めてかもしれない。この年になってこんな気持ちになるなんて思いもしなかった」

「これからもずっとドキドキさせてみせますよ」

「それは頼もしいな」


 行子さんが僕に向ける視線は愛おしげで、子供に向けるものではないように思えた。

 彼女が付けている香水のことは相変わらず分からないけど、それでも僕は彼女に近付いていけるはず。

 僕ほど行子さんに強い想いを抱いている男はいないのだから。


「ねぇ、将道クンに聞きたいことがあるんだけど」

「何ですか?」

「キスって、条例に引っかかるかな?」

「大丈夫だと思いますよ」

「よかった。じゃあ、優しくキスして?」


 目を閉じた行子さんが、艶やかな唇を僕の方に向けてきた。

 少女みたいにかわいらしく頬を染めて。




(「喫茶店に来る彼女」 おしまい)

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