三話 ホワイトデーだよ、お返しは?

 勢いよく家から道へと飛び出たら、朝の日差しをまともに食らって右目が眩んだ。


「ちくしょう、いい天気だぜ!」


 思わずにやりと笑みがこぼれる。

 おっと、学校だ。歩いて二十分のところにある我が校は、走ればもっと早く着く。そして今は走らねば遅刻という時刻。

 東小の韋駄天と呼ばれた健脚は未だ健在。難関の信号をうまく渡ると、やがてのんびりと歩く高城の後ろ姿を捉えた。


「よっす、高城たかぎ!」


 がばっと後ろから肩を抱く。低重心の高城はよろめかずに男を見せる。


「また走ってきたのかよ、雨宮あまみや。お前は何才児だ?」


 ヒジで押し退けようとしてくるが、こちらは決して逃さない。


「まだまだケツの青い十七才児だ。お前こそ、のんびりしてる時間ないんだぞ? 一緒に走ろうぜ!」

「だーいじょうぶ、俺の席は一番後ろ。おじいちゃん先生に気付かれないで潜り込める。知ってるだろ?」

「でもこっちは最前列だ。しかもおじいちゃんには目を付けられてる。一緒に走ろうぜ?」


 元よりちんたら歩くのは趣味じゃない。


「嫌だよ、昨日あんま寝てないから走ると吐きそうだ」

「んだよ、一人でナニのしすぎだぞ?」

「そういうこと言うな!」


 こっちの頭を叩こうとするが、軽く仰け反ってかわしてやる。我ながらなかなかの運動神経。


「届かねぇぞ、チビ!」

「うるせぇ、さっさと行きやがれ!」

「ちっ、付き合い悪いぜ。じゃあ、貰うもんだけ貰っといてやる」


 と、手を出したら向こうは払い除けてきた。なんだと!


「お前にくれてやるもんなんかないっての」

「はぁ? 先月のお返し! あげただろ、私!」

「おい、予鈴鳴ったぞ。いいのか?」

「チクショウ! 覚えていやがれ!」


 高城を突き飛ばして再び走り出す。おじいちゃん先生は時たまスイッチが入ったみたいに怒るのだ。


「おーい、スカートめくれるぞ!」

「短パン穿いてるっての!」


 後ろをめくって見せてやる。向こうは見たくもないものを見せられたとばかりに顔を背けやがった。無礼者めが。




 どうにか遅刻はせずにすんだ。三月だというのに汗だくになったのには参ったが。

 それより高城だ。先月、哀れな非モテにチョコを恵んでやったというのに、ホワイトデーのお返しを用意してないだと? そんなんだからモテないんだ。ただでさえチビなのに。

 一限目が終わると同時に取り立てにいく。奴がいるのは教室の一番後ろだ。


「おいこら、高城」

「なんだよ、すぐ来るなよ」

「貰うもん貰ったらすぐ戻るっての。マジで持ってきてないのか?」

「ああ、何も持ってきてない」

「信じらんねぇ……」


 がっくりと大げさに肩を落としてみせる。しかし奴は反応なし。


「しゃーねーなー。売店の菓子パンで勘弁してやるよ。ひとつじゃないぞ、みっつな」


 指を三本立てて突き付けてやる。


「菓子パン? 雨宮、お前そんなんでいいのかよ」

「しゃーねーだろ? ホントはまともなクッキーとか欲しいけどよー。別に菓子パンでいいや」


 いきなり高城の奴が肩を掴んで引っ張ってきた。ふいを突かれてよろけてしまう。


「別にって、手作りチョコのお返しなんだぞ?」


 こっちの耳元で声を潜めて言ってくる。別に内緒にするような話でもないんだけど。


「いいよ、別に。手作りったって、お姉ちゃんがほとんど作ったんだしな」

「はぁ?」


 今度は突き放してきやがった。こいつは意外に力が強いので逆らえない。またよろける。


「何? こっちは妥協してやってるのに、なんで高城が不満げなの? おかしいだろ」

「おかしいのはお前だろ? だって、手作りなんだぞ? お前にとって手作りってのはその程度の価値しかないのか?」

「ないっての。材料もお姉ちゃんの余りだもん」


 と、チャイムが鳴った。


「じゃあ、昼休み。菓子パンみっつな、みっつ!」


 また指三本を突き付けてやる。向こうはすごい不満げな顔をしやがった。何なんだ?




 そして昼休み。眠気との戦いを終えた私が後ろの高城のところまで行ったら、向こうはこっちを睨み付けてきやがった。


「何その顔? いいから売店行こうぜ。菓子パンみっつは譲れないからな」

「イヤだ」

「はぁ? 何、ダダこねてんの? あーもー、じゃあ明日なんか持ってこいよ。なんで私がここまで妥協しなきゃなんないの?」


 大きく首を振ってうんざりアピール。なのに相変わらず向こうはこっちを睨み付けたまま。


「おい、弁当持って俺と一緒に来い。誰もいないとこで話がしたい」

「え~っ、ふたりっきりでナニする気なの~っ。あたし、レ○プされちゃ~う」


 とっておきの裏声なんて出してからかってやる。身体をくねくねさせて。


「だから! なんで雨宮ってそういう奴なんだよ!」


 いきなり怒鳴りやがった。教室にいる連中の視線を集めてしまう。でも、騒いでるが私たちだと分かると、「なんだ、また高城と雨宮か」って顔で興味をなくす。


「分かった、悪かったっての。メシね、メシ。ていうか、いつも一緒に食ってるじゃん」


 いったん自分の席まで戻り、お姉ちゃん謹製のお弁当を持ってまた後ろまで行く。


「付いてこい」


 まるで決闘に行くみたいに高城が言う。何なんだ。




 旧校舎の屋上は立ち入り禁止になっている。だけどここの鍵は壊れていて、コツを掴めば簡単に開いてしまう。そこへ二人していく。移動中、ずっと無言の高城が気持ち悪い。


「なぁ、話とか後でいいよな? 腹減った」


 相手の返事なんて聞かず、私はそこら辺に腰を下ろしてお弁当箱を開いた。お姉ちゃんは会社で女子力をアピールしたいから、お弁当の中身はなかなか凝っている。よしよし、今日も美味そうだぞ。


「お、ラッキー、唐揚げだ。高城好きだよな? 一個やるよ、はい、アーン」


 前に座っている高城の前に唐揚げを摘まんだ箸を差し出す。


「だから、そういうのやめろっての」


 手で払い除けようとしたので慌てて回避した。落としたらどうする。


「何そんなにカリカリしてんの? お返し持ってこなかったお前が全面的に悪くね?」

「うるせぇ、いろいろあるんだよ、いろいろとな……」


 などと口の中でぶちぶち言ってる。もういいや、お姉ちゃんのお弁当を食べるのに集中しよう。おおう、梅干し酸っぺぇ!

 そんなこんなでお弁当を食べ終わる。高城はとっくにお弁当箱を閉じ、それからずっとうつむいてる。


「あのさ、何か言いたいことがあるなら言っちゃってよ? 今の高城、正直言ってキモイ」

「分かった、分かったよ。あのさ、雨宮。悪いけど、ちょっとの間目ぇ閉じてくれる?」

「ん? 何だよ。じゃじゃ~んってプラチナのリングでもくれるっての?」

「ま、そんなとこ」

「なんだよ、もったいぶりやがってよ~。分かった、目ぇ瞑ればいいんだな?」


 どうせたいしたものは用意してないだろうに、ヘンな演出を考えやがる。あるいはドッキリか? 多分そうだろう。そう簡単には驚かされねぇぞ?

 などと身構えていると――


 いきなり何かが触れた

 唇に

 優しいもの

 目を開けたら

 間近に

 高城の顔

 ゆっくり遠ざかる

 奴の視線が

 居心地悪い

 唇を舐めたら

 醤油の味がした。


「え? 何、今の?」

「キスした」

「はぁ!」


 高城の顔がみるみる赤く染まっていく。じわじわと胸に実感が染みてきた。

 キス!


「なんでだよ! なんでキスなんだよ!」


 慌てて袖で口を拭おうとしてためらった。それって失礼? いやでも、あいつもふざけてやっただけだろ? ホントにそうか? 奴を見てみろよ。本気で照れていやがる。それを通り越して強ばってないか?

 キス? キスだって? 私とあいつって、キスとかする仲だっけ? バカをし合う仲だけどさ。キスってバカに含まれるの?

 キス?


「おい、言えよ! なんでキスなんだよ!」

「……したかったから」

「したかったから! あのさ、私、初めてなんだけど、キスとか!」

「そうか、よかった……」

「よくねぇよ!」


 心底うれしそうな顔をしやがったから、イラってきた。どうしてくれよう、この男。


「やっぱり……イヤ、だったか?」

「当たり前だろ!」


 よく分からない。頭の中はぐちゃぐちゃで、胸はドキドキ、唇は一気に乾いてしまった。あいつもやっぱり醤油の味がしたんだろうか? それともオイスターソース?


「もう一回してもいいか?」

「はぁ! イヤに決まってんだろ! ていうか、いい加減肩を離せ!」


 しかし奴は両手で私の肩を掴んだまま。こいつの方がずっと力が強いので私は逃れられない。そうか、高城は男なんだ。

 奴の顔がまた近付いてきた。私はとっさに自分の唇を舐める。乾いたままじゃ、みっともないと思ってしまった。

 二度目のキス。

 お姉ちゃんは恋する女だ。しょっちゅう誰かに恋し、振られ、また恋した。

 ある日、どこぞの男とキスしたなどと浮かれてたから、キスの何がそんなにいいの? と聞いてみたことがある。ただ唇がくっついただけだろ? って。そしたらお姉ちゃんは、「フワフワ・ドキドキ・キュンキュンなの」って答えた。

 訳分かんねぇ、その時はそう思った。

 今、分かった。


「悪い、雨宮」


 私の肩から手を退けた高城がつぶやいた。


「謝るっておかしくない?」


 落ち着かず髪を弄りながら私は言う。胸のドキドキは止まらないし、腰に力が入らない。足の先がムズムズする。


「だよな。どうしても、今日しないといけないって思ったんだ」


 高城は手を伸ばすと、私の髪を指二本ですぅーっと梳いた。


「か、か、か、勝手に髪とか触んないでくれるぅ~!」


 ヘンに声が裏返ってしまう。ドキドキがバレるだろ!


「お前の髪、長くてきれいだよな。前からいいって思ってた」

「そういうこと、言わないでくれるぅ~!」


 くっそ! また裏返った。目に涙がにじんでくるのを感じる。やべぇ、まるっきり乙女だ!


「お前、バレンタインに手作りチョコくれたよな。俺は『毒入りじゃねぇのか?』とか悪態付いたけど、ホントはすげぇ、うれしかった。もしかして、雨宮も俺のことが? とか」

「んな訳ねぇだろ。言ったろ? お姉ちゃんに無理矢理作らされたんだよ。たまには女の子らしいことしろとかなんとか」

「だよな。逆に、他に好きな男がいて、そいつに渡せなかったから俺に寄こしたんじゃないかって、ヘコんだり」

「何その妄想。私、恋とかしたことないし」


 恋ばっかりのお姉ちゃんをいつもバカにしていた。


「よかった……」


 でれっと表情を崩す高城。それを見た瞬間、胸の中にじわっと甘酸っぱいのが……いやいや、そんな。


「あのさ、高城も含めてだぞ。お前のこと、好きとかそういうのないから」

「でも、俺はお前が好きなんだ。ずっと前から」


 引き締めた表情で、面と向かって言われてしまう。

 その瞬間、ふわっと身体が浮いたような気がした。高城の向こうに見える青い空。空ってあんなにきれいだっけ?


「お、おう、そうか」


 拒否しろよ! そう叫んだ奴は、私の心の中では既に少数派だった。

 ふいに高城が前のめりになった。あっと思ったが、私は身動きできない。高城の匂いを感じたと同時に、腕ごとぎゅっと身体が締め付けられた。


「付き合ってくれ、雨宮」

「おう……いいぞ」


 自分でも驚くほど、当たり前のように答えてしまう。でも、後悔の念なんて奴は沸いてこない。代わりに、今までどこに潜んでいやがったかってくらいの、乙女でピュワピュワな奴がもこもこ沸いて出てきやがった。


「よっしゃっ!」

「声でけぇよ!」


 耳元で叫ばれて怒鳴ってしまう。乙女でピュワピュワになっても私は私だ。少し安心する。


「わ、悪い……」

「いいから離せよ。私……その……汗臭い」


 こんなことになるなら朝から走ったりはしなかった。滅茶苦茶恥ずかしい。


「いい匂いしかしない」

「ド変態が」


 きっと今の私は耳まで真っ赤っか。私は私で変わり様はないけど、今まで潜んでいた知らない私がこれからどんどん姿を現わしそうだ。

 かなり恥ずかしい思いをしそうだが、とても楽しみだ。高城の奴ならドン引きはしても見放しはしないだろうし。


「それはそうとホワイトデーだな。何欲しい、雨宮?」

「バーカ、とっくに貰ってるだろ?」


 できたばかりの恋人の肩に、私はそっと頭を預けた。


(「ホワイトデーだよ、お返しは?」 おしまい)

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