壱 僕にとって

 くるりくるりと繰り返し、輪廻の鎖は崩されず。



 僕こと修真しゅうまはいつもどおりの日々を過ごしていた。アルバイターとして働いているコンビニにて、毎日汗水を垂らし、家に帰れば彼女である依華よりかと長電話。そして、休日は彼女とデートをして、楽しい日々を過ごす。それが、僕にとっての日常だった。

 だがしかし、この平穏な日常は前触れもなく、音を立てず唐突に崩れ去ったのだ。


 職場から急いで帰宅し、辿り着く先にあるは小ぢんまりとしたアパート。そのアパートに置かれた郵便ポストの中に、でっぱるような形で新聞紙が入れられていた。僕はその郵便ポストから食み出した新聞紙手に取る。すると僕の眼中へと、でかでかと書かれた記事の見出しが飛び込んできたのだ。

「国立天文台や複数の天文家、太陽の膨張を観測」

「ふーん。そうなんだ」と、最初はその記事に一切の興味を持たなかった僕であったが、テレビを付けてもその情報が引っ切り無しに僕の両耳へと飛び込んでくるのだ。その情報が、例えどれほどまでに興味の無い内容でも、何度も聴けば嫌でも脳裏に焼き付いてしまう。そして、「これからどうなってしまうんだろう」と不安感を抱いてしまうのだ。


 流れていたニュースの内容はこうだ。

「元々太陽は膨張を続ける恒星であるが、つい数日前から急速な膨張を開始し、今では以前の二倍ほどの大きさになってしまった」らしい。

しかし専門家はそれほど問題視している訳でもなく、「今後数週間を経て元のサイズへと収縮していくだろう」と発言を残していた。

 その言葉を聞いた僕は、「それなら安心だ。単なる天体ショーの一種なのか」と思い、そして彼女との会話の肴にする事に決めたのだった。


 小ぢんまりとしたアパートの、小ぢんまりとした一室。そんなアパート故に、必要最低限の居住空間と生理的欲求を満たす空間以外の、「部屋」と呼ばれる空間は存在しない。しかし、小さな居住空間には人が一人寝転がれるほどの大きさを持った、場に似つかわしくないソファーが、どんと置かれている。僕はそのソファに寝そべり、そして仕事用のバッグから折り畳み式の携帯電話を取り出して、彼女の携帯電話へと繋いだ。


「ぷるるるる」とコール音が鳴る。そしてコール音が二回聞こえた頃、音に変化が現れた。

「もしもし、しゅうくん?」

 携帯電話という壁を越え、彼女の声が聞こえたのだ。

「もしもし。そうだよ、依華」

「どうしたの? 仕事上がり?」

「そうそう。今コンビニから帰ってきた所」


 いつものように会話を続ける僕と依華。会話を続ける傍ら、僕は依華へこう話を振った。

「そういや依華は例のニュースを見た?」

「例のニュースって何?」

 電話越しに、依華の、「気になるオーラ」を帯びた声が聞こえる。

「ほら、太陽が膨張してるとかって話」

 僕がそう言うと、「ああ、あのニュース?」と依華は僕に聞き返す。

「そうそう。だからさ、今度太陽でも見に行かない?」

「太陽を見に行くって、本気?」

 依華は僕の言った事がツボに入ったのか、クスクスと笑いながらそう聞いてきた。

「日食グラスとか、望遠鏡を持ってさ、河川敷に行くんだよ」

「もう。流星群を見に行くんじゃないんだから」

 やはり依華は、笑い続けたまま僕にそう言う。しかし、優しく語りかけるように、言葉を続けたんだ。

「いいよ。今度の休日にでもいこっか」と。

「え? いいの」

「うん! それに、修ちゃんとなら――」

 依華が何かを言ったようであったが、その声は小さく、僕にはなんて言っていたのかを理解する事ができなかった。

「ん? ごめん、ちょっと回線が悪いみたい。もう一回言って?」

「な、なんでもないよ。じゃあおやすみ!」

「え? ちょっと――」

 依華は焦るかのように否定すると、すぐにおやすみと言って電話を切ってしまった。彼女が何と言ったのか、僕は気になりこそしたものの、無理強いさせるのも悪い気がしたので、僕の記憶からその言葉は消し去り、そして布団を広げ就寝するのであった。


 朝、いつもとまったく変わらない時間に起床した僕だったが、携帯電話に一通のメールが届いている事に気が付いた。僕は慌てて携帯を開けるが、届いていたメールは依華からのメールではなく、朋輩であり友人でもある「新沢にいさわ虎一こいち」から送られた仕事についてのメールであった。

 彼曰く、「ローテの一人が倒れたので、代わりに入ってほしい」との事だ。内心乗り気では無かったものの、仕方がないと思い、メールの返信と職場へと向かう準備を整えるのであった。


「いらっしゃいませ」

 僕が急いでコンビニへ向かうと、そこには一人でレジを回している虎一の姿があった。そして来店すると第一声、お客様へと向けるのと同じように接客を行い、空いていた左手を使い、器用に僕を呼び寄せた。

「悪いな。わざわざ呼び出して」

「別に暇だったから問題ないよ。それより、どうして虎一しか居ないのさ。マネージャーはどうしたんだ?」

 僕はこの異常な雰囲気の説明を虎一に求めるが、虎一は両手を小さく上げる。まるで、「やれやれ」と言った具合にだ。

「メールで書いたとおりの簡単な話だ。丁度俺と一緒だった奴がさっき倒れてさ、救急車で運ばれたんだよ。それでマネも同行したから、店は俺一人って訳よ」

「それは何とも災難で……。えっと、それで僕はどうすればいい? 空いてるレジでレジ打ち?」

「ああ。そうしてくれると助かる」

「了解」

 僕は急いで更衣室へと向かい、コンビニ指定の制服を羽織り、虎一を補助するのであった。


 コンビニに備え付けられている時計が十二の時を告げる頃、別の朋輩が店を訪れる。そして、仕事の引き継ぎが行われたのだ。

「いやぁ、今日も疲れた疲れた」

 軽口を叩くように独り言を呟く虎一。

「本当、虎一はお疲れ様だよ」

「いやいや、シュウが来てなければ、今頃俺はどうなっていたか……本当すまなかった」

 冗談半分であったが、虎一は僕に対して謝罪と感謝を述べたんだ。でも僕に謝られる筋合いもなくて、「何言ってるのさ。困った時はお互い様だろ?」と言って、軽く受け流す事にした。しかし虎一は、僕に対して感謝しきれない思いでいっぱいなのか、「ファミレスにでも寄ろうぜ。俺が奢ってやるからさ」と、礼の意を込めて提案をしてきたのだ。

「良いのか? 本当に」と、虎一に対し聞き返す。だが虎一は、男に二言は無いと言った表情で、ファミレスに行こうと催促したのだ。

 僕は多少の自己嫌悪に陥ったものの、ここで虎一の提案を断るのも失礼だと考え、その言葉に甘える事としたのだった。


 コンビニから歩いて五分ほどで、目的地であるファミレスへは到着した。

「よし着いた。ここでいいよな?」

「うん。それにしても、デミーズなんて数年ぶりだ」

 着いた先は、「デミーズ」と、英語表記で大きく書かれた看板が取り付けられた、周りの店舗と比べると大きなファミリーレストランであった。

 このデミーズと言う会社は、元々国外にて展開されていたお店ではあったが、四十年ほど昔に、この国にも出店する運びとなった。だがしかし、この会社も紆余曲折あり、今現在はブランド名だけを引き継いだ、いわば別の会社となっている。

「あれ? 彼女さんとはファミレスに行かないのかい?」

 僕が、「数年ぶり」だなんて言ったからだろう。虎一はここぞとばかりに、僕と依華の関係を利用し、からかいを入れてくる。

「ファミレスで食事もするよ。だけど、デート先にあったファミレスは、全部デミーズじゃなかったからさ。デミーズは久々だ、って言ったんだよ」

「デミーズじゃないって、蜜柑のシルエットが特徴のファミレスとかか?」

「そうそう。あとドコスとか」

 少し疑問視していた虎一であったが、そんな事を話す内に納得してくれたようで、「あぁ。確かにこの辺はデミーズ少ないしな」と言って、店の中に入ろうと催促したのだった。


「いらっしゃいませ!」

 お店の自動ドアが開くと共に、店内から威勢の良い声が響き渡る。僕は周りを見渡し、込み具合を確認する。どうやら今は遅いランチタイムという事で大勢の人々が着座しており、店は偉く混雑の様相を見せていた。食事をとっている者達の風貌は、みな近くの会社にて勤めているのだろうと分かるような、古ぼけたくたくたの紳士服を着込んでおり、その者達は皆、「てきぱきと」食事を喉へ通していた。

 僕は、「これは少し待ちそうだな」と考えていると、すぐにウェイトイレスが僕達二人のもとへと駆け寄ってきた。

「お二人様でいらっしゃいますか?」

「あっ、そうです」

「畏まりました。二名様ご案内!」

 僕達に深々と頭を下げ、そして厨房へと伝わるように、そう叫んだのだ。


 この後、ウェイトレスに導かれた僕達は、二人用の席へと案内された。ここが大きめの店舗なだけあってか、店の奥のほうには少しの空席もあり、席の用意ができるまで待機する事もなくすぐに案内されたのだ。

 そして、お約束の条項を一通り言われた後に、僕達は注文する料理を決めるのだった。


 注文内容を決める上で、少々の時間を要す事となったが、その結果、僕も虎一も、共に同じ料理である、「和風ハンバーグ定食」を注文する事にしたのであった。ウェイトレスを呼び寄せ、注文内容を告げる。彼女は僕達の注文内容を受け賜り、そして数分後に、その料理は到着したのだった。

「熱々で美味しそうだな」

「本当美味しそうだ。いただきます」

「いただきます。っと」

 僕達は料理を目の前に手を合わせ、そして挨拶を済ます。そして、ナイフとフォークを用いて、焼き立てほやほやのお肉を切り分ける。

 ナイフによって切断されたハンバーグの断面からは、繊細な肉質の間にて濃縮された肉汁が、溢れんばかりに零れ落ちる。また、混乱を呼ぶ状況下にて、我先にと逃げ出すように、肉と肉の間に挟まれた熱気もまた、放出されるのだ。

 それほどまでに熱々で新鮮なそれを、小さく、一口サイズに切り分け、そして口に頬張った。

「美味い」

 食した瞬間、思わず口から言葉が零れだす。濃厚で、それでいてしっとりとした味わいの肉汁が、口の中いっぱいに広がり、多大なる幸福感が中枢神経を刺激する。肉の熱さも、ナイフによって切り分けられた結果なのか、肉塊内に凝縮されていた熱が分散し、程好い熱さの状態のまま口へと入った事で、より一層の幸福を得られる。言葉として表現するには事足りぬ、最上な仕上がりであったのだ。


 店内に置かれたデジタル時計が、十二時五十五分の刻を指す。

「和風ハンバーグ定食」も完食し、ご自由にお飲みくださいと書かれたウォーターサーバーを利用し、透明のグラスに冷水を注ぐ。そして、入れられた冷水を片手に悦に浸る僕達であったが、ある異変に気が付いた。

 その異変には店内外に居た他の人々も気付いている素振りを見せていた。

「ねえ虎一。随分と外が暗くなってきたんだけどさ、今日って雨が降りそうな天気だっけ?」

「何言ってるんだよ。今日は一日中晴れって天気だっただろ?」

「ならさ、なんでこんなに空が暗いんだ?」

 僕の言葉を聞き、慌てて窓の外を覗く虎一。

「確かに暗いな。だが外は晴れているみたいだ」

 虎一に促され、改めて空の様子を確認するが、確かに言われたとおり空は晴天、雲一つないほどに晴れていた。しかし空は暗いのだ。

 冗談半分で僕は虎一に、「もしかして、宇宙人がやってきたとか?」と、まるで映画のワンシーンのような事を言ってみる。だが虎一は、「まさか。そんな訳ないだろ」と、簡単にあしらうのだった。


 雲一つない晴天が、徐々に、徐々に暗くなる。太陽が雲に包まれ暗くなるのではなく、上から黒くて薄い布を一枚ずつ重ねるように、空は暗くなっていくのだ。

 そして十三時を告げる時報が流れ出し、数瞬が経過した頃、それは突然に現れた。

「おいシュウ! 空が光ってるぞ!」

 虎一が空を指差し、そう言った。その指の先を確認すると、まるで、「天から降り注ぐように」空から一筋の光が射していたのだ。その直後、声が聞こえたんだ。

「私は神だ。世界は三時間で消滅する。終焉の鐘が全てを導く」と。

 まるで世迷い言のような単語の数々が、僕の頭に響いた。

 そう、頭に中に響いたんだ。

 決して心に響いたのではない。耳から声が聞こえた訳でもない。そのまま文字通りの意味で、「頭の中に響いた」のだ。

 直接、頭の中に、滲み込むように言葉が雪崩れ込んできたんだ。この時、僕は直感した。

「これは人ではない、別の次元に存在する者の仕業」だと。


 刹那、地鳴りのような重低音と、得体も知れないとてつもなく大きな物が爆発する音が響く。

「なんだなんだ」と、ざわめく店内。それらを必死に抑える事すらできず、慌てふためく事しかできない従業員。

 皆が皆、この状況に対応する事ができず、混乱してしまったのだ。


 もちろん、僕達も例外ではない。

「い、今の、声と爆発音を聞いたか? なあシュウ」

 動揺し、震えた声で話しかけてくる虎一。

「聞こえたよ。世界が滅亡するだって?」

「どうすんだよ。いきなり三時間で世界が終わるなんて言われても、何も考えられねえよ」

 虎一は、神と名乗った存在の言葉を真に受けたのだろう。しどろもどろの言動を繰り返し、あたふたと落ち着きもなく体を動かす。

「ちょっと落ち着いてよ虎一。まずはお水でも飲もう」

「そ、そうだな」

 グラスを片手で鷲掴み、一気に中身を飲み干す虎一。少しは冷静さを取り戻したようで、再び俺に話しかける。

「それで、本当にどうする? まず俺達は何をすべきなんだ?」

「そんな事を言われてもな……あっ」

 虎一との会話。その中で僕は、ある重要な事をしなければならないと気付いたのだ。

「ど、どうした?」

「やらないといけない事があった。少し電話してもいい?」

「なに、構わないぞ」

「すまない」

 虎一の了承を得て、僕はある人へと電話を掛けた。ぷるるるる、ぷるるるるとコール音が鳴る。だが、幾ら待っても電話は繋がらない。

「……ダメだ、繋がらない」

 ぽそりと一つ呟く。その声を聞いた虎一は、閃いたかのようにこう言った。

「言いにくいんだが、多分今シュウと同じ事を考えてる輩も多いんじゃないか?」

「と言うと?」

 話したい相手と連絡を取れない僕は、多少パニックになり、一秒たりとも考えようとはせず虎一に聞き返してしまう。しかし先ほどより落ち着きを取り戻した虎一は、そんな俺を宥めるように質問に答えてくれたのだ。

「多分、通信障害が発生してるんじゃないのか? 震災の時ってよく繋がらなくなるしさ」

「つまり、電話は使えないって事か?」

「そういう事」

 虎一の言葉を聞いた僕は落胆し、テーブルに置かれていた冷水を一口、口に含んだ。

「ちなみにだけど、誰と通話しようとしてたんだ?」

 そこまでの僕の様子を見ていた虎一が、ふと疑問に思ったのか、僕に対して尋ねてきたのだ。もちろんそれを隠す意味もなかったので、僕は包み隠さず質問に答えた。

「誰って、彼女にだよ」

 僕がそう言うと、納得したように虎一は手を一度叩き、こう言った。

「あぁ、やっぱ彼女さんか」

「やっぱって、最初から勘付いていたのに聞いたのか?」

 虎一の発した、「やっぱ」と言う単語が気になり、彼に問い掛けてみる。

「大体こういう時って、家族か恋人に電話を掛けるのが基本だろ? だからどちらかだとは思ってはいたが、彼女さんのほうだったか」

「なるほど」

 僕は虎一から、あまりにも腹に落ちる答えを貰い、思わず声に出してしまう。

すると、僕に対して虎一も尋ね返してきたのだ。

「で、彼女さんとの安否が取れない今。シュウはこれからどうするんだ?」

「そんなの決まってるだろ?」

 僕にとって、彼女は、「世界で一番、大切な人」だ。なら、この後すべき行動は決まっている。

「依華の家に行くんだよ」


 虎一は一度頷くと、「なら俺はここで待ってるから、お前は彼女さんに顔合わせてこい」と言い、僕を見送ったんだ。

 僕は、虎一に手を振り、急いで店内から立ち去ろうとする。だがしかし、店の外へと通じる表口は、この異常事態に混乱した人々がごった返し、我先にと外へ退避しようとして、いわば高速道路で渋滞に巻き込まれるような状態へと変貌を遂げていた。そこには秩序と呼ばれるものはなく、保身に走る者しか居なかったのだ。

 列の後ろから、「早く行け。何つっかえてるんだ」と、罵詈雑言を浴びせる者。前の人に、タックルを入れるように体当たりをし、自らの巡が回るのを待つ者。果てはぎゅうぎゅう詰めの中を割り込み、外へ出ようとする者。

 前方にて、何が起きているのかを。なぜこのような状況に陥っているのかを、誰一人として確認しようとはせず、皆が皆、自身の欲を満たそうとしていたのだ。

 僕はなぜここまで人が溜まりに溜まっているのかを疑問に思い、列の最後尾にて背伸びを行い、その様子を伺った。すると、最前列に居た人はどうやら、「出たくても出られない」ようだった。その原因もすぐに理解した。

「自動ドアが開かない」のだ。

 普段、自動ドアが開かなくなった時は手動でそのドアを開ける事ができる仕組みになっている。だが、今回は違う。

「どれだけの力をかけ、自動ドアを横方向へ引っ張り動かそうとしても、自動ドアはぴくりとも動かない」のだ。

 この挙動がおかしいのは、誰の目に見ても明らかだろう。しかしこの場に居る人々は、僕を含めて皆パニックに陥っている。故になぜ動かないのかを考えるまで、頭が回らないのだ。


 ついには、前方に居た一人の中年男性が痺れを切らし、ずかずかと前へ出る。そして自動ドアに上段蹴りを加えて、物理的に壊そうとしたのだ。中年男性の力強い蹴りは、自動ドアの枠へと直撃し、鈍い衝撃音を発した後に防犯ブザーの音を鳴らして、歩道へと倒れ込む。そして、自動ドアだったそれは、「じゃぽん」と、まるで水溜まりにでも浸かったかのような音を立ててひれ伏したのだ。

 こうして自動ドアと言う障壁は壊されたのだ。しかし、歩道へ着地した衝撃で自動ドアに付けられていたガラスは粉砕し、四方八方へと飛び散る結果となった。だが、急いでいた彼らはそんな事は露知らず、人々は一斉に外を目指したのだ。


 ようやく、列の最後尾に居た僕も店外へ足を踏み出す事ができたが、そこには予想外の光景が広がっていた。空は、山から噴き出た煙が立ち昇る。対して地は、晴れているにも関わらず、泥を含む汚れた水が一面を覆っていたのだ。地面から、噴水のように溢れ出る泥水は、周りの建築物を徐々に浸食し始めていたのだ。

 僕はその光景を目撃し、呆気にとられてしまう。しかしすぐに自我を取り戻して、依華の家へと急いで向かうのだった。


 走って五分ほどした時、僕は大きな衝撃に包まれ、歩く事すらままならずその場に屈み込んでしまう。遠くから、今まで際限なく響いていた音とは違う、地震が訪れる前に聞こえる地響きのような音が鳴ったと思えば、すぐに地面を揺さぶられたのだ。その揺れは、生まれてから今までに体験した地震の中で五本の指に入るほどの大きさのもので、辺りで逃げ惑っていた人も、僕と同じ行動を取っていた。取るしかできなかった。

 建物の軋む音。ガラスや瓦、看板が落下し、地面に打ち付けられて割れる音。

揺れによる恐怖や、飛来物が直撃し痛みを感じる者による、阿鼻叫喚。様々な音が混ざり合い、この地は惨状と化した。

 だがしかし、数十秒すると揺れは自然と収まり、人々の混乱も多少和らいだのだ。周りは地震の時とは打って変わり、爆発音のみが響き、人の声一つ囀らぬ静寂へと変化したのだ。

 何があったのかを目視し、それに基づく状況分析をするために僕は周囲を確認する。その時、僕は気付いてしまった。

「太陽が二つある」と。

 普通なら、一つしか存在しない筈の太陽。しかし、建物に映る太陽の影は、確かに二つ存在したのだ。

 普通では有り得ない現象の数々。そんな状況の中、今現在僕にとって一番の不幸中の幸いだった事は、「落下物による怪我を負わなかった」事だろう。

 例えどのような状況であっても、僕のするべき事は変わらない。だが、体が万全であれば、一分一秒でも早く到達する事ができる。死ななきゃ安いとは言うものの、今は怪我をする事すら惜しいほどに切迫している。

「早く行かなければ、彼女にも――」

 この異常事態に危機感を覚えながら、僕は依華の家へと歩みを進めたのである。


 度々来る揺れや爆発音、ぬかるむ土砂に耐え続け、約四十分。全身から汗をかき、下着のシャツはびっしょりと濡れる。一息つく事もなく走り続けたので、喉はからから。足もくたくた。

 今にも脱水症状を起こして倒れてしまいそうなほどの満身創痍な状態ではあるが、ついに依華の家である小さな一軒家へと辿り着いたのだ。ごくありふれた一軒家。その一軒家は依華の実家で、生まれてからずっとそこに暮らしているらしい。

 依華の実家には、以前にも何度か訪れており、その時に彼女の両親とは何度かお話をした事もある。依華のお母さんは優しく、お父さんは風貌こそ威厳に溢れているものの、実際に対談してみると、一切そのような事はなく、寧ろ「ダメ親父」と形容したほうが良いほどに、初対面の相手にもフレンドリーな応対をしていた記憶がある。そんな家庭で育ったのが依華だ。


 それにしても、熱い。運動に起因するそれかは分からないが、とにかく体が熱いのだ。僕は汗で濡れた右手人差し指で、突くようにしてインターホンを押す。しかし、誰も出てこない。

「なぜ出てこない」

 僕は焦ってもう一度インターホンを押す。その意味も空しく、家の中からは一切の物音がしないのだ。


 僕は恐怖と不安のあまり、常識をかなぐり捨てて窓ガラスに体当たりを食らわせた。無理やりにでも中に入ろうと行動した。後先なんて考えず、目先の結果だけを求めて行動を起こしたのだ。

 窓ガラスは三度体当たりをすると、脆く散り中へと入れるようになった。僕は割れたガラスで体を切る事にも動じず、室内へと侵入した。

 しかし、家の中で予想外の物を目撃したのだ。

「依華!」

 割れた陶器や雑誌類、その他諸々が散乱する家の中に依華は居た。しかし、彼女はうつ伏せの状態で押し潰されていた。キッチンに置かれていた食器棚が、ここまでの地震によって移動したのだろう。依華の体に覆い被さるように、食器棚が圧し掛かっていたのだ。

 思わず叫び声を上げ、依華の元へと向かう。

「修……くん?」

「声を出しちゃダメだ! 今助ける!」

 幸い、依華は意識を保っていた。しかし、その声は弱々しく、今にも消えてしまいそうなか細い声だ。僕は彼女を気遣いながら、最後の力を振り絞って食器棚を持ち上げようとした。

 されどそれは食器棚。棚は丈夫でそれ故重く、一人で持ち上げるのは非常に困難である。その上、今の僕のように体力を消耗している状態では、持ち上げる力は通常時よりも弱くなる。故に、僕に食器棚を持ち上げる力は残っていなかった。


 決して諦めず、無理やりにでもどかそうと奮闘する。その様子を聞いていた依華は、諦観するように僕に語りかけたんだ。

「ねえ、修くん。私達が初めて会った場所を、覚えてる?」

「覚えてるよ。でも、今その事を話してる暇はないよ!」

「ううん。関係なくない。あれは今から一年と少し前の事だったよね」


「私と修くんは、大学の食堂で出逢ったんだよ。私が空っぽになったお皿を載せた食膳を落としちゃった時、たまたま近くで友達と話しながら食事をしてた修くんが、「大丈夫? 手伝おうか?」って話しかけてくれたよね? あの時、私は凄く嬉しかったんだよ。……でも、最初はそれっきりだったよね。それが、今じゃこうやって……。また、助けてもらっちゃってる。……私って、やっぱりダメな子だよね?」

 走馬灯を説明するかのように、依華は言葉を並べていく。その度に依華の声は震え、その声は涙声へと変わっていく。うつ伏せがために、彼女の表情を確認する事は叶わないが、過去の思い出が溢れんばかりに映し出されて泣いているのだろう。

 でも、だから。

「何を言ってるんだ。諦めるな! 依華はダメな子なんかじゃない!」

 彼女を励まし、どうにかして生への欲を捨てないでほしかった。


 神と名乗る存在は、あと三時間で世界は消滅すると言った。あれから既に一時間近く経過している。もし、神の発言が事実であり本当の事であるならば、僕達に残された時間は、あと一時間半程度となる。

 一時間半という、長いようで短い残り時間。僕は残された時間を最後まで、依華と共に過ごしたかった。

「修くん。ありがとう。私、修くんみたいな優しい人と出逢えて、本当に良かった」

「何言ってるんだよ! 僕が絶対に助けるから!」

「ううん。良いんだよ。修くんはもう休んでて、良いんだよ」

「そんな……」

 依華の言葉が心に刺さり、腕の力が抜けていく。それと共に、僕の額を水の粒が伝う。水の粒が伝い、視界がゆっくりとぼやけて前が見えなくなる。

「修ちゃん。私からのお願い、聞いてくれる?」

 虫の息で、今にも消えてしまいそうな依華が、優しく、語りかけるように僕にそう言ったんだ。

「なんだい?」

「私の手を、握ってくれると嬉しいな」

「……分かった」

 僕は全てを察して、持ち上げようとしていた食器棚からゆっくりと手を離し、依華の左手を握った。依華の手は、僕の手なんか温かく、それでいて温もりに溢れていた。


「ありがとう」

 依華がそう言った直後、強い南風が室内を吹き上げる。そして僕は意識を失った。

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