第20話


 彼はある一つの決意を胸に戦った。

 

 紅蓮に燃え盛る争いの渦中へ跳び込み、漆黒の闇夜を駆け抜け、灼熱の荒野を突き進み、幾多の悪魔から人の命を救い続けた。


 多くが彼に感謝した。全てでは無かったが、彼の行動を賛美した。


彼がそれに答えることは無く。ただ、戦い続けた。


だが、誰かを救う度、戦う度に、傷が刻まれた。その傷は身体へと広がり、全身を覆うまでさほど時間は掛からなかった。


一つ一つは小さな傷だったが、確実に、彼の身体を、精神を擦り減らせていった。


もう、止める事は出来なかった。


そして彼にも最期の日が訪れた。膝を折り、胴には風穴が開いている。腕は肩から千切られ、眼は潰れている。悲鳴は無かった、喉を貫かれていたからだ。


だが、彼の後ろには命を投げ打ち、守り通した者がいた。身体は敗北しようとも、最期の時まで、彼の決意は気高く、聳えていた。


それを美しいと思った。胸を奔る熱が、頬を流れる一滴の涙が肯定していた。


彼に持ちうる限りの力を貸したい。


そして、私は、初めて胸に溢れる願いに従った。


――それから幾年過ぎただろうか。


 暗雲立ち込める空の下、瓦礫の海を粉塵の飛沫を上げて奔る一筋の赤い光があった。薄汚れた白い装甲に、黒いバイザー越しに蒼い眼をぼんやりと輝かせ、男は魑魅魍魎が列をなす、怪物達の渦中へ躍り出た。

 怪物達が驚愕したのも束の間、すぐに牙を剥き、爪を尖らせ襲い掛かる。だが、男は容易く牙を砕き、爪を折り、怪物を蹴散らしていく。

 それまで追われる側だった人間達は、その男の登場に打ち震えた。歓声を上げ、消え往く恐怖に、訪れた希望に喜んだ。

 だが、一人の子供の曇りの無い瞳には、男の姿が克明に映っていた。希望と呼ぶにはあまりに儚げであっただろう。全身に奔る無数の細かな傷や皹、片目は潰れ、左腕は既に上がらないのか、力なく、だらりと垂れ下がっている。

 怪物を圧倒してはいるが、男も傷も負わされていた。男の飛び蹴りが最期の怪物の頭を砕くと、わっと歓声が上がった。歓声を背に浴びても、男は立とうとしなかった。

 肩は大きく震え、荒い息遣いが背中越しに聞こえてくるようだった。だがそれは歓声と賛辞の言葉に掻き消されて、聞こえない。


「――――」


 男が何か告げたが、聞こえなかった。

男は力を籠め、ゆっくり立ち上がると背後の人々に向け、再び告げた。


「早く逃げろ」と。


 掠れた声に、聞き取れた者は少なかった。だが、その言葉よりも無数に押し迫る怪物の軍勢を目にし、歓喜の声は消え失せ、人々は逃げ出した。

 男は逃げていく人々を黙って見つめた。その瞳に恨みや失望は無い。あるのはただ、一歩でも遠くへ逃げてほしいという切なる願いのみ。

 不吉を齎す死神のように、カラスに似た怪物が上空で弧を描く。軍勢はその下で行進を続ける。草を踏みつけ、石を砕き、妨げになるもの全てを破壊しながら、本能的な欲求に従い、人を殺さんと歩み続ける。

 男の白い体躯に奔る赤い光が、烈火のように力強く煌く。拳を硬く握るが、だらりと下がった左腕だけは一寸たりとも動かなかった。

男は三度呼吸を整え、軍勢の中へと跳び込んでいった。


そして男は――


 ランは言葉にならない悲鳴に目を覚ます。ベッドから跳ね起きると、その叫びが自分の声であったことに気がついた。眼が覚めたというのに、目蓋を下ろせば、まだ先ほどの悪夢が息づいていた。

 汗で身体に張り付く衣服の質感が不愉快だった。ランは洗面所に向かうと、衣服を放り捨て、シャワーを浴びた。汗が流れ落ちていくと同時に、激しい動悸に熱くなった身体を冷水が静める。

 シャワーを出て、雫が滴る髪を拭きながらランはソファに腰を下ろした。眠気は既に流されて消えていた。テレビをつけ、チャンネルを次々と切り替える。

見たい番組など無かった。ただ、考えないように、大きい音、情報を入れて思考を滞らせたかった。

テレビショッピングを見ている中、画面上部に緊急速報のテロップが流れる。とある山間部で土砂崩れが起こり、住民の避難指示が出たというものだ。ランはそのテロップが消えると同時にテレビの電源を切る。



――今、彼は戦っている。



 季節通りの豪雨は、アスクの体温を奪う事も無ければ、視界の妨げになることも無い。雨の触感、湿気、音を感じることも出来るが、それがアスクに影響を持たらすことは無かった。

 だが、土壌は違った。土地開発によって多くの木々が伐採されて裸となった山は、既に水を溜める力を消失していた。大雨によって地盤が緩み、泥の濁流が落ちていった。

 土石流に腰まで浸かりながら、アスクの濃紺の瞳は忙しなく動いていた。泥の中を潜行する、水生生物のような怪物、キャパシィーターの動きを捉える為だ。聴覚はこの土砂と雨音によるノイズが激しく、キャパシィーターの探知は難しい。

 鋭敏化した超感覚を用いればキャパシィーターの動きの探知は容易いだろう。だが、それの負荷は大きすぎる事を既に学んでいた。

 だからこそアスクはキャパシィーターが動く際の、泥の流れに集中していた。しかし、敵は攻めてこなかった。それどころか動くのすらやめ、どこかはわからないがその場で留まっている。

 アスクが攻めあぐねている間にも泥の濁流はどんどんと堆積していき、アスクの身体を埋めていく。恐らく相手は完全にアスクが泥に飲まれ、自分の土俵に変わるのを待っているのだろう。ただでさえ現状、動きに制限がかかると言うのにこれ以上のハンデを相手に与えるわけには行かない。


 アスクは賭けに出ることにし、あえて泥の中に全身を沈ませた。こちらが痺れを切らし、自分のフィールドに入ってきたと思わせるのだ。もしも相手が用心深ければ、これを無視して時間の経過を待つだろう。だが、今が勝機だと思わせられることができたのならば……。


 アスクは泥の濁流の中で、もがいた。手足を大きく振るい、まるで溺れてパニックを起こしているような仕草をした。ブラスターを明後日の方向に四、五発程度撃ち、混乱している体を装った。

 その動きに、すかさず相手は乗ってきた。泥を掻き分けながら何かが近づいてくるのが理解できた。アスクにとっても想定外だったのは、泥の中に全身を浸からせれば、耳障りだった雨音や周りの音は聞こえなくなり、視界が無くなる代わりに音がどこから来るかが理解できる事だった。


 背後から何かが首と腕に組みつき、アスクの首を絞め、呼吸を止める。一瞬の苦しみに喘ぐ暇も、腕を押さえられている為に抵抗する間も無く、首を折られ絶命させる。



――つもりだったのだろう。


だが、アスクは相手が背後から近づいてくる事を理解していた。アスクは背後から襲い掛かるキャパシィーターに回し蹴りを浴びせた。泥の中で勢いや威力は著しく低下していたが、相手を怯ませる事は出来た。泥を掻き分けながら相手を掴むと、そのまま濁流の外へと飛び出した。

 上空で相手を木の幹へと投げつける。遠心力によって双方とも身体に纏った泥の鎧が剥げ落ちていく。地面の泥濘に気を遣いながら着地するとアスクは相手と向き直った。

 相手は人の形をしていなかった。全身がぬるぬるとした薄膜に覆われ、輪のような口に、黒丸の目。口元から垂れ下がった触角。ナマズキャパシィーターは、その簡素な顔の造りからは窺えないが、苦悶の表情を浮かべているに違いない。

 それを表す様に、アスクが放った蹴りの痕が痛々しく残っていた。


「仲間も死んだ。次はお前だ」


「あれが仲間? ふへへへ、あれはただの囮だ!」


「そうか」


 アスクは淡白に告げた。アスクが現れた際にはキャパシィーターはもう一匹居た。赤い甲殻に身を包んだ、ザリガニを模したような怪物だった。腕は銀色に煌く鋏で、鉈のように鋭く大きかったが、それを振るう間も無くアスクの放った頭部への一撃によって致命傷を負った。だが死の寸前に自爆し、この土砂崩れを引き起こし、ナマズキャパシィーターの得意とするフィールドを作り上げた。

 ナマズキャパシィーターとアスクはしばらくの間睨み合っていたが、観念したように、ナマズキャパシィーターから力が消える。


「殺しなよ。もう勝ち目は無い」


「……」


 一瞬の沈黙の後、アスクはナマズキャパシィーターを倒すために近づいていった。降り頻る雨の中を一歩ずつ進んでいく。その度に拳の輝きが増していった。そしてその拳を振り下ろそうとした時、何かが警鐘を鳴らした。前にも経験した事のあるあの謎の囁きだ。

 アスクは咄嗟にその場から飛び退いた。その瞬間。ナマズキャパシィーターが発光し、青白いスパークが回りに広がっていく。雨粒を焼き、木々を焦がすほどの電流だった。アスクが着地した時、足元に僅かに電流を感じたが、ダメージと呼ぶには程遠い。だが、もし拳を当てる寸前に、あれを浴びていればアスクとてただでは済まないだろう。


「くそっ、二度目は通じないか!」


最後の悪足掻きが失敗した事を悟ると、ナマズキャパシィーターは身体をくねらせ、泥の濁流へと飛び込もうとした。アスクは再び手元にブラスターを出現させると、ナマズキャパシィーターへと狙いを定めて引き金を引いた。雨粒を焦がして走る熱線は、ナマズキャパシィーターをあっという間に引き裂いた。二発、三発と続けて撃ち込む。熱線はキャパシィーターの飛び散った肉片さえも蒸発させ、最後には爆散した。


アスクは戦い終えた事を確認すると、眼下の村を見下ろす。土砂災害こそ起こったものの、村から離れていた為、人的被害は無い。

それだけ確認すると、アスクは幽霊の如くその場から消え去った。


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