第18話
「くそっ、何が休暇だ、くそったれ!」
木田は休憩室のゴミ箱に蹴りを入れる。アルミ製のゴミ箱に窪みが出来たが、それでも苛立ちは収まらないのか自動販売機を殴りつけた。
椅子に座る樽寺は、八つ当たりの音が聞こえる度にびくんと身体を震わせながら、炭酸飲料を啜った。
「それはそうですよ。昨日の夜に会議室に飛び込んで、怪物に襲われた。なんて言えば上司の方々もあなたが病気だと、あ、いや、今のは言葉のアヤで、その……」
木田にぎろりと睨みつけられ、樽寺は言葉を詰まらせる。誤魔化すように炭酸飲料を口に運んだ。
「拳銃を撃っても怪物はびくともしなかった。それどころか俺を掴みあげて、空高く上げたんだぞ! あんなのが居るなら警察だって役に立たねぇ! 自衛隊に協力を仰がなけりゃ被害はどんどん広がってくぞ!」
木田は力説するが、樽寺はその気迫に圧され、生返事を返すばかりだった。それまでの互いの関係とはすっかり逆転していた。
「見ろ、この肩の痣を! 怪物の足に掴まれた時についた痣だ! こいつが証拠だろう!」
「いえ、それが余計におかしくなったのだと……」
「それに俺は白い奴も目にした。そいつに助けてもらったし、そいつの声には聞き覚えがあったし、恐らく、いや確実にあいつは……!」
そこまで言った所で、警察署が揺れた。一瞬、地震かと思ったが一回限りだった。不安と疑問に首を傾げた時、ガァン、ガァンと銃声が響いた。
その瞬間、木田は懐の拳銃に手を掛け、思わず姿勢を低くする。現状を理解できず突っ立っている樽寺のベルトを掴み、無理矢理屈ませる。
警報のベルが鳴り響き、それに掻き消されないように警察官達は声を荒げて会話を交わし、警察署内が騒然とする。
「上の階だな、何があったんだ?」
「ま、まさかテロ!?」
「馬鹿言うな、こんな都会でも田舎ない半端な場所にするかよ」
樽寺の不安を一蹴し、木田は拳銃をホルスターから引き抜き、立ち上がる。
「俺は上を見てくる。どこかへ逃げろ」
「よ、喜んで……」
木田は樽寺を置いて銃声のした方向、上の階へと走る。他の警官達も木田と同様の行動を取っていたが、上の階で何が起こったのか把握している者は居なかった。
銃声のした階に木田が辿り着くと、そこは廃墟と化していた。日中であるというのに部屋の中は薄暗い。窓は少ないうえに、蛍光灯が砕けているからだ。
蛍光灯は、火花を散らしながらぶらぶらと揺れている。床一面に書類が散らばり、机や椅子などはひしゃげて、ひっくり返されていた。
部屋の中で硝煙と血の臭いが僅かに漂う。硝煙は部屋の中に留まり、白く残る煙がふわりと木田の頬を撫でた。呻き声も聞こえ、真横では腹部を押さえ、痙攣しながらも呼吸を行おうとしている警官も居た。
だが、誰もが部屋の奥に立つ黒い影から目を離せなかった。太った傘のようなその影は、騒ぎを聞きつけて現れた警官達を見ると、
「見つけたぞ……」
低く、しわがれた声が薄暗い部屋に響き、影はばさっと、黒い巨大な翼を広げた。その瞬間、光景、姿に、怯えた。そしてそれを振り払うように彼らは引き金を引いた。撃鉄が雷管を叩き、まばらな破裂音が轟く。下手糞な合唱のように不揃いな銃声だが、全てが一直線に黒い影へと向かっていた。
ただ一人、木田だけは引き金を引かず、その黒い影を凝視していた。
無駄だと知っていたからだ。
黒い影に銃弾が命中すると艶のある表面で橙色の火花が咲いた。演奏が終えると、後はカチンと空しい撃鉄の音が響き、微妙な拍手にも似た、銃弾が地面に落ちる金属音が鳴った。
「間抜けどもが」
苛立った声と共に、翼を振るうと黒い羽根が飛んできた。木田は咄嗟に伏せたが、呆然と立っていた他の警官達はその黒い羽根が身体に刺さり、血飛沫が白い床に吹きかかり、滲んでいく。警官達は生きてはいたものの、激痛にのた打ち回っていた。
「残るのはお前だけだ」
黒い影は木田との距離を瞬時に詰めると、脚で木田を掴み、倒れている警官達からは反対方向の壁へと放り投げた。
浮遊感を感じる間も無く、背中に衝撃を感じる。タイルの床に落ち、口内に鉄の匂いを感じながら、力なく起き上がる。
黒い翼に鋭い嘴、細く三叉の脚。カラスキャパシィーターことレイブンは木田を見下ろしながら嘴を開いた。
「お前にやられたこの頬と耳、この借りは大きいぞ。覚悟しろ、生きたまま引き裂き、腸を引きずり出して、それで絞め殺してやる」
レイブンの黒い瞳は怒りに引ん剥かれていた。鉄扇のように翼が形を変え、振り上げられる。木田は息を呑んだ。
鉄扇が振り下ろされる瞬間、木田は死を覚悟した。だが、目を瞑りはしなかった。刑事としての心構えか、人生最期の強がりか、木田自身わからなかったが、彼は目を開いていた。
だが、寸前でコンクリートの天井を突き破って白い影が現れた。それは木田とレイブンの間に立ち塞がった。白い男は両腕を交差させて、鉄扇を防ぐ。火花が飛び散り、その中に混じった鉄粉がキラキラと輝いた。
白い男は蹴りを放ったが、黒い影は後ろに下がって距離をとる。互いに睨み合いながらも、白い男は木田に対して呟く。
「奴を連れてここから離れます。ここに居る人たちをお願いします」
それに返事をする前に白い男は稲妻のように駆け、眼前の怪物に迫り、直前で地面を踏み砕いた。
床に亀裂が広がり、地面に大穴が開く。思いもよらぬ行動に、飛ぶことを忘れた怪物は白い男と共にその穴へ落ちていった。
木田は呆然としていたが、男の言葉を思い出し、起き上がって怪我を負っている人間を担いだ。
落下の途中、翼を動かそうとしたレイブンを止める為、アスクは腕を伸ばし、その鳥脚を掴むと、地面に向かって引き落とした。
天井に穴が開き、そこから突然怪物が現れると、周りは悲鳴をあげて電気を付けたまま、我先にと出口へと急ぐ。先程からレイブンによって人が避難していたこともあって、人が居なくなるのには十秒と掛からなかった。
「いい加減にしつこいぞ……!」
レイブンは復讐を妨害されたこともあり、怒りに声と肩が震えていた。だがアスクは落ち着き、全身の赤い光の奔流は静まっていた。
「言っておくが、お前が何をしようが我々は人間を殺すぞ」
「それは無理だ。お前はここで倒れる」
アスクがそう答えると、レイブンはさらに怒りを燃やす。だが、それでも激情に支配される事なく、その場に立っていた。
アスクはぐっと踏み込み、レイブンとの距離を詰める。レイブンは即座に、鋭利な羽根をナイフの様に飛ばしながら背後に跳んだ。アスクは迫りくる羽根を叩き落としつつ、その中の二本を掴み、レイブンへ投擲する。レイブンは迫りくる自らの羽根を、見てから、避けるとアスクから逃げるように翼をはためかせた。
「……今ので、仮説が確信に変わった。レイブン、お前には赤外線が見えているな」
アスクは逃げ回るレイブンを追い回しながら話し出す。羽根を避け、防ぎながらもアスクは徐々にレイブンとの距離を詰めていく。
「ブラスターは光線より僅かに早く、赤外線が出る。だからお前は射線を理解し、撃つ前に避けることができた。この身体に流れる光も赤外線を発しているから、俺の拳は当たらなかった。そして腕が光る前に、その前兆を読み取った。でもその光に集中していた所為で、木田刑事が撃ったブラスターを避けられなかった」
「……黙れっ!」
レイブンは回避行動を取りつつ、怒鳴る。だが、既に攻撃をせず、回避行動に専念していた。そしてアスクの拳はレイブンを捉えつつあった。
「そして、あらゆるものには、特に光を放つものには多量の赤外線が出る。都会や日中は眩しかっただろう。お前は賢い。その時に行動するのはリスクが伴う事を知っていた。
だが、お前は木田刑事を殺すために、日中に警察署を襲った。それが命取りだったな。ここは常に明るい」
レイブンは壁を突き破って外へと逃げようとしたが、アスクがそれを許さない。レイブンにとってこの明るい部屋と狭い空間は、自らの強みを潰す場所だった。だが、対照的にアスクはこの狭い空間を物ともしなかった。段々と拳が、翼や身体を掠めていき――
「お前の負けだ」
アスクが黒い翼を捉えた。素早く、幾つもの拳を弾丸のようにその翼に打ち込む。肉と骨が砕け散る音が部屋に轟き、翼が壊れた傘のようにひしゃげる。
レイブンはコンクリートの壁を突き破って、警察署から落ちる。翼を折られ、込み上がる苦痛に飛ぶことなど出来ないまま、警察署玄関前のアスファルトに全身を叩きつけた。
玄関前にいた警官や、騒ぎを聞きつけ現れた職員は我が目を疑うようにレイブンを見る。
アスクはレイブンが開けた穴から跳び、野次馬とレイブンの間に立つ。燦々と照らす日光がアスクの白い身体を照らし、それに呼応するように全身の赤い光が輝きを取り戻す。
野次馬のざわめきを無視し、止めを刺さんとアスクが拳を固めて近づいていく。翼を折られたレイブンにもはやアスクの拳を避ける術は無い。だが、レイブンは苦痛を耐えつつ笑みを浮かべた。
「……お前も前と同じだ。どうせ人を守るつもりだろ? だったら守って見せろ!」
レイブンは鋭利な羽根を飛ばした。しかしその狙いはアスクではなく、周囲の野次馬だ。レイブンはそれと同時にひしゃげた翼を広げ、ぎこちなく飛ぶ。
アスクの鋭敏化した感覚は、別次元に逃げようとするレイブンと、羽根が迫りつつある野次馬を同時に捉えた。
ここでレイブンを逃がせば、また回復してから襲いに来るだろう。その時はより多くの人の命を奪うだろう。
だが、既に決めていた。人を守る為に戦うと。
アスクは素早く、野次馬に迫る羽根のナイフを全て弾くと、アスファルトを陥没させるほど両足に力を籠め、天高く、跳び上がった。
……奴は、前と同じだ。他人の命を優先した。だからこそ詰めが甘い。翼はぼろぼろで、飛ぶのも不恰好で速度も出なければ、激痛も伴う。
だが、あの別次元に戻りさえすればいい。怪我を治し、万全な状態で、過信せず、自分の領域で奴らを殺していく。だから今は……。
不意に、目の前を影が覆った。周りに遮るものなど何も無はずだった。顔を上げると、太陽を背に何かが迫ってきていた。煌々とした赤外線の束が視界を埋め尽くす。
それが、レイブンが見た最期の光景だった。
天高く舞うアスクの脚が赤く輝く。落雷の如きその蹴りは、レイブンの胴体を真っ二つに引き裂いた。
アスクが地面に着地すると同時に、レイブンの身体が上空で爆発四散した。
アスクはゆっくり立ち上がると、周りを見渡す。皆、唖然とした様子でアスクを見ていた。
「おい! 待ってくれ!」
アスクが立ち去ろうとすると、野次馬たちを押しのけ木田がアスクの元へと近づいてきた。木田は呼吸を整えてからアスクの青い眼を見つつ、小声で話す。
「お前、もしかして唐木啓太か?」
「……」
「言いたくないならいい。だが、一つだけ言わせてくれ。助かった」
アスクはそれに会釈で返すと、白い光に包まれ、その場から姿を消した。木田はアスクが姿を消した事に驚きつつ、もう一度小さく礼を言った。
「ありがとう」と。
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