第15話

 日が落ち、空が暗くなるのを待ってから唐木は静かに家を出た。家から十数分程歩き、鉄塔の下に立つと、周りを確認してからアスクへと姿を変える。

 アスクはその超人的な感覚で周囲を再び確認し、人気が無い事を認識すると、その場を垂直に跳ねた。月面のように軽やかに鉄塔を登り、天辺に着くとアスクはそこに腰を下ろした。

 高所故の轟々とした風が、アスクの滑らかな表面装甲の上を流れる。風圧を物ともせず、アスクは静かにそこに座っていた。

 逃したキャパシィーターの位置を特定する機能は無いとランは言った。確かに、アスクにはその機能は無い。謎の囁きやイメージもそう肯定している。

だが、手段はある。


 唐木は仮面の中で目蓋を下げると、深く深呼吸し、全ての五感をシャットアウトする。今まで感じたことの無い、完全なる静寂、認識すら出来ない黒、消えた嗅覚。

五感を全て閉ざしたのは僅か数秒にも満たないが、唐木の体調と精神は既に不調を訴えていた。心臓が高鳴り、息は荒くなり、額には汗が滲む。

だが唐木にはそれら全て認識できないでいた。今、立っているのか。それとも浮いているのか。ここは上なのか下なのか。漆黒の宇宙に投げ出されたよりも恐ろしく、感覚を狂わせる。

そして、閉じ込めていた五感を全て解放する。全ての五感が拡張され、彗星のように広がる。空気中に舞う微細な埃。細菌。吹きつける風の流れ、空の色。色の三原色による構成。風に擦れる葉の音。成長を続ける植物の音……。何もかもが唐木の頭の中に流れ込んできた。

唐木はアスクシステムと共にそれを捌き、目的の音を、姿を、臭いを探す。


車のエンジン音、違う。


空に舞うビニール袋、違う。


上空を飛ぶ飛行機の音、違う。


何かが羽ばたく音、筋肉が伸縮する音、風の流れを読み取り、飛行する物体、質量は人に近い、高度を上げる、雲に隠れる、どこかへと進む、低くしわがれた声。


……見つけた。


アスクはその他の情報を全て打ち切り、全神経をそれに向ける。どこに居るかわからない相手を見つける手段は一つ。その姿を感知することだ。アスクは今、人型のレーダーとなっていた。それも精度は軍艦に積むようなレーダーの何倍もの精度を有していた。


「……ここから近い、いや、遠いのか、だがアスクなら、確実に」


 アスクはぶつぶつと呟く。独り言のつもりも口を開いた自覚も唐木には無かった。大きく息を吸い、ふいに仮面の下で鼻を啜る。唐木は腕で鼻を擦ったが、仮面越しでは拭えるはずもない。それに唐木が気付いたのは、腕を下ろした後だった。


「……俺は、何をやっているんだ。いや、今はそれよりも早く奴を」


 アスクは感知した相手を睨みつけたまま、鉄塔から高く跳んだ。そして、稲妻の如く駆け出した。




 夜も深まり、木田は再び事件現場へと足を運んでいた。缶珈琲を片手に歩道橋の上から現場だった場所を見下ろす。既に交通規制は解除され、警察も撤収しており、事件現場だった場所は、僅かに残った染み以外普通の道路に戻っていた。

 木田はその対応に不満だった。証拠も何一つ見つかっていないのに、警察が撤収してしまえば証拠も何もかも全てタイヤ跡に塗り潰されてしまう。

木田含む現場の刑事は抗議したが、上は「証拠が見つからなかった以上、死体解剖から得る事があるだろう」とのことだった。

だが、本音はこれ以上の道路の封鎖は交通の流れを澱ませることへの不満と、近隣住民から苦情がくることへの怖れだったのだろう。

 木田はそれを思い出すと歩道橋の上で舌打ちをするが、下を走る車の音に掻き消された。

現場に立ち返れば、見えなかったものが見える。新たな発見があると教わってきたが、現場が無くなった時にどうすればいいのか教わることは無かった。警察学校を終えたときこそ、そんなことに疑問を感じることは無かったが、今思えばあの経験豊富な講師どもに尋ねればよかったと後悔している。

木田は缶珈琲のプルタブを押し上げ、口に近づけたとき、足元に何かが緩やかに落ちる。木田は珈琲から口を離し、その場にしゃがむ。刑事の癖でシャツの袖を使い、直接手に触れないように掴んだ。


「羽根? にしちゃあ随分デカイな――」


 羽根を拾い上げながら木田は何気無しに背後を振り向く。その瞬間、木田の意識は硬直した。瞬き、呼吸すら忘れ、眼前のものに釘付けになる。

 歩道橋の細い端に立っているそれは、人の形を保っていたが、全身は黒く、両腕は巨大な翼。足は鉤爪になっていた。目はぬるりと黒光りしており、口元はくちばしになっていたが、その右側がつり上がるのが見えた。

 ……嗤っている。

 それを理解したと同時に、目の前のカラスに似た怪物はその巨大な翼を広げた。足先に感じる浮遊感と同時に、両肩をマンリキで潰されたような激痛が走る。苦痛に持っている缶珈琲を落とし、悲鳴を上げる。その頃には先程立っていた歩道橋は小さくなっていた。

 木田は自分が上空にいる事は理解したが、受け入れることが出来ず、悲鳴を上げたまま羽虫のように暴れる。だが幸か不幸か、カラスに似た怪物が足はびくともしなかった。


「暴れるな、すぐに降ろしてやる」


 怪物は低くしわがれた声で木田に告げた。木田はそれを耳にし、動きを止める。勿論、それを真に受けたわけではない。この怪物が人の言葉を、日本語を話したことに驚愕したのだ。

 木田の頭の中で今までの言葉や映像がぐるぐる回って溶けていく。


天気予報で現れた鳥の怪物。

SNSに投稿されたおぼろげな写真。

「これはひょっとして未知との遭遇かもしれませんよ」

「鑑識の間では空から落っこちた、鳥人間の仕業とかぬかして困ったもんだ」

「この痣の痕は人間の手ではなく、鳥の足に似ています」

「だとしたら、犯人は巨大なカラスだ。ほら、カラスがよくやるだろ。クルミとかを落として割ったり、道路に置いたりして車に割らせるやつ。鳥人間の正体、いや種類はカラスだな」


 ――ぶわっと全身から脂汗が噴き出す。この怪物がもしあの犯人だとするのならば殺し方は至って単純だ。高く連れさり、落とす。それだけでいい。特殊な道具はいらない。飛行記録などあるはずも無い。人智を超えた生物であるならば。

 そしてこの怪物が何をするか木田には理解できた。その瞬間に木田は再び暴れ出した。もしここで怪物が木田を放せば、木田は死ぬだろう。だが、そうしなくても死ぬ。時間が長いが短いかだ。

 しかし、怪物の掴む手、いや前足の爪はびくともしない。木田はホルスターから拳銃を取り出し、真上の怪物に向けて引き金を引く。ガァンと破裂音が闇夜に響き、銃口が光る。


 ニューナンブ。警察官に支給される六連発の拳銃は、海外のオートマチック製、段数が多い拳銃に比べれば見劣りするかもしれない。

だがこの平和な日本で、非銃社会であるならばこれでも充分だろう。それにミサイルだろうが拳銃だろうが、簡単に人の命を奪えることには変わりない。

 だが、そのニューナンブの銃弾を浴びても、怪物は怯むどころか顔色一つ変えなかった。頭上に銃弾が落ち、目の前でへこんだ銃弾が闇夜の虚空に消えていく。


「間抜け、そんな銃が効くか」


 怪物はしわがれた声で嗤う。気がつくと歩道橋からかなり離れ、緑地公園の林の上まで運ばれていた。


「そろそろ降ろしてやるよ。……じゃあな」


 その瞬間、両肩に感じていた激痛から解放される。それと同時に一瞬、身体が浮遊感に包まれた。それからは全身に風を受け、地面に向かって落ちていくのを感じる。

三百、四百メートル位だろうか。自分でも信じられないほど木田は落ち着き状況を理解していた。だが急速に近づきつつある死の恐怖に震え、悲鳴を上げた。

 地面が近づき、目を瞑りつつあるその瞬間、視界の隅に白い閃光が映った。白い閃光は木田の身体を包むと、砂埃を巻き上げ、地面を滑りながら着地する。

 目蓋を上げた時、目の前には白い仮面に、青い瞳、身体を奔る赤い光。一目で追い続けていた「白い男」だと理解した。白い男はゆっくりと地面に降ろすと頭上の怪物へと向き直った。


「お、お前は……?」


「ここから離れてください」


「そ、その声……唐木、啓太……?」


 木田にはその白い男の声に聞き覚えがあり、思わずぽつりと口から漏れた。白い男、アスクはそれに答えず、怪物へ視線を向けていた。


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