第3話


「ただいま帰りました」


「おかえりなさい」


 唐木が帰宅すると玄関に、エプロン姿の女性、凪の母親である、蒼井晴子が柔らかな笑みを浮かべ迎える。


「もうちょっとしたらご飯だから、着替えるついでにシャワーでも浴びてきたら?今日も暑かったから汗びっしょりでしょう?」


「そうします」


 唐木は短く答えると、階段を上がって二階にある自室に入る。自室に入ると唐木は作業着の上を脱ぎ捨て、ベッドに身を投げた。

 クッションが身を包んでいく感触が、作業場での疲労感を甦らせる。押し寄せてくる睡魔に呑まれそうになったが、先程の晴子の言葉を思い出し、起き上がる。

 壁に掛けてある着替えを持って唐木は風呂場に向かった。

部屋から出たとき、「疲れたー」と凪の声が聞こえた。庭で日課である剣道の練習をしていたのだ。唐木は一瞬立ち止まったが、すぐに階段を下りて洗面所へと歩を進めた。


 ……ちゃんと凪と話さなくてはいけない。


 そんな思いが唐木の脳裏にふつふつと沸き立つ。道場の解体の一件以降、凪は避ける様に唐木と話そうとしなかった。唐木も関係の修復を求めたが、溝はより一層深まる一方だった。

 仕事中も、それが頭を埋め尽くしており、身体を動かしつつ考えを巡らせたが、何一つ建設的なアイデアは浮かんでこなかった。

 ただ、和解したい。そんな気持ちが余計に唐木を焦らしていた。ただ一つ幸運なのは相手も同じ様に思っていることだったが、唐木がそれを知る由はない。

 

 唐木は普段と同じく、洗面所の扉を開けると同時に、脱衣かごに汚れた作業着を放り込む。何年も住んでいる家であり、何年も続けている行為故、脱衣かごに作業着を外した事はなかった。

 だが、今日に限って唐木は脱衣かごに作業着を放り込めなかった。それどころかその場で作業着を抱えたまま案山子のように立っていた。

 洗面所には胴着を脱いで、下着姿で汗を拭いている凪が居たからだ。互いに一瞬だけ顔を見合わせると凪の顔が薄紅色に染まっていく。唐木が謝罪をすべく口を開く前に、顔を覆うようにタオルが投げつけられた。


「出てけっ、この変態っ!」


「すまない。ところで後で話が……」


「いいから出てけっ!」


 唐木は顔にタオルが覆い被さったまま、もう一度短く謝ると、脱衣所から出て扉を閉めた。

 顔を覆っていたタオルが床に落ちると、唐木はそれが先程まで凪が身体を拭いていたものだと理解した。もう一度扉を開け、このタオルを凪に手渡し、作業着を脱衣かごに入れようか考えたが、唐木の決断より速く鍵が閉まる音が聞こえた。

 唐木は脱衣所の扉の前に、畳んだ作業着とタオルを置くと静かにその場を後にし、自室へと戻って行った。



 先程の一件もあり、夕食時の空気は重苦しいものとなった。

唐木の向かいに座る凪は先程から唐木を一度も見ようとせず、黙々と箸を進めている。唐木も白米を咀嚼しながら謝罪の言葉を考えるが、口に出てこない。


「ほら、今日は赤味噌じゃなくて合わせ味噌にしてみたの。どう?」


「……すいません、俺にはよくわかりません」


 晴子が、気を遣って話題を振るが凪は無言で味噌汁を啜り、唐木はと言えば今よりも申し訳無さそうな表情で感想を告げることしかできなかった。


「ごちそうさまっ!」


 凪は茶碗を流しに置くとすたすたとリビングから出て行き、自室へと向かった。凪が出て行くと唐木は唇を結んでうな垂れる。


「やっぱり、まだ仲直りできないの?」


「……はい」


 晴子に尋ねられ、唐木は申し訳が立たないといった表情でそれに答える。


「これで三日目よ。あの子とちゃんと話した?」


「はい。ですが、俺の言葉が足りなかった所為で余計に拗れてしまって……」


「そう……。あの子もあの子で意地っ張りなところがあるから」


「いえ、凪の怒りは真っ当なことです」


「あの子も将来は啓太くんのお嫁さんになるって言ってたのにねぇ?」


「……五歳の頃の話です」


 晴子が頬杖をつきながら呟くと、唐木は弱ったように後頭部を撫でた。

同じ屋根の下に住んでいるが、唐木は凪と話をすることが出来ないでいた。今までも何度か和解を求めて唐木は凪の部屋に訪れているのだが、間が悪かったり、話し合いの末に蹴り出されたりと進展はなかった。


「思いついたわ!」


目を瞑って考えを練っていた晴子が目を開き、人差し指をぴんと立てる。


「……何をですか?」


 晴子は唐木の質問には答えず、にっと笑みを浮かべた。



 凪は額に手を当て自室のベッドで仰向けになっていた。

学校では明朗快活な女子と評されている凪だが、表立って見せていないだけで悩む事や、迷う事はある。友人関係や勉強、生徒会に行事、それに恋愛、歳相応の悩みは尽きない。

 だが、そういった姿を他人に見せないことが美徳であると凪は考えていた。常に胸を張って凛と立ち、問題に背を向けずに取り組んでいく姿は、多くを惹きつけると同時に称賛の視線を向けさせた。

 そんな彼女の姿を妬む者こそ少なくは無いが、裏を返せばそれらも彼女を羨む人間である事に変わりはなかった。


 彼女がそんな性格になったのは父親から教わった剣道にもある。剣道の姿勢、礼節、武道としての側面を学んだからだ。彼女は道場が無くなった今でも庭先で素振りや身体の鍛錬を日課としている。


 しかし、その度に凪はどこか庭の広さを感じていた。以前は同居人である唐木啓太と共に剣道を学び、練習していたからこそ余計にそう感じた。

男女という差があっても互いの腕前は互角で、試合をすれば常に接戦が繰り返された。そしてその経験を生かし、学び、切磋琢磨しあった。

 

だが成長するにつれて唐木は肉体労働に専念し、剣道に割く時間が減っていった。父も母も、凪自身もそれに理解を示し、尊重したが、勝負相手であり練習仲間を失った悲しさはあった。

 高校生になると唐木は完全に剣道を断ち、自分の時間を肉体労働に注いだ。それまで唐木の部屋に立て掛けられていた剣道道具が、押入れの奥に仕舞われていたのを偶然目にしたとき、凪はどこか胸が締め付けられた。


 先述のように凪が竹を割ったような性格になったのは剣道にもあるが、もう一つ、唐木啓太にもある。

 幼くして事故によって両親を失った唐木は親族間でのたらい回しの後、殆ど養子といった扱いで蒼井家に招かれた。

 その当時から唐木は寡黙な少年で、凪は不思議と唐木が自分と同じ年齢には思えなかった。常に落ち着き、周りをよく見ている聡明な少年で、同年代の少年とは一線を画していた、というよりも浮いていた。

 

 両親を失い、親族間で腫れ物のように扱われ、自身の押し付け合いを目にしたというのに、己の不幸を嘆くことのない唐木の姿に、凪は尊敬の念を抱かずにはいられなかった。

 しかし、唐木はそれらに関心を失っているだけであった。押し寄せてくる不幸を受け入れ、「両親が死んだ」という事実だけを見据えていた。自身の待遇に関しても同じだ。

 唐木が交友関係を築く事に関して消極的なのもそういった過去があるからだろう。無愛想な表情や、短く述べるだけの言葉は人を寄せようとしない。

 とはいえ、心が無いわけではない。表情に乏しく、口下手であって悲しみも喜びも存在する。それを知った時、胸に去来した想いを凪は今でも持っていた。


「……やっぱり、ちゃんと話し合わないとダメだよね」


 ベッドの上で凪は一人呟く。

 道場に関してのことで、凪は唐木のことを避けていた。同じ屋根の下、会話をせずに過ごすのは不便であったが、それでも凪は唐木と話す気になれなかった。

 幼少期の思い出や、父親との記憶が詰まった道場が解体されると聞いたとき、凪は半身を失うような強い衝撃を受けた。

 最初は強く反対をしたが、道場は老朽化が進み、父親が亡くなって指導者も生徒もおらず、後継人も居ない事は凪も理解していた。

 このまま道場を残しておく事も可能だった。しかし、維持費や管理の手間といった問題。それに思い出の詰まった道場が廃墟として朽ちていくことは、凪には耐えられなかった。

 苦悩の末に解体を了承したが、その解体に唐木が参加していることは知らなかった。学校からの帰り道、唐木は黙々と道場の中にあったものを放り捨てていた。

 

 それを目にした時、凪の脳裏に困惑が浮かんだ。波打ち際に立っているように身体が揺れ、真っ直ぐ立つことすら難しい。そんな感覚だ。

 凪の視線に気づいた唐木と目が合った時、それは怒りに変わった。凪は家に帰ってきた唐木を即座に問い詰めた。


 何故、思い出が詰まった道場を唐木が壊しているのか?

 幼い頃から一緒に剣道を学び、過ごしてきた場所を、壊しているのか?

 どうして乱雑に、まるで瓦礫を扱うかのように壊しているのか?


 唐木は今にも殴り掛からんばかりに問い詰める凪に圧されつつも、何時もの様に淡々と、短く、「俺が道場の解体を志望した」と答えた。

 

 唐木の答えは凪には理解できなかった。ただ、言い表せない怒りが噴き上がっていくのを感じた。手を上げる寸前、唐木は再び言葉を続けた。

「道場は俺が解体する」

 それを聞いた途端、凪の固めた拳が開いていった。


落胆。


失望。


 押し寄せてくるそれが、凪の頬に涙を伝わせた。

胸が刺されたように痛んだ。頭は殴られたように痛む。今まで受けた痛みよりも、何よりも、苦痛を覚えた。頬を伝う涙すら冷たく感じた。


 それ以来、唐木とは顔を合わせようとしなかった。言葉も交わしたくない。何度か唐木は和解を求めてきたが、聞こうとはしなかった。一度だけ耳を傾けたが、以前と大差ない言葉に、凪は部屋から唐木を蹴り出した。

 今日も唐木は機械のように道場を解体していた。その姿は悲しさと怒りを同時に引き起こした。だが洗面所での一件や食事の際に見た、あの寂しげな表情。


……あの時の私も同じ表情をしていたのかもしれない。


きちんと話し合わなくてはならない。そう思い始めていたが、その機会が無い。部屋に入って話すことが、その一歩が踏み出せないでいた。


「凪ーっ、ちょっといいかしらー?」


「いま行くー」


 リビングから凪を呼ぶ声が聞こえ、凪は思考を止めて、返事を返した。ベッドから起き上がると凪はリビングへと向かう。リビングに着くと晴子は柔和な笑みを浮かべていた。


「悪いけど明日のパンが無くなっちゃったから、コンビニに買いに行ってきてくれない?」


「もう夜遅いし、明日の朝じゃダメなの?」


「そんなこと言わずに、ほら、何か他の物も買ってきてもいいから」


「……まあ別に、いいけど」


 やけに強く迫る晴子の催促に不信感を抱きつつも了承する。すると晴子は再び柔和な笑みを浮かべ、いそいそと財布から千円札を取り出して凪に渡す。凪はそれを受け取るとポケットに仕舞い、すたすたと玄関へ向かった。


「それじゃあ行ってきます」


 すると突然、思い出したように晴子が口を開いた。


「あっ、待ってこんな夜中に女の子一人で出歩いちゃ危ないわ!」


「なら明日でいいじゃん」


「ダ、ダメよ。明日までにはパンが必要なの!」


「……なにそれ」


 凪の言葉を無視し押し通そうとする晴子に、内心呆れつつもその場で立っていた。凪が想定した通り、晴子はわざとらしく指をぴんと立てると、「思いついたわ!」と言った。


「啓太くんも一緒に居れば安心だわ。……啓太くーん、ちょっといい?」


 晴子が二階に向かって呼びかけると、唐木は狙い済ましたように階段から降りてくる。服装は先ほどまでの部屋着の上に、外出出来る様、ジャージを羽織っていた。


「悪いけど明日のパンを凪と一緒に買いに行ってきてくれる?」


「はい」


「そう。良かった。なら気をつけて行ってきてね」


 晴子からエコバックを受け取ると、唐木と凪は追い出されるように家の外に出された。外に出た凪は、唐木を一瞥する。唐木はさも平静を装いながら靴紐を結んでいた。

 しばらく夜道を歩きながら唐木の顔を見ず、凪は尋ねた。


「ねぇ、さっきのって打ち合わせしてたでしょ?」


「……何のことだ?」


「まあ、いいけど。私があんた一人に行かせればいいって言ったらどうしてたの?」


「……」

 

唐木は額に汗を浮かべながらその返答に詰まった。表情に乏しいと言われる唐木だが、こういった正直なわかりやすさはあった。

 やがて観念したように、唐木は声を絞りながら「すまない」と零した。


「お母さんもあんたも、演技もアドリブも出来ないのに何でそんなことするのかなぁ? あんたなんて最初から外に出る格好で出てきたじゃない」


「……そこまで考えなかった」


 唐木は困ったようにそう漏らすと、恥ずかしさを隠すように顔を伏せた。


「で、小芝居までしたんだから話したいことがあるんでしょ?」


「ああ。その、剣道道場についての話だが、俺は……」


 唐木が言葉を探しながら話し出すと、遠方から人の悲鳴が聞こえた。二人はそれに驚き、悲鳴のした方へ視線を向けた。悲鳴は剣道道場、工事現場の方角からだった。


「い、今のって」


「事故か……?」


 唐木が工事現場の方角に走り出そうとし、凪は慌てて腕を掴み、唐木を止める。


「あんたどこに行くつもりよ!」


「事故が起こったのかもしれない。手を離してくれ」


「あんたが行ってどうなるのよ! それにもし危ない奴とかだったらどうするの!?」


「……手を、離してくれ。……凪は先に帰っていろ」


 唐木は静かにそう告げると凪の手を払い、工事現場へと走っていった。幼少期には剣道を学び、現在も肉体労働で身体を鍛えている唐木の身体能力は高く、足を踏み出す度に、ぐんぐんと速度を上げ、闇の中へと消えていく。


「ああ、もう!」


 その場に残された凪はしばらくその場に立っていたが、唐木への悪態を吐くと後を追うように走っていった。



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