9;先生と策略
「なるほど、ふうん」
苛立ちを隠さない、冷ややかな声色で、先生は椅子を床に置きました。ヒビ1つ入らない窓を睨み、続けて先生は悪態をつきました。
毛足の長いカーペットの上には、割れて壊れた手鏡、ヘアアイロン、置き時計、ハンガー、今時古いガラスの灰皿、いろんなものが置かれています。いえ、置かれているというのは少々間違いですね。乱雑に落とした、と言うべきでしょう。先生は、道具を使って窓ガラスを割って、脱出を試みたのです。
しかし、さすがは抜かりない教授のことです。ガラスだって、割れ防止のものを使用しているに決まってます。というか、ホテルのこの部屋自体にそこまで武器になるものはないのですが。
「いや、そもそも、ここはスイートルームだ。窓から出ようったって、高層階、どうやって降りるんだ、馬鹿か僕は」
あっ、それもそうですね。失敬。私はぬいぐるみなので、怪我とか死とかをあまり肌で感じないもので。人間とは、かくも弱し、ですか。
それでは、どうやってここから逃げるおつもりで。私は先生に問います。先生はため息をついて、椅子に行儀悪く座りました。背もたれを抱える感じの座り方ですね。まあ、品のない。いや、品はなくたって、先生はもう"学研都市"の人間ではないので、誰も咎めやしないのですが。
「僕たちは自分の意思で"学研都市"に来たんだ。そもそも、そんな状態で逃げられるかどうかは難しい」
あら、弱気ですね。ふむふむ。
先生は弱々しく目を伏せます。ああ、くるっとカールされたまつげが美しいです。何かその瞳に悲しい思い出の影が、ふっとかかり……どうしたんでしょう。そんなアンニュイな顔をされると、とてもとても、うーん美しいとしか思えません……そして、先生は目を見開きました。
「ただ、夜一の鼻を明かすことはできるよ」
真十鏡先生は無表情で答えました。
真十鏡先生は、椅子から立ち上がり、窓の下、カーペットの毛足に埋もれるように転がり落ちたホテルの備品を物色し始めます。どれもこれも、窓ガラスを破る武器として使用して、結局壊れてしまったものたちばかりです。先生が何度も硬いガラスに向かって投げつけたり、振りかざしたりぶつけたりするものですから、ヘアアイロンのプラスチックは欠け、灰皿も割れ、ハンガーのワイヤーは歪み、手鏡は割れ、なんかもう、すごいことになってます。ああっ、そっちに行くと足怪我しちゃいますよ、ガラスなんですから。
「怪我していいんだよ」
真十鏡先生は冷ややかに、静かに言いました。けれど、声の震えからして、冷静になっているとは言い難い感じですね。何をお考えになっているんです?
「夜一は完璧主義の男だ。傷ひとつない、美しいものが好きだ。僕の顔を狙おうとしたロボットは自死した」
真十鏡先生は、カーペットの上に散らばった残骸のある1つに手をつけ——ああ、ガラス片ですね、手鏡が割れた時にできた薄いガラス片——それを布で包んで優しく握って、キラキラ光る切っ先を今自分の頬にめがけて——まさか。
「僕が僕の顔を傷つけたら、あいつはどんな顔をするのかな?」
真十鏡先生は、笑っていました。
頬に切っ先を十分に当て、そのまま縦に自分の肌を引き裂こうとしたその時でした。
「水色ッ!!」
ドアを蹴破るようにして入室してきたのは、烏羽玉教授でした。
そのまま、教授は、窓際で微笑んだまま自分の顔を傷つけようとする先生に駆け寄りました。
「ああ、全くお前は! 何を考えているんだ」
教授は先生の手を降ろさせ、顎を掴み、顔の無事を確かめました。
「お前のような美しい男が、顔を傷つけようとするなんて! お前の顔は誰もが羨む顔だ、それを自分で無価値にしてしまおうだなんて、それは美への反逆だ、"街"に行くとみんな狂うと言っていたが、まさか本当だとは、今すぐ病院へ行こう、お前には治療が必要だ」
まくしたてて話す烏羽玉教授を見て、げえ、と思ってしまいました。近くに私が見ていると言うのに、なんとまあ。
確かに先生のお顔はとても綺麗です。南国の海を思い出させる(……なぜ私は南国の海を知っているのでしょう?)透き通った水色の髪の毛も、煌々に燃える赤い火のような瞳も稀有なもので、それを際立たせるかのように凛としたお顔立ちでもあるので、確かに目を引きます。確かに綺麗な顔ではありますが。
でも、ダメですよ教授。なんだかその言いぶりは、不愉快です。教授、先生の顔だけしか見てないもの。
そんな、私の不愉快な気分は、どうやら真十鏡先生からすれば、殺意に十分達したようで、
「次会うときは、お前を殺すと私は言った」
——腹を刺しました。先生が、教授の。
とっさのことで気がつかなかったのですが、どうやら、手に持っていたガラス片を、教授の腹めがけて突き刺したようです。
先生、なにやってるんですか、と言おうとして、声に出なかったことを自覚しました。驚きすぎて声が出なかったのです。
真十鏡先生は、烏羽玉教授を押し倒します。ただでさえ物が散乱していたカーペットの上、烏羽玉教授は、頭をヘアアイロンにぶつけました。先生は教授に馬乗りになります。教授の腹に刺さったままのガラス片を、先生は全体重かけてさらに押し込もうとします、しね、とその唇は動きました。
「あずさゆみ! 梓弓!」
教授は叫びました。するとやはり扉の向こうからすぐにバトラーサービスの、梓弓が飛ぶようにやってきました。そのまま、梓弓は、教授とその上に馬乗りになった真十鏡先生を引き剥がし——大した力ですね——真十鏡先生の首元を掴み、床に押さえつけ、烏羽玉教授の無事を確認しました。
「大丈夫だ、服を2、3枚傷つけただけで、体はなんともない」
烏羽玉教授はそう言います。刺さった破片を抜くと確かにその通りみたいでした。服の繊維はボロボロに切れていましたが、その切っ先は皮膚まで到達していなかったようです。血も出てませんしね。
「けれど、一応病院へ行きましょう、あなたの体に何かあったら大変だ」
「それは真十鏡に言ってやれ、大丈夫か」
梓弓によって床に押さえつけられた真十鏡先生は、呻き声をあげました。
「本当にムカつくなお前……」
先生は、通報の後にやって来た警察と一緒に、烏羽玉教授に連れられてしまいました。
「けど、これで分かったよ、未だに、お前は私に執着してる、しすぎている。私の顔を傷つけたら、お前はひどく狼狽するんだ、これは武器になる」
「何を馬鹿なことを……」
「お前の命取りにならなきゃいいと思うよ」
そんなやり取りを数点していって、私は警察に連れて行かれる先生の背中を見送りました。こうして私は、先生と離れ離れになってしまったのでした。
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