8;先生と姉
「あれは私の作品ではない。真十鏡月子……君のお姉さんの作品だったのだ」
教授の瞼がゆっくり下げられ、憂いを帯びた表情がこちらに向けられます。教授にしては珍しく、どこか自信なさげな……ああ、目線が下に落ちていますね。大丈夫でしょうか。
「……姉さんの」
対し、真十鏡先生は、どうやら様子が変でした。
10秒ほど、じっと烏羽玉教授を見つめていました。その赤い目はいっぱいいっぱいに見開かれており、瞬き一つしようとしませんでした。
「お姉さん?」
私は思わず口に出してしまいました。あの、和洋折衷が大好きなお姉さん? 先生の親代わりの?
私の知的好奇心が小さな胸の奥でくすぶっています。ぬいぐるみでも、こんなふうに心が揺さぶられたり、気になったり、無意識のうちに何かを口に出してしまったりするものなのですね。
私は先生の返答を待ちましたが、先生は相変わらず視線を烏羽玉教授から外さないまま、口をゆっくり開けるのでした。
「ぬいぬいはちょっと黙ってて」
まあ、なんて酷い。先生から冷たい扱いをされたのは初めてでしたので、やはり胸の奥がチクリと痛むのです。痛みを感じる神経も、脳みそもないのに。私の中にあるのはどこかに内蔵された魂だけです。
「やっぱりそうか。僕の姉さんの作品だ」
真十鏡先生は、膝に乗せていた私をそっと傍に下しました。そして私の頭を数回撫でました。変ですね。触れ方が今までと違う気がします。なんだかこう……指先に殺意を乗せているような、そんな気味の悪い感じの。
「僕の姉さんの作品を、なんでお前が管理していたんだ」
「あれは私が貰ったものだ。後から知ったが……」
「そうだろう、そうだろう。姉さんはずっとお前を病室で待ってたんだ。結局見舞いにはお前は来なくて、渡しそびれたと泣いてたよ」
「月子が……」
「姉さんはお前が殺したんだ」
「殺したなんて言いがかりはよしてくれ」
「じゃあなんて言えばいいんだ!? 月子姉さんは自ら死んだとでも言えばいいのか!?」
「水色! いい加減にしろ!」
どんっと音がします。教授が振り上げたこぶしが机にたたきつけられた音です。力強く握りしめられたこぶしは開かれることなく、まだ楢の木の机の上に置かれたままです。続けて教授が叫びます。
「あれは事故だった! どうしようもなかった! 私だって何度も見舞いに行こうとした!! できなかったんだ、」
何度も説明しただろう! と必死になった声が、研究室内に反響します。ああ、隣の研究室に聞こえてしまいます。教授、あなたはそうやって感情に任せて怒る人だと思われると、のちのちの選挙に響いてきますよ。もし、この声を隣の人とかが録音してたら、どうするんですか。教授。教授ともあろう方が、そんな風に激しく我を失ってはいけないのですよ。ねえ。
そう、頭の中では思うのですが、先生から黙っててほしいと言われているので、口には出しません。
「できなかった……結局私は、彼女の最期を看取ることなく、病室に置かれたこのぬいぐるみを引き取ったんだ」
教授はすっと顔をあげ、私を一瞥しました。一瞬だけ合った視線は、どこか寂しいものを感じさせました。教授のモノクルが、薄い光に反射してきらりと光ります。
「このぬいぐるみを彼女の遺品として飾っていた。そしたら君は急に喋りはじめた」
そう言われても、初めて意識が生まれた日のことを、私はよく覚えていません。
「きっと中身にスピーカーやロボットが内蔵されているのだろうと、君の中身を調べようとして……しかし、月子の遺作であるそれに手を加えることは到底できなかった」
私の中身? 綿ではないのですか? 人間が自分の内臓の位置や様子や中身を詳しく把握していないのと同じように、私は私の中身のことを把握していませんが――綿だろうと思っていましたが、どうなのでしょう。
「中身を調べようと、レントゲンや様々な機械で検査を行おうとしたが、どれもエラーが起こった。検査する前に、機械が故障した」
はあ、それは奇怪ですね。呪いみたい。
「『失敗作』と呼んだのは、中身が分からないから? それが理由?」
真十鏡先生は静かな声で問い返します。そうですよ! 私は私の『失敗作』の理由を、大学まで聞きに来たのです! 先生は本題を思い返すのが上手です。
「そうだな。広義の意味で失敗作だ。作者が死んだ作品で、その製造法や中身が分からないとなると失敗だろう。生まれた意味も、由来も、何もかも分からない作品に、意義はない。せめて私が解体せねばならない」
それは、ずいぶんと乱暴な言い方でしょう。私に表情筋があったらきっとぷんっと怒っていたに違いありません。生まれた意味も由来も分からなくても、産み落とされたのなら意義はあるし、それは長い人生(ぬいぐるみ人生?)自分自身で見つけていくものでしょう。違いますか?
「生まれた意味も、由来も、何もかも分からない作品……か」
「どうした水色」
「いや何でもないよ。……もういいや」
真十鏡先生は傍に置いた私を抱いて、立ち上がります。
「もういい。お前が昔と全然変わらない最低野郎なのは分かった」
「おい、言葉に気をつけろ」
「帰ろう、ぬいぬい。ここにいても意味はない」
私を抱き、荷物を背負い、先生は部屋を出ようとします。「待て」そう静止しようとする教授の声が後ろから聞こえてきます。
「近いうちに、私が立候補した選挙がある。勝算はある。今よりもっといい暮らしができる。……お前も一緒に住まないか」
教授は先生の手首を掴みました。先生はそれを払いのけて、振り返ります。
「何をいまさら。もう僕はあなたの家族じゃない。反吐がでる。さよなら」
先生はドアノブに手をかけ、ひねり、外に一歩足を出しました。
「次に会うときは、そのときはお前を殺してやるよ、夜一」
先生の声色の恐ろしさは、それが決して冗談でも強がりでも虚言でもないことを伝えていました。
「姉さんは、僕の大事な家族だった」
H棟から出て、しばらくしたところにあるベンチで、腰を掛けた先生が言いました。研究室からこんな近くでのんびりしていていいのかと私は戸惑いましたが、もしかしたら教授が追いかけてくるのでは? と進言しようとしましたが、やめました。
「病気がち……な人でね。僕と同じように、水色の髪の毛で、赤い目をした、珍しい顔立ちの人で……なにより、きれいな人だった」
自販機で買ったコーンスープの缶を弄ぶ手が、どこか寂しそうでした。
「僕は姉さんのおかげで、大学に行けたんだ。そこで夜一と出会って……夜一は、姉さんと僕に一目ぼれした」
僕がまだクソがきだったころだったよ、と先生は笑います。
「夜一の左目が悪いのは、きっと知っていることだろうと思うけど」
先生はそう切り出していきました。そうなのです。今まで説明してませんでしたが、烏羽玉教授は左目が悪いのです。説明が遅れてごめんなさいね。左目にサングラスのように真っ黒なモノクルをしています。悪いと言っても、視力ではなく、色を識別する能力の方でしたが。あまり詳しいことは知りませんが、赤と緑が識別できず、全体的に茶色に見えてしまう異常を抱えているのです。その代り、水色などの青系統が人より何倍も鮮やかに見えるらしいです。
「夜一だって、烏羽玉家っていうめちゃくちゃすごい家柄に生まれてしまってプレッシャーもすごい中、左目の不調もあって、大変だったと思うよ。審美を極めないと家族から捨てられるかもしれない。その中で確実に才能を磨いた努力の人だ」
真十鏡先生は静かに言います。真十鏡先生が教授を褒めているのを見て私は少し驚きました。先生は教授のことを「殺す」と言っていたのに。
「夜一にしてみれば、僕たちのような水色の髪の毛はたいそう目立ったんだ。鈍くなっていく色彩の中で、ひときわ輝く僕たちの水色が、とても美しいものに見えたのさ」
確かに、真十鏡先生の水色の髪の毛は、大変貴重なものと考えます。”学研都市”にも鮮やかな色をもつファッションの方はいましたが、先生のこれは生まれつきのものらしく、いったいどういう遺伝子の変化なのだろうと、疑問を禁じえません。ただでさえ、自然界には青色の色素をもつ生物は少ないのです。鮮やかな青色の羽をもつモルフォ蝶だって本来は全く違う色で、光の反射で青を見せているにすぎないのに……今はそんな医学と遺伝の話をしているのではなかったですね。失敬。
「だから、運命だと感じたんだろう。僕たち姉弟は、自らの不幸を慰めるために生まれたんだと言わんばかりに接近してきた」
缶を開ける音がします。そういえば、もう春なのに、冬用のコーンスープ缶なんてものがあるのですね。
「貧乏だった僕らは金持ちの烏羽玉家にお世話になった。姉も、そんな夜一のことが好きだったよ。だから、夜一は烏羽玉一族の反対を押し切って、姉との結婚を申し込んできた」
烏羽玉家と結ばれれば、姉も僕も経済的には豊かになる。それに、僕も大学より上……大学院で研究できると思って、うれしかったよ、と先生は言った。
先生がコーンスープに口をつける。もし、これが先生の家で晩御飯の時間だったら、先生は白ご飯を置いて、和洋折衷の献立にしたのかしら、とどうでもいい想像が浮かんできます。
「でも結局、姉は火事に遭って、全身に大やけどを負ったよ」
ああ、だから入院などと先ほど言っていたのですね。
「夜一は、見舞いには一度も来なかった。……姉は、姉さんは……『美しくない自分なんて、彼にとってみれば価値がないのでしょう』とずっと嘆いていたよ。足先からてっぺんまで……包帯でぐるぐるにされて……指は動いたから、いろいろと慰めに作品をつくっていたみたい」
ああ、その時に私は生まれたのでしょうか。
「君の肌の色は緑色をしているだろう?」
そうなのですか? 鏡を見ていないので分かりません。
「一見不思議な色でも、烏羽玉の左目で見れば自然で落ち着いた色を選んだんだろうね……」
ぐっと缶を飲み干すと、先生はそれ以上もう喋りませんでした。
「真十鏡さま! 探しておりました」
ぼうっとうなだれる先生に声をかけたのは、なんとあの梓弓でした。
「ああ、君か。バトラーサービスの」
「はい。ホテルに戻りましょう。お食事の用意ができております」
「いま、そんな気分じゃないんだよ……」
梓弓は気にせず、真十鏡先生を立たせ、傍に止めてあった黒塗りの高級車に――やはり無理やり押し込めるのでした。
大学を出て、摩天楼の林を抜けて……ホテル草枕に着きました。
「お食事はお部屋にお持ちいたします」
そう言って、梓弓は出て行ってしまいました。
スイートルームの大きな部屋にふたり残された私たち。真十鏡先生は元気が戻らない様子で、ベッドにずっと横になっています。
「ねえ、ぬいぬい。もうチェックアウトしちゃおうか」
天井を見つめたまま、先生は言います。
「僕はね、もう疲れたよ。ろくでもないことばかりだ。”学研都市”には思い入れがないんだ。もともと一泊で終わらせるつもりだったしさ」
私は、先生がそれでいいなら、と頷きます。
”学研都市”にきて、結局私たちが得たのは、徒労と疑問でしょうか。私が生まれた意味、それは死んだお姉さんにしか分からないことなのでしょう。私の中身の話も、まだ終わっていませんが、中身を知りたいとも別段思わないので、街に帰ってこのままゆっくりぬいぐるみ生活を送ってもいいかな、と思えるのです。
先生はゆっくりと立ち上がると、呼吸を整えて荷物をまとめました。元からそこまで多くなかった荷物です。5分もしないで旅支度は終わってしまいます。
「今日のことはもうなかったことにして、明日からまた悠々自適な暮らしを面白おかしく過ごすかな」
そう言って先生はノブに手をかけました。
「……あれ?」
先生は何度もノブを回しました。ガチャガチャ、ガチャガチャと。
「鍵がかかってる、なんで?」
変ですね、鍵は内側からかけるものでしょう。
「故障したのかな? ちょっとフロントに電話するね」
先生はフロントに電話をかけました。しかし、聞こえてきたのはツーツー、という機械音だけ。先生は受話器を落とし、窓へと走りだしました。
「……窓が開かない」
嘘でしょう、と私は思いました。だって、内側から窓を開けるものじゃないですか、本来。
「このホテルはセキュリティ強化されているから、電子ロックされているとクレセント錠をいくらいじっても開かないんだよ」
先生が指さした先には、確かにそれらしき電線が壁に這っていました。
「なるほどね、夜一。この”学研都市”から僕を出さないつもりだな」
時刻はただいま午後4時。終電の時間はまだありますが、ちょっと間に合いそうにありません。
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