7;先生と大学

 さて、朝になりました。ただ今の時刻は六時半。カーテンの隙間から柔らかな光の帯が差し込んできて、穏やかな始まりを先生に告げてくれます。先生と言えば、例の「七時半を過ぎるまでは絶対起こさないで」ということで、いまだにすやすやと眠っておられます。ふかふかの布団と寝台で眠る先生のお顔は静かで、苦しみや悲しみとは縁遠い、神聖なにおいを感じさせられます。先生だって人並みに悩んだりもがいたりしたことはあったのでしょうけれど、やはり、このお顔の美しさは特別です。私がもしまだ恋も知らぬ年端もいかぬ乙女でありましたら、この部屋を切ない溜息でいっぱいにしていたでしょう。


 真十鏡先生が起きてきて、私たちは簡単に身支度を整え、ホテルのラウンジでバイキング形式の朝食をいただくことにしました。先生は「私はセレブリティな趣味はないが、こういった、好きになんでも選べるバイキングは大好きなのさ」と言いながら、白いお皿にパスタやらラザニアやら、おひたしやら、魚の煮つけやらを盛っておられました。和洋折衷です、和洋折衷ですとも。そしてご飯もパンもテーブルに持ってきて、「いただきます」と子どものような楽しそうな声で言いました。

「どうして先生は、和洋折衷が好きなんですか?」

 ラザニアを口いっぱいにほおばり、今まさにもう一口目を入れようとした先生の手が止まります。少しの静寂の後、

「……僕の姉がね、いつも作ってくれたんだ」

ぽつり、と先生はこぼします。

「お姉さんがいたんですね、先生」

「そうだよ。僕の親代わりみたいなものだったよ」

 親代わり、ということは、先生にはご両親がいらっしゃらないのでしょう。なんとなく察します。男の一人暮らし、"学研都市"中央区を己の一存で抜け出したり、政府から目をつけられるような芸術を好んで描いているなどということは、家族という集団の中ではできないことです。

 私も聞いておいてひどいとは思うのですが、あまり楽しそうな話ではなさそうなのは一発で分かりました。家族の話は、自分の力ではどうしようもないこともあるので、話すのにとても気を使うでしょう。詮索しないほうがよさそうです。烏羽玉教授の家はご立派ということは知っています。ご両親もいらっしゃいますし、確か教授と同じくらい偉い人だということは記憶しています。幼少期に手厚い教育を受けて、お金も環境も名声もあって何不自由ないところで育ってきた烏羽玉教授とは、また違った人生を歩まれてきたのかもしれません、先生は。

「家族の話と言えば」

 真十鏡先生が続けます。「夜一は結婚した?」

 その質問の真意は分かりませんでしたが、私は答えます。「いえ、独身のままですよ」

「そう」と、真十鏡先生は笑いも憂いも含みもせず言います。

「今年で35のはずですが……ご実家からやってくるお見合いの話も全てお断りしてるようです。結婚する気がないのかもしれません」

 烏羽玉教授くらいの才能と実力を持ってすれば、良家のお嬢様と縁があってもよさそうですのに、烏羽玉教授は見合い相手に一瞥すらくれてやらず、すべてお断りしてきたらしいのです。有能な跡継ぎであれば実家としては何が何でも身を固めてほしいのが普通だとお思うのですが。


 朝食を済ませて、真十鏡先生は大学へ向かいます。

 ホテルから出る際に一人の男が付いてきました。梓弓です。いやらしいほどに背筋の伸びた、佇んでいるだけで絵になる男です。

「烏羽玉教授から大学までのエスコートを仰せつかっております」

「大学までって……車じゃなくて電車で行ったほうが早いでしょ……」

「ですが、それを含めまして私の仕事ですので」

「……」

 大変つまらなさそうな顔を真十鏡先生がしています。

 ホテルから大学まで、そこそこの距離があります。交通機関が発達しているので車で行くことはあんまりないと思います。とにかく、電車のほうが早いというのに、梓弓は黒塗りの高級車に――半ば無理やり――真十鏡教授を押し込みます。どうあがいても寄り道はさせない、烏羽玉教授の狙いが透けて見えるようです。

 先生が上質な座席のソファに半ば不貞腐れて座ると、梓弓が車の扉をバタンと閉め、大きなエンジン音を出しながら出発させました。

 今日はあいにくの曇り模様で、もしかしたら雨も降るかも? というような灰色の空が広がっています。車の窓から見えるのは駅周辺の街並みです。ゆっくりとスライドしていく背景の中に、高層ビルが沢山見えます。空を覆いつくすように伸びた高層ビル群は、この世の実力社会を象徴するようです。その林たちの合間を縫うように、車は滑らかに進んでいきます。

 大学は中央区にあります。中央区が近づいてくると、より一層華やかさが増します。街の中には人工的につくられた運河や、大きな複合商業施設が沢山あります。若者のあこがれの街で、この都市の成功の象徴です。大学のほかに役所があります。政治もここで行われるのです。

 そんなきらびやかな街を、すべて流していく真十鏡先生にも驚きましたが。元住んでいた街でも、感慨深くはならないのでしょう。嫌いな場所であればなおさらでしょう。全ての景色を、冷ややかな赤い目で見つめています。

 何も起こることはなく、大学へ着くことができました。

 灰色したコンクリの大きな立体物が私たちの目の前にあります。メインゲートと言われるようなものです。2階建てのお家くらいの高さでしょうか。そこにはめ込むようにつくられた門があります。ここの門を通らないと大学へは入れません。守衛がこちらへやってきます。梓弓が守衛にIDカードを渡します。守衛は掌に収まるくらいの機械を使って、そのカードを読み取ります。無事に門を超えました。

 大学の敷地の広さはどれくらいになるのでしょうか。よく、なんとかドームとかなんとかランドとかで例えられることがあるらしいですけれど、ぬいぐるみの私には良く分からないので省略しますね。キャンパス内にはホテルも大学病院もあるというくらいですから、そこそこの大きさなのでしょう。研究機関とか大学というよりも、複合施設というほうがいいのかもしれません。私はぬいぐるみですから、正確な大きさや例え方を知らないのですが。

 そんな大きな施設なので、門を超えてもまだ車を走らせます。烏羽玉教授の研究室はいくつかあるのですが、そのうちの恐らく最も秘密話に適したところに行くのでしょう。人気の少ないところと言えば、レンガで作られたH棟でしょうか。あそこはずっと昔につくられた建物で、エレベーターも古い小さいのしかなくて、照明もあまり良くなくて、それでいて寒くっていつも暗くて、あそこをメインで使っている研究者は大体が碌な設備を回されることなかった二流扱いです。実際、烏羽玉教授のH棟研究室と言えば、小さな作品群の倉庫みたいなところでした。私もよくそこで眠っていましたから。

 H棟の駐車場に来ました。梓弓が車を停め、車の扉を開けます。真十鏡先生は私を優しく抱いて車から降ります。

「烏羽玉教授は10階の1009室におられます」

 梓弓の見送りを受け、私と先生はH棟へ上がっていきました。


「よく来た」

 ノックした扉を返事を受けたのち開けると、開口一番烏羽玉教授は言いました。

 烏羽玉教授はそこに居ました。机の傍に佇んでいます。

 ずいぶんと埃っぽいところです。小ぶりのシャンデリアには明かりがついておらず、降りたブラインドの隙間から淡い光が漏れ、空気中の埃を照らしていました。研究室というよりも、執務室のようです。扉を開けて目の前に木製の上品な机が、左右には横長の棚が備え付けられています。棚の上には絵やら球体関節の人形やらが整理されず置かれています。片づけをしないといけないと思いますよ、教授。

「……」

 真十鏡先生は私を小脇に抱えたまま、黙って教授を見つめています。見つめるというのは誤りかもしれません。睨んでいるというほうがいいです。それは、冷ややかな威嚇でした。

「疲れたろう、まあ、椅子に座れ」

 真十鏡先生は私を膝に乗せ、来客専用の椅子に座りました。妙に埃っぽくて、ソファの表面がざらざらしていることに関しては、この際目をつぶりましょう。後で整理整頓と清掃が必要ですね。いくらほとんど使わない倉庫だからって、烏羽玉教授ほどの人間ならどんな些細な妥協も許されません。

「……今日は講義は」

「全て休講にしてきた。お前に会うために」

 真十鏡先生が神経を尖らせ言い放った短い言葉を、冷静に教授は切り返します。一触即発です。一触即発の雰囲気がそこにあります。

 烏羽玉教授は机から離れ、扉のほうへ移動しました。

 カチャリと音がします。烏羽玉教授が部屋の鍵を後ろ手で閉めました。

「……本題に入ろう」

「そうしてくれ、早く終わらせよう。お前の顔をこれ以上見たくない」

 真十鏡先生は教授の前では矢鱈ととげのある言い回しを選んでいるように思います。――8年分の言いたいことがある。"街"を出る前にそう言った先生の顔を思い出します。『……そうだね、僕も烏羽玉に言いたいことはいっぱいあるさ』、悲しいとも、切ない、とも言えないあのマイナスの表情……私には表情筋がありませんから、人間の表情をうまく識別できないのですが、きっとあれは怒りの顔だったのでしょう。"街"にいるときの先生は静かすぎて良く分からなかったのですが。

 真十鏡先生の棘のある言葉に、教授は少しだけ顔をゆがめましたが、すぐに元に戻り、真十鏡先生を見、私を見、こう言いました。


「あれは……ぬいぬいは、正確には私の作品ではない」


「あれは私のではなく―――真十鏡月子の遺作だ」

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