6;先生と教授 後編
甘いカフェオレのにおいがします。烏羽玉教授はそれを飲みます。教授は甘いものがお好きな方なので、たぶん、あのカフェオレもおさとういっぱい、ミルクもいっぱい入れてあるのでしょう。糖分の取りすぎはあまり感心しないのですが、教授は日々多忙なお方なので糖分摂取も大目に見ることにしましょう。そう、多忙と言えば。
「この忙しい時期に、よく私の呼びかけに応じてくれたね、感謝するよ。夜一」
夜一、と言うのは烏羽玉教授のフルネームです。
烏羽玉教授は大学の期待の星です。それが意味するのは、烏羽玉教授を開祖であり教義とした、教授はある一種の宗教であるということなのです。烏羽玉教授が右と言えば学生はたとえ真実が左だろうと右と言いますし、白と言えば黒でも白にしてしまいます。烏羽玉教授は学生の信頼と羨望を持て余すほど寄せられていますし、権力と発言力とカリスマ性を備えていらっしゃるのです。だからこそ、烏羽玉教授を下の名前で呼び捨てにすることなど彼を神聖視する学生にとっては考えられない冒涜であり、どんな罰で裁けばいいのか分からないほどの悪徳なのです。
そんな悪徳を――自然なほどにすんなりと――真十鏡先生は罪と罰を超えた所まで軽々しく持って行ってしまいます。
「ふん、呼び出ししたのはお前じゃないか、嫌味か」
「嫌味だよ、嫌味100パーだから」
「このホテルでこうしてお前と遭ってる時点で、なんとなく察してるよ」
「あはは、そうだね、まだ私はお前を赦したわけではないからね。むしろ嫌味じゃなくて憎悪だよ憎悪」
「……」
不穏な空気が流れます。私はだんだん気がまずくなっていきました。
烏羽玉教授が仕切り直しというようにカフェオレを何度も口にしました。目の前の真十鏡先生に対して落ち着かない様子です。
「ああ、ごめん、夜一。私はこんな不毛な時間を過ごすために夜一を呼び出したわけじゃないんだ」
「要件を言え、1時間もしないうちにここを出ないと会議に間に合わん。こっちはお前と違って予定が詰め詰めなんだ」
「……夜一のぬいぐるみ、私が預かっている」
あ、それ言ってしまうんですね。テンポのいいことです。
「何」
烏羽玉教授が短く、されど動揺の色は明らかに分かるほどの低い声で言います。
「預かっている、とはニュアンスが違うな! 彼女は私のアシスタントとして働いてもらうことにしているんだ」
「……」
「返せと言っても返さないよ。彼女もそれを快く承諾してくれたんだから」
「……お前の所にいるのなら、まあ他の奴に悪用されるより、いいだろう、私は何も言わん」
烏羽玉教授は少し怒ったような声で言います。
「だがあれは『失敗作』だ。私の手で壊さねばならない代物だ、いずれ返してもらう」
「『失敗作』? あんなに素晴らしい女の子なのに?」
嘲笑交じりに真十鏡先生は言います。そうだそうだ、もっと言ってあげてください、先生。褒められ慣れはしていないのでちょっとだけ照れちゃいますが。というか、そんな風に思っていただけて私は嬉しいですよ。
「『失敗作』だ。お前はたかが数日過ごしただけだ。あの子の何が分かる」
確かに、教授とはかなりの年月を過ごしたような気がします。
「じゃあ、その『失敗作』たる所以を教えてもらおうかな」
売り言葉に買い言葉、と言う言葉がありますが、まさに状況はそのような感じでした。烏羽玉教授が何か言うたび、真十鏡先生は噛みつくように言い返しました。
「明日私の研究室に来れば分かる」
あら、テンポの悪い展開ですね。私は少しがっかりしてしまいました。明日に先延ばししてしまうとは。あまり焦らすのは良くないと思うのですが。話としても、長丁場になりそうですし、読者のみなさんを待たせるのはどうかと思いますよ。
「んん、明日来いと」
「予定は空いてるだろ」
「まあそうですが……」
歯切れの悪い返事をした真十鏡先生ですが、烏羽玉教授に押され反論の言葉はでません。真十鏡先生も、ここはカフェですから誰が聞いてるかわからないところでこの話はここでするべきじゃないと分かったのでしょうね。自分の作品を失敗作と呼び、その失敗作たる所以を他人に話すというのはつまり「私は美しいものを作り出せない者です。こういう理由です」という、自分がどれだけ無能かをアピールするようなものですから。そんな話を日が出ている明るいうちにするものではありません。教授の沽券にかかわります。完璧主義の教授が、翌日にはスキャンダラスな記事にされて叩かれてしまいます。過去にそういう人がいたのです。失敗作を作ってしまってそれが世間にバレて、さらにその人を日頃からよく思ってなかった人間たちが好機とばかりに彼を寄ってたかっていじめ、中傷し、それによって地位を失なった人が。失敗作の扱いについては、基本的に秘密裏に処理されなければならないのです。
……どうやらこの話題はここで終わりのようですね。二人の間に泥のように重い沈黙が流れます。
私もここで私が『失敗作』の所以を聞けると思っていたので非常に残念です。もしここでその話が聞けたならば、納得するかしないかは別ですが、ちょっと心が落ち着いたのかもしれませんのに。そのまま"街"に帰って、先生の制作のお手伝いでもできたかもしれません。でもしかたありませんね。
「じゃあ、そういうことで明日よろしく頼む」
烏羽玉教授が席を立ちました。もうお帰りになられるのですね。相変わらずお忙しいお方です。そして最後に「会えてよかった」と一言付け加えてホテルを後にしました。真十鏡先生は返事をしませんでした。
烏羽玉教授がその場にいなくなったあとも、真十鏡先生はしばらく考えたように、何も言わず難しい顔をしてただじっと遠くを見つめて座っていました。
そして真十鏡先生もその場を離れようとしてウェイトレスにお金を払おうとして――すでに教授が全て支払われていることをウェイトレスに告げられ――すごすごと荷物を受けとり――私を連れて――そしてなんと、ホテルマンに「本日のお部屋を案内いたします」と声をかけられて――真十鏡先生は「いえ、私はなにもここの宿泊の予定はありません、間違いでは?」と断って――ホテルマンは「烏羽玉様からお話を伺っております、最上級のお部屋をご用意いたしました」と言われ―――。
「アイツは私のなんなんだ!!!???????」
とホテルマンに案内された最上級のスイートルームで真十鏡先生は叫びました。
「気持ちわるッッッ!!!! こわい!!!!! 心底吐き気がしそうだよ!!!!!」
烏羽玉教授の悪口を部屋のどこでもない虚空に大声で叫びます。相当取り乱していらっしゃるようですね。どうやら烏羽玉教授は真十鏡先生から駅から連絡があった時点でホテルの部屋を先生のために手配していたらしいのです。「たぶん、あいつは泊まるところなんてロクに決めてないだろう」と。鋭いですね、さすが教授です。
「くそ、先手を取られたか、これで私はここから動けなくなった」
そしてさらにさらに、烏羽玉教授は真十鏡先生に
「烏羽玉教授からお話を伺っております。私は真十鏡さまの専用のバトラーをさせていただきます、
梓弓と名乗ったバトラーは細身の青年でした。ホテルの格を思わせるような堂々とした振る舞いで真十鏡先生に礼をしました。教育が行き届いているのは良いことです。
「……あーいいよいいよ、別に頼むことないし」
不遜な態度で真十鏡先生はバトラーを追い返そうとします。明らかに機嫌と態度が悪いです。さっさと出て行って、と言いそうな雰囲気です。
「ではお茶をお持ちいたします」
梓弓もそれを察したのか察してないのか分かりませんが、適当な理由をつけて部屋から出ようとします。そして梓弓は軍人を思わせるような無駄のない動きで部屋を出ていきました。なにかスポーツでも嗜んでそうな雰囲気です。真十鏡先生が「テニスの相手してほしい」と言えば彼は喜んでしてくれそうですね。
「はあああ……」
バトラーが部屋からいなくなった瞬間、まるで魂の全てを口から吐き出しているようなため息をつきました。そして力なく先生はベッドへうつぶせに倒れました。
「夜一は現役時代からアアなんだよ……抜け目ないというか、計画性が極めて高いというか……気持ちわるいったら……」
ぶつぶつと真十鏡先生が愚痴りました。
「でも先生、明日大学に行けば教えてくださるって言ってましたし」
高級ホテルの最上級の部屋をタダで泊めれてるのですし、軽い旅行と思えばいいですよ、と慰めました。
「私はこういうセレブリティな趣味はないのさ……」
真十鏡先生はベッドのふとんに顔をうずめたまま、消え入るような声で言います。
しばらくするとカチャリ、と部屋の扉があきます。
「お茶をお持ちいたしました」
バトラーの梓弓が言います。銀の円形トレーにポットを乗せています。
「そこに置いといて」
真十鏡先生は相変わらずベッドの上から動こうとしません。
では、と言って梓弓は下がりました。
「何でもお申し付けください、部屋の前で待機しております」
ずっとですか。これは手ごわい、困った監視役です。よっぽど烏羽玉教授から「真十鏡から目を離すな」と言われているのでしょうか。
「はあ」
と真十鏡先生はまた大きくため息をつきました。
外に出れない私たちは、明日がやってくるのをただ待つばかりでした。
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