喰愛 ―白石誠の場合―
「そういえば先輩、爪綺麗ですね」
差し入れを持ってきた彼は唐突にそんなことを言う。既に勤務を終え化粧は落としていたけど、それでもその顔は下手な女性よりはよっぽど綺麗で、そっち側に行けなかった身としては嫉妬してしまうのも無理のない話だった。思わず自嘲気味に返事を返してしまう。
「へいへい、ただの客引きの身でオシャレなんてして申し訳ありませんでした」
「違いますって。ただ本当に綺麗だなって。そんなに綺麗に伸ばしてる人、そうそう見ませんよ。付け爪って感じでもないですし」
「そりゃどーも。ま、そっちは爪伸ばせないし見ないのも当然なんじゃないの。それより何度言ったら分かるの、僕は君の先輩じゃない」
「酷いなぁ。役職は違いますけど先輩は俺の先輩ですよ」
そんな言葉を言われると、こっちはますます卑屈になってしまう。いくら自分には不可能だったとはいえ、自分がなりたかった未来の一つに、自分が低い立場にも関わらず尊敬されるのは気分のいいものじゃない。
「先に入ったってだけだよ。君のほうが立場上なんだし、しっかりしてくれないと僕が怒られるだけなんだけど」
「そういうときは俺が先輩を守りますから大丈夫ですよ!」
客とオーナーが聞いたら卒倒しそうな台詞を満面の笑顔で言い切ってくる。ずるいよなあ。否定できないじゃないか。
「……毎度思うけど、なんで君そんなに僕につきまとってくるのさ。男娼の中でもやっぱりイジメとかあるの?」
「イジメはないわけじゃないです……、って、罰ゲームとかじゃないですよ! 俺は本当に先輩を……その、尊敬してるんです。だって先輩、下心なく俺に優しいじゃないですか」
「え。僕なんかしたっけ」
「もー、忘れちゃったんですか? 入ったばっかの時、乱暴な客に当たって泣いてた俺を慰めて、黙って体洗ってくれたじゃないですか」
ズキリ、と心が軋む音が聞こえた気がした。
「最初は他の客とか男娼みたいに俺の身体狙いなのかな、って疑ってました。けど先輩のは勃ってなかったし、無駄にボディタッチを繰り返すこともしなかった。ただ傷を撫でて「痛かったろう」って慰めてくれて。手の届かないところにまで薬を塗ってくれて。俺、本当にうれしかったんです。こんな世界だけど、こんなにやさしい人もいるんだなって」
屈託のない笑顔で、微塵も善意での行動だと疑わないという声色で。彼はそれを語り続ける。違う。僕は。そんなつもりじゃ。
「だから俺はずっとこの人についていこうって決めたんです。この人になら俺の全てを預けてもいいって。……先輩? どうしました、顔色悪いですよ」
「……ああ、ごめん、ちょっと朝から体調悪くてさ。……そろそろ時間だし僕もあがるわ。気をつけて帰れよ」
思わずそんなウソをついて、足早にこの場から立ち去ろうする。が、そんな僕の気持ちを知らない彼は僕の腕を掴んで強引に振り向かせ、僕の額に手を当ててくる。
「先輩、大丈夫ですか? ……ん、熱はないみたいですね。体調悪いなら家まで送ってきますよ?」
顔が近づいた瞬間、甘い香水とツンとした汗の臭いが僕の鼻をつつく。ニキビ跡だらけの僕の額に、うっすらと汗の浮いた手が触れる。やめろ。やめてくれ。そんな無邪気なしぐさで近づかないでくれ。無遠慮に僕に触れないでくれ。耐えられない。そんな台詞をいっぺんに呑みこみ、代わりに少しばかりの断りの文句を絞り出す。
「大丈夫。一人で帰れるよ。大体君明日も出勤だろ、僕に付き合ってたら明日に響くぞ」
「それなら有給使って休みますんで問題なしです。僕は仕事よりも先輩のほうが」
「大丈夫だって。今のところはそこまで酷くないし、どうしても酷かったらオーナーのとこに泊めてもらうよ。なあ、僕を守るんだったらまず僕の立場を守ってくれよ。ただの客引きが原因で店の稼ぎ手が休んだなんてなったら、明日から僕は職なしだ」
「うう……。……分かりました、そこまで言うならおとなしく帰ります。でも、本当に無理せずしっかり休んでくださいね。場合によっては有給休暇を」
「言われなくても無理はしないよ。こちとらいくらでも替えのきく身だしな」
「またそんなこと言う。先輩は一人だけなんですから、もっと自分を大事にしてください。それじゃお疲れ様でした」
「はいはい、またな」
そうやって彼は駅のほうへと歩いて行った。よかった、なんとかごまかせた……のかな。自信がない。なによりこれで嫌われてしまい、彼に避けられるのではないかと思うと不安でたまらなかった。
僕の汗と彼の汗の混じりあった額を、彼に褒められた長い爪で引っ掻く。皮脂ごと削り取って汚れた爪を口に運び、それらを歯に擦り付ける。
舌で舐めとったそれは、当然のように美味しかった。あの身体を洗ったときに拭った汗と同じように。傷を治療した時にこそいだ皮膚と同じように。そして彼と触れ合うたびに体に付着する、彼の髪や皮脂と同じように。
あのときだって同じだった。僕はただ、あの匂いに耐えられなかっただけだった。
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