第8話 河童少女には耳がない

 その日は俺は朝から思いっきり寝るつもりだった。しかし実際はそうはうまくはいかない。

 深夜遅くまでマッグから預かった哲学書を読んでクタクタとなったその体をベッドで癒していると不意に玄関のチャイムが鳴ったのだ。

 

「今日は一日お休み河童ですよ」

  

 俺はそう玄関に向けて返事をすると、布団を頭まですっぽりとかぶる。

 せっかくの休日だ。いや、本当はいつでも休日なのだが、前日に難しい本を読んだ次の日は昼まで寝ていたいというのが人のさがだ。

 亀のごとく鉄壁の布団防御をかましていればそのうちにまだ知らぬ来訪者も諦めて帰っていくだろう。

 俺はそう期待していた。

 だが現実はそうも優しくなかった。その来訪者がドアを勝手に開ける音が聞こえてきたのだ。

 侵入者はドアを開けて我が要塞に侵入をするなり、米軍の特務部隊のごとき制圧速度で一直線に俺の寝室に目指してきた。


「グッドモーニングというものだよ。麗しき人間侯爵」


 寝室のドアを蹴破る暴音とともに、どこぞの侯爵令嬢のような気高さを伴う声が聞こえてくる。

 詩人のトックの声だ。

 かの金髪の詩人がその長い足を持ってパンツが見えるのも気にせずにドアを蹴破る姿が頭に思い浮かぶ。

 

「おいおい、そうやって引きこもるのは精神と肉体にとって悪要素でしかないぞ」


 そういうなりトックが俺の布団を剥ぎ取ってしまったので俺は河童と違い甲羅も持たないその無防備な肢体を晒さざるをえなくなってしまった。


「おはようトック。今日は一層に機嫌が良いようだな。一体何用か?」


 俺はようやく起き上がって、喧騒を届けにきた金髪の河童と目を合わせるぶことにした。

 相も変わらずパンツを丸出しにしたその詩人は、今日はこの前会ったときとは異なる彼女を連れて我が家にやってきたようだった。

 トックの後ろに控えめに立っている雌の河童が俺と目を合わせるとペコリとお辞儀をして見せる。


「おはよう。君には以前告げたかもしれないが、今日は超人クラブのクラバックの音楽コンサートだ。君は以前にクラバックの演奏会を聞きたいと言っていたからね。優しい僕は君を誘いに来たというわけだ」

「それはありがたい。ならばしばし部屋の外で待たれよ。このパジャマを着替えて外に出れる恰好に着替えるため」

「わかった。ならば玄関先で落ち合おう」

  

 そういうやいなやトックは彼女の手を引いて颯爽と寝室を出ていった。なんと横暴な女だろうか。家に突然押し入るだけでなく布団まで剥ぎ取ってしまうとは。

 俺はそう言ってもしょうがないと自分を慰めつつ、着替えをして外にいく準備を整え始める。

 しかし、コンサートにふさわしいスーツを選び、袖を通すところでふと疑問が沸いてきた。

 トックは彼女を連れてきた。この彼女と俺は面識がないため、一緒にコンサートにいけば人数も奇数でバツが悪いのではないだろうか。

 俺はこう思うと、コンサート会場でトックの組とは離れて唯一人でクラバックの演奏に拍手を打つ自分の姿が想像できた。そのためその想像を現実化させないように、こちらも一人、ペアとなる友人を呼ぶこととした。

 初めに思い浮かんだのは学生のラップだったが、ラップではコンサートなどは眠くなってしまうやもしれぬ。というわけで同じく超人クラブとして仲間である哲学者のマッグを呼ぶことにした。ビン底眼鏡のかの河童ならばクラバックとも面識があり、楽しんで時間を過ごせるというものだろうと俺は思ったわけだった。

 俺は電話を手に取ると、マッグの番号を回すのだった。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 着替えを終えて、マッグと合流を果たしてから俺たち4人はクラバックのコンサート会場へと向かった。

 マッグは到着した時に「遅れましたか?」と一言謝ると、その淡い栗色の髪をなびかせながらこちらの顔を伺ってきた。彼女は珍しいことに、文学少女さながらの大人しめのワンピースを選んできてきたため、一見したところでは雄の河童ではなくて雌の河童のように見えた。

 まさか雌の河童に性転換したのではないかと一瞬、疑いをもってしまったがそれを確認する方法もないので、その疑問は胸の奥にしまうことにした。

 今回のコンサートは河童の国に来てから俺にとって3度目の音楽会のことだった。

 もっとも河童のコンサートも様子はあまり日本と変わっていない。やはりだんだんせり上がった席に雌雄の河童が3、400匹、いずれもプログラムを手にしながら一心に耳をすませているのだ。


 俺たち4人は会場につくと受付へとまず足を向ける。そしてトックが一言「クラバックの友人の超人倶楽部のものだ」と告げると、案内係の先導で一番前の席に誘導をされた。

 音楽会が始まると、ピアノやオーケストラ、名前も知らない楽器の演奏が次々と始まる。そしてやがてセロの独奏が終わった後、妙に目の細い河童が一匹、無造作に譜本を抱えたまま、壇の上へ上へのぼってきた。


 クラバックだ。


 超人倶楽部の中でも突出して有名な作曲家クラバック。超人倶楽部で見かけたその顔は壇上においてもまったくの緊張の欠片もない不遜の様子を呈していた。

 

 クラバックは盛んな拍手の中にちょっと我々へ一礼した後、静にピアノの前へ歩み寄った。それからやはり無造作に自作のリードを弾き始めた。彼の手が鍵盤に触れると、ピアノは音素の規則正しい羅列によって組み立てられる響きを発し始める。ノイズとは無縁の幾何学的な建築物のような調べだった。

 俺はクラバックが奏でるその感情の込められた演奏を聞いて、トックが以前に述べた言葉を思い出した。

────クラバックはこの国の生んだ音楽家じゅう、前後に比類のない天才である───

 俺はクラバックの音楽はもちろん、そのまた余技の叙情詩にも興味を持っていたので、大きい弓なりのピアノの音に熱心に耳を傾けていた。

 トックやマッグもうっとりとしていたことは或いは俺よりも勝っていたであろう。が、トックの連れてきた彼女の河童だけは時々さも苛立たしそうに長い舌をベロベロ出していた。これはマッグの話によれば、何でも10年前にクラバックを捕まえそこなったものだから、未だにこの音楽家を目の敵にしているのだと聞いた。(なぜそんな彼女を連れてきたのかは聞かなかったが、恐らくトックの意地の悪い性格のためだろう)


 クラバックはその後も全身に情熱を込め、戦うようにピアノを弾きつづけた。すると突然会場の中に雷のように響き渡ったのは「演奏禁止」という声だった。俺はこの声にびっくりし、思わず後ろを振り返った。声の主は紛れもない、一番後ろの席にいる身の丈抜群の巡査である。

 巡査は俺が振り向いたとき、悠然と腰を下ろしたまま、もう一度前よりも大声に「演奏禁止」と怒鳴りつけた。それから、──

 それから先は大混乱だった。「警官横暴!」「クラバック、弾け!弾け!」「馬鹿!」「畜生!」「ひっこめ!」「負けるな!」──こういう声の湧き上がった中に椅子は倒れる、プログラムは飛ぶ、おまけに誰が投げたのか、サイダーの缶や石ころ、かじりかけの胡瓜さえ降ってくるのだ。

 俺は呆気にとられたので、トックにその理由を尋ねてみようとした。が、トックも興奮したと見え、椅子の上に突っ立ちながら、「クラバック!弾け!弾け!」と喚き続けている。のみならずトックの彼女の河童もいつの間にか敵意を忘れたのか、「警官横暴」と叫んでいる。

 俺はやむを得ずマッグに向かい、「これは何事か?」と尋ねてみた。


「これですか?これはこの国ではよくあることですよ。元来、画だの文芸だのは・・・おっと」

 マッグは何か飛んでくる度にその首を縮めながら、不相変静に説明した。

「元来、画だの文芸だのは誰の目にも何を表しているかは、とにかくちゃんと分かるはずですから。この国では決して発売禁止や展覧禁止は行われません」

「ならばこの事態は一体・・・?」

「代わりにあるのが演奏禁止です。なにしろ音楽というものだけはどんなに風俗を壊乱する曲でも、耳のない河童には分かりませんからね」

 そう言うと彼女は髪をかき上げて耳のない頭側部を晒して見せる。

 俺は唖然とした。俺は彼女らに耳がないことなどまったく知らなかったのだ。

 耳がないともなると、そもそものコンサートを開催する意味などもまったく分からない。

「しかし、あの巡査は耳があるのか?」

 慌てた俺はとんちんかんな質問をして見せてしまった。本来聞くべきはもっと彼らの生活全般が耳なしでどのように行われるかのはずであったのにだ。

「さぁ、それは疑問ですね。多分今の旋律を聞いているうちに細君と一緒に寝ている時の心臓の鼓動でも思い出したのでしょう」

 マッグならではの哲学的な回答が変えってくる中、大騒ぎはさらに盛んになるばかりである。クラバックはピアノに向かったまま、傲然ごうぜんと我々を振り返っていたが、いくら傲然としていても、いろいろなものの飛んでくるのを避けない訳にはいかない。

 従って2、3秒おきにせっかくの態度も変わらざるを得ない。しかしとにかく大体としてはクラバックは大音楽家の威厳を保ちながら、細い目をすさまじく輝かせていた。

 俺はもちろん危険を避けるためにトックを盾に使っていた。が、やはり好奇心にかられ、マッグと話しつづけた。

「そんな検閲は乱暴じゃないのか?」

「いえ、どの国の検閲よりもかえって進歩しているくらいですよ。例えば日本をご覧なさい。現に一つばかり前にも、・・・」

 ちょどこう言いかけた途端。マッグはあいにく脳天にビンが落ちてきて、quack(これは間投詞である)と乙女らしい最後の一声を叫んだきり、とうとう気を失ってしまった。俺がその後、ビン底眼鏡の少女を抱えて会場を出たのは言うまでもない。

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