5章 殲天

 ミュリエルは駅前の宿を引き払い、<九十九堂>に荷物を持って移った。

 先刻の戦闘から一旦れんげと別れ、タクシーを急がせて<九十九堂>にミュリエルが着いたのは三十分ほど後だった。

 れんげは制服のままだったが、いくぶん落ち着きを見せていた。

 ミュリエルを招き入れて、店を施錠する。

「荷物、適当に置いて下さい。

 お茶の用意しています」

 と、居間へ案内する。

 居間にはタオルを包帯に換え、手当し直された茂林がぐったりと横になっている。

 至天はやはり居間の隅で、ミュリエルをちらっと見て無関心そうにまたうずくまる。

 ミュリエルは座って湯飲みを取ろうとして、次の用事をしようとするれんげに声をかけた。

「レンゲ、先に着替えてきたら?」

「いえ――動いてないと気が紛れなくて。

 こんな気分初めてで、一体どうしたらいいのか――」

 ミュリエルは少し笑った。

「ここまで感情を振らされたことがないのね。

 じゃあ、お願いしていい?」

「ええ、何なりと」

 ミュリエルはコートを脱いだ。

「シャワー貸して」

 ワンピースのボタンも外しながら言う。

 れんげは目を丸くして、ミュリエルの手を引いた。

「こちらです――」

 浴室は廊下の奥にある。

 洗濯機と壁一枚を隔てたすぐ隣にあり、洗濯機と洗面台のある脱衣スペースは一段低くなっている。

 浴室は更に一段下りている。

 れんげは先に浴室に入り、ガスの元栓を開けた。

「お湯は入れてませんけど、シャワーはすぐに出ます。

 青い栓と赤い栓で温度調節してくだ――――!?」

 ミュリエルがれんげの制服の脇のチャックを開けていた。

「あなたも入るの、レンゲ」

「えっ……?」

「熱いお湯浴びて、それから何か食べよう。

 まだ昂ぶってるわ、レンゲ」

「そんな、時間が――」

「落ち着きなさい、って言ったでしょ」

 ミュリエルの口調はいつの間にかくだけていた。

「感情のコントロール、したことないんでしょう?

 お姉さんの言うこと、聞いてみなさい」

 実年齢ではれんげの方が一桁、、違うのだが、ミュリエルは姉ぶって、れんげの手を引いて言っていた。



 数十分後。

 れんげとミュリエルは炬燵で熱いお茶とおにぎりを囲んでいた。

「このライスボールも美味しい。

 ――どう、レンゲ、気分は」

「――ありがとうございます」

 れんげは半乾きの髪をタオルで拭い、いつものお下げ髪に括りながらミュリエルに礼を言っていた。

 頭にタオルを巻いていたミュリエルは笑う。

「年長者の――って言葉が当てはまらないのか。

 レンゲはいつから、こういう暮らしをしているの?」

「去年、ですね。

 それまではほぼずっと、人と関わっていません」

「そう。だからね。

 他者と関わって、人の中で暮らすと色々あるでしょう?

 守るものを持つな、ってことじゃなくて、どんな時でも冷静になれないと戦いが辛いってこと、解った?」

「ええ」

 れんげがミュリエルのお茶のお代わりを淹れる。

 レンゲは着替えを選べずに、下着を替えた制服姿だった。ミュリエルはハイネックのニットと動きやすそうなパンツを選んでいた。

 アンクのペンダントは外したままだ。

 れんげの頬には大きな絆創膏が貼られている。

「茂林」

 れんげはぐったりとしたままの茂林に声をかけた。

 茂林は顔を上げてれんげを見る。

「おにぎりですが――食べられますか?」

「置いといて――」

 茂林は身を起こした。

 足下がまだふらついている。

「もう行くんか?」

「もう少ししたらね」

 ミュリエルが答えた。

「茂林は休んでいて。

 私たちだけで行きますから」

「行ける……血も止まった」

 れんげがうっすらと血の染みた包帯を換える。

「ダメよ」

 止めたのはミュリエルだった。

 ミュリエルも茂林のそばへ行き、厳しい表情で茂林の顔を覗き込む。

「さっき、集中が保たない、って言ってたわね。

 そんな状態じゃ戦えない。傷の回復に努めること、いいわね」

「ミュリエルさん――」

「何度も言うけど、冷静に考えて。

 失血してフラフラのモリンが戦うどころか、まともに動くこともできると思う?」

 ミュリエルの言葉は冷たく思えて、茂林を想っていた。

「ただ――ごめんなさい、モリン。

 ヤツがどこにいるかだけでいい、探れる?

 無理に、とは言わないけど――」

 茂林はミュリエルに鼻を寄せた。

「ええ、それくらいやらせてくれ」

 茂林はそう言って、ミュリエルから離れた。

「れんげちゃん――地図」

 れんげがすぐに、姫木市の地図を床に広げる。

 茂林がそこに乗った。

 地図をふんふんと嗅ぎ回る。

 真っ白だった包帯にじわり、と赤いものが滲む。

「茂林!」

「大丈夫や――」

 茂林はやがて、姫木駅北口からすぐのところにある建物を示した。

「ここや。間違いない。

 ――一番上と……ちゃうか」

 そこまで言って、茂林は前脚を折った。

「茂林っっっ!!!」


□■□■□■


「――落ち着いた?」

「え、ええ。茂林の血は止まったようです」

「モリンじゃなくて、レンゲが」

 ミュリエルは茂林の部屋から居間に戻ってきたれんげに言う。

 タオルはもう取られていた。

「私――?」

「そう? また、さっきの状態に戻ってない?」

「ええ――努力します」

 れんげは炬燵に入らずに正座して、湯飲みを両手で包んだ。

 ミュリエルが、その膝に炬燵布団をかける。

「しかしあのダメージ――ヤツに少し『喰』われたのかも知れないわね。

 あれくらいなら傷の回復に併せて、そんなに影響は出ないと思うけど」

 ミュリエルは何杯めかのお茶を手に、広げられたままの地図を見ていた。

「レンゲ――これは何?」

 茂林が示していた建物を指してれんげを呼んだ。

 れんげは建物の上に書かれた『ハイツ姫木駅北』という字を追って言う。

「マンションでしょうか……」

「なるほどね。

 そこに住んでる、ってことか」

 考え事をする時のクセなのだろうか、ミュリエルは眼鏡のフレームを指先で撫でながら呟いた。

 れんげは茶葉を換えるために炬燵から出て、台所へ行く。

 二人が食べた後残っていたおにぎりはすべて、茂林の枕元に置いてきていた。

「行ってみるしかない、か――

 どうしたものかな……」

 れんげが戻ってくる。

 ミュリエルが炬燵から出て、至天のもとににじり寄っていた。

「レンゲ。

 こいつはただの置物? 昨日もここにいたけど。

 置物にしちゃ悪趣味よね、蜂なんて」

 首を回して見上げるミュリエルに、れんげはくすっと笑った。

「至天は少し前からここにいます。

 ――まだ、回復していませんか?

 そろそろ何か、お話してくれませんか?」

「……ここ何日か、考えてた」

 至天が数日ぶりに声を発し、ミュリエルは驚いて尻餅をついてしまう。

 れんげは嬉しそうに至天のすぐそばに両膝をつけた。

狸の、、とも話した。

 小さい娘とも話した。

 色々思い出したり、考えたりしてた」

 ぼそぼそと低音ドスのきいた低い声で至天は独り言のように言う。

「あんたはワシに――『道も拓ける』と言うた。

 でも、あんたにゃワシの悔しさが解らんやろ」

 れんげは椀に、冷ましたお茶を入れて至天の前に置いた。

「狸のが言ったのも解る。

 あんたが大層なことをしてるのも解ったし、菩提を求めようということも――これでも昔は金剛界曼陀羅も不動明王も鬼子母神も描いてきた身や」

「それは素晴らしいですね」

 でもな、と至天は椀のお茶を啜った。

「この悔しさだけは、どうしても片付けらんのや――

 あんたの言った『相手が完成と認める』モン、何でもいい――彫らせてくれんじゃろうか」

 至天は元来口下手なのだろう、所々詰まったり止まったりしながら、絞り出すようにそう言った。

「レンゲ、こいつは――なに?」

 れんげは『?』マークを表情に浮かべたミュリエルに説明しようとして、何か思いついたように小さく手を叩いた。

「ミュリエルさん、至天。

 こんな作戦はどうでしょう――」


□■□■□■


 しばらく暴れていたメルは、WBに殴られて意識を途絶えさせていた。

 WBの部屋に乱暴に放り込まれて、覚醒した。

 跳ね起きて周囲を見回し、ベッドに駆け寄る。

 コートは脱がされ、パステルカラーのニットとミニスカートが露わになっていた。

 ベッドには守弘がいた。

 拘束は解かれていたが、ぐたっと倒れ込んでいて目を覚ます様子はない。

 かすかに、涙か何か、頬と顎を液体が伝って乾いた跡が残っている。

「守弘お兄ちゃんっ!」

 中途半端に脱がされた守弘をメルが揺さぶる。

「お兄ちゃんっ、どうしたの! ねぇ――起きて、っ」

 守弘は全く反応しない。

「無駄だ」

 つかつかと近付いたWBがメルの頭を押さえた。

「小出しに何回か――吐き出させてやった。

 なかなかの趣向だった」

 押さえられて振り返ることのできないメルは叫んだ。

「放してっ!」

「そうはいかんな」

 WBはメルを持ち上げた。

 うなじに持ち替えて、WBと同じ目の高さにする。

「うまくいかないものだな――」

 WBはメルをじっと見て呟いた。

「ほんの何時間か前にお前のことを知っていたら、また違う楽しみ方、、、、、、もできたのだが、な」

「は、放してよっ!」

 WBは笑いながら、ベッドにメルを押し倒した。

 守弘はWBが適当に脇に押すと抵抗なく動き、少女一人分のスペースができる。

「いやっ! やめて、放して、守弘お兄ちゃん助けて!

 たすけ――」

「届かんよ。

 気にするな、お前もその男と同じ所へ連れて行ってやる」

「ぃやあ……ぁ」

 WBの手が未成熟なメルの体の上にあった。

 押さえつけて、探り回っていた。

 その手が服の奥へ侵入する。

 WBを殴ったり蹴ったりしていた幼い抵抗もじょじょに勢いを失ってしまう。

「あ――ぁ、ぃ……」

「ふむ――まだ素直でいいな。

 いいだろう」

 WBは手を止めず、メルに囁きかけた。

「味わったことのないものを感じているか?

 さあ、抵抗せずに自らの内から放出するのだ。

 ――汝、姦淫せよThou shalt commit adultery

「っ!」

 メルは瞳を見開いてWBを見ていたが、見つめる眼差しの雰囲気がすとん、と変わった。

「――ぁ、っ」

「素直で可愛いじゃないか。

 では戴くとしよう」

 WBの手の動きが強くなり、メルは口を開け放して体を少し反らせた。

 WBのすぼめた口からひゅうっ、と空気を吸う音が漏れていた。


□■□■□■


 れんげとミュリエルは地図を手に、駅の北口から歩いてすぐの所にあるマンションの入り口にいた。

 オートロックになっていた。

「――ここね」

 ミュリエルがその八階建ての、まだできてそれほど年数のたっていない建物を見上げ、れんげが頷く。

 れんげは制服の上にスクールコートを羽織って大きめのリュックを背負い、ミュリエルはいつものコートと杖一本だけ持ってきていた。

「どうやって入ろうか……」

 ミュリエルは入り口のすぐ前かられんげを引いて離れた。

「裏口みたいなのはないの?」

「行ってみましょう」


 駐車場からエレベーターホールに入る扉は、特にセキュリティのかかったものではなかった。

 二人はそこから建物に入る。

 すぐ近くにあるエレベーターに乗らずに、ミュリエルはれんげを促してエントランスへ向かった。

 オートロックで外から開かなかった自動ドアの内側、その付近に郵便受けがある。

「さすがにどこかは判らないか――ん?」

 ミュリエルは八階の郵便受けを見て、何か気付いたように笑った。

「どうしました?」

「判ったの。

 最上階で住んでいるのはヤツだけ。他の部屋はそもそも、住人がいないわ」

 番号八百号台の郵便受けの入れ口はほとんどがテープで封じられていた。唯一つだけ、解放されているのがある。

「行こう、レンゲ。

 ――今夜で決着をつけよう」

 ミュリエルはコートの裾を翻した。



 施錠していなかったドアを勢いよく開けたのはミュリエルだった。

 その音に気付いたWBが、力無く横たわっていたメルから目を離して立ち上がる。

「誰だ」

 WBの声に答えるように現れたのは、れんげとミュリエルだった。

「――ほぅ」

 WBは両手を広げた。

 目を細め、いやらしい笑みを浮かべる。

「わざわざ来てくれるとはな。

 心変わりでもしたか」

「ふざけないで!」

 ミュリエルが杖を構える。

 れんげはベッドの上を見て、表情を変えた。

「守弘さん――メルっ!」

「レンゲっ」

 れんげの隣にいるミュリエルが小声で言う。

「――見失ってはダメよ。

 呼吸を整えて」

 れんげは頷き、独鈷杵を構える。

「――『邪悪聖書』あなた、改める気は……」

 WBの両手がさらに広げられる。

「改める?

 何を改めるという?

 私にそんなものは必要ない」

 WBは数歩でれんげの懐に入った。

 瞳に妖しげな光が宿っている。

「そんなことより、どうした? さっきまでの迸る感情は。

 私に対する怒りは?

 それが転がる様を私に見せてくれるのではないのか?」

 れんげが左手の独鈷杵をWBに突き立てる。

 それほどダメージになった様子はない。

 真横からミュリエルが殴りかかる。

「ミュリエル、君もいい加減にしたまえ。

 しつこいのも可愛げがない」

 WBは杖をかわすとれんげに向いて、ベッドをちらりと示した。

「メルといったか――あの小娘。

 なかなか面白い『味』だったな」

「きっ――」

「まだ幼いとはいえ妖怪ジェントリーなのだろう? 相当な年月を生きている濃い魂はやはり味わい深い。

 君をいただくのが実に楽しみでたまらんよ」

 れんげは顔をしかめた。

「レンゲっ、挑発よ!」

 ミュリエルが突きながら、声を上げる。

 WBはそれを拳で弾いて、更にれんげに言う。

「そう、さっきの狸はどうした?

 あの程度でくたばったか――脆弱な」

「お――」

 れんげの唇が震える。言葉にならない。

「そういえば、昨夜は君と仲がいいらしい娘をいただいた。

 あれはあれで面白い『味』だった」

「あなたは――ッ」

 れんげは鉈刃に変えた右手で、下からWBの左脇に向かって振り上げた。

 服を斬る。

「無駄だッ。

 タカノ、何故感情を抑える?

 無理せず解放してみろ。

 私にその怒りを露わにしてみろ――ッ」

 れんげの眉がぴくりと動いた。

「あなたは――この行為をやめることはないのですかッ」

「まだ、下らんことを」

 WBは鼻で笑う。

 ミュリエルは間合いを計っていた。

 WBとほぼ密着しているれんげは右手の刃で、今度は上からWBの左肩を叩く。

「そんなもので斬れるわけがないだろう――」

 WBは呆れた口調で、右手でれんげを抱えた。

「無力を嘆け――ッ!?」

 れんげは力一杯、生地の裂けたWBの服の袖を引いた。

 辛うじてつながっていた繊維もちぎれ、白い腕が露わになる。

 その上腕に『Thou shalt  commit adultery』と書かれていた。

 ミュリエルのアンクがその肘に直に触れる。

「か――ッ!!

 これが狙いかッ! 小癪こしゃくなッ!」

 WBが苦悶の表情に頬を歪める。

 拘束が緩んだ瞬間にれんげはするりと抜け、ミュリエルが杖を横回しにWBの膝裏を振り抜いた。

 WBの膝が落ちる。

 ミュリエルのアンクは、今度はWBの喉を突いた。

 じゅうっ、と何か焼けるような音がする。

 WBが口を開けて仰け反る。

 れんげがWBの背後に回り、羽交い締めにした。

「今よッ!」

「至天っ!」

 ミュリエルとれんげはほぼ同時に叫んでいた。

 れんげが背負っていたリュックから飛び出した蜂――至天はWBの腕に向かい、文言に不自然に開いた空白に針を立てた。

 杖とれんげと至天をWBは渾身の力で振り払う。

 ――が、その数秒間で充分だった。


□■□■□■


 出発前、<九十九堂>――

「――至天、それは文字でもいいのですか?」

「それで完成ならな」

 れんげは頷いた。

「では――脱字の修正は?

 この三文字を入れるのに、どれくらいの時間が要りますか?」

 れんげはメモ用紙に、その三字を書いて示す。

「こんなモン――二、三秒もあったらできる」

 ミュリエルはいまいち合点のいっていない表情でれんげと至天を見比べた。

「レンゲ。

 今『修正』って言ったけど――」

 れんげは頷いて言った。

「ええ。

 ――昼、彼の腕に書かれた言葉を見ました。

 ミュリエルさん、十戒の第七条、英語で書いてみて下さい」

 言われた通りミュリエルは、同じメモ用紙に正しい『汝、姦淫してはならないThou shalt not commit adultery』との一文を記した。

 れんげはそのnotを丸く囲んだ。

「確かに見えた文は、このnotがありませんでした。

 また、昼に彼は『アイデンティティ』と言いました。

 この文――間違ったものが、彼が存在する要因だとするなら、それを『修正』したらどうなるか――」

 ミュリエルもなるほど、と頷く。

「面白そうね。

 でも、どうやって?」

 れんげは、そこで、と至天を示した。

「この至天はもともと刺青用の針と墨です。仕上げの筆を入れられなかった無念が転じてこの姿になりました。

 至天に、このnotを書いてもらいます」

 至天は単語と文を見ていた。

「――至天。

 私たちが今相手にしている者は、このnotが抜けてしまったために正常ではなくなり、人を襲っています。

 これを正してやることは、この文章の完成になりませんか?」

「――屁理屈や」

 至天はぼそっと言った。

「でも、仕上げといえば仕上げ、か……」

 至天はしばらく考え、

「わかった、それで手を打つ。

 そいつの所に連れてってくれ」

 ミュリエルが言う。

「でもレンゲ――

 刺青、ってタトゥーのことでしょ?

 そんなのすぐに消せない?」

「阿呆ッ。

 ナメんなや、小娘――

 ワシのほりもの、、、、は消えん。一生な。

 透かし彫りもやってたこのワシに描けんモンもないわッ!」

 至天が強く言った。

「さすがです。

 ではそれで――」



 それから二人と至天は、出発した。


□■□■□■


 きっかり二秒で、至天はWBの腕に三字を彫った。


□■□■□■


 WBは悶絶していた。

 振り払われ、三方に散っていたれんげとミュリエルと至天はベッドのそばに集まる。

 れんげはベッドの守弘とメルに目をやり、二人の乱れた服に眉をひそめて少しだけ直してから、WBに意識を向けた。

「が――ぐ……ぉぉぉ――――ッ」

 意味を成さない絶叫を漏らしながらWBは自らを抱え、転げ回る。

 構えを解かずにミュリエルはアンクをWBに向けていた。

「が――――ッ!!!」

 茂林など、気配を探るのに長けた者がいたなら、この時WBから多数の『何か』が抜け出して方々へ飛んでいったのが見えたかも知れない。

 もんどり打って、WBが倒れた。

 仰向けのままぴくりとも動かない。

 数秒後。

「――あ、っ」

「んんっ……」

 れんげの後ろで声がした。

 れんげが驚いて振り返ると、守弘とメルが目を覚ましていた。

「メルっ! 守弘さんっ!」

 WBはまだ動かない。

 その時、れんげの携帯電話が鳴った。

「えっ!?」

 ディスプレイを見て、表情を明るくしてれんげは電話に出る。

「翠穂さんっ!」

『れ――れんげ? どうしたの?

 そんな声珍しい。

 何回も電話くれてたみたいだけど――

 それに、何があったのかさっぱり判んない――』

「ごめんなさい――あとで、あとで説明します。

 よかった――本当に――――!」

 WBがぴくりと動いた。

 それが視界に入り、

「すみません、お話したいけど――また明日学校で」

『う――うん。わかった』

 何度も謝ってれんげは通話を切り、WBを見る。

「あ……ああっ」

 WBは授業の時のような柔らかな声になっていた。

 れんげとミュリエルが駆け寄ると、目を開けて二人を見上げた。

 妖艶な色はない。澄んだ碧眼だった。

「あの――私は……」

 半身を起こす。

 その時左腕の文に目が入ったようで、

「これは……あぁ」

 と呟いた。

 れんげとミュリエルを見て言う。

「これは大切な言葉ですね。

 もしもこのnotがなかったら、とんでもないことになってしまう。

 ああ、この言葉はこうでなくては。

 素晴らしい」

 その晴れやかで満ち足りた表情に、れんげとミュリエルは顔を見合わせた。

「あなた――」

 ミュリエルが言いかけたとき、

「れんげっ」

 と守弘の声がした。

 れんげが振り返ると、至天が浮いていた。

 飛んでいるのではない。

 羽はぴくりとも動いていない。

 数歩駆け寄って、れんげは至天を見上げる。

「あぁ――すまんかった、な。

 ワシは――満足した。

 あいつの顔と言葉で、思い残すことはない――――」

 至天が言っている間に体が透けてゆき、言葉を残して消えた。

「至天……。

 成仏できたのですね」

 れんげは自然と手を合わせ、小声で光明真言こうみょうしんごんを唱えていた。

「れんげお姉ちゃんっ!」

 そのれんげに、メルが抱きつく。

 れんげは合掌を解いてメルをふわりと抱きしめた。

「メル――よかった、無事で。

 守弘さんも――」

「ん、あぁ……」

 守弘は複雑な表情で目をそらした。

 いそいそを乱れた服を着直す。

「あの――あいつはいいのか?」

 れんげが見ると、ミュリエルとWBが何か話していた。

「ミュリエルさん」

 ミュリエルの元にれんげが行くと、WBがれんげを見上げて言った。

「ご迷惑をおかけしました――私はもうじきこの世から消えるでしょう。

 ですがこの罪は消えません。

 いかな手段をもってしても償わねばならないのですが――」

「消える……?」

 WBは自虐的に笑っていた。

「私は、回収・焚書された書の『念』が集まり生まれた存在です。

 この言葉に全てがあったといっても過言ではありません。

 正されたなら、誤りの存在がこの世にいられる理由はありません」

「でもっ」

 れんげはWBの手を取っていた。

「憎むべきは罪で――その行為で、行った者ではありません。

 あなたが改心したのならそれで――」

 ミュリエルが驚いてれんげを見る。

 WBは笑っていた。

「優しい方ですね、あなたは。

 日本で云う『罪を憎んで人を憎まず』ということですか――」

 れんげの手の中で、WBの手が崩れていた。

「えっ!?」

 まさに書物を焼いた灰のような、薄い灰色の煤になって端からボロボロと崩壊していく。

「バーカーさんっ!」

「その名で呼んでくれますか――なんと優しい」

 WBの体全体が崩れ始めていた。

「ミュリエル――こんな私でも、天に召されるのでしょうか」

 ミュリエルは答えなかった。

 WBは柔和な笑顔で、二人を見ていた。

「お二人にはどれだけ、感謝の言葉を並べても足りません。

 本当に、ありが……と――」

 WBはすっかり、灰になった。

 支えるものがなくぼすっと崩れた、WBだったものは楕円に固まった灰の山になっていた。



「――――アーメン」

 ミュリエルがそっと、十字を切っていた。

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