4章 惜念

 れんげは、五限目に遅刻した。

 しかし怒られることはなく、かえって石倉には安堵の表情で、

「お前も被害に遭ったのかと思って探しに行くところだったよ」

 と、早く席に戻るよう促されただけだった。

 金曜の五限目は化学で、六限目はロングホームルームになっている。担任でもある石倉は授業とLHRの区切りとして休憩を挿むものの、授業が早く終わってホームルームの議題――話し合いが長くなったり、ホームルームの時間に食い込んで化学の授業をすることもしばしばあった。

 ホームルームが早く終わることもある。

 この日は、朝のHRで教室移動はなしと石倉が言っていた通り、実験などでもなく、期末考査の答案返却と答え合わせだった。

 教室内は授業、という雰囲気が薄かった。

 教卓でれんげの答案を返したとき、石倉はそういえば、と呼び止めた。

「三原も戻ってきてないんだが――高野、何か知らないか?」

「え? あ――」

「知らないんなら仕方ない、いいよ、戻って」

 れんげが言い淀んでいると、石倉は苦笑して軽く手を振った。

 とっさに妖怪の事を省いて説明できるウィットはれんげにはなかった。

 結局、石倉はLHRを早めに切り上げてこの日の授業を終えた。

「許可とってるから教室出てもいいけど、あまり騒がないようにな。

 それと、用心して早く帰ること」

 ざわつく教室で、石倉は声を大きくする。

 れんげは携帯電話を開いて見てみるが、翠穂からの連絡はやはりない。

 荷物を片付けて、れんげは職員室に向かった。


 英語教師の古武の隣に、WBはいなかった。

 古武は授業もなかったようで、机を片付けていた。

 れんげは一礼して職員室に入り、古武の席に行く。

「どうした――授業は?」

 古武は時計を見て言う。

「六限からHRでしたので――」

 れんげは、英書数冊と辞書程度で、ほとんど荷物のない古武の隣の席に気を留めた。

「先生――あの、バーカー先生は……?」

「ん? あぁ、今日は体調が優れない、とかでもう帰ったよ。昼休みの終わりくらいに急にな。

 どうかしたか?」

「ちょっと、聞きたいことが――」

 茶を濁すような返答でごまかす。

「バーカー先生ってどこに住んでらっしゃるか、教えていただけませんか?」

「それは、できない決まりになってるんだ」

 古武は高野もか、と苦笑した。

「本人に直接聞くならいいけどな。

 高野で――何人目だ、女子ばっかり聞きに来るけど、誰にも教えてないよ。

 で、英語の質問なら俺でもいいんじゃないのか?」

「あ――その、個人的なことですので。

 すいませんでした。失礼します」

 ぺこっと頭を下げて、れんげは早足で職員室を出た。


 れんげが走るように急いで校門を出ると、すぐ前のガードレールにもたれていたミュリエルが腰を上げた。

「お待たせしました」

 ミュリエルは昼の白衣を脱いで、昨日と同じコート姿だった。

 どうやら学食の搬入業者か調理員と一緒に校内に入り、調理員の白衣を拝借していたらしい。昼、れんげが教室に戻る際にもミュリエルは、

「あまりスマートな方法じゃなかったけど、入れたからまあ良しとする」

 と、詳しく話さず苦笑するだけだった。

 そのミュリエルは杖と携帯電話を手に、肩をすくめる。

「ちょっと――駅の方まで行って探ってみたけど、判らなかった」

「そうですか――

 学校は早退したそうですが……」

 れんげは住処は聞けなかったことと合わせて言う。

「手がかりなしで探すのは困難ね――」

「茂林でも探れるかどうか――一旦、うちに行きますか?」

「モリン、ってあの喋る狸?」

 ミュリエルは複雑な表情で言う。

 れんげは少し苦笑をこぼして頷いた。

「私より、匂いを追うのは優れてますよ。

 苦手ですか?」

「そういうわけじゃないけど――いいわ、行きましょう」

 れんげとミュリエルは校門から見て右手の坂を下り、バス停へ行く。

「――気休めかも知れないけど」

 ミュリエルが言う。

「ヤツは今、レンゲを執拗に狙ってるように見えたわ。

 だとしたら――当面、被害者は減る可能性がある」

 れんげは隣でバスを待つミュリエルを見上げた。

「どう言うのかな――グルメ嗜好?

 ヤツはイザとなれば誰からでも『生気』を喰うことができるからか、普段は暴喰せず、選り好みをすることもよくあるの――それが、発見の遅れてしまう一因でもあるんだけどね。

 昼の感じ、ヤツはレンゲに執心しているようよね。

 それなら――レンゲを丹念に味わうために、他に手を出すことを控えるかも、って考えられるの」

 レンゲにとってあまり気持ちのいい話じゃないと思うけど、と付け加えてミュリエルは胸元のアンクを引っ張り出した。

 ずっと熱を帯びているそれを弄りながら言う。

 バスがやってきた。

 二人は乗り込んで、後ろの方の二人がけの席に座る。

 バスはすぐに発車し、坂を下ってゆく。

 ミュリエルが話を再開した。

「だからといって放っておいていいなんてことはないわ。

 これまでの調査で、数日間――七日、って説を出したスタッフもいるけど定かじゃない――ヤツが喰った魂が完全に消化されてしまうまでかかるらしい、ということが判ってる。

 つまり――この町での昏睡事件がいつから起こってるのかは判らないけど、ヤツを倒すのが早ければ早いほど、眠っている人を救える確立が高くなるのよ」

「なるほど」

 れんげには、気になったことがあった。

「――ミュリエルさんは」

「ん?」

「過去に、彼に……」

「ええ。『喰』われたことがあるわ」

 ミュリエルはあっさりと頷いた。

 黒髪を示して笑う。

「この外見だから狙われたんだろうって言われたわ。

 ――そうそう、ヤツはいつからか明らかじゃないけど、日本人を好んで狙う傾向があるわ。ミス・キャサリン・モートンが喰われたのは偶然かも知れないけど、彼女が日本の学校で講師をしていたからヤツは日本へ来る絶好の機会を得られた――そう我々は見ているわ」

 だからこの町へ来たのは偶然じゃない、ミュリエルはそう続ける。

「いかにも日本人風で、黒髪で、しかも妖怪。

 ――レンゲ、ヤツに狙われるワケだわ。条件、、そろいすぎ」

 バスは駅の南口を経由して商店街の外から公園を抜け、学校からは東の方になる姫山へ向かって走っている。

「で、ヤツはそういう『隠れ蓑』を巧みに使うこともたまにあるの。

 一度なんか、英国国教会の司祭に成りすましていたことすらあるのよ――ッ!」

 ミュリエルは奥歯をぎりっ、と噛む。

あの言葉、、、、を除けば――他に誤植はあるかも知れないけど――欽定訳聖書だからね。

 でも、それでスコットランドの小村がいくつか、全滅したこともあるわ」

 ごん、と杖で強く床を突いてしまい、ミュリエルは慌てて周囲を見回す。

「脱線したわね。

 それで、えっと――私は幸い、発見されたのが早かったのと、私の師のお蔭で、復活できたのよ」

「お師さまの?」

「そう。これでね」

 ミュリエルは持っていた杖を示した。

 店が増えてきていた。

 駅はもう過ぎていた。

「そういえば――その杖、何か特別な力があるのですか?」

 ミュリエルは、首元のアンクを掲げた。

「このアンクも、これと同じく聖別された銀と、ミスリル鉱でできているの。

 不浄なものには効くわ。

 ――師の形見」

 れんげは驚いてミュリエルの顔を覗き込んだ。

「それは――立ち入ったことを伺ってしまいました。

 すみません」

 深々と謝るれんげに、ミュリエルは笑って手を振った。

「いいわよ、そんなに謝るような事じゃないわ。

 それに――」

 れんげは頭だけ上げて、ミュリエルを見上げる。

「全てがあって、今の私がある。

 ――もっともそう思えるようになったのはこんな、コラーゲン生成が低下しだす歳を過ぎてからだけどね」

 ミュリエルは笑っていた。

「どの一つも欠けてしまっては、私はない。

 原因と結果はつながっている――ええと、何て言ったっけ」

「因果――ですか?」

「そうそう、それ。

 だからね、レンゲが謝ることはないの」

 ミュリエルはれんげの肩を抱いて言った。

「でも――失礼なことを」

「いいってば。私から言ったことだし」

 ミュリエルはれんげの肩をぽんぽんと軽く叩いて、もう一度笑った。


□■□■□■


<九十九堂>はいつもと変わらない様相だ。

「あらためて、落ち着いて見せてもらうと――いい店ね」

 ミュリエルが店に入るなり、見回して言う。

「古そうなものなのに綺麗に、丁寧に扱われている感じがすごくする。

 これが終わったらゆっくり見させて欲しいわ」

「それはおおきに。

 なんぼでも見ていってや」

 カウンターの奥から小柄な老爺が現れる。

「れんげちゃん、お帰り」

 茂林だ。

 ミュリエルは人の姿の茂林をまじまじと見て、後ろにいたれんげに振り返った。

「レンゲ――この人」

「茂林ですよ。昨夜は狸のままでしたね」

「うそ――」

 初めて見た、とミュリエルは呟く。

 作務衣姿の茂林を上から下まで見て、

「人に化けられる動物なんて、伝説だと思ってた……すごいわ」

 中腰になって言う。

「素晴らしいわ……」

「そりゃ光栄やな。

 そや、嬢ちゃん」

 茂林はにっと笑った。

「支払いは日本円でよろしゅうな」

「茂林――私たちから、違う『匂い』を感じませんか?」

 れんげが前に出て、腰を落とした。

「ん?

 ――あぁ、確かにな」

 茂林はれんげの左手首に鼻を近付け、頷いた。

「強いな――これが昨日言ってた『邪悪聖書』とかいうヤツか」

「すごい――判るものなのね」

 ミュリエルは目を丸くして、絶賛していた。

 気分よさげに鼻を鳴らして、茂林はミュリエルを見上げた。

「嬢ちゃんからも匂うで。

 一遍判別できたら嗅ぎ分けるのは簡単や。この姿でもな」

「茂林――追えますか?」

 茂林はからっと笑った。

「愚問やな。

 ミカン畑で籠渡されて『収穫できますか』って聞くようなモンや」

 れんげが立ち上がった。

「策を考えましょう。

 ミュリエルさん、上がって下さい。茂林も――」

 そこでれんげは周囲を見回した。

「茂林、メルは?」

「いつもの散歩や。だいたい三十分か一時間くらいで帰ってきよる」

 れんげちゃんも知ってるやろ、と茂林はカウンターのレジを施錠した。

 そういえば、とれんげも思い当たって唇を噛む。

 メルは、少し前に自分のものになった花瓶を大事に扱い、水も花も時々変えて楽しんでいた。

 昼間に散歩に出ては、どこに咲いていたのが綺麗だったとか夕食時に嬉しそうに話すのを、れんげも良かれと思っていた。

 危険なことがあったら最大速度で帰って来るようれんげは言ってはいたが――

 れんげの脳裏に、昼間のWBの言葉が蘇る。


   これは――そうだな、日本で云う『外堀を埋める』というやつだ。


 不安げにれんげは店を飛び出した。

 メルの帰ってくる様子はない。

 戸を開けたまま店内に戻り、れんげは居間をのぞきこんで至天が相変わらず部屋の隅で丸くなっているのを確認してから、茂林を呼んだ。

 居間に上がる廊下の縁にいたミュリエルが言う。

「あの子――いないの?」

「ええ。いつもの外出なのですが、注意してませんでした――

 茂林、まずメルを探してくださいっ」

 れんげの危機感を感じて、茂林は頷いてその場で宙返りした。

「えっ!!」

 ミュリエルが驚いて杖を取り落とし、取り繕うように拾った。

 茂林が、狸に戻っていた。

「本当に化けるんだ――すごいっ」

 ミュリエルは感動の眼差しで茂林を覗き込んでいた。

「驚いてる場合やないで、嬢ちゃん――」

 茂林は得意げにミュリエルを見てから、外へ駆け出た。

 やや暮れかけた空の下、茂林は四肢を張る。

 れんげとミュリエルも茂林を追う。

 茂林の毛がふわっと立っていた。

「ぬぅ……」

 茂林の『気』が放射状に広がる。

「熱ッ!?」

 ミュリエルが胸元からアンクを出した。

 茂林は集中するように頭を下げる。

「ん――お、おった。今日は駅の方か。

 いや――ちょ、この匂い、、――――」

 茂林は集中を解いて振り返った。

「れんげちゃん、急がな!

 その『匂い』のヤツとお嬢――近いでッ!!」


□■□■□■


 少しさかのぼる。


 WBは守弘を抱えたまま、住処にしている駅の北口近くのマンスリーマンションに戻っていた。

 守弘を拘束した後学校の職員室に戻って早退の手続きだけとり、すぐにマンションにとって返した頃――守弘が目を覚ましていた。

 WBの部屋はカウンターキッチンのある広めのワンルームで、ほとんど物はない。

 もとから備え付けられているテーブルや簡易ベッドと、ウォークインクローゼットに衣類がある。

 他はというと、テーブルには二冊の聖書が置かれている。片方の表紙が『聖書』と箔押しで書かれているところを見ると日本語訳のようだ。

 ベッドに簡単なCDデッキがある。

 守弘はその、ベッドにいた。

 ベッドは折りたたみ可能なもので、薄めのマットレスのみ敷かれている。四隅にそれぞれ手足を縛り付けられている。

 目を覚ました守弘は見慣れない天井と周囲に戸惑い、自分の状況を把握するのに多少の時間を要してしまった。

「――目が醒めていたか『惨めな騎士miserable knight』君」

 部屋の入り口――玄関からは数メートル程の廊下があり、ワンルームとはいえ安っぽい造りではない――にWBが立っていた。

「て――てめッ!」

 WBはつかつかとベッドまで近付いて、守弘を睥睨へいげいして薄く笑う。

「自分の力が全く及ばず、こうして縛られているのはどんな気分だ?」

「放せッ!」

「下らんな。

 お前――ただの人だろう? あのミュリエル・イフィゲネイアのように特殊機関に属し、訓練している者とも違う。

 それが私に僅かでも敵うとでも思ったか? 無知無謀にも程がある」

 WBは守弘の顎を掴む。

「が……ッ」

「お前はそれほどあの妖怪娘ジェントリーに惚れているのか。

 ――それは面白いが、身の程をわきまえろ」

「ぁ……か」

 下顎を押さえられ、言葉にならない。

「ふん――まあ、たまにはいいか。

 なかなか活きのいい『魂』のようでもあるしな」

 WBはベッドに――守弘の上に乗った。

 ベッドがぎしりと悲鳴を立てた。

「なッ!?

 何をッ!」

「騒ぐな。お前にも教えてやろうというのだ。

 ――天に至る悦楽をな」

 守弘は暴れるが、WBの膝が守弘の腰を挟み込んで押さえつけている。

「むっ!!!」

 WBは左手で守弘の口を塞いだ。

「――ッ!」

「無駄だ。

 人間の小僧が噛んだ程度で私がひるむと思ったか」

 WBは守弘の抵抗を意に介さず、右手を守弘の腰に伸ばしていた。

「っ!!」

 守弘のズボンのベルトが解かれていた。

「ふむ――」

 WBは考えるように守弘から目をそらし、にいっ、と唇の端を吊り上げた。

「このままでもいいが――

 サーヴィス、、、、、してやろう。せいぜい感謝するがいい」

 そう言うとWBは守弘に覆い被さり、耳元で囁いた。

汝姦淫すべし、、、、、、――『惨めな騎士』もその快楽を感じるといい」

「んんん!」

 守弘の目が見開かれる。

 WBが左手を離した。

「あ……っ」

「どうだ? 今まで知らなかったものを知るというのは――」

 言葉の冷たさとは裏腹に、守弘を探るWBの手は滑らかだった。

「――っ」

 守弘の唇がわなわなと震える。

 WBの瞳孔が細くなっていた。

「ひ――――ッ!!」

 守弘の頬を涙が伝っていた。



 再び意識を失った守弘をそのままに、WBは着替えてマンションを出た。

 手に小振りな手帳があった。

 それを開いてページを繰る。

 WBは駅前に向かって歩いていた。

「タクシーでいいか――ん?」

 バスロータリーの中のタクシー乗り場に向かうところで、何かに気付いたようにWBは手帳から顔を上げた。

「この『匂い』は――いや、タカノとは違うが……」

 タクシー乗り場を通り過ぎて、WBは駅を抜けて南口へ行く。

 南口から伸びる商店街の入り口にいたのは、メルだった。

 白いダッフルコートと可愛らしいブーツといういかにも冬らしい格好で、がま口、、、を握りしめてケーキ屋を嬉しそうに覗き込んでいる。

 人形のような白い肌とふわふわの金髪が目立つ。

「あの小娘か――」

 WBはにっ、と笑ってメルに向かう。

 軽い、自然な足どりでケーキ屋のショーケースの前で立ち止まり、すぐ横のメルを優しく見下ろした。

 店員は控えめに様子を窺う程度だった。

「――ん?」

 視線に気付いて、メルがWBを見上げる。

 WBが優しげな微笑みを浮かべると、メルの頬がさっと紅潮した。

「君は――人間じゃないね?」

 メルだけに聞こえるくらいの小声でWBが言う。

 メルは瞳をいっぱいに開いて、一歩下がった。

「ああ、すまない。

 私もそうなんだ。

 少し、話相手でもしてくれないか? 隣人ジェントリーに逢うのは久しぶりでね」

「――ウソっ」

 メルはもう一歩下がる。

「あなた、昨日お姉ちゃんたちが話してた『ウィキド・バイブル』でしょっ!」

 WBの片眉がぴくりと上がる。

「騙されないんだからっ!

 れんげお姉ちゃんとか守弘お兄ちゃんにやられてしまったらいいのよっ!!」

 言うなりメルはくるりときびすを返し、駆け出した。

「ふン。

 小娘の脚力など――ッ!?」

 WBは目を見張った。

 ほんの数秒でメルは人体では出し得ない速度で駅前を離れ、バス道を<九十九堂>へ向かってまっすぐ疾走していた。

「面白い――ッ」

 WBはメルを追って走り出した。


□■□■□■


「メルっ!」

 道路の途中でれんげは、かなりのスピードで走ってくるメルを前方に見つけて声を上げた。

 ききいっ、と摩擦音高くメルが停まる。

「お姉ちゃんっ!」

 れんげは原付を止めて降り、歩道を走ってきたメルを抱き留めた。

 同じく原付に乗っていたミュリエルと、狸姿の茂林も降りる。

 バス道の途中、歩道の横が空き地になっている、家屋と商店の間の閑散とした所だった。

「お姉ちゃんっ、昨日話してたヤツだと思うの。

 駅前で会って、声かけられてあたし気付いたから――」

「偉いわ、メル」

 れんげはメルの頭をなでて、後ろの原付のハンドルを握らせた。

「無事でよかった。本当に偉いわ。

 ――この子を連れて、お店に帰っていて」

「れんげちゃん――追って来とる」

 茂林が緊張した声で言い、ミュリエルが杖を構えた。

 れんげはエンジンを切った原付を歩道に上げ、反対に向けた。

「さ、メル――」

「来たでッ!」

 茂林が威嚇の声を立てた。


「幼き子を守って自らを差し出す気にでもなったか」

 WBが息も乱さず、立っていた。

「あなた――さっきの彼『喰った』わねッ!」

 ミュリエルが前に出る。

 れんげが驚いてミュリエルを見た。

 WBは張り付いたような笑みを崩さない。

「守弘さんをっ!?」

「あぁ――モリヒロというのか。あの『惨めな騎士miserable knight』君は」

 意味が解らないれんげは訝しげな表情になるが、ミュリエルは憎々しげにWBを睨む。

「なんて侮蔑をッ!」

「無謀を勇敢とは言わんよ。

 さて――あぁ、彼はなかなか活きのいい『魂』だったな。

 いい声でいていた」

「っっっ!!!」

 れんげの顔にショックが走る。

 ――が、抑えてれんげはメルの背を押した。

「メル――行って」

 メルがこくっと頷いて、原付のハンドルを持ち直した。

 WBが腰を落とす。

「あっ!」

 ミュリエルの杖も、れんげが防ぐのも飛び越えてWBはメルと原付の目の前に降りた。

「きゃあっ!」

 メルが悲鳴を上げた。

「!!

 離れなさいッ!」

 れんげが強い言葉を発した。

 WBが哄笑し、メルの細い首を掴んだ。

 ハンドルを持っていた手が離れる。

 スタンドを起こしていた原付がゆっくりと倒れてゆく。

 ミュリエルと茂林が同時にWBの足下を狙う。

「――遅いッ」

 WBは下からすくい上げた杖の柄を脇で挟み、茂林を靴の裏で止める。

 茂林は鼻先から靴と当たり、ひるんだところを蹴られて転がった。

「ぶがッ!」

 ごろごろと横転し、途中で体制を整える。

「邪悪聖書……っ」

 れんげは、メルを掴んでいるWBの左腕を狙った。

 メルの後ろから、WBの腕を左手の独鈷杵と右手を変えた鉈で挟む。

「――っく」

 れんげはメルを抱き、引いた。

「放しなさいッ!」

「それほど大事か」

 WBは鼻で笑う。

 ミュリエルが杖の関節を解いた。

 杖が三節に分かれる。

 ミュリエルは踏み込んで分かれた杖の二段目を持ち、下の部分でWBの肩を打った。

 WBは脇を開けて杖を放し、れんげを襲う。

 メルを間にしたままれんげとの間合いを詰め、独鈷杵を持つ左肩を殴った。

 れんげの左腕が跳ね上がる。

「お姉……ちゃん……」

 メルが切れ切れの息で背後のれんげに助けを求めた。

「ならば尚更、この子は戴いていかねばな」

 茂林がWBの背後から飛びかかる。

 あたる寸前にくるりと回り、麻袋に変化する。

 麻袋はWBの頭を包む。

 ――が、

「んがッ!?」

 変化が解かれ、茂林は狸に戻って転がった。

 腹から血が吹く。

 WBはぷっ、と血の混じった痰を吐いた。

「茂林っ!」

 ミュリエルは再び杖の節を固めた。

 アンクで脇腹を突く。

「――く」

 WBは表情を歪めながら左かられんげに膝蹴りを入れた。

「っあ――っ!!」

 その細身から想像できない膂力りょりょくでれんげが弾けとぶ。

 WBはひと飛びで間をとった。

 メルを片腕で抱えて自らの前にする。

「お姉ちゃんっ!」

「卑怯なッ!」

 ミュリエルがじりっ、とアスファルトを踏みしめる。

 れんげが跳ね起きた。

「メルを放し――なさいッ!」

 れんげの頬からも血がにじんでいた。

 ふらつく腕で独鈷杵を構え、ミュリエルの隣に駆け寄る。

「いい顔だ。

 もっと――感情を露わにしてゆくのだ」

 WBはにやにやと笑っていた。

「怒りはいい。

 もっと感じるままになりたまえ」

 れんげとミュリエルが踏み出す。

「いいか、タカノ。

 ――私は君を倒したいのではない。味わいたいのだよ。

 感情をたぎらせ、君の魂にスパイスを加えてくれ」

「な――何をっ」

「その方がより、快楽に溺れた時のギャップは美味になる」

「ッ!」

 れんげとミュリエルは同時に攻撃をしかけるが、メルを盾に出されて動けない。

「そのためならこんな小娘も、使ってやろう」

 車通りが途切れた。

 WBは反対車線にひらりと飛んだ。

「待ちなさいッ!」

 れんげが叫ぶ。

「はッ。

 怒れ怒れ。

 そうして私に、極上のディナーをもたらしてくれッ」

 WBは哄笑を残して走り去った。

「待っ――て、っ」

 れんげが膝をついた。

 ミュリエルが脇から支える。

「レンゲっ」

 茂林がフラフラと立ち上がった。

 れんげは荒い息で原付を起こし、スタンドを立ててそこにもたれた。

 ミュリエルもそこで、緊張感が落ちたように肩を落とす。

「茂林――傷は?」

「アイツ――ワイの腹、なじりやがった。

 化けるのは集中保たんから勘弁やけど――大丈夫、や」

 苦しげに言う茂林の腹からは、まだ血が流れている。

「無理でしょう――お店に……帰っていて」

 れんげは原付の座席下から、綺麗なタオルを取り出して茂林の腹に巻いた。

 白いタオルを赤い染みがすぐに浸食してゆく。

「レンゲ――みんな一旦、帰りましょう」

 ミュリエルの息も切れていた。

 かがんでいたれんげが弾かれたように顔を上げる。

「でも、追わないと――っ。

 翠穂さんも守弘さんも、メルまでもが……」

 れんげの瞳に、涙が溜まっていた。

「落ち着いて、レンゲ!」

 杖に半ば体重を預けたミュリエルは腰を下ろし、れんげと目線の高さを合わせた。

 少し息を整えて、まっすぐれんげを見つめる。

「でも、私のせいでっ」

「――冷静に考えて。

 今のままヤツを追っても、ヤツの思うツボじゃないの?

 言ったでしょう? ヤツは魂の消化に多少の日にちがかかる、って」

「でも――」

「落ち着きなさいッ!」

 れんげが目を大きくした。

 溜まっていた涙がこぼれる。

「このまま行って、こんな状態でまた戦っても勝てる見込みなんてないでしょッ!

 明日でもいい、今夜でもいいけど――少しだけでも体を休めて、昂ぶった感情を収めるのよ」

「ミュリエル、さん……」

「私だって今すぐ追いたいけど――今度こそ確実に倒したいのよ」

 もう一筋、れんげの頬に涙が落ちた。

 ミュリエルはれんげの肩を抱く。

「レンゲがどれくらい生きてきたのかわからないけど――戦いの経験値は私だってそこそこあるし、感情を殺す訓練もしてきた。

 冷静になって、レンゲ」

 れんげは涙を拭い、傷に擦れて顔をしかめた。

 ミュリエルが手を放す。

「――すみませんでした、ミュリエルさん」

 れんげは原付のステップに茂林を乗せ、立ち上がった。

 ミュリエルも杖を支えに腰を上げる。

「取り乱してしまいました。

 ――<九十九堂>に帰りましょう」

 れんげは鎮めた口調で、言った。


 陽は落ちて、夕暮れの帳も通り過ぎようとしていた。

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