3章 戦線


 上部がループ状になった銀十字の付いた長い杖を構えた女性は、れんげの表情に少し構えを緩めた。

「何故ばれたか、って顔してるわね。

 ――いいわ、それは教えてあげる」

 身構えていただけのれんげに、彼女は首元から引っ張り出したものを示した。

 杖に付いた十字と同じような小さな十字架が、鈍い銀の光を夕刻にさしかかる陽光に反射して発していた。

「聖別されたこのアンクは、自然な生まれでないモノが近くにいると熱を持つの。

 あなたがここに現れてからヒーターのように温かくなってきて、探ってみたらあなたがいた――そういうことよ」

 女性は英語混じりで言う。

「あなたは――何者、ですか?」

 れんげはじりっ、と位置をずらすが、彼女はれんげへの狙いを外さずに小さな十字をコートの奥へ戻し、両手で杖を構える。

 れんげの質問には答えない。

「私のことより、あなたは何者なの?

』と何か関係があるの?

 この町に『彼』がいることはほぼ確実と思ってるけど――」

 彼女は一足でれんげとの間合いを縮めた。

 杖を下に、先端部分を後ろにして構える。

 すぐにでも振り上げようと、半身を引いて体を少し捻っている。

「待って下さいっ」

 れんげは鞄防御の体勢でいる。

「彼、というのは誰ですか?

 それにあなたは――」

 彼女は少し眉をひそめ、杖をくるりと横に回して地を軽く突いた。

 れんげをまじまじと見つめる。

 れんげは鞄を下ろした。

「確かにあなたのおっしゃるように、私は人間ではありません。

 ですが――人に害するつもりもありません」

 彼女はれんげから視線をそらさず、トランクを取る。

 構えを解き、警戒を若干緩めていた。

「あなたが、人に悪事をなす者でないなら、私はあなたと戦うつもりはありません」

 女性はふっ、と苦笑を漏らした。

「そう――失礼したわ。

 私はある者を追ってこの日本にやってきたの」

 彼女はれんげに謝って、言う。

「追って――?」

 その時、高く軽いクラクションと共に赤い原付が南口のロータリーに入ってきた。

 まだ人通りは少ないが、ロータリーにいた人びとは何事かと音の方を見る。

 守弘だった。

 原付の足置き部分に狸――茂林もいる。

「守弘さんっ」

 原付はれんげと女性のすぐ近くまで来て、停まる前に茂林が飛び出した。

 守弘も原付を停めて降りる。

「――この人は?」

 守弘が言う。

 女性はれんげの加勢を見て、退き気味の態勢になっていた。

 茂林をもう一度見て、れんげに視線を移し、トランクごと一歩下がる。

「待って下さい」

 それをれんげが呼び止めた。

「あなたが追っているのは――ウィケード・バーカーですか?」

「っ!!!」

 女性が驚きの表情でれんげを見た。

 守弘と茂林もれんげを見る。

「私は今、彼のことを探っています。

 あなたの事情をお聞かせ願えませんか? 協力できるかも知れません」

 女性は何か考えるようにれんげと茂林と守弘を見比べた。

 街灯が何度か点滅して、やや暗くなってきた周囲を明かりが照らす。

「――いいわ」

 女性は杖を肩にかけた。

「私は、ミュリエル・イフィゲネイア」

 そう、女性は名乗った。


□■□■□■


「――まず、あなたの知ってることを教えて」

 ミュリエルを加えて、れんげたちは<九十九堂>に帰っていた。

 ミュリエルは至天の風体やメルや茂林に驚いたものの、今はれんげの淹れたお茶を手に座っている。

 ロングコートと手袋は脱いで、トランクに引っかけている。杖も同様にトランクに立て掛けられている。

 コートの下は、鮮やかな赤のワンピースとタイツ。強調はしていないが、それなりに体のラインを露わにしている。

 皆の靴に並んで、ロングブーツが置かれている。

 帰路の途中でれんげはミュリエルに名乗り、自己紹介を含めた付喪神の簡単な説明をしていた。

 そうして今、炬燵を囲んでいる。

 至天だけは居間の隅で興味なさげにうずくまっている。傷はかなり回復している様子だった。

「そうですね」

 れんげはWBが赴任してきたあらましと、ここ数日で多発している女生徒昏睡の事件を順を追って話してゆく。

 ミュリエルは相槌を打ちながら、表情を険しくしてゆく。

「一刻を争う事態になりつつあるわ」

 れんげが話し終えるのを見計らって、ミュリエルが言った。

「――どこから話そうかしら」

 そう切り出す。

「レンゲは『邪悪聖書』って知ってる?」

「いえ――」

「今月の頭、ある女性が昏睡状態で発見されたの」

 ミュリエルは、つい今話の枕にした質問とは一見関係のなさそうな話題からはじめた。

「その女性の名はキャサリン・モートン。

 いまだに目覚めていないわ」

 その名にれんげは聞き覚えがあった。

「モートン先生?

 まさか……」

 ミュリエルは頷く。

「さっきレンゲが言ってた『ウィケード・バーカー』は奴の通名よ。社会的に名乗る時に昔から使っているわ。

 本当の名は『The Wicked Bibleウィキッド・バイブル』――『邪悪聖書』という、我が国の忌まわしき汚点」

 もう一度、その名を言う。

「邪悪――聖書?」

 ミュリエルは全員を見回して、苦笑する。

「さすがに知らないかしら?

 そっちのお嬢ちゃんも? 見たところ、ユーロ圏系の雰囲気があるけど――」

 と、メルを見るが、メルはきょとんとして首を振った。

「仕方ないわね。

 レンゲは聖書のことは? モーセ五書トーラー『出エジプト記』のモーセのエピソードは知らないかしら?」

 レンゲと守弘は顔を見合わせる。

「モーセ、というと……。

 世界史の授業でありませんでした? 十戒のお話で」

「そうだっけ? 俺はあんまり覚えてないけど――」

「確か――」

 れんげが呟きながら、鞄を手元に寄せる。

 そこから取り出したのは『世界史図説』だった。

 かなり手前のページをめくってゆく。

「これ、ですか?」

 横長の資料集でれんげが開いたページに、シナイ山を登るモーセの画があった。

「そう――ね」

 そのページ全体から、前後のページの年表やピラミッドの写真を観てミュリエルは頷いた。

「日本語、読めないけど――ここに十戒が書いてあるの?」

 ミュリエルが示したのはモーセの絵の下に囲んで書かれた、十戒の引用だった。

 モーセが授かった十の戒律だ。

 れんげが頷く。

「じゃあ、もっとあとの時代。

 ヨハネス・グーテンベルクの活版印刷術はわかる?」

 開いたページはそのままに、ミュリエルは講義を進めるように言う。

「それはついこの前授業でありましたね、守弘さん」

「おう。試験でヤマ張って当たったところだ」

 守弘が嬉しそうに言った。

 メルはやはり守弘にくっついていて、守弘は頭を時折撫でてやっている。

 ミュリエルがそれなら、と話を続けた。

「それまで写本だった書物をがらりと変えたのがグーテンベルクね。

 グーテンベルクは世界初の印刷聖書『四十二行聖書』を刷り、活版印刷は聖書と教義の普及に重大な役割を果たした」

 そこではじめて、ミュリエルはお茶を一口飲んだ。

「あら――美味しい」

 れんげが少し笑って、会釈した。

「えっと、続けるわね。

 ――ジェームスⅠ世王は英国国教会の典礼のため、と聖書の翻訳を命じた。

 それが欽定訳聖書きんていやくせいしょね。

 何種類もあるのだけど、その中に大変なものがあるのよ」

 ミュリエルはひと息ついて、全員を見回した。

 至天は相変わらずで、そこにいつの間にか茂林が加わっていた。

「誤植、脱字――と笑って済まされないものもあった。

 その中でも最悪なのが、一六三一年に印刷された『邪悪聖書』なの――」

 ミュリエルはページを開けたままの資料集をちらりと見る。

「その間違いは、『出エジプト記』二十章。まさにその、モーセが授かった十戒の、七番目『汝は姦淫してはならないThou shalt not commit adultery』のnotが抜け落ちてしまっていた」

「と、いうと……」

その言葉、、、、を言いたくないから理解して。

 そんな、とんでもない書を刷ったのがロバート・バーカー、、、、。彼は高額の罰金を科せられたけど払えずに獄死した。

 本は国を挙げて回収したけれど、世界にまだ残されているのよ。

『奇書』だなんて云ってオークションに出品されたこともある――信じられないわ、まったく!」

 語気荒くミュリエルは言った。

 資料集の文面を見ながら、守弘が呟く。

「『してはならない』のnotがない、ってことは――

 姦淫す――――」

「言わないでッ!!!」

 ミュリエルが強い言葉で遮った。

「――ごめんなさい。

 悪意をもって言っているのではない、って解るけど……聞きたくもないのよ」

 取り繕うように謝る。

「ともかく――いつ、どうやってか、その一冊が人の姿になった、と我々は推察しているの。

 それが奴」

 ミュリエルは残りのお茶を一気に飲み干した。

 れんげは理解をかみしめるように頷き、

「では、やはり最近の昏睡事件は彼の――?」

「そう」

 ミュリエルが湯飲みをれんげに渡す。

「でも――どうやって?」

 れんげはすぐに、お代わりを注いで返す。

 微笑んで礼を言って、ミュリエルは湯飲みに口を付けた。

「彼は『魂』を喰うの」

「魂?」

「正確には『生気』ね。

 奴はあのルックスとテクニックと――それにあの言葉、、、、で人を淫らな気分にさせ、それが生み出す生命のエネルギーを吸い取るの。

 吸い取られた人は生気の減衰のため昏睡し、最悪の場合はそのまま、死に至る」

 れんげが息を呑んだ。

「それは、人も妖怪――『隣人ジェントリー』も同じ。

 奴にやられ、魂を失ったらただの抜け殻になってしまうのよ」

 居間に沈黙が降りる。

 柱時計が柔らかな音を六回、響かせた。

「れんげちゃん――腹、すかへんか?」

 茂林が欠伸をこぼした。

「そいつの正体が判っても何でも、腹が減っては戦はできん。昔からの格言や」

 ミュリエルが目を丸くして茂林を見ていた。

 眼鏡を直す。

「しゃ――喋るの!?」

「なんや、おかしいか?」

 からかうような口調だった。

「茂林」

 れんげが諫め、ミュリエルに謝った。

「驚かせてしまったようで、すみません。

 茂林は狸が長い年月を経て妖力を得た存在です。

 あと、そこのメルは旧い車のハンドルが変化した付喪神ですので、聖書のことはさすがに知らないかもしれません」

「そ――そう」

 ミュリエルは冷静を装い、お茶を飲み干した。

「それで――どう?

 協力してくれる?」

 れんげは少し目を丸くした。

「ええ。ぜひ。

 ――彼が人の災いになっていると判った以上、退くわけにはいきません」

OKオーカイ、よろしくね」

 ミュリエルは立ち上がり、コートと杖を取った。

 手袋をつける。

「具体的にはまた明日、動きましょう。

 私は駅近くに宿をとってるから、今夜はこれで失礼――」

 と、ミュリエルは少し複雑な表情で言い直した。

「レンゲ――駅まで、案内してもらっていいかしら?」

 れんげは微笑んで立ち上がった。

 財布と携帯電話を手に、かけてあったスクールコートを取る。

 まだ制服のままだった。

 れんげは財布から札を数枚出して、

「これで店屋物でも取って下さい。私の分はけっこうですので」

 と、守弘に渡した。

「わかった。

 ――れんげの分、いいのか?」

「ええ。大丈夫です」

 コートを羽織り、ブーツをはいたミュリエルをちらりと見てかられんげは言う。

 ミュリエルはトランクを押して、店の出口へ向かおうとしていた。

「ちょっと、行ってきます」


□■□■□■


 時間帯のせいか、駅へ向かうバスに人はほとんど乗っていなかった。

 れんげとミュリエルは先に乗っていた人から離れ、最後尾の席に座る。

「――送って、って言ったのは口実。

 少しあなたと話したくて」

 ミュリエルはそう言って笑った。

「あのまま、お話しして下されば……」

「他がいると話しにくいことってあるでしょう? だから、ね」

「そうですか?」

 気にしなくていいのに、という表情でれんげは言う。

「まぁいいわ。

 レンゲ、あなたはその――人間じゃない、のにどうして人の味方をして奴と戦おう、というの?

 あの場にいた人って私だけ――よね?」

 バスが停まり、一人降りる。

 れんげはくすっと笑った。

「守弘さんも、人ですよ」

「そうなんだ。

 彼はレンゲの――ステディ?」

 意味が解りかねたれんげは小首を傾げ、ミュリエルが手を振った。

「あぁ、その答えは別にいいわよ。

 それよりあなたのこと」

「私が――戦うこと、ですか?」

 ミュリエルが頷いた。

 バスがまた停留所で一人降ろし、乗客はれんげとミュリエルだけになった。

 振動を残して発進する。

「人に味方するの、って会ったことないから。

 イタズラする妖精も減ってるし、いても大抵他のものに強い干渉はしないし――誰か特定の人や家を助けたり守ったりするのは聞いたことがあるけど……」

 ミュリエルは思い出したように言い加える。

「さっきは……その、奴のことでいっぱいで気が立っていて、気配をったときに疑いが先行してしまって、手荒なファースト・コンタクトだったわね。

 ごめんなさい」

「それは――お気になさらず。大丈夫ですから」

 れんげは微笑んで、続ける。

「私は――というより付喪神は長い年月、人に使われてきた道具が変化したものです。

 捨てられたことを恨み、そればかりが強い念となってあやかしとなり、人に対して悪くはたらくものも多いのですが――私は人に、感謝こそすれ怨恨はありません。

 こうして魂を得、化けられるほどの長きに渡り使ってもらえていた恩を返したいのです」

 ミュリエルはれんげをじっ、と見つめていた。

「退治されかかり、救われて私は――人に害をなす妖を諫め、そのようなことをしないよう改心を促すことを志しています。

 人と、妖と、お互いが良い関係でいられることを望んでいます。

 私がそうすることで、妖が鬼やその他に圧倒され、ただただ淘汰されるのではなく、ひとつでも多くの魂を守ることができたら、幸せなのです」

 れんげは強い意志を瞳にたぎらせていた。

「すべての魂には成仏へいたる道があります。それを他者が無為に力で断ってしまうことなく、道を求めるよう心改めてもらいたいのです。

 そのために――私はここにいます」

「それは大きな望みね」

 バスが停まった。

 駅前に着いていた――終点だった。

 れんげは定期で降り、ミュリエルは現金で精算してバスを降りる。

 南口のバスロータリーから、ミュリエルが部屋を押さえているというビジネスホテルまで、少し距離がある。

 ふたりは宿に向かって歩きながら話を続ける。

 駅周辺はさすがに明るい。

 人通りも、日暮れ前にれんげとミュリエルが出会った時より多い。

「奴も――改心すると思う?」

「そう信じています」

「――どうしようもなかったら?」

「それでもやはり戦いますし、道を探します。

 彼がやっていることは見過ごせません――止めさせなければなりません」

 街灯の下、れんげはまっすぐミュリエルを見上げて言った。

 宿の前に着いていた。

 ビジネスホテルと看板があがっているが、旅館と云った方が印象は近い。

「そう――わかった」

 ミュリエルの表情から、険が落ちていた。

 眼鏡を直して、手袋を脱いで、ミュリエルは右手をれんげに差し出した。

 二人はホテルの入り口の前で向かい合う。

「イフィゲネイア、さん――?」

「ミュリエルでいいわ。イフィって呼ぶ同僚もいるからそれでもいいけど。

 レンゲ、あなたのまっすぐな心に感じ入ったわ」

 れんげがおずおずと上げた手をミュリエルはさっと取った。

「私は英国王立教会特務八課のエージェント、ミュリエル・イフィゲネイア。

 改めてよろしく、レンゲ」

「王立教会特務――?」

「八課。

 主に、妖精事象や怪現象の調査、場合によっては邪悪な妖怪の退治もする――そういう所よ」

 ミュリエルは不敵に笑う。

「退治機関、ですか?」

「平たく言えばね。でも見境なく殲滅はしていないつもり。

 ――でも、奴は我々が昔から追ってるの。

 ここしばらくなりを潜めていたけど、日本に来たのが判ったのは――ミス・モートンからの手がかりでね」

 ミュリエルはれんげの手を硬く握って笑い、

「よろしくね、レンゲ」

 もう一度言った。


□■□■□■


 翌日――れんげはいつもと同じ時間に登校していた。

 金曜日だった。

 この日は英語の授業はない。

 寄り道してから行ったもののまだ生徒の少ない教室で、やはり外の様子を眺めていると――れんげの携帯電話が鳴った。

 れんげは驚いて取り出してディスプレイを確認すると――ミュリエルからだった。

 昨夜、あれから携帯番号を交換していた。

「おはようございます――ミュリエルさん」

『おはよう。

 ――どう? 奴は来てる?』

「先ほど職員室へ行ってみましたが――まだのようです」

 この日の朝、登校してすぐにれんげは職員室へ行ってみていた。

 念のために、と英語の教材などを置いている英語準備室へも行ってみたが、やはりWBとは遭遇しなかった。

『そう。

 やっぱり私も学校内で待機したいわね。

 今からできる方法、ないかしら?』

「昨夜言っていた、私の制服を――」

『だから、二十七にもなってスクールガールは無理がありすぎるわよ』

 田舎の学校とはいえ私立でもあり、そこそこのセキュリティをしている。

 電話の向こうでミュリエルは小さく溜め息を吐いていた。

『いいわ――どうにか考える』

 予鈴が鳴った。

 守弘が教室に駆け込んできて、れんげと目が合った。

 チャイムの音が聞こえたのだろう、ミュリエルは、

『じゃあ、何かあったら連絡して。

 私もどうにか学校に潜入できないか、手段を探してみるわ』

 と通話を切った。

 れんげはしばしその画面を見ていたが、いつもの抱きつき――翠穂がいないことに気付いた。れんげが電話しているのを気遣っていたのではなく、教室内に見あたらない。

 もう一度れんげは電話を見るが、メールなどが入っている様子もない。

 数少ない登録しているメモリーから翠穂の番号を出し、電話をかけてみる――が、コール音ばかりが虚しく続くばかりだった。

 二十回を数えたあたりで呼び出しは切られ、画面に『接続できませんでした』と文字が出る。

「――どうした?」

 れんげのそばに守弘が来ていた。

「翠穂さんが……」

「来てないな……

 ――まさか?」

 れんげは不安げな表情で頷いた。

 本鈴が鳴る。

 石倉はこの日も朝から白衣をニットの上に羽織った格好で、出席簿だけを手に、教室に入ってきた。

 ガタガタと皆が席につく。

 名残惜しげに守弘も自分の席に戻った。

 翠穂のも含め、いくつか空席があるのを見て取って、石倉は少し眉をひそめた。

 何か言おうとしてためらい、

「――原因不明の昏睡事件のことはみんなも聞いてると思う。

 気休めにしかならないが、気を付けるようにな。

 あぁ、それと今日の五限は移動なし、な」

 とだけ言って出席簿をつけた。

 生徒たちもどこか活気を抑えているような雰囲気がある。

 れんげはもう一度こっそりと携帯を見てみるが、やはり翠穂からの連絡は入っていない。

「翠穂さん……」

 れんげは呟いて、携帯を閉じた。

 一限目の始まりをチャイムが告げていた。


 れんげは授業に全く集中できないでいた。

 翠穂のことも、WBのことも気にかかる。

 五十分をいつもより随分と長く感じながら授業を終えて早々、れんげは翠穂に電話をかけるが、出る気配はない。

 守弘がれんげの所に来た。

「今聞いたけど、ヤツは普通に学校に来てるらしい」

 他のクラスの友人に聞いたらしい。

 昨夜以来、守弘もWBを敵視していた。

「三年の奴らだから、授業じゃなくて見ただけらしいけどな」

「いえ――学校に来ていることが判っただけでも、充分です」

 れんげはまだ慣れないメールを打ち込み、翠穂に送ってから携帯を閉じた。

「授業、抜け出したい気分です――けど、咎められるのは避けたいですし」

「難しいな。

 倒れちまった人を捜したり、不審者がいないか見回ったり――手の空いてる先生がやってるらしい」

「それは――」

 れんげはもう一度携帯を開く。

 ミュリエルからの連絡もない。

 チャイムが鳴った。

「ともかく――授業中はヤツも動けないんじゃないか? 何かあるとしたら時間が取れて人の移動が多い昼休みだと俺は思う」

「なるほど……」

「昼休みになったらヤツの所に行ってみよう」

「ええ」


 次の時間の授業中に、れんげの携帯に着信があった。

 授業が終わってから確認すると、ミュリエルだった。

 れんげが電話してみると、数コールでミュリエルが出た。

 電話の向こうが少し、ざわついている。

『なんとか入れたわっ』

 小声で、だが力強くミュリエルは言った。

『時間取れない?

 どこかで落ち合いたいけど……』

「そうですね……」

 れんげは時計を見るが、次の授業までほとんど時間がない。

 さきほどの守弘の言葉を思い出して、れんげは言った。

「では、お昼休みに――」

『わかった。

 授業の合間ってどれくらいあるの?』

「えっと――十分ですね」

 チャイムが鳴った。

『了解。

 あ、あと念のため、レンゲはクラスどこ?』

「2のCです」

 教師が入ってきた。

「それでは――」

 急いで言って、れんげは通話を切る。

 二限目は世界史だった。

 授業は、期末考査後で来週には終業式なこともあって、半分くらい今までのまとめと雑談に近かった。

 やはり身の入らないれんげは、ミュリエルのことも気になっていた。

 どうやって校内に入ったのか、不審者として通報されたりはしないか――そんなことを思って、教師の話を聞くともなしに聞いていた。



 四限が終わった。

 れんげは守弘も待たずに教室を飛び出した。

 れんげが携帯電話を取り出したのと、着信音が鳴ったのはほぼ同時だった。

 制服のポケットに独鈷杵を入れ、れんげは電話に出る。

「ミュリエルさん――どこですか?

『学食っ。れんげは?』

「教室を出たところです。

 そちらに――――!!」

 教室から近い階段は、学食へ向かうのとは反対側だった。

 その階段を登ってきた人影がれんげを見ていた。

『レンゲっ!?』

 二年生の教室は四階にある。

 その人影は二階から上がってきたのだろうか、れんげを見て笑って、長身を翻した。金髪が舞い、蒼い瞳から溢れた光が筋を引いたようにれんげには思えた。

「いました――追います!」

 他の教室から出てくる生徒たちと逆向きにれんげは走った。

『レンゲっ、どこ!?』

「A棟――階上に向かってます」

 通話は切らずに、れんげは人影を追って階段を駆け上った。

 見上げるとその影の端がちらちらと追える。

 五階は三年生の教室が並んでいる。

 さらに上は――屋上だ。

 人影は施錠されていた扉を無造作に開け、その向こうに消えた。

「屋上に――」

 それだけ言って、通話はそのままに、れんげは屋上へ飛び出した。


 昼間とはいえ、十二月の空気は冷たく肌を刺す。

 こんな時期に屋上に行こうという人はそうそういない。

 特にこの日は朝の天気予報でも冷え込む、と言っており、まして町より標高のある校舎の屋上となると、体感温度はかなり低い。

 だが、先に屋上に上った人影は、屋上の中程でれんげを待っていた。

「ここならそうそう、人目にも付かないからな」

 そう言って、冷たい笑みを浮かべていた。

「朝から私を捜し回っていたそうじゃないか。

 何の用事かな、ミス・タカノ」

「――『邪悪聖書ウィキド・バイブル』……」

「ほう」

 WBは目を細めた。

 れんげはスピーカーの向こうからミュリエルの声が微かに漏れている携帯を閉じてポケットに放り込み、独鈷杵を手にする。

「どこで知った?」

 口調にも表情にも、教室などで見る柔らかで優しげな雰囲気はない。

 否定せず、WBはれんげに近寄った。

 自分で言った質問の答えを待たず、WBはれんげの細い顎を持ち上げた。

「お前が人間でないことは知っている。

 その『味』――」

 独鈷杵をもった左手でWBの手を払い、れんげは距離を取って身構えた。

「翠穂さん――生徒たちを襲っているのは、あなたですか」

 WBはただ笑っている。

「何故――」

何故why?」

 WBは挑発するように口を開けて笑声を発する。

「アイデンティティに理由がいるのかね?」

 ふたたびWBはれんげとの間合いを詰める。

 れんげの左手首を掴んで持ち上げた。

「それを教え導くものこそが私だよ、ミス・タカノ」

 れんげの踵が浮いていた。

「では何故、タカノは人のふりをして学校に通っている?」

「それは――」

「答えられないのではないか? 君も」

 余裕のていで、WBはれんげを吊り上げていた。

「詳しい正体には興味はないが、何か学校に縁のあるものなのだろう?

 ――まあいい」

 WBの誤解を解くことはせず、れんげはWBを蹴る。

「放して下さいっ」

「そうか、まだ硬いな――」

 腿に入る蹴りをものともせず、WBはれんげにもう片方の手を伸ばした。

「!!?? やっ――何を!!」

 れんげが声を大きくする。

 WBはれんげの後腰に指を這わせていた。

「あまり騒ぐな。品のない」

「っ……」

 WBの指が腰から下へゆこうとする。

 れんげを撫で回し、耳元に口を寄せてWBは言った。

「汝――姦淫すべし、、、、、。ミス・タカノ」

「く……っ」

 れんげの抵抗は止まない。

「ほぉ――面白い」

 WBが関心の湧いた表情で、れんげの位置を更に高くした。

 れんげは完全に浮いてしまう。

 その時、

「れんげッ!」

 屋上の扉を勢いよく開けて飛び込んできたのは守弘だった。

 WBとれんげの様子を見てとると、駆け込んでWBに殴りかかる。

 それを軽く払って、WBは守弘を一瞥する。

「守弘さんっ!」

 不安定な姿勢のままれんげが声を上げる。

「てめぇ――れんげを放せッ!」

 もう一度拳を上げるが、WBは守弘の肘を内側から殴る。

「が……ッ」

「何だ――お前は」

 WBはれんげと守弘の様子を見て、何か察したようににいっと笑った。

 れんげを放り投げ、追おうとした守弘の喉を押さえ上げる。

「守弘さんっ!!」

 数メートル離れて転がり、跳ね起きてれんげが叫ぶ。

 立ったまま天を見上げさせられた守弘が咳き込む。

「お前たちをふけらせ、導いてやってもいいが――

 せっかくの獲物が勿体ない」

「れ……んげ…………っ」

 WBは、背後かられんげが振り上げていた独鈷杵をバックブローの要領で弾いた。

 重い音と共に屋上の扉がまた開く。

「――The Wicked Bible!!」

 学食の調理員の白衣を羽織ったまま現れたのはミュリエルだった。

「ミュリエルさん!」

「ミュリエル・イフィゲネイア――なぜ君が」

 呆れの混じった声で言いながら、WBは守弘の鳩尾に拳を埋めた。

「ぁ……ッ――――」

 ぐったりとなった守弘をWBは捨てる。

 白衣の中、裾の長いワンピースのベルトに畳んで挟んでいた杖を出したミュリエルは守弘とれんげを見て、WBを睨み上げた。

 一動作で杖の節を固め、低く構える。

「覚悟しなさい、忌まわしきもの!

 もう逃がさないわッ」

 力強く叫んで、ミュリエルは杖を上段から振り下ろす。

 WBはミュリエルに踏み込んでをれを前腕で受けた。

 もう一度れんげが横から飛び掛かる。

 WBはミュリエルの脚を払い、れんげの手首を取った。

「黙って見ていろ――」

 ミュリエルはバランスを崩す。

 と、

「――ほう!?」

 WBの片眉がぴくん、と跳ねた。

 驚いた顔でれんげを見下ろす。

 れんげの右腕が鉈の刃になっていた。

 空いているその右手で、れんげはWBを薙いでいた。返す刃で逆袈裟に斬り上げる。

 WBの服の袖が裂け、ぱっくりと割れた。

 白い肌が露出する。細い傷痕がついていたがほとんどダメージになった様子はない。

 風にはためく服の奥――WBの左の二の腕あたりに数語、文字があるのがちらちらと見えた。

「面白いことをする――」

 WBはまた笑い、れんげの右腕の付け根を突いた。れんげは一瞬力が入らなくなった右腕をだらりと落としてしまう。

 ミュリエルの杖が、WBについた薄い傷口を突いた。

 銀十字がWBの肌に直に触れ、じゅっ、、、と鳴る。

 焦げた匂いが若干漂い、WBは顔を歪めてれんげを手放した。

「イフィゲネイア――ッ!!」

 その杖の木の部分を叩いて、WBは二人との間を少し空けた。

 れんげとミュリエルは隣り合って、WBと対峙する。

 れんげが右腕を人の手に戻した。

 チャイムが鳴った。

 WBはまだ気絶していた守弘を引き寄せ、肩に担いだ。

「興が冷めてしまったではないか。

 邪魔をするな、イフィゲネイア」

「当然よ。お前を倒すために来たのだから――」

「SD8か。

 下らんな。私の愉しみを遮る価値もない。

 一度で病み付きになり、私を求めて追ってきた、とでも言うなら可愛げがあるものを――」

 ミュリエルが唇を忌々しげに歪める。

「誰がッ!」

「だから機知がないと言うのだ。

 ――タカノ」

 WBは守弘を担いで屋上の高いフェンスに向かう。

「今は見逃してやるが、お前の『魂』は私が必ず喰ってやる。

 これは――そうだな、日本で云う『外堀を埋める』というやつだ。

 せいぜい、覚悟して待っていろ」

 そう言うなりWBは、フェンスに跳び上がり――そのまま飛び降りた。

「えっ!!!」

 フェンスに駆け寄ったれんげが下を見ると、WBはふわりと着地して校外へ向かって走り去るところだった――

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