2章 接近
昏倒した氷川
教室にいないことが珍しくないことと、寮暮らしで、登校した上で寮に帰っていないことが判明するまでに時間がかかってしまったことによる。
寮からの連絡を受けた彼女のクラスの担任が駅前まで探しに行った挙げ句に、彼女が屋上によくいることを思い出して学校に戻ったのはもう夜だった。
眞紀は一旦保健室に運ばれ、目覚めないまま病院に搬送された。
病院で検査しても原因不明で、生命の危機は見受けられないが意識が戻らない、そんな状態で一晩が過ぎた。
教師以外に、眞紀のことは知らされていない。
寮でも眞紀に同室の生徒はいなかった。
原因が判らないだけに何も知らせられず、結局他の生徒たちは翌日、いつも通りに登校していた。
――
着替えは部室にあるので、まだ弓道衣のままだ。
解いた襷と道具と小さなポーチを手にしている。
十二月の冷えた空気が、汗ばんだ香奈美の肌を冷やす。
弓道部の活動は主に放課後に行っている中、香奈美は自主的に早朝から練習している。
香奈美は、弓道場の
矢を射ることが好きだった。
華奢な体のためか、胴造り(構え)の時も引分け(弓を引く動作)の時も安定しきれないことが香奈美をいっそうの練習にかき立てていた。
体力作りや筋トレを軽視しているのではないが、せめて自主練習の時間は好きなだけ弓に触っていたかった。
後頭部でひとまとめに、いわゆるポニーテールにしていた艶のある黒髪をほどいて頭を振った時に香奈美はC棟の入り口に立っている男を視界にとらえた。
「あ――おはようございます」
香奈美は会釈する。
「おはようございます」
近寄ってきた香奈美に優しげな微笑を浮かべていたのは、端正な造形の金髪碧眼――
この日のWBはファッション誌のモデルがそのまま出てきたような、細身のジャケットとシャツを微妙な色合わせで着こなしていた。
香奈美はその姿に目を奪われるが、落ち着け自分、と口の中で呪文のように繰り返してWBの横を抜けてC棟に入る。
WBは香奈美の格好と道具に興味を示したか、部室に向かう彼女について行く。
「弓、ですか?」
香奈美は少し驚いた様子だったが、まんざらでもない表情で頷いた。
「え?――あ、はい」
「寒いのに、熱心ですね」
「好き――ですから」
WBの視線に気付き、香奈美はからかうようにくるりと回って笑った。
「こういう格好は珍しいですか?」
「そうですね。珍しい、というと失礼に聞こえかねませんが――キモノは日本人女性をより一層美しく魅せるものだと思います」
香奈美の頬が赤くなる。外国人のイメージする着物とはちょっと違うのにな……と照れた表情でぼそぼそと呟き、ポーチから小さな鍵を取り出した。
弓道部の部室に着いていた。
「あ、あのっ。
着替えるんで失礼しますっ!」
大きく一礼して、香奈美は部室に入ろうとする。
が、開けた扉にWBは半身踏み込んだ。
「少し――いいですか?」
香奈美の返事を待たずにWBは部室に入り、後ろ手で扉を閉めた。
そう広くない室内に、二人きりだった。
「あっ、あの――
出てってください……」
「そうは言っても――――」
WBはおもむろに香奈美を抱き寄せた。
「え!?」
「鼓動は高まっている。
ここから先を貴女は期待せずにはいられない――」
「ちが……っ」
香奈美の口を、WBの左手が塞いだ。
驚いて目を大きくする香奈美に頭を寄せ、WBは耳元で囁いた。
「――その強張った力を抜いて、素直に感じてみなさい。
汝、
香奈美の眼から抵抗の光が薄まった。
WBは香奈美の背に回していた右手をゆっくりと下ろしてゆく。
それだけで丁寧な愛撫を受けているように、香奈美は熱い息をWBの左手に吐く。
「ん……ふ、っ」
WBの右手は袴を緩めてその中に入り、更に奥へと進む。
香奈美の瞳が恍惚とした色を帯びてゆき、強張りを残していた体はすっかりWBに委ねられていた。
汗もひくほど冷えた香奈美の全身は先刻よりも熱っぽく、再び汗でしっとりとなっている。
WBの右手は止まらない。
「んッ……ふ……っ」
香奈美は短い息を吐き続ける。
WBが左手を離した。
右手は動きを強め、香奈美が体を震わせる。
「あっ……!!」
香奈美が声を上げた束の間、WBが今度は口で香奈美の声を封じた。
次の瞬間、
「ぁ――――――!!!」
香奈美の声は音にならなかった。
声ごと、WBは『何か』を吸った。
香奈美が途端に力を失い、ぐったりとなる。
WBはその体を優しく支え、部室の長椅子に寝かせた。
壁に掛かっていた時計を確認する。
予鈴までまだ、二十分ほどあった。
「――昨日のヤニ娘より、格段に美味だな」
WBは爽やかとはほど遠い笑顔で香奈美を見下ろす。
「運が良ければ目覚めるかも知れんな。まあしばらく、この快楽に酔っているといい」
冷辣な言葉を残して、WBは部室を出て扉をきっちりと閉めた。
C棟一階の廊下はWB他に朝練上がりの生徒などもいなかった。
「こうも容易いと――喰い尽くしてしまいたくなるじゃないかッ」
喉の奥で低く笑いながら、WBはC棟をあとにした。
□■□■□■
「そういやれんげ、聞いた?
A組の氷川さん、って子のこと」
いつもの、ホームルーム前の雑談で翠穂が不意に言った。
「? なんですか?」
「寮住みの友達に聞いたんだけど、意識不明で病院に運ばれたんだって」
翠穂の口調はその名前しか知らない女子のことを心配し、
「それは……なにか、事故に遭われたとか?」
「それが外傷はなくて、原因不明なんだそうよ。
――なんだか恐くない?」
その時鳴った本鈴とほぼ同時に、守弘が教室に飛び込んだ。
「何かよく判らないけど、気を付けようね」
とれんげにこぼして、翠穂は守弘に手を振った。
「おっはよぉ、三原クンっ」
「守弘さん――おはようございます」
れんげも守弘に会釈するが、つい今の翠穂の話が気にかかっていた。
時間割を確認すると、この日もれんげたちのクラス――二年C組では英語の授業がある。
れんげは何か確信があって、WBに疑念を抱いているのではなかった。
ただ、どこか違和感のような、痼りのような懸念がれんげから離れなかった。
氷川、という女生徒のことは『兆し』ではないのか――そんな思いだ。
担任――石倉は、ホームルームでそのことには一言も触れなかった。
れんげたちC組の英語は三限目にあった。
やはりやってきたWBに、初回ほどではないが黄色い声があがる。
WBは困ったような苦笑を浮かべ、英語教師――古武に助けを求めた。
古武は持っていた紙の束をかざして言う。
「今日はこの間の期末テストを返す。呼ばれたら取りに来てくれ」
教室中が不満の声で満ちる。誰かが「バーカー先生に見られたくないです」と言い、それに女子の大半が頷いた。
それを無視して、古武は少し時間を置いてから出席番号順に生徒を呼び始めた。
渋々ながら従った生徒たちの悲鳴と歓声が混じり、徐々に拡がってゆく。
WBは返却される答案用紙を時折覗き込み、手にしていた問題用紙を見ては微笑をこぼしたり、目を丸くしてみたり、と表情を変えていた。
「高野」
「――はい」
れんげは立ち上がり、教卓に向かう。
「――毎度ながら、もうちょっと何とかならないか?」
古武にそんなことを言われながら返されたれんげの点は十八点。正解がほとんどない。
やりとりを見ていたWBと、視線に気付いて見上げたれんげの目が合った。
WBはれんげの答案を見て、れんげににこっと笑いかけた。
「難しく考えなくてもいいですよ。
文の『流れ』を感じてみて下さい」
「はぁ……」
生返事気味に応じながら、れんげはWBの瞳の奥を注視していた。
人によって『気配』や『ニオイ』や『オーラ』などと呼び方は異なるが、個々の『魂』から発しているものを感じているのに相違はない。
れんげはそういう気配を感じることが苦手だが、それでもWBから人間の『気』とは何か違うものを微かに感じ取っていた。
「――?」
WBもれんげから何か知覚したのか、表情を変えた。
二人の間に緊張が降りる。
「次、土田――」
古武の声がそれを割った。
呼ばれた男子が面倒そうにやって来て、れんげは教卓を離れた。
途中守弘と目が合って、れんげは少しだけ肩をすくめて見せた。
「れんげっ、どうだった?」
すれ違うところにいた翠穂がれんげの制服を引っ張る。
「相変わらずです」
れんげは苦笑して答案を見せた。
「あらら……
翠穂は用紙をれんげに返して、自分のものも広げて見せる。
二十二点。
「あたしもそんなに変わらないけどね~。真っ赤っか」
どこか楽しそうに翠穂は言う。
「バーカー先生の特別補習とかあったら嬉しいよね」
「そんな、まさか」
れんげはもう一度浮かべた苦笑いを残して、席に戻った。
座って前を見ると、またWBと目が合った。
WBは何か
□■□■□■
「コタケ。
――さっきのタカノ、という女生徒は……」
職員室で、WBは古武に訊いていた。
「高野?
あぁ、点数悪かったでしょう。
どうしてか英語は苦手なようで」
と、古武は隣に座っていたWBに笑いかけた。
「別段、不真面目には見えないのに、意外ですね」
「好みというか相性というか――そんなものかも知れないですよ」
古武は次に行くクラスの答案用紙を確認しながら言う。
「何か問題でもあるのでしょうか」
「さあ……。
家は商売やってて、手伝ってもいるそうですが――英語と関わりなさそうですし。
まぁ、転校生なんて今までとのギャップで難しいのかも知れません」
古武が腰を上げた。
WBも立ち上がる。
「他に点数良くなかった者もいるし、補習でもした方がいいんでしょうね。
――行きましょうか」
WBはにこやかに頷いてから、考え事を探るように俯いて額に指を当てていた。
「――少し、失礼します」
「ん?
じゃあ、次は2-Dですので」
頷いて、WBは職員用の洗面所に向かった。
WBは用を足したかったのではなかった。
洗面所の鏡に自らを映し、自らと話す。
「あのタカノという娘、あの『匂い』――」
WBの瞳孔がすっ、と細くなった。
「スコットランド
自らに問い、自らに答えを探していた。
「そうか――『
WBは口の端を吊り上げた。
「面白い。未だにそんな存在がいて、しかも学生のふりをしているとはな。
さて、日本のものはどんな『味』か――ぜひ識りたいものだ」
哄笑しそうになるのを抑えて、WBは教室に向かった。
香奈美が発見されたのは、昼休みだった。
救急車の音に気付いたれんげが、窓から様子を窺う。
ストレッチャーに乗せられた、弓道衣の黒髪の少女が車内に入れられ、救急車は再び大きなサイレンの音を立てて学校を出て行った。
「何があったんだろうね……」
一緒に昼食をとっていた翠穂も窓の外を見て言う。
「心配ですね……」
「未知の病原菌とか? だったら怖いよね」
「――どうなんでしょう」
どういう手段で、かは判らないがれんげはWBの仕業ではないかという思いを朝よりも強くしていた。
今日も米ばかりだった弁当を片付けながら、れんげは席を立った。
「すみませんが――ちょっと、守弘さんの所に行ってきます」
「おっけー。ごゆっくり♪」
お昼を済ませて、残っていたお茶のペットボトルを掲げて翠穂はにこやかにウインクする。
「何か判りませんけど――翠穂さんも気を付けて下さい」
そう残して、れんげは教室を出た。
守弘は学食の近くのベンチで、男友達らと雑談していた。
それを聞いていたれんげがやって来たのを見て、守弘はその輪から抜ける。
「――お友達、いいのですか?」
「ああ。気にしなくていいよ」
その男子らは守弘をからかったり、小突いたりと色々しながら去っていく。
ネクタイの色がれんげのセーラー服のラインの色と違う。三年生なのだろう。
「どうかした?」
れんげと守弘は学食から中庭に向かう。
空いていたベンチを見つけ、腰掛けてかられんげは切り出した。
「クリスマスのこと、なのですが……」
曖昧な語尾に、守弘が勘づく。
「何か……出た?」
「――確証はないのですが、あのウィケード・バーカーという英語講師に人と違うものを感じています」
先ほど見た女生徒のことと翠穂から聞いたもう一人のことを話した。
守弘にれんげが正体を明かしたのは、先のメルの事件の時だった。
翠穂には打ち明けていないため「よく判らないけど気を付けて」程度のことしか言えなかったが、守弘には隠さずに言う。
「彼が何者なのか判りませんし、私の思い過ごしかも知れません。
気になっているのですが……」
「茂林に探ってもらうとかは?」
守弘は短髪の頭を掻いた。
やや彫りのある顔にれんげを疑う表情はなく、真剣にれんげの不安げな表情を見守っていた。
「そうですね。
ただ、もし長引けば、すみませんがクリスマスのことは――」
守弘は軽く笑う。
「いいって。仕方ないよ。
それより俺が手伝えることがあったら何でも言って。
なんなら――ヤツに戦いを挑んでみたり」
「ありがとうございます」
冗談めかしてファイティングポーズをとった守弘に、れんげはくすっと笑みをこぼした。
そのせいでか、守弘の瞳の奥にどこか残念そうな色が浮かんでいたことにれんげは気付かなかった。
「守弘さんも気を付けて下さい。
もし彼だとしても、どういう手段で何をしているのか、何も判っていませんから」
それに、とれんげは続ける。
「――お仕事はいいのですか? そろそろお忙しくなってきたり……」
守弘は笑って手を振った。
「あぁ、まだまだ大丈夫。この間行ったのもただのスケジュールの打ち合わせだし、春までは基本的にストーブリーグだから、そんなに忙しくならないよ」
「ストーブ……リーグ?」
聞き慣れない言葉に、れんげはオウム返しに訊ねる。
「シーズンオフのこと。
次の準備とか契約更改したりするシーズンのことをそう呼ぶんだ。
――俺は来期、もっと上を狙う。そのためにできることからやってるところなんだ」
守弘は不敵に笑った。
「ポディウムの常連になって、Fポンから将来はF1に、ってね。
F1じゃなくても――インディでもル・マンでもWTCCでも、とにかく上のカテゴリで走る。
ドライバーみんなそう思ってるだろうけど、俺だって可能性がないワケじゃない」
守弘の声が熱を帯びる。
れんげはやはり解らない言葉が多々あるものの、熱く語る守弘に微笑みかけた。
「素敵な夢ですね」
守弘は照れて頭を掻く。
「あぁそうだ。
年明けにファンイベントがあるんだけど、一緒に行かない――ていうか、来てくれないか?」
突然の誘いに、れんげは目を丸くした。
「もうちょっとあとに言おうかと思ってたけど、予定しててほしいんだ」
「は、はぁ」
勢いにやや圧され気味に、れんげは頷いた。
昼休みの終わりをチャイムが告げた。
□■□■□■
そのほぼ同時刻、JR姫木駅。
「――ずいぶん田舎町ね」
大きなトランクをお供に駅に降り立った眼鏡の女性は英語でそう呟いた。
「電車が時刻表通りに運行してるのは素晴らしいわ。
でも、本当にこんな所にいるのかしら……」
海の見えるホームから周囲を見回す。
コートのポケットから紙片を取り出した。
都内のビジネスホテルの名前が入ったメモ用紙には、走り書きしたらしい文字が躍っていた。
「――確かにここよね、ヒナギって」
ホームの駅名看板とメモを見比べて頷く。
「で、えっと……
キャサリン・モートン、ね。
それに――トーシカン?
よし、と気合いを入れるように彼女はトランクを持ち直した。
「タクシーがあればいいけど――
それより今朝から何も食べてなかったわ……
ああそうか、日本語で言わなきゃ」
自分に言い聞かせながら、文句をこぼす。
「まったく――何が『日本人の血が入っているから、日本語にも慣れるだろう』よ。
一応勉強はしてるけど……初めてなのに。
アキハバラ土産なんか買っていってやらないわよ、もうっ」
メモを片手に、器用に眼鏡の位置を直して彼女は改札に向かった。
桐梓館大学附属学園では昼休みの後、原因が判らず昏睡している女生徒がまた数人発見された。
事態を危惧した学校は放課後の部活動を中止して生徒たちを下校させ、終業式までの活動を制限することに決定した。
この日、生徒たちを帰らせたのち、教師は緊急会議で職員室に集められた。
WBもその中に加わり、古武の隣に静かに座っていた。
会議は進展しなかった。
具体的な対策もなく、結局「気を付けて、生徒たちに細かく注意を払う」といった程度の結論しか出ないまま会議は終了してしまった。
古武が軽く肩をすくめて、WBに言う。
「何も判らないのに、今の我々には何もできませんよ。原因が判明したら対策もできるんでしょうが……。
荻先生とかは病院に行くそうですが――
教頭、バーカーさん今日はもういいですかねぇ?」
と、最後は席の離れた教頭に声をかける。
受話器に手を伸ばしていた教頭は手を挙げて頷いた。
「バーカーさん、赴任してもらって早々こんなことになってすみませんね」
「いえ――」
教頭に言われ、WBは薄く笑った。
「何か気付いたことがあったら言ってください」
WBは席を立って、軽く会釈する。
椅子にかけてあった上着を羽織るだけで、荷物はない。
「お疲れさま。
――また明日」
古武の言葉を背に、WBは職員室を出た。
「っ!!」
れんげは慌てて身を隠した。
守弘もそれに従い、廊下の角の陰に下がる。
――WBはそんなふたりには気付かなかった様子で、れんげたちの潜んでいるのとは反対側に歩いてゆく。
校舎の階段は両端にある。
れんげと守弘はその一方の、階段に隠れていた。
職員室は校舎A棟の二階にある。
WBは職員用の下足ホールになっている側に向かっていた。
れんげと守弘はホームルームのあと、学校を出ずにWBを狙って、職員室を見張っていた。
WBが階段にさしかかるのを確認して、れんげと守弘も階段を下りた。
足音を殺してふたりは一階に下りて、WBの様子を窓からうかがう。
遠目だが目立つ容貌のため、校舎から出てきた姿を視界の端に捕らえられた。
「――行きましょう」
「お、おう」
上履きを脱ぎ、靴を持っていた二人はWBの出たのとは反対側から校舎を出る。
校舎A棟は一階と二階にある渡り廊下でB棟、体育館、視聴覚棟などへつながっている。
生徒らの下足ホールは校舎A棟一階の真ん中にあるが、渡り廊下から外へ出ることもできる。
WBは周囲を気にする様子もなく、校門――正門に向かっていた。
校舎から校門までは多少距離があり、校舎を出た数十メートル先から校門まで並木の遊歩道になっている。
遊歩道は校庭に五分の一ほど沿って緩く湾曲していて、校門からまっすぐ中を覗けないようになっている。並木とフェンスで、校庭を外から見られる心配もほぼない。
正門から少し登ったところにもう一つ入り口があり、そこは職員用の駐車場にまで行けるようになっている。
尾行にしても間合いをかなりとっていたため、その曲がりくねった道で、れんげと守弘はWBを見失ってしまった。
れんげが小走りに追うが――WBは校門を出た後、どの方角に行ったのか判らなくなっていた。
桐梓館学園は山に近く、駅や住宅街などより標高の高い場所にある。校門を出ると車道が面していて、大きな道路から歩いて行くなら左右、どちらに行ってもJRの駅まで出られるが、校門を出て左手から下りた方が駅には早い。
校門から右手に数十メートルほどの所にバス停がある。
正面はガードレールが並んでいるが、勾配の急な、車の通れない狭い坂があり、そこから昔ながらの民家や畑を突っ切ると線路にぶつかる。
線路の下をくぐって回り込むことにはなるが、そこから駅前に行くこともできる。
――守弘が追いついた。
れんげは校門を飛び出て左右を見回し、正面のガードレールに取りついていた。
ガードレールから眼下、下ってゆく道の先にもWBの姿はなかった。
「――?
いったい、どこへ……」
「消えた?」
守弘がれんげの傍から周囲を見て、れんげに訊く。
「わかりません――もし彼がそうだとして、どんな能力なのかも判っていませんし……」
ぎりっ、とれんげは唇を噛んでいた。
「見当つけて、駅前まで行ってみる?
それか茂林呼んでくるか」
「そう――ですね」
いくぶん冷静さを取り戻して、れんげは守弘を見上げた。
「今日――守弘さん、バイクで登校してます?」
「いや……今日は違うんだ」
少し考えて、れんげが言う。
「守弘さん、茂林を呼んできてもらっていいですか?
私は駅前に行ってみます。もし彼が誰かを襲おうとしているなら――」
「一人で大丈夫?」
「ええ。お願いします。原付使って下さい。
――あ、家にひとり、
それだけ言って、守弘の返事を待たずにれんげは坂を駆け下りはじめた。
守弘はれんげを数秒見送ってから、右手に向かって走った。
□■□■□■
ふたりが去ったのを見て、校門から現れた者がいた。
WBだ。
WBは並木道の途中で尾行者に気付いて、木々の間に隠れてやり過ごしていた。
「――タカノだったのか。
相手してやってもよかったか」
WBは不敵な笑みで、れんげと守弘が急いで行ったのをそれぞれ見送っていた。
「駅前か――さて」
れんげが走っていった下り坂を見て、その先を急いでいるれんげを発見した。
畑の間の細い道を走っている。セーラー服の背で長めのお下げが跳ね回っていた。
「急がずともいい、か――
ただ、絶好のチャンスだな」
薄い笑いで呟いて――WBはガードレールを飛び越えた。
途中まで校門の前の道と平行して下ってゆく坂は、つづら折り状に数回折れ曲がっている。
その下り坂を、WBはまっすぐに飛び降りた。
坂の途中に着地し、そこからもう一度跳ぶ。
ふわりと降りて、上着の乱れを直して、WBはごく自然な態度で、れんげを追って歩きだした。
JR姫木駅の北側に着いたれんげは周囲を見回した――が、WBはいなかった。
駅の北口は舗装された広場とバスロータリーが広がっている。駅と連絡橋でつながったショッピングモールのビルが最も高い建物になる。
放課後とはいえ一般的な帰宅時間にはまだ早く、駅前はそれほど混み合っていない。WBほどの風体なら、いれば判るだろうという程度の人だ。
ロータリー回りにはコンビニやレンタカーの事務所などもあるが、そこにももちろんWBはいない。
間違えたか、と表情を険しくしかけたれんげは、コンビニから出てきた友人に気付いた。
「――翠穂、さん?」
ロータリーの外――道路に面した側にいたれんげを見つけて、笑顔で駆け寄ってきたのは翠穂だった。
職員会議の終わりを待っていたれんげと違いすぐに下校したはずの翠穂も、まだ制服だった。コンビニの袋と薄い鞄を手にしている。
「れんげじゃない。
どうしたの?」
「あ、いえ――翠穂さんこそどうして?」
「あたし?
あたしは今日、バイトだから。家帰るのも面倒だし、ここで時間潰してるトコ」
翠穂はそう言って笑った。
「家帰るには電車乗らなきゃだし、電車の本数少ないし、どうしよっかなぁ、とか思ってた。
まだ一時間くらいあるんだよね~」
れんげと翠穂は広場のベンチに座る。
翠穂が袋から温かいお茶を出した。
一口飲んで、れんげに示す。
「飲む?」
「あ――いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
れんげは笑顔で断った。
「えっと――
守弘さん、来てません――よね?」
翠穂はきょとんとした。
「見てないよ。あと、知ってる人は誰も。
バーカー先生くらい出逢えたら嬉しいのに」
「そう……ですか」
「待ち合わせ? 電話してみたら?」
翠穂は落胆の色を浮かべたれんげの肩を抱く。
「そうですね――南口かも知れません」
れんげは立ち上がった。
「向こうに行ってみますね」
「おっけ。なんか昼もこんな感じだったね。
――また明日ね」
翠穂は笑って手を振った。
れんげを見送って、腕時計で時間を確認してから翠穂はコンビニで買ってきた雑誌を広げた。
そのファッション誌のページをゆっくりと眺めていた翠穂は、ふと顔を上げた。
バスがロータリーを回って、通り過ぎていく。
急行も停まらない駅に入ってきた電車のブレーキ音が響く。
――つい先ほどれんげがいた、ロータリーの外に、WBがいた。
翠穂は雑誌を落としかけて慌てて拾い、ガサガサと袋に詰め込んだ。
「バーカー先生っ!」
呼ばれたWBが翠穂を見た。
WBはベンチを立ち、荷物をばたばたとまとめる翠穂の所まですっと歩いてきて、柔らかな笑みを見せる。
「どうしましたか? こんな所で。
えっと――」
「国安ですっ。国安翠穂。
夕方からバイトなんですよ。中途半端な時間なので、暇を持て余していたんです」
翠穂は瞳を輝かせてWBを見上げる。
WBは今日の授業で、翠穂がれんげと親しげに話していたことを思い出したか、口の端を少し歪めた。
「先生、お話ししませんか?」
WBは瞳孔を少し細めていた。
「いいでしょう。
それではどこか――温かいところへ行きましょうか」
ダンスの誘いのように、WBは翠穂の手を下から取った。
翠穂の頬がぼっ、と赤くなる。
「
とWBが英語で呟いたのを翠穂は理解できなかった。
れんげは駅の南口から、守弘に連絡を入れていた。
「――守弘さん、駅前にはいないようです」
『そうか。今そっち向かってるから、駅で落ち合おう。
どっち?』
「南口です」
駅は建て替え、増築されたビルのせいで、南北の出口を見通すことができなくなっていた。
南側は北口より小さなバスロータリーと、昔ながらの商店街――至天と戦った路地へも続いている。
悪く云えばごちゃついた雰囲気が強い。
気配を探ることも苦手なれんげは、北口に現れたWBに気付かなかった。
『わかった。南口のロータリーに行くからそこで待ってて』
「――はい」
『信号変わったから切るよ』
通話が切れた。
れんげは長めの溜め息を吐き、空を見上げた。
十二月の空は凛と冷え、薄く澄んだ蒼を広げている。
冷気が頬を撫で、れんげが携帯電話をしまおうと手元を確認しようとして――目の前にいた人に気付いた。
女性だった。
明るい色のロングコートと大きなトランクが目立つ。
コートは黒のケープと濃いコントラストをなし、白い肌をいっそう白く見せている。
藍を少し混ぜたような黒髪に眼鏡。
白い手袋を着けた手で眼鏡の位置を直しながら彼女は、れんげから鋭い視線を外さない。
れんげの面識にない女性だった。なぜこんな睨まれるように見つめられているのか、れんげには見当も付かなかった。
整った顔立ちの彼女はれんげとの距離を詰めた。
れんげより片手いっぱい分ほど、背が高い。
「えっ!?」
「you――あ、いえ、あなたッ」
英語で話しかけ、言い直す。
「あなた、
何者なのっ!?」
「っ!!!」
女性の詰問にれんげは驚きを隠せない。
WBほどではなく、イントネーションに違和感は残るが、聞き取れる日本語で彼女は言う。
女性がトランクを振り回した。
れんげはとっさに後ろに跳んで避ける。
ふり戻したトランクを少し開けて、女性は三節に折れた棒を取り出した。柄は木製のようだが、先端に銀の十字が付いている。銀十字の上部はループ状の楕円になっていた。
一振りで彼女はそれを、まっすぐな杖にした。
彼女の身長より長い。
脇に挟んで構え、れんげに銀のループ部分を向けた彼女は更に言った。
「答えて。
返答によっては容赦しないわ」
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