1章 聖臨

 セーラー服姿の少女が、左手の法具で彼女に襲いかかろうとしていた太い針を弾いた。

 鈍い金属音を立てて弾かれた針の持ち主はぶうん、と空中で体の向きを変えて少女と対峙する。

 羽音を生んでいるそれは、巨大な蜂の姿をしていた。

 精巧な木彫り細工のような濃い木目の体躯たいくと、真っ黒な複眼。

 体長三十センチ以上はある。弾かれた鈍い銀色の針から黒いものが数滴、迸る。

 蜂らしく薄い羽を震わせ、宙に浮いている。空気の振動する音が低い唸りとなって、周囲に響いている。

 普通の生き物ではないような、奇妙な風体だった。

 蜂は体内に針を収納した。

 何度か少女に攻撃を仕掛けていたが、どれ一つ少女にダメージを与えたものはない様子だった。蜂はというと体の所々に新しそうな傷があり、飛んでいるのも時折高度が下がる程の疲弊を見せている。

 蜂は少女をその無数の視界に見据えたまま、己の不利を悟ってか十数センチくらい間合いを広げる。

 十二月の、夕刻の町だった。

 商店の並ぶ通りから細い路地に入り、住宅地の広がる地区へも少々離れているため、人通りはほとんどない。

 この奇妙な景色を見ているのは路地の入り口にある赤い原付くらいだ。

 少女は左手に武器のような両端の尖った法具、右手には使用感の強い鞄を構え、蜂から視線を外さずにいる。

 蜂がくるりと身を翻した――その時、

「逃がすかッ!」

 と、やや嗄れた男性の声とともに突如蜂の背後に現れた網が、蜂を捕らえた。

 蜂のサイズに合わせたようなその網は、まさに巨大な虫採り網だった。

 が、網の持ち主はいない。

 声は、その網からのようだった。

 網は蜂が逃げられないように口を捻って閉じて、地面に落ちた。

 少女がその網に近寄ったところで、網が消える。

 薄い煙と共に、少女のすぐ傍に一頭の狸が現れた。狸は両前脚で巨蜂を押さえ込んでいる。

 蜂が暴れるが、脱出できる様相はない。

 少女が腰を下ろす。

 少女は黒に近い濃灰色のセーラー服と、学校指定のものらしい地味なデザインのアイボリーのコートを羽織り、額にうっすらと汗を浮かべている。

 セーラー服はコートと同じアイボリーのセーラーカラーと胸当てに、臙脂のラインが入っている。

 膝上のスカートと、膝まで覆ったいわゆるオーバーニーソックス。

 少女は華奢な体つきだった。小柄で幼さの残る造作と、しかし深く叡智をたたえたような意志の強そうな瞳。

 やや長めの黒髪を、太く無造作な三つ編みにしている。

 一見どこにでもいそうな少女だが、手に持ったその法具――穂先を背合わせにして一対繋ぎ合わせたような形状の密教法具で、独鈷杵どっこしょという――と狸、その狸が押さえ込んでいる異形のもの、という組み合わせが妙だった。

「観念しなさい」

 少女は木目の蜂に向かって、更に姿勢を低く、屈みこんでアスファルトに膝をつけた。鞄をすぐ傍に置いて蜂に向かって言う。

 狸の足下で、まだ抵抗する素振りのあった蜂がれんげを見上げた。

「なぜあんな――人々に妙な印、、、を入れていたのですか?」

 木目の蜂は何も答えない。

 少女は独鈷杵を鞄に収めた。

「――ともかく、人の迷惑となることはおやめなさい」

「なんでじゃィ」

 呟きのように蜂が言う。

 低く荒さのある男声はまだ抵抗感を漂わせていたが、覇気は薄かった。

 人外のものが言葉を発することに少女は驚く素振りもない。

「ワシがなんで、ワシを捨てた人間どもに媚びなアカンのじゃ」

「媚びろ、とは言いません」

 少女は両手で木目の巨蜂を抱きあげた。

 蜂を放した狸は少女の正面でその様子をちらりと見てから、周囲を警戒するように見回し始めた。

「では――あれは、なんの印なのですか?」

「最後の一筆、じゃ」

 ぶっすりとした口調とはいえ、蜂は素直に答える。

「最後の……?」

「――れんげちゃん、場所変えた方がええんちゃうか」

 狸が言う。

 さきほどの、蜂を捕らえた網の男性の声だった。

 れんげ、と呼ばれた少女が顔を上げると、路地から見える向こうの通りの人通りも多くなってきていた。

 少女は頷き、蜂を抱えたまま立ち上がる。

 狸が人語を解していることにも少女にとっては異常ではないようだ。

「お話を聞かせて下さい。決して、悪いようにはいたしません。

 ――それは約束しますから」

 蜂にそう言いながられんげは、路地の入り口にあった原付に向かった。片手でその原付のシートを上げ、ヘルメットを取る。

「すみません。入ってもらって――いいですか?」

 蜂は文句がありそうに鼻を鳴らすが、意外にも素直にヘルメットのあったスペースに入った。

「はいよ、れんげちゃん」

 狸がれんげの鞄を持ってきていた。

 もう一度謝りながられんげはシートを閉じ、原付の足下に鞄と狸を鎮座させて路地の出口――商店街とは反対側、住宅地へ向かう方まで原付を押し、車道に出たところでエンジンをかけた。

 ぶるるん、と原付が軽快に囀る。

 れんげはヘルメットのベルトを締め直し、ゆっくりと原付のアクセルを開いた。



 少女は、高野れんげ、という。

 人間ではない。

 付喪神つくもがみという、長い年月を経て魂の自我を得た器物が変じた、妖物の一種だ。

 もともとはある刀鍛冶に打たれた腰鉈で、百数十年ほど昔に少女の姿になった。

 現在は、妖物退治に遣わされた鬼に従い、妖怪らを諫めることを生業としている一方、ひょんなことから高校に通う身にもなっている。

 また、変化には至っていない古い道具などを集め、保護か再び人に使われるようにする場としての古道具屋<九十九つくも堂>を営んでいる。


 人語を解している狸は茂林もりんと名乗る動物妖(長い年月で妖力を得た動物の妖怪)。

 いわゆる変化狸だ。

 過去にれんげに保護されて以来れんげを慕い、手伝っている。


 先刻までれんげと戦っていた木目の巨大な蜂は、というと――


□■□■□■


「――そういえばあなた、お名前はありますか?」

 古道具<九十九堂>

 駅前から原付で十五分少々、新興住宅街からは方角の違うところにある、古風な日本家屋の一階部分を半分ほど店舗のスペースにした家だ。

 少し前に斬られた扉は新しいものになっていた。

 帰宅したれんげは店を施錠して、奥の居間にいた。

 ごく普通の、炬燵とテレビと柱時計のある絵に描いたような居間だ。

 居間にはれんげと、小柄な老人の姿になった茂林、さきほどの蜂と、もう一人少女がいる。

 くしゅっとした柔らかそうな金髪と透き通るような白い肌、好奇心の強そうな碧い瞳の、ローティーンくらいに見える少女だが、やはり人間ではない。

 ついひと月ほど前に変化したばかりの、付喪神だ。

 古い車のステアリングハンドルが変じたもので、メルと自らを名付けている。

 珍客を調べるように炬燵の上に座った蜂を眺め回し、れんげに窘められてしまった。

 それでも、興味津々といった様子で蜂を見つめていたが、

「お姉ちゃん、今日は守弘もりひろお兄ちゃんは?」

 思い出したようにれんげに言う。

「今日は学校も休んでます。お仕事の話とかで」

 メルの言う守弘――三原守弘はれんげのクラスメイトで、メルの事件をきっかけに近い関係となった。現役のF3レーサーでもある。

 この日は守弘は、来期の打ち合わせで、学校も休んで都内まで出かけていた。

 四人分のお茶を淹れて、れんげがもう一度蜂に聞く。

「――『至天してん』」

 ぼそりと、蜂が言う。

 そばにあった布巾に、出した針でさらりと記した。

「天に至る、ですか――」

 れんげは呟いて、その布巾をじっと見つめて考えこみ、しばらくしてから言った。

「天に至る最後の一筆――

金陵安楽寺四白龍きんりょうあんらくじのしはくりゅう不點眼睛がんせいてんぜず毎云つねにいう點睛即飛去ひとみをてんぜばすなわちとびさらん

 ――あなた、その眼睛がんせいを表す、ほりもの、、、、で仕上げの役割をしていた針、ですね」

「墨と一緒じゃ」

 補足する形で、至天と名乗った蜂が頷いた。

「ほりもの、って?」

 メルがれんげを見上げる。

「刺青のことですよ。メルには縁遠いですね、やはり」

「れんげちゃん、よぉそんな逸話知っとるな」

「学校で習いました。

 面白いものですね、学ぶということは」

 れんげは微笑んで、至天に言った。

「それで、あんなことをしていたのですね。

 何があったかまでは聞きませんが、ほりものにあなたが使われなかった、その無念からこの姿になったのでしょう。

 ですが――誰彼構わず彫っていても、あなたの無念は晴らされないのではないのですか?」

 至天は反論しない。

「相手がそれで完成、と認めるものを彫らねば仕上げにはならないと思いますよ。

 今の行為では、あなたの欲求不満が鬱積うっせきするばかりです」

 れんげが両手で至天を包み、優しく撫でた。

「発心し、修行をすることであなたの道も拓けるでしょう。

 いいですね、あんなことはもう止めなさい」

 強めの言い方でれんげは至天をまっすぐに見つめる。

 至天は無言だった。

 が、手の中から強張こわばりが弛まってゆくのをれんげは感じ、手を離した。

「――しばらく、ここで傷を癒していって。

 至天、よく思い出して、考えてみてください。

 百年も使われたあなたが、本当に捨てられたのですか?」

 言いながられんげは立ち上がり、壁に掛けてあったエプロンを取った。

「少し遅くなりましたけど、お夕飯にしましょう」

 と、制服の上にエプロンを着けて台所に入る。

「そやな、今日は張り切ったからなぁ、精の付くモン頼むで、れんげちゃん」

「ぶー、今日はあたしのリクエストなんだからっ」

 楽しそうに小鼻を少しふくらませたメルがテレビをつけた。

 次々にチャンネルを変えてゆき、見たいものがなかったのかリモコンを置く。

 クイズ番組になっていた。

 それでも、メルは画面にじっと見入る。

 茂林が至天に声をかけた。

「そこ、降りてや」

 至天はちらりと茂林を見て、素直に炬燵から降りた。

 居間の隅にのそのそと歩いてゆく途中で、至天は振り返った。

「あんた――狸の一族か」

「そうやが、なんや?」

 茂林は首を巡らせて至天を見る。

「あの小娘は――なんでこんなことをやっとる?

 同類じゃねェか」

 茂林はにっと笑って、湯飲みを取った。

「お前――あのまま好き放題やっとって、無事やったと思うか?」

「どういう――ことじゃぃ」

 至天は隅に座り込んだ。

「ワイらがここにおるように、ワイらみたいなのを退治しよう、って連中もまだおるはずや――ここ何十年か遭うたことはないけどな」

 思い当たる節があるのか、至天は無言だった。

「もし、そんなんで容赦ないのとか、坊主の祈祷で遣わされた鬼なんかに遭うたらお前――死んでまうで」

 茂林は飲み干してすぐにお茶のお代わりをいれる。

 台所からトマトの匂いが流れてきていた。

「滅多なことじゃ死なん妖物ワイらでも、やられるトコやられたらあかん。

 れんげちゃんはお前を救ったんや、解るか?」

「救った……?」

 茂林は体ごと至天に向いて、頷いた。

「解らんかったら考えぇ。

 時間はたっぷりあるからな。

 ただ、れんげちゃんは救うためにこんなことやってるんは間違いない。

 ――妖物も、人もな」

 と、茂林が台所の方を見た時ちょうど、れんげが盆を持って出てきた。

「お待たせしました。

 至天も食べませんか?」

 れんげは隅にいた至天も呼んで、夕食をひろげる。

 メルのリクエストで、という献立は大皿にまとめたドイツ風トマト煮込みステイファドと、小分けしたじゃがいもとルッコラのサラダ。

 じっくりと煮込んだトマトブイヨンの奥にローリエが香る中、たっぷりの玉葱と牛肉とじゃがいもが柔らかそうな色合いで転がっている。

 ルッコラのサラダにもサイコロ状になったじゃがいもがふんだんに盛られ、焼けたチーズが鼻腔をくすぐる。

 それでもご飯が盛られているところが、微妙な日独折衷間を生み出していた。

 至天は少し頭を上げるが、興味薄そうな様子でうずくまる。

「おっ、うまそうやな」

 茂林がいそいそと箸を取った。

「れんげお姉ちゃん、お肉珍しいね?」

 メルの目の前には箸とフォーク。ご飯は皿に盛ってある。

「キライじゃないの?」

 れんげを見上げるメルに、微笑んで答える。

「――『三種浄肉』といいます。

 好んで口にすることはありませんが、毛嫌い、ということはありませんよ」

 買ってくるというのは矛盾しているかも知れませんが、とれんげは苦笑する。

「難しいことはええやんか、食おうや」

 茂林が早速、と肉を取った時、電話が鳴った。

 れんげの携帯電話だった。

 くもぐった着信音と振動で、炬燵のそばにあったれんげの鞄を細かく揺らしていた。

 気付いたれんげが電話を取り出す。

「はい――高野です」

『あぁ、今――大丈夫?』

 守弘だった。

「ええ」

 食卓をちらっと見てから、れんげは微笑んで言った。

「今日はお疲れ様です。

 どうしました?」

『あのさ。

 ――クリスマスの予定何か決まってる?』

 守弘はまだ外なのか、声の周囲にざわいだ空気感があった。

「くりすます――ですか?」

 そういうイベントには縁の遠いれんげは、いまいち守弘の意図が理解できていない様子で小首を傾げる。

『なかったら空けておいて。明日学校で言う』

「あ……はい」

 通話はそれだけで切れた。

 しばらく携帯電話を見つめていたれんげは、もう一度首を傾げて夕食に戻った。

「れんげお姉ちゃん、守弘お兄ちゃんなんて?」

 頬にトマトの赤い粒をつけたメルが見上げていた。


 ステイファドは半分ほどになっていて、牛肉がほとんど残っていなかった。


□■□■□■


 姫木ひなぎ、という町がある。

 市町村合併のあとでも二万五千ほどの人口の、海と山の間の小さな町だ。

 JRの駅から北は開発が進んでいて大型のショッピングモールやマンションができているが、駅周辺を除いて高い建物はほとんどなく、田舎町と云ったほうがまだしっくりとくる。

 駅の南側から先、東に向かって数キロも歩くと海に着く。

 漁港もあり、海産加工業も古くから盛んだ。

 山の方はゴルフ場やクリーンセンターもあるが、豊かな稜線を描いている。

 ひとつの山の中腹に神社と展望台がある。展望台に案内している国道は町を貫き、山々を越えて南北へ通っている。

 その国道の他に大きな道路はほとんど無く、駅前を起点に各所へ回っているバスの通る道幅も、それほど広くはない。

 れんげが暮らす古道具屋<九十九堂>はバス道に面している。昔からの商店や、飲食店や、コンビニなどが固まる道沿いから少し離れた所にある。バス道から奥は畑と住宅になっていて、のどかな雰囲気を醸している。

 そんな田舎町だが、高校が二つある。

 そのひとつが、れんげも通っている桐梓館とうしかん大学附属学園だ。

 山に近い。

 住宅地からはやや遠いが、広い敷地を誇っている。稜線に沿うように並んだ校舎、トラックグラウンドの他に、芝のフィールドやテニスコートなども立派なものが設けられていて、敷地の端には寮もある。

 木目の巨大な蜂――至天をいさめた翌日も、れんげは普通に登校していた。


 れんげの登校時間は早い。

 朝の勤めを済ませ、茂林やメルの食事を用意してから家を出ているのだが、それでも八時前には教室に着いている。

 窓際にあるれんげの席からは、町並みに向かった景色が視界に入る。

 駅から商店街を越えて、遊具のない広い公園を眺めていたれんげは、背後からぎゅっと抱きつかれた。

 れんげは、柔らかな胸の感触を背に受ける。

 すっかり、日課のようになっている。

「おっはよぉ、れんげっ」

「おはようございます、翠穂みほさん」

 れんげが振り返るより早く、声の主はれんげの席の前の椅子に座った。

 国安くにやす翠穂はれんげが打ち解けている数少ないクラスメイトだ。

 快活そうなボブカットと、れんげとは対照的に表情豊かで好奇心に満ちた瞳と、スクールコートを着ていても判る豊かな胸。

 翠穂はコートを脱いで片肘にかけて、れんげに笑いかけた。

 予鈴が鳴る。

「今日は一限から英語リーダーだよ。新しい講師楽しみだね~」

「講師――?」

「ほらぁ、先々月までキャシーが来てたじゃない。その代わりの人が就労ビザ取れて、先生できるようになって、先週から授業に出てるんだって」

 そういえば、とれんげも十月まで英語の授業に教師と一緒に来ていた外国人の女性がいたことを思い出して頷いた。

 その女性は帰国したきりで学校に戻ってきていない。『代わりの講師を――』と教師が言っていたまま、一ヶ月半ほどが過ぎていた。

 英語の授業の一貫で雇っている外国人講師が桐梓館学園にはいた。

 それがキャサリン・モートンという女性だった。教師によると病気を患って来られなくなったという話で、代わりの講師を学校が探していたのは、れんげが翠穂や守弘との人付き合いに踏み込むきっかけとなった十一月の出来事より前になる。

 在留資格の取得や手続きなどでひと月程度を要し、新任者が講師に就けるようになったのは期末試験も済んだあとの終業式間近の時期になってしまっていた。

「ゆかりに聞いたんだけど、すっっっごい美形らしいよ」

 と、翠穂は教室の扉を見る。

「れんげには三原クンがいるから、興味あんまりないかな?

 ――そういえば今日はまだだね。

 今日も仕事の話なの?」

「昨日だけ、と聞いてましたけど――」

 本鈴のチャイムが鳴った。

 翠穂が席を立つ。本来の彼女の席はれんげとは離れている。

「心配なら電話してみたら?

 じゃ、またあとでね」

 ウインクを残して翠穂が自席に行く。

 担任が教室に入ってきた。

 石倉はまだ若さのある、昨年れんげが転入したクラスでも担任をしていた化学の教師だ。スポーツマンのような容貌と無造作に羽織った白衣にギャップが残る。

 翠穂に言われて、れんげは自分の携帯電話を出して見てみるが、守弘からの連絡は入っていなかった。

 守弘の電話番号を表示しては待ち受け画面に戻して、とれんげが逡巡している内にホームルームは終わってしまい、一限目――英語の教師が石倉と入れ違いに教室に入ってきた。

 れんげは結局電話せずに、携帯電話を鞄に戻す。

 天辺が禿げてきている男性教師から少し遅れて、長めの金髪の男が現れた。

 途端、女生徒たちから歓声とも嬌声ともつかない黄色い声が揚がる。

 男子生徒からも嘆息のような声があふれる。

 翠穂の噂話の通り、その男を一言で表すなら『美形』だった。

 日本人離れした、すらりと通った鼻筋と細いが骨張っていない輪郭に、芸術品のように隙無く配されたパーツの、どこから見ても溜め息の漏れそうなほどの端正で均整の取れたバランスが目を奪う。白い肌も磁器のようで、薄い青色で鋭すぎない瞳の光がいっそう魅力を押し上げている。

 男は長身だった。細身の、襟の小さなジャケットが嫌みなく似合っている。ジャケットの下はニットで、もちろんネクタイはしていないのにラフには見えない。

 生徒たちを見回し、柔らかく微笑んでいる。

「はじめまして。

 ――ウィケード・バーカー、です」

 たどたどしいイントネーションだがはっきり解る日本語で、男が言った。

「バーカーさんはキャシー――モートンさんの知り合いで、急に来れなくなった彼女の代わりに来てもらうことになった。

 ――そこ、女子、あまり騒ぐな」

 教師の説明と注意も無視して、教室中がまだざわついていた。

「はいはい、授業始めるぞ。

 今日はバーカーさんがこのクラスに来るの初めてだから、彼の話をメインに進める」

 少し騒ぎが収まりかけた教室が、もう一度歓声に包まれる。

 それでは、と教師が教壇の中央を彼に譲った。

 彼は教卓に手を重ねて置いた。

「では改めて――

 今日は、私についての話と、皆さんのことを聞きたいと思います」

 よく通るテノール気味の甘い声には、やはり鼓膜を虜にする魅力が乗っていた。

 騒然としていた教室がすとん、と静まる。

「バーカーさん、できるだけ英語入れて喋って下さい」

 横から苦笑混じりで教師が言う。

 バーカーも笑って、チョークを取った。

 黒板にサラサラと名前を書く。『W』と『B』が大きく書かれて目立つが、板書も丁寧さのうかがえる読みやすい字だった。

 踊るように華麗に振り返って、

さてWell――」

 と切り出した。



 守弘は結局、一時間目の終わったあとの休み時間になって登校してきた。


□■□■□■


 氷川ひかわ眞紀まきは、校舎B棟の屋上から眺める田舎町の景色が好きだった。

 校舎A棟より高く、部活棟では教室からも遠くなる上に低層だ。講堂・体育館の建物は屋上に登れない。

 ここから見える町並みが最も見栄えいい、と眞紀は思っていた。

 セーラー服の胸ポケットから煙草を取り出し、慣れた手つきで火をともす。

 強めにきゅっ、と吸い込んで、冬の青空に細長い紫煙を吐き出した。

 振り返って、高いフェンスに背を預けて座る。

 眞紀は見た目は、長い黒髪といい、化粧気のほとんどない顔といい、それほど目立って『不良』の雰囲気のある少女ではない。

 高めで細身の身長と、冷静そうな表情が大人びた印象を与えているが、それだけだ。

 何かのグループに属しているわけでもなく、自ら率いているものもない。

 ただ、時々こうして授業をサボって、一服するのが好きだった。

 成績は決して悪くない。先日終わったばかりの期末考査の結果も総じて平均点以上だ。桐梓館は試験の成績順位を掲示したりはしていないが、眞紀はたいてい、学年二百人程度の中での上位三十人の内に入っている。

 誰かとつるむこともまずなく、ほとんど一人で行動している。

 親元を離れて寮に入っていることもあって、中学からの友人、という存在もいない。

 孤独を望んで、眞紀はこの高校に入った。

 彼女にとって、人付き合いは面倒だった。

 授業に出ないことを咎める教師もいるが、成績が良いだけにあまり教権をかざされることもない。

 入学から一年半ほど、この屋上は眞紀のお気に入りの場所になっていた。

 灰皿代わりに傍らに置いてあるのは発泡酒の空き缶。

 酒と煙草は、中学の時に覚えた。

 教師にはバレていないはずだ。

 眞紀は腕時計で時間を確認してから、横になった。

 昼休みになっていた。

 用意のいいことに、屋上のアスファルトにタオルを敷いている。

 時々、屋上に他の生徒が来ることもあるが、出入口から離れた場所を陣取っている眞紀とは距離を置き、彼女に接しようという者はそうそういない。

 もっともいたとしても、彼女はほとんど相手にしないが。

 眞紀は空き缶に灰を落とし、気怠げに缶の横に置いた煙草の箱を取った。

 ――赤い丸が中央に描かれた箱の中は、空だった。

「あ……最後だったんだ」

 眞紀は呟いて、箱を握りつぶした。

「あぁ……まいったなぁ。

 カートン買いに行くかなぁ……」

 蒼天を見上げる。

「駅前の自販機でいいか。

 ――最近、吸う量増えてるのかな」

 と細くなった空箱をいじっていたその時、出入口のドアが開いた。

 眞紀は寝ころんだまま、音のした方へ視線を向ける。

 出入口から陰になっている場所はない。

 長身の外国人の男――ウィケード・バーカーWBだった。

 WBは先客に少々驚いた様子だったが、柔らかく笑って眞紀に近寄った。

「だ――誰?」

 あまり授業に出ていない眞紀は、WBのことを知らなかった。

 眞紀は半身を起こし、彼女の領域に容易に入ってきた外国人を見上げ――その造形に惚けたように、持っていた煙草を落としてしまった。

 WBはその吸い殻を無造作に拾って、まだ火のついたままのそれを軽く握りつぶし、、、、、空き缶に捨てた。

「――あまり感心しませんね」

 怒ったふうではなく、ただの雑談のようにWBは言う。

 眞紀はぺたんと座り直した。

 WBはすっ、と腰を落として眞紀に目線の高さを合わせた。

 片膝をアスファルトにつける。

 空き缶をちらっと見て、

「こんな可憐なお嬢さんが――ね。

 この国では、飲酒も喫煙も二十歳まで禁止されているはずですが?」

「それで? あ、あなたは誰なの?」

 眞紀は戸惑いを隠せず、どもりながら反抗の態度を見せる。

「私?

 ――ただの英語講師ですよ」

「講師?――あ」

 眞紀も思い当たったか、WBをまじまじと見直す。

 WBは顔を数センチ寄せて、眞紀の瞳をじっと見つめた。

 眞紀は一重の目を丸くするが、抵抗感が薄い。

 WBの碧眼に呑まれたか、眞紀の頬が上気して少し赤くなる。

「コタケが言っていた『サボりの女子』とは貴女のことですね。ミス――」

「ひ……氷川、です」

 促しに抗いきれず、眞紀は答えた。

 古武こたけ、は英語教師の名だ。

 WBはにっこりと笑って頷き、左手で眞紀の顎を取った。

 右手は空き缶の上にある。

 自分の近くに寄せたその空き缶を、WBは片手で縦に潰した、、、、、

 発泡酒の缶が平たく丸いアルミ板状になる。

 眞紀はその音に驚いて缶だったものを見るが、ぐいっと顔を持ち上げられた。

「あっ……」

 眞紀の頬がさらに紅を増してゆく。

 漏れた声には抵抗の気配はほとんどなかった。

 顔を寄せたまま、淀みなく滑らかな口調でWBが言う。

「エフェソ書にあります。

『酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい』と。

 あるいは箴言アフォリズムでは『大酒を飲むな、身を持ち崩すな』と。

 ――いま、貴女が酔って我を忘れていなくても、依存を引き起こすものの常用はいけません。

 ましてまだ若い。こんなものの影響を体にも心にも受けやすい。

 日本の諺でもありますね。

『百害あって一利なし』

 控えなさい、いいですね」

 WBの言葉は、司祭の説教のようだった。

 眞紀はこくんと頷いた。瞳が熱っぽく焦点をふらつかせ、唇が震え、瞳孔がやや開いている。

 WBはもう一度笑った。

「よろしい。

 ではミス・ヒカワ。貴女に煙草や酒では味わえないものを教えましょう」

 されるがままに、眞紀はタオルの上に柔らかく押し倒された。

 すっかり熱に浮かされた視線はWBから離れない。

「あ――せ……せんせぇ…………」

 声も甘みが強くなっていた。

 WBは眞紀の横で片膝をついて座ったまま、眞紀の黒髪を撫で、眞紀の手をきゅっと握った。

 やはり、諭すように言う。

モーセ五書トーラー、出エジプト記二十章。

 シナイ山に登ったモーセに、神は十の戒律を示しました。


私の他に神があってはならない

いかなる像を造ってはならない、また、それらを崇めてはならない

主の名をみだりに唱えてはならない

安息日を聖別しなさい。七日目はいかなる仕事もしてはならない

あなたの父母を敬いなさい

汝、殺してはならない――――」


 WBは眞紀に横から覆い被さり、耳元で続けた。

「汝、姦淫しなさい、、、、、、

 眞紀は弾かれたようにびくっ、と腰を跳ね上げた。

「あ……あっ」

 眞紀が熱い息をこぼす。

「そう――それでいい。

 正直に、淫らになりなさい」

 WBは姿勢を変えて眞紀の上になり、セーラー服のスカーフをしゅっ、と抜いた。

 片手で黒髪を再び弄り、もう一方で制服の拘束を緩めてゆく。

 時折肌にWBの指が触れ、その度眞紀は嘆息を漏らす。

 次第に眞紀の吐息に艶が加わってきていた。

「あっ――せんせ……ぇ、熱い――――」

 眞紀の火照りをWBは確認し、眼をすうっ、と細める。

 WBの片手はいつしか眞紀の体を、直に探っていた。

 制服の上衣は大きくはだけられ、スカートは捲り上げられて腿の付け根まで露わになっていた。

 その敏感なところを次々に、WBは淀みなく指を走らせ、繰り返す。

 眞紀の漏らす声の間隔が短く、大きくなってゆく。

「――頃合い、か」

 WBはぼそりと呟いて、緩く開いていた眞紀の口を自らので塞いだ。

「!――んんっ……ぁ…………」

 襲う快楽に身を任せ、目を閉じていた眞紀の瞳が大きく見開かれる。

 WBは眞紀に視線を合わせ、微笑んだ。眞紀に触れる手は止まらない。

「んん……ーッ!!」

 声を封じられたまま、眞紀は全身を震わせた。

 WBが『何か』を強く吸い込む。

 眞紀の瞳の焦点が揺らぎ、虚ろになった。開ききった瞳孔に映るものは何もなくなり、WBがその瞼をそっと閉じた。

 WBは眞紀の両手の位置を変えてから立ち上がり、濡れた指先を舐めた。

 眞紀は横になったままだ。

 かすかに胸が上下しているが、動かない。

 軽く手を振り下ろして、WBは呟いた。

「ヤニの臭いはいただけないが、それでもこの味は――」

 眞紀を見下ろして、口の端を歪めた。

いな、やはり」

 眞紀を放って、屋上の出入口に向かう。

 その髪がやや広がり、何かの『力』がWBから溢れた。



「――っ!?」

 教室にいたれんげはふと顔を上げた。

「どうした? れんげ」

 窓から顔を出して上を見上げたれんげを守弘が呼ぶ。

「あ――いえ……」

 れんげは座り直した。

 れんげら二年生の教室は校舎A棟にある。教室の窓から見えるのは校外の町並みで、校舎B棟とは反対側に窓がある。廊下側からは隣の校舎が見えるが、屋上の様子を窺うことは困難だ。

「何か、声が聞こえたような気がして――」

「そうか? 気付かなかったけど」

 正面に座っていた守弘も窓の外を見る。

 空気を読んでか、翠穂はいない。

「何かいた?」

「いえ、きっと気のせいです。

 ――えっと、守弘さん、それで、クリスマスというのは――」

 一抹の不安を感じながらもれんげは、話題を戻した。

 れんげは妖物でありながら、他のそういった気配や力などを感知するのが苦手だ。

 だから、今微かに感じた『何か』についても自信が持てないでいる。

「ああ、どこまで話したっけ?

 ――そうそう、それでクリスマスってことでお祭りというか、イベントみたいな感じで色々やってるんだ」

 なるほど、とれんげは頷いた。

「二十五日にちょっと遠出してメシでも食って……て思ってるんだけど、どう?」

 守弘は真剣な顔で言っていた。

「そうですね――

 何も起こらなければ、でいいでしょうか?」

 守弘はれんげの正体を知っている。

 だかられんげも、気兼ねなく正直に言える。

「そりゃそうだよな。

 でも、予定しておいてくれ、な。

 もし何か起こっても、俺も手伝うし」

 守弘は苦笑して、言う。

「はい」

 れんげは微笑で返事をしてから、もう一度窓の外を見上げて小首を傾げた。

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