付喪神蓮華草子 / 聖淫聖夜

あきらつかさ

始章

 一八八九年なかば。

 パリは、万国博覧会に湧いていた。

 エッフェル塔のイルミネーションに照らされた下、夜だというのに街は無数の人で混み合っていた。

 この時街は、『メンロパークの魔術師』ことトーマス・アルヴァ・エディソンの商才でその寿命が驚異的に伸びたと云われる白熱電球で、夜間照明が行われていた。

 二年程度の短い建設期間という驚異的なスピードで完成された錬鉄製の塔は今回の博覧会の目玉の一つでもあった。

 パリの万国博覧会、というとエッフェル塔の建設されたこの八九年のものが有名だが、フランスでは第一回こそロンドンに譲ったものの早くから国際博覧会が催され、八九年のそれ以外でも現代まで実に八回の国際博覧会が行われている。

 八九年はフランス革命からちょうど百年の記念でもあり、記録では三二二五万人が来場したと云われている。

 明治・大正時代の日本も万国博覧会に積極的に参加していた。芸妓が接待役を務め、建築や絵画など、欧米に影響を与えてもいた。

 ヨーロッパで見られたジャポニズムのきっかけでもある。

 ――その、パリの夜に、一組の男女がいた。

 男は金髪碧眼にスーツ、女はと言うと十九世紀末のフランスにあって、付下つけさ小紋こもんという和装の日本人女性だった。

 女性は日本人スタッフの一人だろうか、彼とは二十センチほども身長差がある、

 彼の美しく整った顔を見上げる彼女の頬は紅潮し、うっとりと見とれている。誰の目から見てもこの女性が、彼に心奪われているのは明らかだった。

 純和風の顔立ちの彼女の、結っていたのだろう艶のある黒髪は解かれ、彼に撫でられている。

 彼に誘われるまま、しずしずとついてゆく。

 二人はそのまま路地に消えていった――。



 現代。


 まさしく日本の玄関口、と云うに相応しいその国際空港に、『彼』の乗った飛行機が降り立った。

 彼は小さなバッグを手に、余裕のあるゆったりとした足どりで入国審査の列に入る。

 いかにも欧米系ビジネスマンのような、細身で長身の体躯に襟の小さなクラシコスーツがよく似合っている。後ろでくくった鈍い金の長髪に若干の違和感があるが、不自然ではない。そういうビジネスマンもいるかも、と納得させられそうな穏やかな微笑で相殺される程度のことだ。

 ひとことで云うと、美形だった。

 彫りのある通った鼻梁びりょうと、切れ長気味で鋭さと優しさを兼ね持った雰囲気の澄んだブルーの瞳。筋肉質でなく、無駄な肉もない均整のとれた肉体。

 男女の区別なく振り返って見とれてしまいそうな魅力が匂う。

 三十代から四十代くらいに見えるが、年齢層の判別がしづらい。

 モデルか何か、『魅せる』職業の人間かとも思える。

 それほど、立ち居振る舞いそのものが『様』になっている。

 順番の来た彼はスーツの内ポケットから使い込んだパスポートを取り、丁寧に係員に見せた。

「観光ですか?(sightseeing?)」

 お定まりの言葉をかけながら、係員の女性はチェックする手を止めてまじまじと彼に魅入ってしまい、慌ててパスポートに目を落とす。

 国籍は英国になっていた。

「ふむ……(hm...)」

 彼は小首を傾げた。女性係員は自分の英語が通じなかったのかと、もう一度尋ねる。

「そう――だな(It's so)」

 彼は薄く微笑み、彼より年下そうな係員の頬を上気させた。

「観光もいいな(It's also good)。ただ仕事だけではつまらない(It's trivial only on business)」

 甘い声に誘われたようにフラフラと入国印の押されたパスポートを取って、彼は係員に片目をつぶってみせた。

「ありがとう、お嬢さん(Thank you the Miss)。

 ――参考にするよ(It refers)」

 係員はしびれを切らせた順番待ちの人に強く呼ばれるまで、彼の背中を追っていた。



 数週後。

 空港の入国管理を通る中に、一人の女性がいた。

 そばかすが残るものの、幼さよりも眼鏡の奥のキリッ、と強い力のある眼差しが印象に残る。

 とびきりの美女とまではいかないが、整った顔立ちと白い肌と濃い色の瞳のバランスが均整を生んでいる。

 艶のある黒髪がアジア系的だが、やや鼻筋の彫りが強い。

 細いデニムをブーツに入れ、上は明るい色のコート。

 大きめのバッグを肘にかけている。

「――観光で?(sightseeing?)」

 窓口で男性係員に型どおりの台詞を言われ、彼女は揶揄やゆ混じりの苦笑をもらした。

 出したパスポートの国籍は英国になっている。

 一見、日本人に見えないこともないが男性係員は英語で話しかけていた。

を追ってきたの(I've run after the enemy)!」

 唖然とする係員から奪うようにパスポートを取って手荷物受取に向かう。

 流れてきた、いかにも旅行で来日したような大きなトランクを無造作につかみ取り、彼女は税関も問題なく通り抜けて、入国した。

 ゴロゴロとトランクを引いて到着ロビーを歩くと、どこか華やいだ雰囲気が漂っている。

 室内は暖かいものの、外への自動ドアが開くと冷気が差し込んでくる。

 冬だった。

 外へ出た彼女は眼鏡の位置を直して、バス乗り場を通り過ぎてタクシー乗り場に向かう。

 携帯電話を取り出して電源を入れる。

「――まずは、ホテルにチェックインね(First of all, it is a check-in in the hotel)。

 本部から情報がきていたらいいけど――(Though it is good when information comes from the headquarters)」

 と、鈍い色の空を見上げて英語で呟く。

「とにかく、逃がさないわ(Anyway, don't let it go)」

 携帯をしまって、近付いてきたタクシーの運転手にトランクを示す。

 タクシーの窓にも、季節感たっぷりの広告が貼られていた。


 クリスマス――十二月の空気が近かった。

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