1-2

 数学の教科書を閉じて委員長は言った。

「次は神学です。ノートを出してください」

「休み時間スキップ!?」

 ヒルメは抗議の意を込めてぐてっと机に突っ伏す。

「校長権限」

 委員長は半ば開き直ったようにその単語を繰り返した。というより仕返し半分に。権力が不当に与えられればそれは恣意的に使われるという歴史の繰り返しをヒルメは目の当たりにしていた。

「委員長……肩書きのことは謝るから私の休み時間を無くしちゃうのやめてくださいですよ」

「別に意地悪でもなく、誰かが遅刻したせいでタイムスケジュールが押してるのよ」

「でもその分、委員長。私が登校した時コーヒー飲んでまったりしてたじゃんですか」

「暇したくてしてたわけじゃないの、それに最初に断ったじゃない」

 補習だって。

「権力~」

 嫌なうめき声をあげながら、ヒルメは起き上がる。

「……神学ですか?」

「神学です」

 垂れ下がる。

「こらこらこら」

「やっぱりやる気出ないですよ」

 机から落ちそうになったところを委員長に引っ張られつつ、ヒルメは不満を口にした。

「何でよ、面白いじゃない。神学」

 神学と言っても、彼女が教えるのはその元たる神話の部分。つまりはお伽話だ。ヒルメにとっても他の退屈な教科に比べればそれは確かに面白い。

 不思議で人間味にあふれた神様達がよくわからない理由で喧嘩したり子供を増やしたりする。そのシュールさが確かにヒルメのお気に入りではあるのだが。

「だって神話って大体、終わりの方で悲しくなるですもん」

 神話はもともと物語やお伽話と違って、歴史の一部として産まれる。つまり神話が出来た当時の時代へと繋がり、その成り立ちを説明するという役割があるのだ。

 従って当然ながら、主役は神から人間へと成り代わる。

 それがヒルメには不満なのだ。あんなに大活躍した神様たちが最終的には人の崇拝する対象や畏怖する対象に置き換わり、今の時代に神様の姿が見当たらない理由を説明してしまう。

 それはとても悲しいことだと。どうしてかヒルメは、そう思ってしまうのだ。

 歴史はいつでも作られ続けてきた。だけど神話が新しく作られることはない。それはもう、終ってしまったことなのだ。神様たちの時代は二度と来ない。

 それが、悲しいのだ。

「じゃあ、今の神様の話をしよっか」

 委員長は手を叩きあわせて、微笑みかけながら提案した。

「今?」

 それは落ち込んでしまったヒルメを元気付けつつ授業に引き込むためだけのアイデア。というわけでもなかった。

「というより最初からこの話をしようと思っていたの」

「ふむふむ」

 ヒルメは委員長の思い通りに心なしか前のめりになる。しかし頭を占めていたのは疑問だ。この世界の一体どこに、神様がいる。まだ神様が歴史を作り出す、余地があるのか。

 ゆったり十分な間を置いて。委員長は語り始めた。

「例えば人類が滅んだとします」

「まさかのifから始まる物語!?」

 期待が大きかった分ヒルメは唖然とした。そして反省する。何が彼女をそんなに追い詰めたのだろう。自分の遅刻がそんなに彼女の負担となっていたのだろうか。

「委員長ごめんなさい……もう遅刻しないから、授業を放棄しないでください」

「違うわい」

 思った以上にヒルメに引かれたので少し動揺して語調がおかしくなりつつ、彼女は続けた。

「じゃあこう言えばいいのかな。人類が滅びます。それはもう今すぐ。はい、今日滅んだ」

「語り口の問題じゃないですよ」

 結局は仮定の話だ。

「だって人間がいる限り神様の出る幕はないじゃない」

「ばっさり言いきりましたが、十分ありますからね!?」

 それこそ、昔話を読み漁れば泉から出てきたり火を起こしたり。

「それは主役じゃないじゃん」

「……そうですけど」

「というわけで人間はすっかりその数が少なくなっていました」

「若干、軌道修正しましたですね」

「残り百人」

「思ったより残りましたね、さっき滅んだくせに」

「茶々入れるのやめて」

「……はいです」

 ツッコミを放棄して大丈夫かなと思ったけど。まぁ、神話なんて大体そんなもんかなとヒルメは思った。

「どうしてそこまで減ったのかというと、子供が産まれなくなったからです」

「……」

「SFっぽいね」

 セルフツッコミは流石に痛いのですとヒルメは思った。

「まぁ細かいところを省いてざっくり説明すると、男性の遺伝子はずっと昔からの進化の過程で劣化し続けていたのです。これはどうしようもない遺伝子バグの蓄積で、避けられない運命でした。最終的に残った人類は女性が百人。子供が産まれなくなったのも当然ですね」

 女性同士でも子供を産む技術はすでに現代にあったはずだけど。そこはそれ。百人まで減ってしまった過程で、ロストテクノロジーと化したのだろう。

「彼女たちは一つの街に集まって暮らすことにしました。その際、形だけでも一つの街としての体裁を整えるために戸籍を作りました。その仕事を担当したのはその百人の中で一番若かった女性です」

 委員長はふふと笑う。

「簡単な仕事のはずでした。だってたったの百人しかいない上に、ほとんどはすでに顔見知りです。規定用紙に必要事項を記入してもらって回収してまとめるだけ。そう思っていたのですが」

 奇妙なことが、起こったのです。

 声音を低くして、彼女は間を置いた。ヒルメは急に寒気を感じて窓の外を見た。あんなに晴れ渡っていた空はいつの間にか雨が降り出しそうなほどの雲に覆われ、気付けばこの教室の光源は頭上の電灯だけだった。視線を委員長に戻す。

「回収した用紙をパソコンに打ち込んでいきます。一人、二人。誰もが知っている相手ですから、面白がってその来歴を読みつつ入力していきました。本来ならプライバシーの侵害として訴えられそうなものですが、まぁ役得というやつだと言い聞かせながら仕事をゆっくり進めました。そしてとうとう、自分の分まで打ち終えてみて気付きました」

 一人多い。

「それ神話じゃなくて、怪談じゃないですか?!」

 とうとう堪え切れずにキャラ崩壊をも顧みずに叫んだツッコミは、無視された。

「慌てて見直します。重複はないか。打ち間違いはないか。だけどどのデータを見ても、知っている人たちですから、間違いがあるはずもありません」

「オチが読めましたよ委員長!!犯人は座敷わらしですよね!?」

 相変わらず、無視する。というより、委員長はこの時点で語りに嵌り込みすぎてヒルメの存在さえも忘れてしまっているようだった。

「もしかしたらこの街に集まって百人だと数えた時点での間違いがあったのかもしれない。そう一応の理屈を付けて、彼女は動悸を抑えました。最後にもう一度だけ確認しようとデータを見直して。言い訳さえ出来ないさらなる不思議なことに気付いたのです。彼女より若い人はもういない、子供が産まれないはずのその街の名簿に」

 子供が混じっている。

「座敷わらし!!私知ってた!!私すごい!!!」

「それはもちろん人間の子供ではありません。実はその子は、人間が少なくなったあとから恐る恐る気付かれないようにその街に紛れ込んだ神様でした」

「オチを当てられたからってそこでネタ変えるの反則すぎませんっ?!」

 怪談から、神話に戻ってきていた。あまりの展開に、ヒルメのツッコミも半分投げやりだ。

「しかしその事実に気付いた彼女はそのことをみんなに秘密にして心に仕舞いこんでしまいました。彼女以外の誰一人として、その神様の存在に疑問をもつ人はいないようだったからです。神様は段々と数を減らしていく百人だった街の中で人々に可愛がられながら、神様だという自覚もなく幸せに過ごしているようでした。しかし、神様にはひとつ妙な傾向がありました。それは死んでしまった人の存在そのものを忘れてしまうこと」

「あ、何か悲しい話っぽくなってきましたね」

「神様を除けば一番年下だった女性はこう考えました。きっとその神様はずっと昔、そうやって忘れることで人類が滅ぶ過程に悲しむことをやめたのだと。そしてとうとう自分が神様であることも忘れて、人前に出てきてしまったのだと」

「……」

 ヒルメはもう、半分涙目だった。正直、さっきのテンションからその状態に到るまでかなり努力した。頑張ったのだ。

「あとは終わるだけ。一人ずつ減っていく人々を、残された戸籍係の彼女は一箇所に埋め続けました。そうやって長い月日が経って、とうとう戸籍係の彼女一人と一柱の神様だけが残されました。あとは終わるだけなのです。ところで」

 委員長はまるで。というよりほぼ確実に。久しぶりにヒルメの存在を思い出して、彼女の顔を覗きこみつつ抑えた声音で尋ねた。

「寿命で死んでしまった九十九人の墓はどこにあるのでしょう」

 それはこの学校の運動場だとか。

「結局は怪談でしたか!?」

 涙が引っ込んでしまった。

「今でも真夜中になると九十九個のお墓が人知れずに運動場に浮かび上がるとか……あれ、ヒルメどうして半泣きなの?そんなに怖かった?」

「こんなに聞いてて疲れる神話は初めてでしたよ」

 また机にもたれ掛かる。とっくに教壇上の時計の針は、休み時間に入っていることを示していた。

「次はもう少しわかりやすい神話がいいです」

「でも面白かったでしょう?」

「……」

 不覚にも、面白いといえば面白かったかもしれないと。答えに詰まってしまった。図星を付いた委員長がしてやったりと笑う。

「じゃあ、お昼を食べに帰りましょうか」

 給食も学食もないから、自分たちで用意しないと昼休みに食べるものはない。

「あれ、お弁当はどうしたのです?」

 普段なら委員長が二人分作ってくれる。ヒルメの朝ごはんだって、たぶん彼女が登校前に毎朝作って置いて行ってくれていたのだ。だって朝御飯と夕飯を作ってくれていた人は、今朝いなくなってしまったのだから。だからきっと今までも、学校のみならずヒルメのおうちの世話までが、委員長の仕事だったのだ。痛いの飛んでけも、委員長の口癖。だった気がする。

「今日はお弁当作るの忘れちゃったの」

「委員長も年ですかね」

「ヒルメのが年上でしょ」

「そうでしたっけ?」

 そう言って二人は手を繋いで教室から出て行く。ヒルメの手のひらを乾いた皺の感触が包む。

「雨降っちゃってるね」

「置き傘の勝利ですね」

「私のだけどね」

 委員長は傘を一本だけ手に取った。何故一本だけかと言えば、ヒルメの小ささなら、一本に二人で収まるだろうと思ったのが一つ。それと――

「ふふふ、ヒルメ怖い?」

 校門を出る辺りで、委員長は尋ねた。

「何がです?」

「え、だからそこの運動場だよ?」

 ヒルメが、それがさっきの怪談の話だと気付いたのは数瞬の後。

「あれで怖がれって方が無理あると思いますのです?」

「半泣きだったくせに」

「理由が違います」

 そう言いながら、それでも振り返って運動場を確認してしまう。だけどヒルメには見えない。運動場にある九十九個のかつての家族たちのお墓なんて、見えない。

「でも、どうしてあんな話をしたんですか」

「うん、とね。……それはね、もう――」

 隣で咳き込むのを必死に押し隠そうとするような声が聞こえた気がした。

「委員長?」

 彼女の顔を見上げようとして。

 不意に雨に打たれた。

「え、ちょっと」

 何故か、頭上の傘が取り除かれて、ヒルメは濡れかかっていた。

「委員長、しっかり傘さしてくださ――」

 振り返った背後には誰もいなくて、ただ傘が転がるきり。

「あれ……えっと?」

 ヒルメは戸惑った。何が起こっているのかよくわからなくなって、一瞬目の前が真っ暗になった。気がした。

「……」

 そういえば、私は。誰と帰っていたのだっけ。

 ヒルメは首を傾げながら、誰もいない場所に転がっていた傘を拾い上げる。

 一人でここまで来たのだから、傘がひとつきりなのは当たり前。

 そこに何か人型の塊が転がっているけれど、それについて考えてはいけない。

 考えたら、悲しくなってしまうから。

 忘れてしまわないと、壊れてしまうから。

 思い出すことは。いけないことだ。

 悲しい夢を、見た気がした。

 ヒルメは家に帰ることをやめて校舎へと引き返す。

 もうお昼御飯を作ってくれる人はいないのだから。

「自習さぼっちゃおうかな」

 そんなことを呟きながら、だけどサボることもせずに、数学の勉強をするのだ。

 きっとそんなことをしたら、誰かが叱ってくれたことを思い出してしまうから。

 ヒルメ。略さずフルネームを名乗るなら『大日女尊(おおひるめのみこと)』。

 別名、『天照大御神(あまてらすおおみかみ)』。

 彼女は、とうとう人間が一人もいなくなった世界で。

 少しの絶望を隠して、たぶん幸せに暮らしている。

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