第3話

『魔物というのはね、叶えたくない願いを受け取ってしまって生まれた、ある種の魔法の成れの果てなんだ』

 溶けて消えていく魔物の亡骸を前に、エリオットが滔々とうとうと語る。

『魔法というのは、願いを叶えてくれと世界にお願いするものだ。その思いを受け取ってくれた世界が現象を引き起こしてくれる。世界は常に生き物の願いを聞いているんだ』

 遠くを見るように、憂いを視線に乗せてぐずぐず溶ける亡骸を眺めている。エリオットがその魔物に対してどことなく共感していることが、ティオには分かった。

『――僕はこの世界をぶち壊してやりたいと思っている。

 その願いは本物だ。だけどね当然、そんな願いなんて叶って欲しくないさ。それがなんだ。人は皆そういう願いを胸に抱えている。自分が落ち込んでいるときに幸せそうに微笑む人間を見ると眼球を捻り出したくなる。自分が一生懸命努力して手に入れた能力を、ただ才能というだけで生まれつき持っている人間を見ると殺したくなる』

 何かに取り憑かれたように講釈を続けるエリオットの表情は、だがむしろ、憑き物の落ちたようだ。

『それが偶然叶ってしまうと、魔物というものが生まれるんだ。

 僕がこの目で確かめたわけじゃないけどね。そういう研究報告を僕は見たことがある。それはきっと正しいよ。ティオ、君がその証明だと僕は思う。この魔の森を見てごらん。魔物はいつも何か――誰かの叶えたくない願い、を持っているように見えないか。あらゆるものを食べずに居られない魔物は食べる度に自らの胃袋を痛めていく。ひたすら叫び声を上げる魔物の喉はどんどん消耗していく。悲しいぐらいに願いに忠実だ。願いを叶えたくて、その願いを叶えることを拒絶してもいる。だから自壊していくんだ。魔物というものは皆放って置けば勝手に死んでいく』

 悲しい世の仕組みをエリオットは暴いていた。循環不能の閉じた世界でボロボロになっていく魔物について、洗いざらいに明かしていく。

『救いの無い話だよ。

 ――英雄譚について、話したことはあったかな。世界に危機が訪れて、勇者がそれを救う。その構造は実際に起こりうることなんだ。

 人間は、平和な状態が続くと退屈になるよね。退屈になると刺激を求める。刺激とは危機だ。平和が続くと、強大な魔物が生まれてしまうんだ。人々の叶えたくない願いに応えてね。

 そして、その危機を打開できる勇者が願われる。なんて茶番なんだろう。ね、ティオ』

 魔物は危険だ。でも、悲しい存在なんだよ。だから僕は魔物が好きだ。

 こんなところに逃げてきたのも、死に場所にこの魔の森なんてところを選んだのも、それが理由だったんだろうね。ね、ティオ。僕は魔物が好きだよ。

 そう言ったエリオットの瞳に宿る慈愛を、ティオはハッキリと覚えている。


 ☆


 月明かりの下で捉えるには、その魔物はあまりにも速すぎた。

 夜は視界が悪い。小さく素早いものは夜闇の中でこそ厄介さを増すものだ。事実、二人はその小さな魔物に苦戦していた。最初に蹴りを当てられたのは運が良かったか、相手が油断していたのだろう。直進しかしない魔物相手に攻撃を当てられない。

 だがどうやらその魔物は頭が悪いらしかった。

 攻撃を当てられずとも、地を蹴って突進することしか能が無いのであれば、避けるのは容易い。足場が悪く躓きながらでさえ二人は攻撃を躱し続けていた。

 何度も何度も何度も何度も魔物は同じ行動を繰り返す。やっていることは単純だ。地を蹴り、木を蹴り、突撃してくるだけ。単純すぎるぐらいだった。

 ――観察する。

 生まれた余裕を使い、ティオはその小さな魔物を分析し始めた。エリオットからの教えに従うならば、その魔物にもがあるはずだ。それが誰の叶えたくない願いであったかはどうでもいい。魔物のやりたいことを見抜くことで、その行動を予測することが容易になる。

 こと今回に限っては、魔物のやりたいことはとても分かりやすかった。

 球体から脚が生えているだけの矮躯わいく。それは見るからにたった一つの目的に最適化されている。球体から生える脚は不釣り合いに大きく、亀裂が走っていて尚力強い。

 強靱な脚。繰り返す行動。

 そいつの脚はところどころ断裂している。叶えたくない願いを叶えた結果、のが魔物の特徴だ。分かり切っているだろう。先程からあの魔物はそれしかしていない。

 ――跳びたいのだ。

 跳ねて、ジャンプして、天高く。翼を持たない人間が空をこいねがうために使える唯一の方法、跳躍という行動こそがあの魔物の望みに違いなかった。

 それが何故二人を襲うのか。天に向けるべき頭部をティオとイリアに、水平に構えて突っ込んでくるのが謎だ。だがそんなことはどうでもいい。打開策さえ見つけられれば、それで良かったのだ。

 しかし打開策も何も、時間を稼げばその魔物が独りでに死んでいくのがティオには分かっていた。

 脚の傷が酷すぎる。魔物とて肉体を失えばそれまでだ。魔の森で何度も見た光景、己の在り方を見失った魔物は液状の不定形へと変化して、そのまま消滅してしまうのである。

 その魔物の寿命が近いのは明らかだった。

 いつ脚が千切れてもおかしくない。もうすぐ跳べなくなるのだろう。叶えたくない願いさえ叶えられなくなったとき、魔物がどうなってしまうのか。――エリオットは言っていた。魔物は悲しい存在なのだと。

 ふとティオは、そいつを殺してやりたくなった。

 やりたいことがやれなくなって、自己を保てなくなって、水のように流れてしまう。そんな失意。

 直視できない残酷さを想像してしまった忌避感からか、あるいはそんな悲しい結末を迎える前に終わらせてやりたいという慈悲なのか。自分の気持ちは分からないが、殺すことは救いなのだとティオには思えた。

「イリア」

 隣の女性冒険者の名を呼ぶ。

 この突発的事態に巻き込まれてから初めて、ティオはイリアに話し掛けた。

「なんだ」

「僕があいつを止める。当たりさえすれば、殺せるよね?」

 イリアの武器は右のレイピアと、マインゴーシュの代わりだろう、刃の取り付けられた左の籠手だ。

 護身としての運用がメインらしい、驚いたことに籠手だけでなく、刃の細い刺突剣でさえも魔物の突進をしなやかに逸らしている。素材が良いのだろう。きっと動きさえ止められたならば、あの魔物を真っ直ぐに貫けるに違いない。ティオはそう信じた。

「な――ッ!? 正気か?」

 ティオの無謀な宣言に、イリアは目を見張って驚く。

 ティオは先程そいつを蹴り飛ばしたが、それは横っ面を叩いただけの話だ。真正面からぶつかったわけでは無い。だがそう、止める。止めるとならば、正面から相対して、その勢いを殺さなければならない。

「無茶だろうそれは」

 跳んだ魔物の衝撃は樹木を削り取るほどだ。そうして抉られた木が傍に倒れている。だから懸念を露わにするイリアに、しかしティオは平然と断じた。

「出来るよ」

 イリアは、閉口する。

 ティオのあまりにも気負い無く、堂々とした態度に挟む言葉を失ったのだ。あんなにも陰惨とした空気を撒き散らしていた表情から迷いが消えている。

「出来る」

 同じ言葉を、ティオは繰り返した。決意を示すように、頷きながら明瞭な声で彼は言った。

 手元に武器は無くとも、ティオ=エスビルには他の手札がある。シャーラ=ネフィルアイスの得意技。身勝手な願いを世界に伝えて我が儘を通す、万能とさえ言えるワイルドカード。

「旋風よ。僕の手元で踊ってくれ。

 力ある言葉に従って、ティオの周囲を明滅する光の粉が舞う。彼の願いに呼応するように、彼と言葉を交わすように、きらきらと幻想的な光の粒が噴き出した。

 ――空気が渦巻き始める。

 が、そこに魔物が跳んだ。邪魔される形になったティオはしかし、舌打ち一つでそれを避けながら集中を続ける。彼を庇おうと前に出たイリアが魔物を挑発して、代わりに注意を引きつけた。

 渦巻く空気が集っていく。舞台だと差し出した手の平の上で光の粒と空気が混じり合っていく。やがてそれは流れとなって、螺旋を描く旋風へと姿を変えた。

 この魔法の成立過程を目にするたびに、ティオは思う。

 まるで世界に絵を描いているみたいだと。

 火を灯すときも、水を生み出すときも、風を纏うときも、大地を割るときも。魔法を使うと必ず、光の粒とそれぞれ生成された物質・現象が、共に重なり合いながら願った通りの軌跡を辿る。

 火も水も風も大地も、光の粒と一つになっているときはなんだかインクめいて見えて凄く神性だ。ありとあらゆる全ての素が世界というキャンパスを覆っていく。魔法を使う度、ティオはそんな風に感じるのだ。

 小さな竜巻はティオの願いに応えてその手の上で踊ってくれている。

「よし、イリア」

「……任せるぞっ!」

 合図に一言、それだけでイリアは飛び退いて魔物の注意から逃れる。壁が喪失した結果、魔物とティオを遮るものは何も無い。

 離脱したイリアは深呼吸をして、ティオの斜め後ろまで来ると、刺突剣を厳かに構えた。

 ――準備は出来た。

 来い、来い、来い。息を止めてその瞬間を逃さぬように集中するティオの視界から、魔物以外の全てが消える。脚が二本だけの、小さな球体。ティオにはもうそいつしか見えなかった。

 魔物の大腿部が膨れあがる。――来る。それが分かった。

 地を蹴る脚に力が無い。傷付きすぎたのだ。もうその魔物は意地で跳んでいるだけだった。それでも樹木を抉った際の威圧だけは保っていて、あるいは本当に木々程度であれば貫けるかもしれないとも感じられる。

 ……だが、ティオはそれを受け止めた。

「――く、ッ」

 苦悶の声を小さく漏らしながら、風で散らし切れなかった衝撃を完全に押しとどめる。両手で掴めるほどの大きさしか無いその魔物をがっしりと握り込んで、その身体の意外な柔らかさに初めて気付いた。

 ここしか無い。判断は一瞬だ。動きを押し止めたその一瞬を逃さず、ティオはその魔物を放り投げる。

 弧を描いて飛んでいく魔物を待ち構えるのは剣を構えたイリアだ。すっと呼吸を絞っていた彼女が、空中の魔物に、剣を、突き出す。

 刺さる。

 そう思った。

「な、にッ!?」

 そいつは、

 弱々しく、力無く、蹴るというよりは押したという方が正しいだろうそれはしかし、ほんの少しだけ魔物を浮き上がらせたのだ。ふわり、と。微々たるものでも浮遊したその身体はするりと刺突を

 

 魔物をそう呼んだのはエリオットだったか。魔物という存在にも魔法が使える。それを忘れていたわけではない。もう使えないほど消耗しているのだと、勘違いしていたのだ。

 油断は死を招く。

 最後の、――最期の力を、魔物が振り絞った。ギリリと引き絞る弓のような音がその大腿部から奏でられ、見るからに脚全体が膨らんだ。

 その脚はイリアに向けられている。地を蹴って突撃するのでは無い。イリアを蹴って、より高く。蹴られたイリアがどうなってしまうかなど魔物は斟酌しんしゃくしないのだろう。

 イリアが身をよじる。が、間に合わない。彼女の表情が焦りと絶望に染まる――。

 そこに、光り輝く水が割り込んだ。

「流水よ――ッ!」

 ティオの手がイリアに向けられている。そこから蛇のように飛び出した水が魔物の脚とイリアの間に滑り込んだ。結果、イリアの代わりに水を蹴り飛ばし、そうして生まれたほん一瞬の遅延がイリアを救う。

 ――間に合った。

 今度こそ余力を失った魔物が宙に浮いている。二度目の魔法は無く、そいつはあっさりとイリアの剣に貫かれて死んだ。


 ☆


「――また、借りを作ってしまったな」

 汚れることもいとわず地面に座り込んだイリアが、ティオを見上げて微笑む。疲れの滲む、儚げな笑みだった。

「あそこまで魔法が扱えるとは驚いた。本職並みではないか。特に最後のあれはようにさえ見えたよ。凄いな君は」

「いや本当に。君が粉々になる前に届いて良かったよ。正直ダメかと思ったし、焦りで手元が狂いそうだった。怪我は無い?」

「幸いな。魔物と会って目立った傷も受けずに済むとは、君のおかげだ。ま、奴らと遭遇するのはこれで十回目にも届きそうなのだが」

「筋金入りの不幸な人なんだね……無事で良かった」

 ははは、と笑い合う。

 不思議だった。ティオは少し前まで落ち込んで何も考えたくないぐらいだったのに。ひやりとするような危ない体験をして必死になったからだろうか、やりたかったことを成し遂げた気分に近い、スッキリとした感覚がある。

 イリアは二度ほど深く呼吸をすると、よしと呟き立ち上がろうとして……失敗した。

 おや、と首を傾げてから、遠慮無くティオに手を伸ばす。

「悪いが立てなくなってしまった。肩を貸してくれ。流石にこんな時間に外に居たくは無いからな。街に戻らないと」

「腰抜かしちゃったのか。分かったよ仕方が無いなぁ。……はい」

 イリアを引き上げ、肩に腕を回させる。体格的にはティオよりほんの少し大きいイリアだが、その身体はさして重くない。そのまま二人で余裕を持って街へと歩き出す。

「助かる。さっきは死にかけの病人みたいな青白い表情をしていてどうかと思ったが、頼りになる。ありがとう。悩みは解消されたか?」

「気分は楽になったよ」

「そうか良かった。背中を借りるぞ。ああ、これは安心する」

 そう言ってイリアは抱きつく形で、体重を思い切りティオに預けてきた。顔も身体も声もあまりにも近い。

「ちょ、これは流石に。あの、そうだ。はしたないよ」

「まぁまぁ。今朝言ってた額の三倍を払うから」

「金なんだ?」

「気持ちだよ」

 適当な戯れ言を交わしてふざけ合うのが心地よかった。薬草店のことは常に頭の隅に貼り付いているけれど、ティオはそれでも今だけは笑っている。

 イリアがもたれかかってきているせいで酷く歩き辛かった。だが、それが却って笑いを誘うほどに気が抜けている。

 舌に乗る言葉も軽口ばかりで、いつもは動きが鈍いくせに嘘のようにすらすらと声を発せた。

「三倍も払えるの? お金稼ぐの下手って言ってたくせに」

「なに、ちょっとずつ返すよ。時間は掛かるかもしれないが、返しきることだけは約束しよう」

「あー、うん。うん? それって……」

 言葉の意味を理解するにつれて、微妙に気恥ずかしいくすぐったさに襲われる。それだけ長い付き合いとなることをこそ、イリアは提案しているのだ。

「そういうことだ。友達になろう。私は君が気に入ったよ。これから長い間世話になる」

「図々しいなぁ」

 そう答えたティオの表情もまた、どうしようも無く綻んでいる。

 それが可能かどうかはさておき、掛けてもらった言葉は嬉しかった。思い悩むのは今で無くても良い。忘れておくべきこともあるのだ。

 ――薬草店は。エリオットの遺志は。

 イリアの前では、考えなくても構わないだろう。何故か分からないが、ティオはそんな風に気楽でも良いと考えられていた。

「二度の命の恩、直ぐに返せるようなものでも無い。そうでもしないと借りっぱなしになってしまうじゃないか。どぶがヘドロになるぞ」

「命の恩って。一度目は放って置いても問題無かったよあれ、冷静に考えてみれば。一見すると危なそうだったけど、頭部の出血は派手になりやすいんだ。それに今回だって、逃げるだけなら余裕だったよね?」

「やかましい、黙って恩を返されろ。それに逃げられたとも限るまい。私は妙に魔物に狙われるたちでな。本当に感謝している。だから感謝の形として、何か私に手伝わせろと頼んでいるんだ。こう見えても冒険者だからな、歩き回るのは得意だぞ。ほら薬草店をやっているんだろう? 仕入れだって任せてくれ。どうだ?」

「はは。そっか、それは助かる」

 ティオは言わなかった。

 薬草店のことを。『仕入れを任せろ』なんて、潰れる店には必要の無いおせっかいだ。その事情は言わずとも直ぐに知れてしまうだろう。むしろ言ってしまえば、その後――路頭に迷いかねない自分にどんな道が残されているのか、助けになってくれるかもしれないのに。

 ティオは言わなかったのだ。

 ――あるいは気が大きくなっていたから、未来など、生きる目的など、エリオットに託されたものなど、どうでもいいと思えたのかもしれない。

 自分は変われるかもしれない。そんな小さな小さな希望がそこにあった。

「あ……、そういえばさ、会ったら聞こうと思ってたんだ、」

 と、そこで、ティオは唐突に思い出した。

「夜のローン街に火の玉が出るって噂、知ってる?」


 ☆


 ――油断していたのは認めよう。依頼を終えてきた帰りで疲れていたのも確かだ。

 だがそれでも、イリア=ヨークスは自らを叱咤せざるを得なかった。

 それは先日のこと。ティオ=エスビルが居眠りしているところへ彼女が転がり込んだ日のことだ。

 、イリアは走っていた。日の暮れて久しい、夜のローン街の路地を。

「冒険者がスリに遭うなど……ッ! 阿呆か私は。泣きたいっ!」

 噛み殺すように小さく、呻き声を上げてイリアは走っていた。その前を走る男の手に中身のごっそり入った巾着袋が握られている。

 そこにはイリアの全財産が入っていた。

 すれ違い様に盗まれたのだ。かなり乱暴な手口だった。注意していれば未然に防げていたに違いないほど雑なやり方で強引に生活費を持っていかれた。疲れていたにしても自責の念が絶えない。

 下手人を逃すわけにはいかなかった。だから必死で追いかけている。

「しっつけーなーボケッ!!」

 妨害にも性格が表れていた。投げつけてくるものに統一感が無く、狙いも荒いにも程がある。その無駄な動きの間に距離を詰めることも簡単だった。

 スリは幼いと言ってもいい、若い男だ。枯れ木に汚れた布を巻き付けたような姿をしていて、貧困さが一目で見て取れる。

 走り込む先も分かり切っている。

 街中でもより暗い方暗い方へと向かっているのだ。それに見た目からしても汚れている男を見れば、貧困区スラムの住民であることは明白だった。

 貧困区。

 それは正式な区画では無い。ローン街の領主はギルググという男だ。彼はそんなものの存在を許したりはしない。

 だが、許さなくともどうしようも無いことが起こり、非公式にそういう区画が生まれてしまった。

 ――災害だ。

 ローン街は二つの主要都市の狭間に存在するというその性質上、行商や貴族の移動、冒険者の拠点変更など、沢山の旅人が中継地点として通過する。そんな彼らのための宿泊区画が存在

 起こったのは地震だ。地震そのものの規模自体はそれほどでも無かったが、問題は二次災害だった。倒壊による瓦礫が一番大きい道を塞いだこと。さらに、夜間だったのが災いし、倒れた燭台から起こった火事への対応が遅れてしまったのだ。

 不運が不運を呼び、区画は一つ、そのほとんどが機能を失い、潰れてしまう。

 それが三年前のこと。職や家屋、家族、色々なものが失われたその日が貧困区の始まりである。

 近年そこは荒くれ者共の溜まり場になっていた。

 スリはそこの出に違いない。向かっている先がまさにその貧困区であったのだから。

 だが、イリアには余裕があった。

「ふ、遅いな……」

 食事も鍛錬も足りていないのだろう。枝葉のような男の走りには力が不足している。

 追いつくのも時間の問題だろう。徐々に縮まる距離がその証明だ。イリアは機会を窺う。

 もう、飛び込めば届くだろう。それほどにスリの逃げ足は遅かった。

 と、そこで絶好の機会が訪れた。スリが疲れに脚を取られたのだ。

 躓き掛けてよろめいた男に、イリアは野生の獣のように音も無く飛び掛かる。傷付けるつもりはさして無かった。組み伏せて、金を取り返す。目的はただそれだけだった。

 ――そこに、火の玉が飛来する。

「ッ!?」

 頬を掠めた炎に慌ててその発生源を見遣るイリアを、続けて三度、炎は襲った。

 その最中、転がりながら揺れる視界で、イリアは見た。

 女だ。

「おうおうテメーゴラカス。あたしの仲間に何しようとしてんだ」

 ――ぶち殺すぞ。

 臆面も無くそう吠える女は、その両手にまだ五つもの火の玉を重ねている。

 爬虫類かと見間違えてしまいそうな細身の女だった。火の玉で照らし出されて尚影のように薄い体格。酷薄な表情で舌舐めずりをしながら、切れ長の瞳を暗く輝かせている。輪郭を包む陰影の濃さは重ね塗りされた墨を思わせた。

 真正面からゆったりと、獲物を嬲る猛獣のように歩いてくる女に、しかしそのときのイリアはまだ余裕を持って相対した。

 イリア=ヨークスはソロの冒険者だ。それも危険とはめっぽう縁がある。それなりに経験を積んできた自負があった。

 女は路地の奥から、貧困区から現れたのだ。貧困区の住民に違いない。

 強さとは一朝一夕で得られるものでは無いのだ。よく育み、よく鍛錬することによって、強靱さは得られる。

 ――貧困区の住民になど怯える必要は無い。

「ま、それは建前だけどなァ。あんた、強そうじゃないの。あたしゃラグナシア=ウルティナってんだ。

 イリアはそいつと戦った。

 そして無様に逃げ帰ることになる。

 ラグナシア=ウルティナ。彼女が火の玉の噂の出所で間違いないだろう。そう、イリアは苦い顔で断言する。


 ☆


「貧困区の人間が、魔法?」

 その話を聞いてまずティオに浮かんだ疑問はそれだった。

 魔法を扱うには先生と知能が必要だ。それが魔物でも無ければ教えられずに使えるものでは有り得ない上に、貧困区にそんな希有な人材が居るとは到底考えられない。

 だがイリアは頷いた。間違いなく、それは魔法であったと。

「私に魔法は使えないが、それでも何度も見たことがある。あれは魔法だ。間違いなくな」

 経験は嘘をつかない。イリアが言うことは本当のようだった。

 だがそれはそれで不思議な話だ。

「魔法が使えるのにどうして貧困区になんて」

「さてな。それは分からないが、楽しそうだったよ。そのラグナシアという女は笑っていた。実に愉しそうで、私のような人間に襲いかかることが生き甲斐かのようだった。その上、明らかにいた」

「何。それはつまり、そうやって冒険者とかに襲いかかるのが趣味だから、陽の下で生きられないから貧困区で生きてるって?」

「そういう風に見えたんだよ。君が、ティオが私の感覚を信じてくれるかはさておきね」

「卑怯な言い方」

 ティオが文句を付けると、むしろイリアの笑みはより深くなった。そうやってふて腐れるティオを見て楽しむように、心底からだろう笑みが浮かんでいる。

「だいたいさ。おかしいんだよイリアは。傷付いたからってうちに来るなんてさ。この御時世、時代は回復魔法だっていうのに」

 不満そうなティオはそれだけで収まらないように、矛先を過去にまで向けた。

 ああそのことかと手を打つイリアに、ティオはますます眉をつり上げる。が、続くイリアの答えに拍子抜けした。

「それはな。間違えたんだよ。入るところを。私だって悪いと思っているが、あのときは流血で視界が悪かった上に意識も朦朧としていたから」

 言い訳を自覚したのだろう、尻すぼみになっていく声量にティオの気が抜ける。それに他に気になることもあった。

「僕に助けを求めて来たわけじゃなかったんだ?」

「そうなるね。結果的には助けられて、再三繰り返すように本当に感謝しているが、私が目指していたのは隣の肉屋だよ。あそこのおばちゃんは気の良い人で、迷惑を掛けやすいからね」

「……そっか」

 そっか。そうだったんだ。

 何か気になることがあるのか、繰り返し呟くティオにイリアは首を傾げる。

 だがそれを聞く前に、目的地に辿り着いてしまった。話をしながら歩いていたらいつの間にか、薬草店の前だったのだ。

「まあいいや。じゃ、僕はこの辺で。噂の話は助かったよ、あとでアーサー達に伝えとく。ありがとう」

 そう言って立ち去るティオを、イリアは首を傾げた体勢のまま、「うん」と一言で見送る。

 ――結局、薬草店が潰れることは伝えないままだった。

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