第2話

 遠目に見てもそれが誰なのかは分かっていた。体格と格好からして一目瞭然なのだ。というかまあティオに関して言えば知り合いが少なく、見てそうと分からない人物は居ない。

 それはさておき、ギルググ=ブルオルビスという男が居る。

 恰幅が良く、顔も身体も丸々としている男だ。口の上にちょんと乗っている髭に、叩けば跳ねて震えそうな腹に、姿勢良く手に持つ杖に、それぞれ愛嬌がある。服装に過度の装飾は無いがあまりにも小綺麗すぎる。身分を隠そうとしているわけではないのだ。

 彼は、領主である。

 このローン街という場所は流通の要所だ。国の二大都市の間に位置しており、人と物の通りが盛んである。そんな場所の管理を任される者が凡夫であるわけが無い。ギルググという男は見た目に反して賢人で、家柄も良いらしかった。

 商業区画の管理を行なっているのもこの男で、その関係でティオとは顔見知りだ。

 だからといって、和やかに挨拶を交わせるほど親しいわけでは無い。自分の店の前で護衛を連れて立っているギルググに、ティオは警戒心たっぷりに話し掛けた。

「お久しぶりですギルググさん。あの、何か?」

 困惑も露わに背後から話し掛けたティオの声に、ギルググは振り返った。首の肉がその動作に合わせて踊るのを見ると緊張が緩みそうになる。が、本当に気を緩めることが出来たのは初対面のときだけだった。彼の苛烈さは良く知っている。むしろ気を引き締めて掛からなければならない程には彼は妥協や誤魔化しといったものが通用せず、自らの目的に真剣である。

「やや。こんにちは。どうもどうも。こんな真っ昼間ですが、用がありましてね。留守みたいで困り果てていたところなんですが、いやちょうど良い」

 ギルググは破顔し、好意を示すように物腰柔らかにティオに対応した。

「エスビルさん。話があるのですが、中に入れて貰っても構いませんか?」

 だがそう問い掛けてくる彼に有無を言わせない何かがあるのはどうしてなのだろう。

 記憶の中のギルググがその裏に見えてしまうからだろうか。一体どういう場面だったのかは今でも分かっていないが、過去にギルググの恐ろしい所を目撃したことがある、泣いて縋り付く男との会話では無い会話。懇願されようと凄まれようと刃を向けられてさえも一切動じず、一方的な通告を――恐らくその男にとって致命的だったであろうそれを――、何度も何度も何度も何度も繰り返し、男が諦めるまで心折れるまで止めなかった姿。

 そのときも、今と同じ微笑みを湛えていた。

 だから嫌な予感がしている。自分もまた致命的な通告を受けるのではないかと、そんな不安が渦巻いている。

 ――果たしてその予感は、当たっていた。


 ☆


「結論から言ってしまいますと、今日はこの店の立ち退きを命令しに来ました」

 ギルググの吐いた言葉はそんなもので、あまりにも呆気ない、空砲めいた衝撃でティオを撃ち抜いた。

 だからティオはこう思ったし、それは思っただけでは無く言葉になって喉から零れ出ていた。

「……ああ、ついにこのときが来ちゃったか」

 と。

 アルトレはこのことを知っていたのだ。商会という立場上、傘下ではなくとも店の進退には詳しくなるだろう。ギルググから内密に話を聞いていたのかもしれない。得心がいってスッキリした部分もあった。

 だがまず心を占めているのは、現実感の無い、ふわふわとした浮遊感だった。

「おや、驚くほど表情が変わりませんね。まさか既に知っていらっしゃった?」

「いや、頭に入ってこないだけですよ。ははは」

「――同じような命令を何度かしてきましたが、こういうときに笑った方は初めてです」

 心底驚いたように、珍しく呆気にとられた表情をしているギルググが面白かった。そんな場合では無いというのに、どんな表情を浮かべたいのかが分からず、ティオは歪んだ笑みのままだ。

「や、なるほど。どうやら混乱している御様子。では順序立てて説明していきますので、その間に整理して頂きたい」

 整理。整理と言うがそれは何のことなのだろうか。気持ちの方か、それとも店の方か。そんなことさえ理解が上手くいかない程度にはティオは平静を失っていた。

 ティオの顔色をちらと伺い、ギルググはいくつかの書面を出して机に並べる。

「まず、私の計画から。私は領主としてこのローン街を治めるに当たって、いくつか夢と言いますか、目標を立てております。私にとっての街の理想像が、あるんですな。それをずっと目指しているのです。もうかなり目標に近付いているのですが、」

 その関連であろう書類ををずいと出してきたので受け取り、開く。が、今のティオには当然目が滑って読めなかった。

「いやはや、やはり難しいものがありまして。で、色々と改善をしているわけですな。その内の一つが、こちら。商業通りについての計画です」

「はあ」

「はい、この薬草店もある商業通りについてです。長距離の移動が生業の人々向けの冒険区画に、家具金具に衣類など様々な生活品を揃えた日用品区画、それに管理の難しい食料品区画ですね。や、管理が難しいというのはこっちの話ですが」

 ニコニコと笑みを浮かべながら矢継ぎ早に言葉を継ぐギルググは、見るからに手慣れていた。いつもこんなことをしているのだろうか、流れるように説明を続けていく辺りかなりの回数をこなしていてもおかしくは無い。

 紙の質も上等のようで、素材はティオには分からないが粗さが見当たらない。インクも滲んでおらず字も流麗で、ギルググが領主として懸命に働いているのが垣間見えた。

「それでですな。エスビルさんのこの薬草店が、とても

 だからこそ、容赦が無いのだが。

「切っ掛けは教会が寄付に対して返す施しとして、祝福を始めたことでしょう。神官による回復魔法ですな。あのころから目に見えて客が減ってしまったと聞いております。最近は肉屋さんと魚屋さんに卸している薬味ぐらいしか収入が無いのではありませんか」

 問いの体は為していたが、それは事実を突きつけているだけだった。手元に資料があり、そこにおおよその薬草店の売り上げが予測されていたのだ。頷くほか無かった。

「やはり。や、そもそも見た目からの印象では、これで店が成り立っているのが不思議なくらいでした。売り物もタダでは手に入りませんからね、普通は客足が遠のくとそもそも店として立ち行かなくなって独りでに潰れてしまうもの。そうならなかったのはエスビルさん貴方、仕入れの大半を個人でやってましたね?」

「ああ、そうですね」

 無遠慮な印象をあげつらわれながら、ティオはただ諾と首肯を返す。感情は麻痺しつつある。頭の後ろにはピリピリとした感覚を帯びていて、会話は機械的になっていた。

 所在なさげに膝に置かれた腕が震えている。悠々としているギルググとは対照的だ。表情だけが一致しているのがとても奇妙だった。

「仕入れなら確かに僕が一人でやっていました。こう見えても僕は、それなりに旅に慣れていますから。昔はその間に店を閉めると文句を言われてましたけど、最近は閉めても何の問題にもなりませんからね。はは」

 自嘲げに苦笑するティオに、ギルググは肩を竦める。

「そしてそのおかげで仕入れに掛かる費用は節約できている。だから店を畳まずとも過ごせているのでしょう。誇ることはあれ、卑下する必要はありませんよ。個人的には潰れてしまった方がこのような話し合いをせずに済んで楽だったんですがな」

 明け透けにそんなことを言ってのけるギルググの瞳は澄み切っていた。本心をそのまま隠さず、それを当然だと思っている目だ。

 ――羨ましいな。

 と、そうティオは思った。

 いくら打たれようと歪まない、しなやかな強さがそこにある。ギルググにも迷いというものがあるのだろうか。一つこれと決めた道を邁進する。そんな生き方をし続けているのではないか。

 ティオにあるのは、エリオットに与えられたものだけだ。薬草と魔物についての知識・人の助けになるようにという指針。それに従って生きてきた。

 エリオットは弱々しい人だった。だからいわゆる、強さというものとティオは縁が無い。縁が無いから憧れる。ティオはギルググに対して羨望めいた感情を持っている。

 しかし、そのギルググは今、何と言ったか。

「話し合い?」

 話し合い。何を話し合うのだろう。ギルググは命令しに来たと言ったはずだ。ならばこれは通告で、宣告なのであって、決して相互のやり取りでは無い。

 であるはずなのに、ギルググが首を振ったのは、縦にだ。横にでは無かった。

「はい。話し合いです。この場所を明け渡せというのは命令で間違いない。ですがな、エスビルさん。貴方もこのローン街の住民だ。その貴方を無碍むげになど、絶対に致しません」

 断言する。そこに躊躇は無く、一切の雑念が混じっていない。

 ギルググ=ブルオルビスは領主としての責任を背負ってこの場に居る。その場しのぎの言葉など口にしないだろう。目を見れば分かる、というやつだ。ティオはその双眸を見ながらギルググの言葉を疑えない。

 しかし本気で言っているにしても不思議だった。ここを立ち退かなければならないというのならば、それ以外に何を話し合うことがあるのだろう。そりゃ出て行け、ぽいーっで話を終わらせられてしまってはティオも困るが、必要なのは出て行くまでの期限や金の問題について程度だろう。

 無碍にしないというのはどういう意味なのか。どこに配慮の余地があるのか。

 訝しげに目を細めるティオからそんな疑惑の念を読み取ったのか、ギルググは首を振って続ける。

「や。そんな疑わずとも。これは貴方の人徳の為せる技でもあるのですよ。実はいくつか、この店の恩恵を受けている街の住民に挨拶に行ったんですがね。そのときに頼まれまして。エスビルさん、んん、ティオさんは良い人だから、何とか便宜を図ってくれと」

 ――予想だにしない、理由だった。

 一体誰が自分にそんな身に余る評価をしてくれているのか。頭にいくつかの顔が浮かんで漂う。この店に未だに来てくれている人は数少ない。彼らにはティオが感謝している側であるというのに、その上こんな恩まで貰ってしまって。恐縮か感謝か、ティオの身体は震えて波打った。

 それが誰か分かれば、一生頭が上がらないだろう。

「ですからこの店を閉めてからどうしたいのか、エスビルさんには考えておいて頂きたいんですよ。それと店を閉めるには色々と処分しなければならない物もあるでしょうが、どのぐらい待つべきか、その期間を今この場で決めておきたい」

 ギルググは言った。

 なるほど、無碍にしないとは、という意味なのだ。それをティオはその台詞から悟り、溜め息を噛み殺した。ティオには現在、薬草店しか無い。進むべき次などあるのならとっくに準備をしている。

 薬草店は終わりだ。続いてきた現在は終わりを告げた。ティオはこの先どうするのか決めなければならない。

「これから、何をして生きていくか……?」

「ええそうです。未来について」

 ギルググは相槌を返した。

「ですがな、そちらは今すぐ決められることではないでしょう。余裕が無いでしょうが、今は立ち退きの期限について考えてください。私の次の仕事が三時頃ですので、その三十分前までに」

「余命を自分で宣告しろと」

 キリキリとすべきこと・その期限で締め付けられて、思わず牽制のような悪態をついてしまった。そんな行動が気に食わなかったのか、我知らず睨みでも利かしてしまったのだろうか、彫像と化していた護衛が、ティオを威圧するように鍔鳴りの音を響かせる。

 店内の空気が張り詰めた。

 不穏な台詞に不穏な行動。一触即発とまでは行かずとも、心臓に悪い静寂が場を支配している。

 その中でさえギルググは自然体だ。自分で種をまいたティオも居心地の悪さを感じているこの場所で、外野のギルググが動じていない。彼の居る空間だけが独立しているかのようだ。あるいはそれは彼の外見の柔らかい雰囲気のせいでもあるのかもしれない。

「そういう言い方をするのであれば、。――や、余計な言葉でしたね。どうやら空気を悪くしてしまったようだ。仕方ない、この場で決めるのは諦めましょう。期限の方は近いうちに領主館か、あるいは使いを送りますのでそちらへ」

 流石に剣呑になったティオの目付きに気付き、ギルググは姿勢を正して話を終えに掛かった。このままだと諍いになるだけだと考えたのだろう。

「一人の方が考えも纏まるでしょう。詳しいことはこれを読んでください――エスビルさんは、字は読めましたか?」

「大丈夫です」

「それは幸い」

 渡された書類を受け取ると、ギルググは会釈をして早々に身支度を調える。

「では」

 見送るティオの瞳には色が無く、ギルググを見ているのかさえ判然としなかった。無論ギルググがそんなことに頓着するはずも無く、座ったままのティオに挨拶を済ませると、護衛と共に去って行く。

 残されたティオは一人だった。

 一人で、今し方聞いたばかりの現実を、ただただ噛みしめていた。


 ☆


 精神を落ち着ける効能のある薬草は、不人気商品である。

 全く売れない。だから一応という程度の数しか在庫が無かった。とはいえ一応、必要な環境的には保管は楽なのだ。他のもののついでで、全く持ち合わせが無いということは無い。

 ――ティオは今、その薬草をんでいた。

「おいしい。おいしいなぁ」

 そんな使い方をするものではない。本来は血気盛んな野郎共が集まる場所に、興奮を静める目的で、ものだ。乾燥させたものをいぶして、その煙を、香りを漂わせることで効果を発揮する香草。

 それをティオは食んでいる。

 一心不乱、だった。

 それこそ、闖入者に気付かないぐらいに。

「……何、やってんですかぁ?」

 声が掛かってようやく、ティオはその存在に気付いた。

 店に入ってきたそのままの姿だろう、扉から手が離れてさえいない、そんな中途半端な姿勢で女性が立ち尽くしている。

 目を細めて訝しむように、口を歪めて恐れるように、内心を一切隠さない小柄な女性。シャーラ=ネフィルアイス、という名のノイトワのパーティーメンバーが、彼女である。

 首元に巻いた毛皮に顎を埋め、動き難そうだが可愛らしい服を身に纏っている。怜悧な光を放つ眼鏡だけが彼女を知的に見せていた。

 ノイトワとは真逆、肉体では無く頭脳を働かせることが仕事のシャーラのパーティー内での役割は、魔法使いである。的確な判断と強き祈りを以て不可思議を為すもの。

 シャーラはティオを見ていた。その観察力に優れた瞳で、じっと彼を。

 その視線がずれ、机の上の紙を、食んでいる草を、順にそっと巡る。巡り巡る間に、瞳が揺れ、濃く沈んでいった。

 そうしてシャーラは言った。予想だにしない訪問に口の草を吐くことさえ忘れ呆然としているティオに、鋭く言葉を掛ける。

「馬鹿ですか」

 シャーラが足音を立てて近寄ってくる。その行動にはあまりにも躊躇が無く、遅延のあるティオの思考では追いつかなかった。シャーラが眼前に迫って初めて意識が現実を認識する。

「えっ、シャーラ? なんで」

「えっじゃあ」胸ぐらをむんずと掴まれ、「ないんですよっ!!」

 ぐっとティオはシャーラと目線の高さが合うところまで引き下ろされた。

 いや、シャーラは本当は引き倒したかったのだろう。払おうとして力が及ばなかった脚がティオのふくらはぎで止まっていて、悔しそうな目でティオを睨んでいる。彼女はいつもやけに獰猛で、上を取りたがるところがあった。

「なんですかその顔。ええ見れば事情は分かりますよ。その紙、領主の紋章がありますもんね。だからって、なっさけない顔。本当に馬鹿なんですかぁ?」

 ティオを射貫く眼光は鋭い。一切の逃げを許さない真っ正面からぶつけられる感情に、ティオは息を飲んだ。眼鏡越しに瞳の中でめらめらと燃えている思いが肌を焼くようだった。

 シャーラは、怒っている。

 憤怒の炎だ。赤く滾った怒気が溢れだしていた。こういうことはたまにあるから、ティオは一目見た瞬間にシャーラの感情に気付く。

 ――毎回思う。よくもそう怒れるものだと。

「諦めないで、くださいよ」

 その言葉は力強く、しかし弱々しく、ティオの意識を揺さぶった。

「そんな顔、見に来たんじゃないんです。せっかくアマから聞いて、それで。なんで」

 何を言っているのか、自分でも把握できていないのだろう。つっかえながら吐き出す言葉にシャーラ自身が振り回されているように見える。そしてそれはティオもだった。

 だから言った。ティオは言う。キッパリと、断じるように。

「ごめん。今、混乱してるんだ。一人にしてくれないかな」

 ――この場所はダメだ。一人気落ちしようと思っていたのに来客が入ってしまう。今日は異常に人の出入りが激しい。

 そう思ったティオは、硬直するシャーラの横を抜けて店を出て行った。自らの頼みに対する返事さえ待たずに、足早に去って行く。


 ☆


 夕闇がじわじわと浸食してくるこの時間。夜の帳が降りるに幾ばくも無いだろう。

 街からは段々と人が減っていっている。夜に出歩くのは危険だからだ。自宅に鍵を掛ける人々も多く、燭台に火を灯す準備を皆が始めている頃だった。

 ティオは街の門から脚を踏み出す。

 門番は咎めるような視線を向けるが、それがティオであると分かると無言で通した。ティオについては夜中に街を出て行くことも少なくないのだ。最初は事情を聞かれたこともあったが、今では警備の人員内で顔が知られているのだろう。一瞥だけはされるものの、実際に声を掛けてくるものは居ない。

 一人になれる場所として外を選んだのに理由は無かった。

 強いて言えば日が落ちた後の街では、友人以外の厄介に絡まれることが多いから、例え一人を邪魔されるにしてもそれが人間以外であるだろう、外の方が好ましかったのだ。

 街を出て、馬車の通りやすいよう均された道をひたすらに歩く。どこまで行くかは決めていなかった。考えることが嫌だ。景色の中に埋没したい。途中どこかで森に入るつもりでさえあった。木々に囲まれて座り込めばきっと、ティオなど埋もれて見えなくなってしまうだろう。

 森の中はティオにとって安らげる空間だった。

 一般的にはそこは危険だ。森は視界が悪く、野生動物や魔物、毒虫の危険に溢れている。普通の人間なら開拓されていない森林地帯などに足を踏み入れることなど考えもしないだろう。

 ――ティオとエリオットが出会った、長い間を共に過ごしていたその場所は、魔の森と呼ばれる地だった。

 魔物の絶対数は非常に少ない。一生巡り会わない人間も少なからず存在するほどに、希少と言っても良いのが魔物という存在だ。それでもは驚異として名高い。何故ならは、人間には理解の及ばない未知そのものであるから、――そう思われているからだ。

 生物の常識が通用しない。魔物は生きるために存在するものでは無いのだ。何のために存在するものなのか、その基本的性質がまず知られていない。

 人は未知に恐怖する。先の見えない暗がりが怖いのは当然だろう、そこには奈落があるかもしれない、そこには死神が居るかもしれない。だから怖い。人はそうやって未知に恐怖するように出来ていて、手の平に収まる世界で生きていくのが自然なのである。もしかしたらそこには幸せが待っているかもしれないのに、人間は完全な未知には期待せずに恐怖する。そこからシチューの芳醇な香りでも漂ってこない限りは、真っ暗闇には怯えてしまう。

 だから魔物は怖く、森は危険だとされていた。

 そしてだからこそ、ティオは森でこそ安らぎを得られるのだ。

 森は故郷だ。ティオ=エスビルはそこでエリオットに名を与えられ、生まれた。エリオットから貰ったものは薬草に関する知識だけでは無い。。何故か魔物についてたくさんのことを知っていたエリオットから、それがどういうものなのかをティオは教えられていた。

 魔物がどうして危険なのかをティオは知っている。森の中で何に気をつければ良いか分かっている。森で過ごすのに未知であるところなどほとんど存在し得ない。住み慣れた故郷と隣人に怯えることなどありはしないだろう。

 現在のティオにとって最も安らげる地とは、その森――街外れの森林だった。

 昨日までなら一番は薬草店だったのに。最高の居場所を失ってしまったティオに縋れるのは故郷の匂いを感じられる森だけとなっていたのだ。

 街からどれほど離れたのか、忘我の境地にあったティオにはもう分からない。日が落ち、時が経ち、月と星々だけがティオを照らしている。その導きから逃れるように、ティオは森に入った。

 ざくざくと落ち葉を踏み締める音が耳に心地良い。その自身の気配を隠そうとしない彼にどこかで野生が反応している。感覚でそれを悟ったティオは、懐かしさに小さく息を吐いた。

 そこらの木に背中を預け、服が汚れるのも構わず座り込む。ローン街の中では決して縁の無い、人っ子一人存在しない孤独な空間。ここは今のティオが求めてやまない環境で、ようやく落ち着ける場所まで来たティオは頭を働かせ始めた。

 まず、現状の認識から。

「薬草店は、おしまいだ」

 ギルググの通告を受けたから、では無い。問題はもっと前から起こっていた。切っ掛けは教会の祝福だろうが、それもまた本当にただの切っ掛けに過ぎない。恐らく根本的なところに問題があって、これが現在も続いているのだ。

 そもそも、薬草店の需要は未だ一部であれど残っている。生活に根付いた日常的な怪我や病気については教会に持っていかれてしまったが、教会が祝福を授けるのはそこを訪れるものにだけだ。外に旅立つもの、都市間を移動するもの、そういった人々にまで手が届くわけでは無い。

 持ち歩き可能な薬草は、生成した薬は、彼らの助けになるだろう。

 その需要があるはずの人々さえティオの店には来ないから、こんなことになってしまったのだが。

 客を寄せ付けない理由がどこかにあるのだろう。それをティオは自覚できていないが、明確に頭の中に貼り付いた絶望はどうしても意識してしまう。

 エリオの癒やし屋はおしまいだ。

 今となって覆る未来が見えない。

「ギルググさんが決めたんなら間違いないんだ。あの人は凄い人だ。残酷だけど優しくないわけじゃない。どうにかなるものを切り捨てたりしない。あの人に感謝している人の話をどれだけ聞いてきたんだ」

 呟きながら、湿気の多い土を指で摘まんで擦り落とす。あまり土の臭いに塗れると毒虫避けの効果が薄れるがそこまで考慮していられなかった。手慰みに何かをしていないと苦しかったから。

 落ち葉を一枚取り上げ、それを千切っていく。

「分かっている。おしまいだ。もうおしまいなんだ」

 自らに言い聞かせるような独り言だ。濁流が流れるように、同じ言葉を口から垂れ流していく。

 まず現状認識をする。そのまずから次へと進めない。事実を認めることは自殺行為に他ならなかった。それをしてしまうと死んでしまう。そんな得体の知れない忌避感が事実の理解を拒んでいる。零れる言葉は空虚で、そうだと認めたくない駄々が反発しているせいで、あまりにも軽い。

 だからといって薬草店を存続する方法が思いつくわけでは無い。

 袋小路だ、最初から。続かない。次に辿り着けない。

「次……次って」

 薬草以外にティオにあるものといえば、魔物の知識ぐらいだ。ならば魔物博士にでもなってしまえばと考えかけたが、その思考は淀んでいた。

 ――それは人の助けになるのか。

 エリオットが願っていたこと。思い出の鎖がティオを縛っている。

「僕は。何をやっているんだろう」

 強烈な自戒の念がふつふつと沸き上がってくる。内側からティオを破壊せしめようとせんばかりに力強く沸き上がってくる負の感情が、腹の中でわだかまっていた。自分自身を見失ってしまいそうなぐらいに悲哀と憤怒が渦巻いている。

「エリオット」知らずその名を呼ぶ。恩人、彼が全てを与えてくれた人だから、「エリオット、僕はどうすればいいんだ」

 ティオ=エスビルはその見た目よりずっと若い。半生の記憶が無い彼には年月の積み重ねが足りていないのだ。ティオはまだ大人では無く、そして導く親も居ない。

 全てが壊れていく。何かがティオの頭の奥でぷつんと途絶えてしまったようだ。

 道標が欲しかった。灯台の火か。羅針盤か。先導者か。何でも良かった。

 ぎりぎりと下唇に歯を立てながら、ティオは身勝手な救いを求める。それは子供のやり方だった。決して一人で生きてこれたものやることでは無い。

 ――だからそこに訪れたのは救いでは無かった。

 いや、あるいは救いだったのかもしれない。ティオの待ち望んだものだったのかもしれない。飛び込んできたのは唐突な危機だった。

 ティオは思考に埋没していて、辺りへの注意を怠っていたから、それは本当に唐突だった。予想だにしない出来事で、察知することさえ遅れた。

 人が、飛来する。

「――くっ」地面を転がり、すぐさま身を起こす。「そッ、が!」

 ここは森で、それは冒険者だった。呆然とする頭の代わりに本能が動く。ティオは旅と、そこで起こりうる危機に慣れていた。

 武器は無い。彼の持ち歩く装備は草木を刈り取るのにも扱える短剣だが、そんなものは今は持ってきていない。だからティオは立ち上がり、脚を出した。靴底は硬く、硬いものは武器だ。

 転がった冒険者を猛追する小さな影。その姿を確認するより先に蹴り飛ばす。石壁を蹴りつけたような重い反動が返り、脚が痺れる。が、構わずそのまま蹴り飛ばした。

 冒険者が隣に来て、小さな影がのっそりと起き上がる。

 冒険者――見知った顔だ。相も変わらずボロボロの、女性。昨晩知り合ったばかりの彼女は、イリア=ヨークス。

 イリアは襲われていた。襲っていたがティオとイリアの前に居る。膝にギリギリ届く程度の小柄な体躯。肉ではない何かで形作られたは、球体に脚が付いただけの奇天烈な外見をしていた。

 その上、脚に幾筋もの亀裂が走っている。その様相を一目見た瞬間、ティオは理解した。

「――崩壊寸前の、魔物」

 兆候は随所に見られている。魔物は危なげによろめいて、ふらふらと向ける頭を彷徨わせた。それをどこに向けたいのかを忘れかかっている。

 ちらりと横の人を一瞥してみた。

 イリアの顔色は真っ青だ。

「最悪だ。なんで。また迷惑を掛けてしまった。ぅぅぅぅぅ。呪われている。私は呪われているんだーッ!!」

 ぶつぶつと呟く彼女は幽鬼のようで、その苦悩がありありと表情に出ていた。こんなときでも無ければ滑稽だと笑えただろう。だがティオも悩みを抱えている真っ最中だった。心の余裕が無く、掛ける言葉も持たなかった。

 だが迫る危機には対応せざるを得ない。あるいは、戦うというのは。何も考えなくても済む上に、何か思いきり破壊したい気分だった。だからティオは構えた。八つ当たりをするのにちょうどいい相手が眼前に居る。

 魔物の脚が収縮する。

 亀裂の入った大腿部を膨れあがらせ、頭となる球体部分をティオとイリアに向けてくる。それは射出に入る体勢だ。撃鉄が下りる。発射寸前の弾丸が二人を見ていた。

「何故、こうなる……!」

 イリアのそんな呟きが合図になったのだろうか。

 魔物が地面を蹴り、跳んでくる。当たれば貫通しかねない、それは致命の一矢と言っていい速度だった。

 だからティオは笑った。ひりひりとした緊張がティオから思考を奪う。そうした危機をティオは諸手を挙げて歓迎した。

 ――今だけは煩わしいことを全て忘れられる。

 迎撃のために踏みしめた足に、今までに無い生き生きとした力強さがあった。

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