ローン街の魔物

針野六四六

第1話

 綿毛に包まれるような優しい感覚の夢に、ティオはその夢に溺れていた。水面をたゆたうような感覚がぼんやりと続いている。

 これは夢だ。それをティオはとうに悟っていた。首から下が白い影に隠れている青年、輪郭のはっきりしない木々、霞掛かった空。現実感が無い割に思考の方は霧が晴れたようで、奇妙に澄んだ頭でティオは夢を自覚していた。

 以前知り合いから聞いた噂が頭をぎる。

 『夢を見る原因は魔力にあるって話知ってますかぁ?』

 与太話の類でしかないそれが、どうにも忘れられない。この青年の――エリオットの夢を見るのは何度目だろうか。

 偶然というにはあまりにも、その回数は多かった。夢に見えるのは曖昧模糊な光景のみであれど、その青年の存在だけはしかと感じられる。出自の知れないティオを育ててくれた恩人である彼。

 エリオット=ミシェルという名は、ティオの記憶にしかと刻みつけられている。

 そも、エリオットに拾われたとき、ティオは記憶喪失に陥っていたのだ。エリオット=ミシェルはティオ=エスビルの始まりであり、原点である。彼がティオに名を与えて初めてティオは生まれた。ならば忘れられるはずも無いだろう。

 十五年ほど前だっただろうか。

 夢はその頃の記憶を投影していた。

 ぼやけた背景。エリオットの顔立ちさえハッキリとしない。だがそれでも間違いなく、それは過去を元にした夢なのだ。

 ぽんと頭に手が置かれ、エリオットの朗々と歌うような声が耳朶を打つ。何を言っていたのだろう。耳に届く言葉は不確かで、旋律としか感じられない。だがエリオットの手の平から伝わってくる温もりは確かだった。

 ティオ、と。エリオットが名を呼ぶ。君はティオ=エスビルだ、と。

 人として生きるんだよ。人として人のために生きるんだ。僕が出来なかったことを成し遂げておくれ。

 そうエリオットは詠っていた。

 ティオに向けての言葉なのに、それはまるで天に願うようにふわふわと浮き上がっていく。確実にティオの中に染みこんでいく願いは、だが他の様々なものへと向けられていた。

 過去、あるいは未来に、エリオットは恐らく理想を描いていた。でも何故かは分からないがそれを諦めていたのだろう。

 ティオは雰囲気から察していた。エリオットはもう諦めている。何かを諦めて、だからティオを拾ったのだ。戯れだったろうか、他に理由があったのだろうか。それは今でも分からないのだから、これから先もずっと分かる日は来ないに違いない。

 エリオットは溶けていく。

 自己の輪郭を留める意思を徐々に失っていくかのように、水になって土に還っていくみたいに、エリオットはどんどん溶けていった。

 形を失ったエリオットはだが消えていかない。命を留めているはずもないのに生き物みたいに蠢いている。それがどうしてかティオには愛しかった。

 両手を広げる。

 鎌首をもたげたエリオットだったものは、ふと、二度迷うように揺らめくと、ティオの中に飛び込んできた。

 ――いつも、そこで目が覚める。


 ☆


 ハッとして顔を上げると、そこは見慣れた自宅を兼ねた店舗だった。

 つんとした香りが覚醒を手伝う。土と草葉と薬の匂いだ。いつも嗅いでいる匂いに安心を覚える。ここがティオの城だ。

 薬草店、エリオの癒やし屋。

 その昔エリオットに何年も掛けて仕込まれた種々の薬草の知識が講じて始めた店だった。開業してすぐはそこそこ繁盛していたが、今はどうだ。閑古鳥が鳴き始めて幾星霜。今では客が訪れることなどほとんど無い。たまに人が訪れてもそれはティオの客で店の客では無い。そんな日々ばかりが続いていた。

 時代が変わったのだ。

 突っ伏して寝ていた机から席を離れて、ティオは一つの薬草を手に取る。

 エリオ草。適応できる環境に幅があり、どこにでも群生している。誰でも知っている傷薬の元となる薬草が、そのエリオ草という草なのだった。

 ――今ではほとんど使われていない遺物。

 回復魔法という技術の急速な発達が、世界から薬草の居場所を奪いつつある。特に影響を受けているのがエリオ草で、昔は貧乏な村の子供が小遣い稼ぎに毟っていたそれが、今ではただの雑草扱いだ。ちょっとした外傷程度なら教会へ行けば回復魔法で安価に治療して貰える。手間も要らないし治療に痛みを感じることも無い。それは技術の発展が生んだ当然の結末なのだった。

 エリオの癒やし屋が衰退したわけではない。世界が進んでしまっただけだ。ただ、それに置いてけぼりにされたものもあったという話で。

 どうにもやるせない気持ちに駆られて、ティオは溜め息を零した。

「ハァ……」

 吐き出した息を吸い、弱音を飲み込む。一人きりで愚痴など、益体も無いにもほどがあった。

 ――と、吸い込んだ息に慣れない空気が紛れている。

 閉鎖された薬草店は内部をそれ自体の色に染め上げていく。湿気は草花のために調整され、土と薬の匂いは独特で、強烈だ。外の空気を黄色とするなら店内のそれは真っ黒だろう。べたりと上塗りして元の色など無かったことにしてしまう濃厚な色彩。

 だからこそ、異物が混じると目立ってしまう。

「扉、開いてる……?」

 普段は自己概念を見失い壁として佇んでいる扉が、本来の役目に従って外への通路を開いていた。外気がティオの居場所をかき乱して内と外との環境を混合している。今ここはティオだけのための場所では無かった。

 来訪者は、地に伏している。

 ティオはそれを視界に入れた瞬間、目を見張った。

 傷だらけだ。頭部から血を流し、取り立てて特徴の無い革の装備をところどころ焦げ付かせている。散見される戦闘の跡に、ピクリともせず倒れたままという異常。

 悠長に眺めている余裕など見出せなかった。

「嘘だよね。いやぁ、ええ……?」

 我が眼を疑いながら、条件反射で身体は動き出していた。

 遠目にも見える裂傷と火傷。頭部には血止めが必要で、失血の量次第では無理矢理にでも増血薬を飲ませるべきだ。それにあの感じからすると打撲もあるだろう。優先順位は経験の中で染みついていた。最適な行動はパターンで覚えてある。ティオはいつの間にか手当てを始めていた。

 人を助ける。

 ここはそのための場所で、それはティオのやりたいことだった。だからティオは助ける。薬草店と、その店主。なるほど、この冒険者らしいボロボロの女性の選択は、きっと正しかったのだろう。

 ティオは納得すると同時に、不満も感じていた。

 ここは確かに適した場所だが、もっと適した場所が思い当たるからだ。

「こういう緊急の人こそ教会で、回復魔法だろうに……」

 理不尽さに文句を垂れ、しかし手を緩めたりは絶対にしない。消費した商品の対価を女性が払えるのかとは考えもしなかった。

 もしも彼女が無一文でも、ティオは一顧だにしなかっただろう。ティオ=エスビルとはそういう人間だった。


 ☆


「ーーーー本当に申し訳ない!」

 彼女が目覚めたのは翌日の昼前だった。太陽が中天に座すそんな心晴れやかな時間帯に、女性は地に頭を擦り付けて詫びている。

 女性が目が覚めて最初にしたのは、感謝と自己紹介だった。イリア=ヨークス。そう名乗った彼女はからりと笑いながら、ありがとうと告げてきたのだ。

 その表情が曇ったのは、ここが薬草店で、治療にそこそこの数の商品が使われたと知ったときだった。一眠りするだけで傷が治るはずも無い。なのに恐らくイリアは、ティオが寝床を貸してくれたのみだと思っていたのだろう。事実を知った彼女はちょっと面白い表情になっていた。

 ここは薬草店だというのか、と震える声で問うてきたイリアは、その声のまま続けた。私には金が無いのだと。奪われてしまったのだと。

「必ず、必ず料金は支払おう。身命に賭けて誓う。だがどのぐらい待たせるかは分からない。自分でこういうのも何だが、私は金を稼ぐのが下手でな。自慢させて貰おう。年中、極貧だ」

 ハハハハハとどこが可笑しいのか自分自身でも理解できていない笑い声に埋没している妙齢の女性に、我知らずティオは同情してしまった。

 目をぐるぐるにして乾いた笑い声を上げている彼女は身なりからしてもボロボロだ。皆まで言葉にしなくても理解できてしまおう。悲しみに囚われた彼女の生き様というものが。

 つい、ティオは常にも増して優しくなってしまった。

「良いよ別にいつでも。返してくれる気があるだけ嬉しい。どぶに捨てる覚悟をしてたからねこっちは」

「そう私はどぶのような女だ……。任せてくれ、死なない限り金は稼げる。出来るだけ急ぐから、待っていてくれ」

「誰が貴女をどぶと言ったか」

「私だ」

「確かにそうだけど、そうじゃなくてさ……?」

「というかイリアだ。イリアと呼んでくれ。貴女などとむず痒い。もしくはどぶでも良い」

「それは良くないと思うけど……。ま、分かった。イリアだね。そう呼ばせて貰うよ」

「ありがとう」

 奇妙な女性だった。

 それはさておき、イリアとの初対面はそれで終わった。

 金が用意でき次第また来ると言い残して稲妻のように去って行くイリアを見送ると、ティオは曖昧な笑みしか浮かべられない。あんなに印象の強い人と会うことはしばらく無かったのだ。どんな表情をしているべきか分からなかった。

 昨日今日と掛けて起こった出来事は現実だったのだろうか。

 ちょっと勢いが強すぎて押し流された気分である。ティオは流木の気持ちを知ってしまった。代わりに現実を忘れてしまったような気がする。夢現の中に取り込まれてしまったかのようだ。

 ティオはそうしてしばし呆然としていた。

 イリア=ヨークス。数週間は忘れられそうも無い名前が頭の中で反響する。

 住み慣れた薬草店。エリオの癒やし屋の扉の前で、彼女を見送ったままの体勢で過ごすこと数分。

 開いたままの扉から、今度は来客が見えた。ティオの胸に届くか届かないかの小さな影だ。視界に入った瞬間にそれがアルトレだと分かった。

「おーすティオ兄、元気かー。……なんだ、変な顔してんな?」

 ティオを見上げるつぶらな瞳。いつも腰に小さな木剣を携えている少年が開口一番そう言った。

 名のある商会の会長の子であるのがこのアルトレ=トーマで、会長に連れられて二年ほど前にこの街に来てからティオとの顔なじみだ。

「やあアルトレ、どうしたんだい?」

「それはこっちの台詞だよティオ兄。なんかあった?」

「あったにはあったけど……、そんなに変な顔してた?」

「ふかふかのベッドで寝てる父さんみたいな顔」

「なるほどね。で、何の用アルトレ?」

 良く分からなかったのでティオは話を変えることにした。

 事情を聞く前に露骨に切り上げられたからだろう、少年の口が不平の形に尖る。そうしていると年相応に見えるが、アルトレが見た目の割に大人びていることをティオは知っていた。父が商会の会頭という家庭のせいか、少年の行動にはいちいち理由がある。経験上、彼が何も無いのにティオを訪れることは無かった。

 だから気になってもいたのだ。アルトレがどうして朝からここを訪れたのか。その理由を知りたくて、ティオはアルトレの言葉を待った。

 が、

「へへへ、良いじゃん別に。たまにはさ。ちょっとここ居させてよ」

 アルトレは笑顔ではぐらかす。

 その愛想めいた笑みに一抹の寂寥がちらついているように見えて、ティオは眉を潜めた。何だろう、不思議なことに、少年のその仕草が可愛く見えた。普段は年齢にそぐわないアルトレの子供っぽさを発見したと感じたのだ。

 ついついティオも普段はやらない行動をしてしまう。まるで親戚か何かみたいにくしゃくしゃと少年の髪を掻き回して、自然と笑みを浮かべた。

「そうかそうか。うんうん、たまには良いよね。ねー」

「撫でんなバカっ! うっとうしい!」

 慌てて払いのけるアルトレの頬が赤い。子供扱いされ慣れていないのだろう。子供としてはおかしい話だが、それはきっと間違いないのだろうとティオは思った。

 子供が子供扱いされないとは、寂しいことだ。

 だがアルトレはこうして健やかに育っている。彼には笑うだけの強さが、力がある。少年の表に出ない弱さを見られる程の仲に、ティオはなりたいと願っていた。二年経っても踏み込めない領域への憧れだ。

 年端もいかない少年をティオは尊敬していた。だからだ、ティオはアルトレの臆病に気付けなかった。笑顔を交わし、じゃれ合い、戯れる。

 そうして、貴重な機会は失われた。もう一人の来客が現れて、意識の方向が完全に外れてしまったのだ。

「おるかーティオ。邪魔するぞー」

 屈まなければ扉を潜れない巨体。禿頭の男がのっしりと入店した。

 一人だ。一人だから、彼は客では無かった。彼が客である場合、だいたい四人全員でやってくる。男はある冒険者パーティの一員であり、見た目通りの戦士だ。トゲトゲの金属球が先端に付いたメイスが武器で、その肉体も鋼の如く鍛え上げられている。

 盛り上がる筋肉と、所々に走る傷跡が、まるで鱗のようにその肉体を覆っている。街の中だからだろう、ゆったりと毛皮を巻き付けたような衣装で巨躯を隠しているが、腕や首、足元を見ただけでその肉の鎧の厚さと傷跡の多さが窺えた。

 威圧感が凄まじい。彼が居るだけで重力が増したような錯覚さえ覚える。が、ティオはもう慣れてしまっていた。

「やあノイトワ。一人で来るなんて、ついに皆に捨てられた?」

「縁起の悪いことを言うでないわ」

「冗談だよ。彼らは優し過ぎる人達だからね、お荷物だろうと捨てられないさ」

「相変わらず毒の強い」

「君にだけだよ親友」

 ふん、とノイトワ=アマは鼻を鳴らす。気に食わなそうだった。

 どうしてこうなったのか、今では閑散としていた店内に二人もティオ以外の人が居る。しかも両方が客では無いようだ。当然のように挨拶を交わしながら店内を彷徨き出す少年と巨漢をティオは呆然と眺めていた。

 本当に二人は何をしに来たのだろうか。

 昨日の夜に続いて、今日も妙なことになっている。昨日助けた女性は妙なことを口走って去っていき、入れ替わりに二人も人が訪ねてきた。普段は誰も来ないばかりにその異常さは際立つ。ティオの人付き合いの輪は非常に狭いのだ。二人も揃えば全体の二割を超える。つまり交流のある相手が両手の数に収まってしまうのだ。そんな状況では生きていけないのが普通である。生活必需品を手に入れる伝手の分だけでその程度は越えるのが一般人というものだった。ティオは普通では無い。

 そんなティオと仲良くなれるのもまた変な奴らが多かった。同族にのみ伝わる臭いか何かでもあるのだろうか、それはノイトワとアルトレも同じである。

 肘をつくティオの眼前で二人が会話をしていた。

 対等で、気さくに言葉を交わす。年齢を考えても体格を比べても二回りは違うというのに、互いに年齢の差を意識しない立ち振る舞い。それだけでも相当に奇妙な絵面だ。

 と、ティオが眺めていたら、話が一区切りついたのかノイトワがティオを向いて言った。

「昼飯はまだであろう? 食べに行くぞティオよ」

「え、いや、店は」

「閉めろ」

 一旦閉めた。


 ☆


 途中アルトレが商会に寄って言伝ことづてを頼んだ。

 一言だけだ。それで済んでしまった。昼飯は食べて帰る。

 聞けば、家族での食事など滅多に無いのだそうだ。深く立ち入らずともアルトレの態度がその異常さを示していた。少年の家庭環境は触れる度に空気が重くなる冷たさがある。だからいつも通りにノイトワが飯の話題に切り替え、ティオがそれに乗った。

 普段ならそのまま歓談に入るはずが、アルトレが少し寂しげに間を空けたのはどうしてだったろう。

 気を遣ってかどうか、昼飯は少年の希望に添ってパンがメインの店に決まった。

 石窯と煙突がトレードマークの食事処。そこからはいつも香ばしいパンの香りが漂っていて、食事時に前を通り掛かると財布の紐が緩むと評判の人気店だ。たまに窯の調整やら材料不足で店を閉めようものならこの街の何割かの人間は確実に機嫌が悪くなるというほどに。

 幸い昼食にはまだ少し早い。問題無く席は取れた。

 思い思いに注文を済ませると、三人で顔を向かい合わせる。特徴の無い優男と、迫力たっぷりの巨漢に、背筋の伸びた少年。端から見ても兄弟には思えないだろう。だが三人はそれが自然であるように、馴染んでいた。狭い世間だ。ティオの友人達が仲違いするのは見たことが無いし、その中でもこの二人は特に親しかった。

「しかしこうやって揃うのは久しぶりだね」

 注文が届くまでに間があるのでティオが雑談を始める。

「おお、そうだったか」

「おれが忙しかったから」

 そう言ったのはアルトレだ。年齢を考えると空恐ろしいが、既に彼は立派に仕事をしている。親から下りてくるものとは言え仕事は仕事だ。こういうところが彼を無理矢理成熟させてしまったのだろう。

「儂は儂で遠征に出ておったからの。一月振りか?」

「だね」

「おれは三月ぐらいだけど」

「左様か。それは寂しかったなティオ。泣かずに過ごせたか?」

 それは、何気ない問い掛けだった。

 軽口のつもりだっただろう。笑い飛ばして終わりの、舌を軽くするための方便のようなもの。それがティオの喉を詰まらせた。

 最近の日々を思い出す。何をしていても頭の隅を占めている、薬草店の現状。

「寂しかったよ」

 つい本音が口を衝いて出た。

 慌てて取り繕うように笑みを浮かべる。それが歪んでいない自信は全く無かったが、それでもだ。

「良い毒草が手に入ったんだけどね、試す相手が居なくてつまらなかったから」

 表情さえ完璧ならば、いつも通りの冗談のはず。が、しかしそれはやはり言い訳や取り繕いの意味合いが強すぎた。

 だからだろう、二人の表情が痛ましげなものに変わる。アルトレにさえ、心配そうな表情をさせてしまった。

「ティオ兄、おれ知ってるよ。お店――」

「お待たせしました」

 そのとき、料理が運ばれてきた。

 チーズの乗った焼き立てのパンに、骨付きの鶏肉が豪勢に突っ込まれたシチューと添えられたサラダ。どろりとパンの上に広がるチーズは見るからに美味そうだ。散らされた香草がスッキリと食欲をそそる匂いを放っている。シチューは鶏肉にしっかりと絡んでいて視線を吸い寄せた。

「美味しそうだね、食べようか」

 これ幸いとティオは話の流れを断ち切り、二人を促す。

 まだ早いはずが、こうして美味しそうな料理を目の前にすると腹も空いてくるものだ。誰も言葉を続けず、それぞれが食事に取りかかり始めた。

 美味しい料理には気持ちを晴れやかにする力がある。

 しっかりシチューの染み込んだ肉も美しく盛られたサラダも、どれもこれも素晴らしい。特にここの名物のパンは香りからして空腹感を煽るものがあった。

 落ち込みかけていたティオも少し気分が上向きになる。すると全ては気の持ちようというのか、視界まで広くなった。鼻腔を擽る焼き立てパンの香りもより芳醇に感じられる。先行き不安なのは変わりないが未来まで明るくなったようだ。

 そうして初めて気が付くこともあって。

「あれ? アルトレ綺麗な服着てるね」

 そうして、少年が常にも増して上等な衣装に身を包んでいるのがやっとティオにも見えた。

 アルトレの父が運営する商会はそこそこ名のあるものだ。その商会――トラ商会と言えばこの街どころか、この国単位で見てもほとんどの人間が知っているほどである。

 だからそこの子息であるアルトレはいつもそこそこ良い服を着ている。そこら辺の普通の子供とは見た目からして違うのだ。それは普段着のときでさえ例外では無い。

 だが今日は式典に出ても問題無いような、ピシリとした服装なのだ。こんな食堂に来て良かったのかと目を疑う、そういうもの。かなり浮いていた。

「――ああ、これね」

 アルトレは忌々しそうに自身を見ながら答えた。

「おれ、このあと挨拶回りがあるから」

 吐き捨てるように言うと、屑が零れるのも構わずパンにかぶりつく。いや、わざと零しているようにさえ見える。

 まるで表立って反抗できないから、こうやって年相応の抵抗をしているみたいに。それはとてもとても子供じみた仕草だった。

「ふむ。おぬしらの真面目くさった顔を見ていると飲みたくなってくるの。どうだ二人とも、気付けに一杯やらんか?」

「僕にはそういうの無意味だってば。てか子供に酒を勧めるなよ」

「そんなことより仕事前だし」

「かーっ、つまらんのぉ! 特におぬしらは酩酊した方が良いだろうに。頭で考えたことなんぞ信用ならんからな。阿呆になれ阿呆に。ほれほれ」

 不満げに唸るノイトワに二人共がぐわんぐわんと肩を揺らされる。既に酔っているのではと一瞬疑ったが飲んでいるのは水だった。そもそもここは酒を出してくれない。

「シャーラが聞けば燃やされそうな台詞だね。遠征で頭打ってきたのかいノイトワ?」

「儂は肉体で動いとるからの。頭など関係ないわ。しかしお主の減らず口は……酒をいくら飲んでも全く変化無いからのう、どうにかならんのか」

「君の脳筋がどうしようもないのと同じさ。体質だよ」

 そうして会話をしながら食事をしていると、いつのまにか空になっていた。良く見たらノイトワもとっくに食べ終えていて、まだ残っているのはアルトレの手元だけだ。

 アルトレはもくもくと料理に舌鼓を打ち始めていた。どうやら発言するのをやめたらしい。そこに不満げな気配は無く、耳に届く会話を淡々と楽しんでいるように見える。

 だから気にせず、ノイトワと喋り続けた。

「ところでノイトワ、店に来たのは食事の誘いのためだったの?」

「おお、そういえば、」

 問い掛けると、ノイトワはぽんと手を打った。

「使いっ走りよ、儂はの。なんぞお主に手伝って欲しいことがあるらしく、そのお願いをな。しに来たわけよ。どうだ、受けてくれるか?」

「僕に出来ることなら構わないけど、内容は? 普通先に言うでしょ」

 呆れたように苦言を呈しながら、しかしティオは拒否する気配は滲ませていない。言葉通りなのだ。受けられる内容なら受ける。それは内容を聞く前に決まっていることだった。

 ノイトワは渋面で、勿体ぶったわけではないという風に首を振る。その口が重い。言い淀んでいるようだ。

 実際、ようやく飛び出した言葉もノイトワ自身の疑問が色濃く混ざった、要領を得ないものだった。

「それがの。噂話の調査? なのだが。その噂というのが、火の玉がな、宵の街中を飛んでいるらしい。正式に依頼が出ているわけではないものの気になるのでアーサーらが自主的に調査したいと。が、街は広い。人手が足らん。そこでお主の手助けを借りたい。そういうことだ、わかるであろう?」

「なるほどね。どうやって調査するのか良く分からないけど、いいよ。手伝う。でもそれ、いつなの?」

「来週だ」

「分かった。来週の夜だね、空けとくよ。あとでカンテラの燃料に使えそうなのをいくつか見繕っとこうか? 必要じゃない?」

「どうだろうの。探すのが火の玉だから、光源は魔法に頼るのではないか? まあその辺りはに確認しておこう」

「了解。いやしかし、火の玉、ねえ」

「なんぞ気になることでもあるのか?」

 ぼやくように零すティオに、ノイトワが問い掛ける。

 ふうむ、と顎を指で挟んで、ティオは答えた。

「昨日の夜ね、妙な人が店先に転がり込んできてさ。結構な負傷者だったから手当てしたんだけど、そういえば結構、火傷が多かったなって思ってさ」

「ん、もしかしてそれでティオ兄変な顔してたの。ほらさっき」

「噂に関係あるやもしれんな。どれ、最初から話してみい」

 視線がティオに集まり、思わぬことで話題の中心に上ってしまった。仕方なくティオは昨晩のことを思い出そうと頭を回転させながら、とりあえずと立ち上がる。

 机の上にはもう料理が残っていない。そこそこ時間も経ち、店も混雑し始めたのだ。

「じゃあ歩きながら話そうか。二人共、手持ちは?」


 ☆


 真っ昼間の街道は活気に溢れている。気を抜けば飲み込まれそうな雑踏が通りを埋め尽くしていて、三人が固まって人とぶつからずに歩くのは困難どころの話ではなかった。

 夜なら誰も居ない道だというのに、この昼夜の差異ときたら。見る度にティオは不思議に思う。夜道を歩く人影などほとんどない。あったとしても集団で、その中には必ず大人の男か、戦い慣れた人間が混じっている。それが夜の街の姿で、その程度には危険に溢れているのがこの街なのだ。

 だが昼間、この時間は明るい。ただ太陽が照っているという意味ではなかった。それは人の放つ明るさだ。家族連れから漏れる弾んだ声や、親方の怒号、客引きの大袈裟な宣伝。地を蹴る足音も力強く、あるいは跳ねるようで、その内の感情は様々であれ、それこそが街を包む人々の陽気であった。

 道を広がって歩く影も多い。家族連れや恋人、仕事仲間や友人など。沢山の小さな群れが蠢いているのだ。当然その全てを避けるのは不可能。スリの危険もある。昼とは違う意味でただ歩くのにも気を遣うのがこの時間だった。

 とはいえ声の通る範囲に居続けるのには支障はない。会話は出来る程度ではあった。

「なんというか、気の毒な人だったよ。煤けて傷だらけってだけじゃなくて、朝にちょっとだけ会話した印象からしても、望まない苦労をしていそうな感じだった」

 心なしかいつもより口を大きく動かしてハキハキと、ティオがそう会話を続ける。

 昨晩から今朝までの顛末について言い終えてからの言葉だ。相槌を打ちつつ聞いていた二人に向ける最後の説明である。そうしてティオは二人の言葉を待った。

 脚の向かう先はティオの店だ。だが、アルトレは商会が見えてくれば離脱するだろうし、ノイトワも店まではついてこないらしい。

 自然と全員が少し早口で、声も大きめだった。

「ほう。不幸故にボロボロで、冒険者で、女か。その特徴には心当たりがあるの」

「知り合いなの? イリアって名乗ってたんだけど」

「いや、見聞きしたことがあるだけだな。恐らくソロの冒険者で、とにかく魔物と縁があると有名な女であろう。たまに噂で聞く程度で……いや、フォアとアーサーの奴は面識があると言っておったな。火の玉の噂と関係あるかは知らんがこちらでも接触してみよう。なに、人柄は好評な人物だと聞く。使った薬草の料金が踏み倒されることは無かろうて」

「そっか、じゃあまた次に会ったときにね。来週になるかな?」

「だの。任せておけ。では後日の。急ぎの用があればまた店に顔を出そう」

「はーい」

 そう言い残して、意外なことに先にノイトワがせかせかと歩き去っていった。

 後に居るのはアルトレ少年とティオの二人だけである。とは言え商会が近い。さほど間も無く、こうして無言のまま別れることになりそうであった。そうティオは思っていた。

 が、袖を引かれて立ち止まる。

「……?」

 何だろうと振り向いてみると、俯いたアルトレがティオを引き留めていた。

 往来のど真ん中だ。立ち往生しているだけで邪魔になる。二大都市の狭間に位置するこの街は行商などの移動に忙しい人々が沢山通っていくのだ。そんなことも構わず、アルトレは躊躇うようにティオの袖を揺らしていた。

「どうしたの? アルトレ」

 問い掛けてようやく、沈黙したままのアルトレの顔が上がる。下唇を噛み、今にも出て行きそうな言葉を閉じ込めているかのようだ。実際そうなのだろう、言いたいことと言ってはいけないことがせめぎ合っている。

 だが、アルトレは言った。

「ねえティオ兄。おれ、きな臭い噂を聞いたんだ」すう、と息を吸って、続ける。「お店、大丈夫?」

 含みのある、質問だった。ただの雑談とするには声が重すぎた。脳裏を過ぎるのは昨日の、いや、ここ最近ずっと続く店内の寂しい光景。回復魔法が台頭し始めてから恒例となってしまった独りぼっち。ティオの居場所は変わってしまった。誰の助けにもなれない薬草店など置物に過ぎないのだ。

 分かり切った事実である。だからこそ聞かれたのだろう。ティオは言葉にして、自覚しなければならない。だからこの少年らしくない少年は、そんな問い掛けめいていない問いを投げかけてきたに違いない。

 そんな彼へとティオは、殊更に明るく笑って見せた。

「大丈夫じゃない。大変だよ。客は来ないし、ただ働きはさせられるし。隣のお肉屋さんとかが香辛料や薬味を買いに来るぐらいだから。もう、あの店を必要としてる人なんて居ないんじゃないかってぐらいに」

 声は軽く、表情は笑みである。ティオは自分自身でもどうしてそんなちぐはぐになっているのかは分からなかった。

 頭の後ろがじくじくと疼いている。薬草の知識と、人の助けになってほしいという願い。それはエリオットから受け取った大事なもので、当然ティオにとっても大事なものだったのだ。

 ――だがもう、薬草では十分に人を助けられないのかもしれない。

 脳裏に貼り付いているがらんどうとした店内の空気は、その象徴なのだろう。日銭が稼げないなどということは問題では無いのだ。ティオの不安は、これからの展望を見失いかけていることにある。

 薬草店という生き方はエリオットから与えられたものだった。

 その喪失が恐ろしい。どうすればいいのかが分からなくなってしまいそうなのだ。

「もう、ダメなのかもしれないね」

 悲観的な言葉が口を衝く。口元では弧を描いているが、こんなものは笑顔とは呼べなかった。落ち着かない内心が溢れ出している。

 ティオ以上にアルトレの方が悲しそうな表情をしていた。落ち着いて、冷静に、胸を痛めてくれている。彼は大商会の中心に居る人間だ。きっとティオの店について色々と聞いているのだろう。あるいは店主であるティオよりも現状を把握している可能性さえある。

「そっか。やっぱり……」

 袖から手が離れる。声は小さく、だけど澄んでいた。人波の音に掻き消されない程度に。

「ね。うちの商会に入って、行商をしない?」

 そう言ってティオを見上げるアルトレの瞳は、真摯だ。断られるかもしれない懸念と受けてくれることを願う期待を、その両方をしっかりと織り込んだ上でティオの返事を待っている。

 身に余る勧誘だ。ティオにはトラ商会に入れるような実績が無い。そうと知っているであろうアルトレが、ティオがもしも頷いてしまったら起こるだろう厄介事を踏まえた上で誘ってくれている。

 その気遣いが本当に嬉しかった。

「ありがとうアルトレ」先程とは違って本心からの笑顔を浮かべる。「嬉しいよ」

「ティオ兄……」

 まず感謝から入ったことから、勘の良いアルトレは察してしまったのだろう。口元を綻ばせるのはティオばかりでアルトレは逆に傷付いたような表情をする。

「でもね。やっぱり、この街でダメならどこへ行こうと一緒だと思うんだよ。回復魔法はきっとどこにでも普及するんだろうし。ここで店を続けるか、やっていけなくなるか。そのどっちかだよ。せっかくの誘いだけど商会に入るつもりは無いんだ。ここでだめならそれまでだと思ってるから」

「……そーか。そーかよ馬鹿っ!」

 言い切ると、アルトレに腹を叩かれた。少年の力ではあるが、アルトレはかなり鍛えている。普通に痛かった。

 そしてそのまま腹に手の平を押し付けられた奇妙な状態で、会話が続く。

「……でもさ、あのさ。まだなんだったらもうすぐ来ると思うんだ」

「ん? 来るって何が」

「信用に関わるからそれは言えないんだけど。でもさ。だからさ、困ったら頼ってくれよ」

「そっか。よく分からないけど分かったよ」

「うん」

 何のことだかは分からなくとも気持ちは伝わった。お腹に触れっぱなしの手の平から熱を感じる。それにはきっと優しさとか思いやりみたいな、照れくさくて恥ずかしい名前が付いている。

「じゃあおれ、行くから」

「仕事だもんね。頑張れ」

「うん。頑張ってくる」

 それで満足したのか、アルトレは商会に戻っていった。人のことは袖まで掴んで引き留めていたくせに自分が去るときは躊躇が無い。さっと人混みに埋もれて消えた。

 さて、と一人呟いて。

 ティオも店へと帰っていく。いまや自分のためだけになってしまった自分の居場所に。

 ――そこにアルトレの懸念していたものが待っているとも知らず。

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