第1話 献身の巫女と天の御遣い
双子の月を持つ、その惑星にも朝は平等に訪れる。
恒星の周りを回る惑星が自転を続け、その惑星の上で生き暮らすならば。
それは、人間に対しても、あるいは亜人に対しても。魔物であっても、竜神であっても。
あるいは、
「ティル様。ティルヴィシェーナ様。朝ですよ。起きてくださいませ」
「…………おきたくない、です」
天蓋があしらわれた豪奢なベッドの上でうずくまる少女に対しても、やはり朝日は平等に降り注ぐのだ。
「今朝もティル様宛の書簡がたくさん届いておりますよ。謁見のお時間までに読み終わらなくては――」
「……わかってますよぅレファぁ」
侍女のレファの長々とした説教が始まりそうだと悟った少女は、寝ぼけた声でしぶしぶ了承の声を上げながら身を起こす。
普段の凛とした姿とはまるで別人のようでいて、しかしティルヴィシェーナと呼ばれた彼女は、確かに人目を引くであろう美貌であることは容易に見て取れた。
あらぬ方向に絡まり跳ねてはいるが、抜けるような銀髪。
眠たげな半目であるが、海を写しとったような紺碧の瞳。
頬に幼げな丸みを残しながら、小さくもスラっと整った鼻立ち。
気だるそうな姿勢にしわだらけのネグリジェ越しにも、ほっそりとした手足と、余計な肉のない美しい身体のラインが見て取れる。
「まったく。“献身の巫女”たる貴女様がそうでは、全く示しがつきませんわよ」
「ふぁい、まったくでふ……」
その姿に小言をぶつくさと述べながら、茶髪の侍女はてきぱきと少女の身支度を整えてゆく。
ティルの寝起きが悪いのはいつものこと。故に彼女専属の侍女たるレファの手際も手慣れたものだ。
少女の銀髪の癖を知り尽くしたレファの鮮やかな櫛捌きは、絡まった髪をするすると解いていく。
髪を整えられる心地よさに、しかしティルの表情は晴れない。
「……ねぇ、レファ?」
「はい?」
「今日の書簡もまた“魔竜”の件ばかりなのでしょうか」
「それは……」
“魔竜”――それは、約何百年ぶりに、彼女たちの住まう“アルフ・ルドラッド帝国”の帝都近海に出現した竜のこと。
蛇型の竜神種、“海の魔竜”エシャ・クァヴァルラは、現れるやいなや、その常識はずれの巨体をもって交易船を片端から食い荒らした。
その後、交易船がまばらになれば、近海で漁をする小舟すらも容赦なく食らった。
交易と漁業は帝国の主要産業。すぐさま海軍が討伐に向かったが……聖導騎士団を乗せた軍艦すらも、魔竜は一隻残らず食い尽くしてしまったと言う。
そして、海に出る船がなくなったにもかかわらず、魔竜は今も帝都近海にその身を漂わせている。
「書簡には、悲嘆と絶望がこれでもかというほど書き綴られて、――決まって皆、最後にこう書くんです。“どうか、献身の巫女様の御威光で魔竜を打ち払ってください”と」
「ティル様……」
「そう書かれても、私には何もできません。皇帝陛下や枢機卿たちのように権力もなければ、聖導騎士のような武力もない」
「ですが、相談を受けるということは、人々の心の支えになれているということ。それだけでも、ティル様は立派に巫女としての役目を果たされていますよ」
「…………」
そうだ、ということもティルは頭では理解している。
書簡や謁見を通じて人々の相談を受けること。お飾りとはいえ、しかるべき地位にいる人間が言葉を聞き届けるだけでも彼らの不安や不満は和らぐのだろう。
けれど、
……助けを請われ、本当に何かできたことが、幾つあったでしょうか。
“献身の巫女”に集まる案件は、今すぐどうこうできないもの――つまり、政府に断られたような、特に解決困難なものが多い。
本人たちもそれは理解していて――けれども心の収まりが聞かないから、神託を降ろす、もっとも神聖なるものに近い存在に頼むだけ頼んでみよう、そんなものが多く寄せられる。
故にそれらは論理的な要求ではなく、感情的な鬱屈が多くを占め――故に、素直で優しく、巫女として真っ直ぐに育ったティルの心を蝕む。
人々の懇願は、ティルに同じ苦しみや悩みをもたらし、助けてあげたい。どうにかしてあげたいと思いを呼び起こして――しかしティルは結局何もできない。
ティルはそのたびに無力感に苛まれ、仕事から逃げ出したくなるのだ。
「レファ」
「なんでしょう?」
呼びかけると、ティルは頭を傾け、後ろで髪を整えていたレファの身体に預けた。
心地よい柔らかさを感じ、ティルはまぶたを閉じる。
「ティル様。これでは髪をとけませんよ」
「少しだけ。……いいですよね?」
「まったく。いくつになっても仕方のない方なんですから……」
困ったようでいて、愛おしさを感じさせる声。
そしてまた、今日も一日が始まる。
*
「では、書簡をお持ちします。少々お待ちくださいませ」
ティルの正装を整え終えたレファは、そう言って一礼して部屋を出て行った。
次にドアが空いた時には山盛りの羊皮紙の山が届くのだろう……そう思うとティルはため息を抑えられずにいた。
「……考えていても仕方ありませんよね」
ひとまずそれらのことは思考から追い出して、ティルは静かに壁際に右手をかざす。
“大地の御遣い”に呼びかけるように、意思を“そちら側”へ向け、
「……“ラホート”」
言葉を放つ。
すると、外に面した壁の全面がティルの視覚から消失し、代わって外の景色が視界の全面に広がった。
青空と石造りの街並み、入江の港が一気にティルの碧い瞳に飛び込んでくる。
――これは、“大地の御遣い”に仕え、その力を操るものが成せる奇跡の術。
外が見えないこの部屋で、ティルが外の景色を眺めるため、自身で編み出した術の一つだった。
眼下に広がる街は“帝都ヴィルマニカ”と呼ばれている、彼女たちの国の都。
ティルの立つ場所はその中央にあたるヴィルマニカ城。皇帝の居城にして、政治と軍事の中枢だ。
そこを起点に放射状に広がる大通りに沿って民家や商店が立ち並び、陸地側の果てには石造りの城壁が、海側には複雑な入り江を天然の要害とした港を構えているのが見て取れる。
だが、普段なら荷揚げなどで騒がしいはずの港の側には、不気味なほど動きが見えない。
係留されているはずの船も明らかに少なく、人の往来もまばら。
……魔竜のせい、ですよね。
ここ数週間でめっきり寂れてしまった港に、ティルは無力感を感じてまた大きくため息を付いてしまう。
そんな街の姿を悲しげに見つめると、ティルは次に空へと目を向ける。
しかし、
「今日も、来られません、か……」
白い雲が昨日より多く覆う青い空は、普段通りの姿をもって悠々とそこにあるばかり。何かが起こるような予兆などはさっぱり見受けられない。
その様子に、ティルは一つため息。
そして、空を見上げて祈るように想う。
……天の御遣い様。どうか早く私を連れて行ってください。
半月前の神託を受けてから、彼女は日に日にその思いを強くしていた。
『大いなるもの、まもなく降臨し、その姿を現さん』
その神託を、ティルは神話にある“天の御遣い”の再臨と解釈していた。
古くから伝わる帝国の建国伝説では、生贄を代償に“天の御遣い”がこの地の平定を行い、“大地の御遣い”が建国の七人へ力を貸して建国が成ったという。
その後、“大地の御遣い”は今も帝国の指導者たちに奇跡の力を与え続けているが、“天の御遣い”は去り、それ以来姿を見せたことはない。
しかし、次なる国難には天の御遣いはいずれ再臨すると信じられ、その時に救国の代償として捧げられるべき生贄として、現在でも“献身の巫女”が選ばれ続けている。
長く捧げるべき対象が現れず、今は神託と御用聞きをやっているが――あくまで“献身の巫女”本来の役目とは“天の御遣い”へ捧げられること。
ならば。
……自らが生贄になることで、“天の御遣い”がこの国を救ってくれるのなら。
連れて行かれるなり、食べられるなり、あの世へ行くなりして、そうすることで、自分のもとに寄せられる嘆願が叶えられるなら。
役立たずの自分が、少しでも彼らの役に立てるなら、どんなに素晴らしいことだろう――と。
……だからどうか、天の御遣いよ。
だからティルはここ数日、こうして日課のように空を見ていた。
神話に語られた、天の御遣いが降りてこないか、と。
神話のように、自分を生贄に連れ去り、代わりに人々の悩み苦しみの一切を救ってくれないかと。
そんな思いとともに、少女が見上げた空。碧い瞳の先。
――雲を裂いて、それはついに現れた。
*
轟音とともに、黒い影が帝都をよぎる。
巨大な柱のようにも見えるそれは、ゆっくりと、しかし見た目以上の速度を伴って、
周囲の空気を震わせながら、落ちてくる。
それを、
貴族も、庶民も、商人も、職人も、漁師も、農夫も、
献身の巫女たる、銀髪の少女も。
帝都に居た、ありとあらゆる人間が見つめながら。
大きな大きな、それは、
巨大な水柱を上げ、
海の中へと、飛び込んだ。
*
それが、神託にあった“大いなるもの”であることを疑うものは、帝都に誰一人としていなかった。
民衆は興奮し、その正体を一目見ようと大挙して岬へ押し寄せようとして、帝都の警備兵に押しとどめられていた。
皇帝は直ちに使いの者を送れと命じ、枢機卿たちは直ちに古き書物を紐解き、生贄の儀式の準備を始める。
そのかつてない狂乱を部屋の外で聞きながら、ティルは一人 深呼吸をして、
……ついに来た。
待ち望んだ日の到来に、不安と、それをはるかに超える期待を胸に抱いていた。
「……本当に行ってしまわれるのですか」
「ええ。今までありがとう、レファ」
ティルの身支度を整えながら侍女は見たこともないような、弱った顔をしていた。
「そんな顔しないでください。レファ。……これは、私が望んだことでもあるのですから」
「ですが――」
「これで、私はようやくあるべき場所に行き、成すべきことを成せるのですから」
晴れやかな気分で述べる言葉に――しかし、ティル自身、違和感を覚えてもいた。
……なんだろう。
期待に満ちている気持ちは嘘ではない。
しかし、レファの表情を見ると、それがなにか間違ったように思えてくるのだ。
自分はなにか、大きな思い違いをしているのではないか、と。
「ティル様。……私も、ティル様の――門出を、嬉しゅう思います」
けれど、と続きそうになる言葉を、必死でこらえているようなレファの表情。
そんな彼女に、ティルは微笑みを返しながら、すこし背伸びをして頬を撫でる。
「うん、ありがとう。レファには本当に世話になりました。迷惑もたくさんかけて――」
ティルが巫女に任じられて以来、ずっと側で世話をしてくれた、姉のような、母のような存在。
気丈にティルを支え、時には甘えさせてくれた彼女に、最後に何かをしてやれないかと、ティルは考える。
そして、
……よし。
最後に、もう一度迷惑をかけよう。
そう決めて、一息。ティルはマントに吊るされていた銀細工のうち、翼を模したものに手をかけ、
「……“ラヴェ・リェヴラ”――えいっ」
呪文の詠唱とともに銀細工を引きちぎった。
「ちょ、ちょっと! 何をなさるのですか!」
突然のことに慌てふためくレファを横目に、その手を取って銀細工を握らせ、
「はい。……これは、レファが持っていてください」
「ま……待ってくださいティル様! こんなもの頂けません」
「でもちぎっちゃいましたし」
抵抗するレファに、ティルはいたずらっぽく返す。
ちぎれたものは仕方がない。後から直したような服では儀式に出られないから、予備の新品に変える必要がある。
だから、これはしかたのないこと……共犯者に、そう言い含めるように。
「……ですが!」
「ほらほら。ね?」
ティルが翼の銀細工を手のひらに押し込むと、ふとレファ表情が和らぐ。
あらかじめそういう術を込めておいたのだ。
人の心が少しだけ安らぐ術。気休め程度だが、これで少しでも彼女の辛さが和らげば、と思い込めたもの。
「私は皆のための翼になって……そして、いつでもあなたのそばにいますから」
「……はい」
観念したように、レファが受け取ったのを見て、ティルは少し心をなでおろす。
「それで、ですね」
そして、少し照れくさそうに、
「替えのマント、持ってきてくますか? 私がうっかり引っ掛けちゃった体で」
「ティル様……あなたという人は本当に」
その言葉にレファは溜息とともに、ようやくいつもの笑顔に戻る。
仕方なさそうで、でも、頼られるのが嬉しくて仕方がない。そういいたげな笑顔に。
*
岬の先端は、月光の薄明かりの下にあった。
双子の月は並んで半分に欠け、まるでひとつの月が二つに分けて並べてあるようにも見える。
そこに、ティルは“献身の巫女”の正装で立っていた。
周囲には精霊から得た魔力の灯火が周囲を照らし、枢機卿や名だたる司祭たちが聖導騎士団に守られ、儀式のための配置に立っていた。
月に照らされた水面の先には巨大な黒い柱のようなものが鎮座している。
それが、何なのかティルには想像も及ばないが、おそらく天の御遣いの何かであろうと考えていた。
「では、これより献身の儀式をはじめる。巫女よ、前へ」
筆頭枢機卿が口を開き、ティルは静かに前へと歩み出る。
着慣れた正装も、この場にあっては違う重みを感じた。
清純の白、神聖の銀をモチーフに、天の御遣いを表す翼のシンボルと、大地の御遣いを表す木枝のシンボルをあしらった銀細工を下げたマント。
奇跡を生む魔法の源たる音を響かせる儀仗を手に、純血の巫女の証である銀髪をなびかせ、ティルはあるべき場所に立つ。
そして、静かに枢機卿筆頭が手に羊皮紙を広げ、しわがれた声で言葉を読み上げ始める。
「天なる神と地なる神の狭間に生を受けし千代の国の神官が筆頭、ゴベル・ファーランが申し奉る。天なる神子の導きに生まれ、大地の神子たちに守り育まれた――」
形式張った
本来、帝国の守護神たる“地の御遣い”はこういうことを余り好まない。
帝国の守護神たる彼らは、踊りと歌と戦いを好み、その中でも新しいものをよく好む。
それ故に、古めかしく形式張った儀式では大きな力を呼び出せないので、こういう儀式はもっぱら人間側の自己満足で行われることが多い。
伝承ではこのように生贄を捧げたというが、
「隆々なる生命はその芽を摘まれ、寄る辺たる大樹はいま枯れんとしている。その――」
……“これ”は果たして、天の御遣いに届いているのでしょうか?
巫女らしからぬ――しかし、巫女だからこそ抱く疑問。
儀式が中盤にさしかかってなお、何ら反応を見せない“それ”。
本当は何かが間違っているのではないだろうか――ティルの心根の中で浮かんだ不安は徐々にその大きさを増していく。
「供物より、謹んで天の神子に
自身も暗記させられた、古臭い言葉を口にしていくが、相変わらず沖合の“それ”には何の変化も見られない。
大仰な言葉を並べ立てながら、儀式は進み、やがて、
「奉るは天神が両翼のもとに――」
『奉るは天神が両翼のもとに!!』
生贄献上の号令とともに、ティルを含むその場にいた全ての人間が“それ”に向かって膝をつき、最上の敬礼を送る。
人々は静かに全身を大地に向け、じっと礼を向け続け――
やはり、何事も起こらなかった。
*
どれほどの時間が経っただろうか。
筆頭枢機卿が静かに礼を解くのに合わせて、ようやくその場にいた人間が次々に身体を起こしはじめた。
この場にいる皆は高位の宗教者たちであるゆえ儀式は慣れてはいるが、さすがの長時間の最敬礼は応えたのか、平然を装う顔の端々に苦痛の色が滲んでいる。
そして、顔には出さないが、不信と失望が徐々に空気の中に広がりつつある。
――“あれ”は、本当に神話の天の御遣いなのか。
――この状況に、どのような説明をつけるのか、と。
人々のうちに渦巻き始めたその疑念に、しかし筆頭枢機卿は自然に答えてみせた。
「どうやら御遣い様方は、我々の目の前で供物を運び去るような無粋を嫌うようだ」
「……そのようですな。では、我々はこの場から立ち去ることにしましょう」
その言葉に、納得――というよりも“何かを察した”枢機卿の一人が、言葉を受けてつなぐ。
解りやすい答えを求めていた人々の間にも、同意の輪はすぐに広がり、
「それでは、我らはこれで。巫女様、どうかご健勝で――」
シャン――
筆頭枢機卿が手にした儀仗の音とともに、他の枢機卿や護衛の騎士たちが再度海に向かって敬礼を送り、
隊列は速やかに組み直され、灯火とともに森のなかへと消えていく。
ティルは、一人その場に佇みながら、それを見送る。
灯火の列が完全に見えなくなったところで、ティルはため息をひとつ。
……さて、どうしましょうか。
ティルの推測では、おそらく、儀式の類では天の御遣いの心は動かなかったと考えていた。
同じく魔法や大地の御遣いに通じた老人たちも、それは薄々でも解ったはず。
ただ、帝国に伝わりし由緒正しき伝承と、その儀式が誤りであったとは、帝国国法庁の面子にかけて口が裂けても言えないだけなのだ。
……ならば、ここは私に任せられた場所。
献身の巫女たるティル自身がこの場で彼らへ生贄の存在を伝え、そして供物として捧げられる。
それをもって、おそらくこの儀式は完遂するのだ。
「では――参ります!」
共に残された儀仗を構え、一振り。
シャン――
耳馴染みの金属音が静かな夜に響き、少女の身がゆっくりと舞い始める。
己を神々の供物とせんがために。
*
シャン――
訴えかけるような舞に、少女はさらに祝詞を音に乗せて口ずさむ。
歌だ。
「――――♪」
帝国を守護する“大地の御遣い”が好む、舞と歌。
剣舞も好むが、剣が手元に無く、武の心得もないティルは、その出自が武器である祭祀用の儀仗の振りをもってそれらを模し、舞に取り込んでいた。
ステップとターン。
足場の悪い野外でも、しかし乱れずに組み合わされ、躍動となって彼女の身体に無数の変化を与える。
それは、いくつかの型に基づいてはいるものの、完全に経験からくるアドリブのものだ。
新しいものを好む“大地の御遣い”は、型通りの演技を好まない。
毎回毎回が一発勝負であり、故に彼女はそのための訓練を幼少の頃から積んできていた。
「――――♪」
準備の期間がなかった以上、歌も即興のもの。
デタラメに流れる音程も、しかし既存の曲をなぞるより反応はずっと良い。
舞と歌に合わせて周囲の森が、大地が鼓動し、自身に力が集まるのを感じる。
だが、
……どうして?
洋上の“それ”は、未だに微動だにしない。
“大地の御遣い”が返すような、五感を越えた気配や息御遣いもまるで感じられず、ただ静かにそこに浮かんでいるだけ。
それは、ただの幻覚なのだろうか――そう疑ってしまうような薄い存在感に、ティルの心は徐々に不安に浸されていく。
大仰な儀式、必死の舞、そして歌。そのどれもに反応しないアレは、本当に――
そんな邪念で集中力が乱れたときだった。ティルは唐突にそれに気づき――そして、舞を止める。
極度に熱中していた故に、直前まで気付かなかった、それは、
……魔物!?
人間や他の霊力を宿す生物、あるいは同じ魔物を喰らい、魔力をもって生き長らえる生物の総称。
魔力をもって生きるゆえに、狩りにも魔力を用い、野犬よりも厄介な存在として行商人や旅人に恐れられている。
姿は見えずとも、同じ魔力を持つものとして、その存在は感じることができた。
人間ではない、人型の亜人でもない。おそらく、サイズは中型犬と変わらないものが、三体。
知識はないため、正確にどんな種類のものなのか判別はできないが、おそらくティルを狙っているのだろう。
……しまった!
そもそも、少し考えれば解るはずだったことだ。魔力をエサにする生き物が、敵意もない膨大な魔力の塊を嗅ぎつけて、それを見逃すはずがない。
……どうしたら――
手元には儀仗が一本あるのみ。
戦うための術を習得しているわけでもないティルには、とても相手ができる存在とは思えなかった。
そしてここは岬の先端。背後は断崖絶壁で、逃げ場もない。
背後の存在を見れば、やはり沈黙を守ったまま。
絶体絶命の状況に、彼女の本能は反射的に叫んでいた。
「――誰か、助けて!」
神の御遣いということも構わず、全力で放たれた声。
同時に、意思を込めた魔力が全周囲に放たれ、さらにそれを嗅ぎつけたかのように魔物の気配が増える。
……あ……。
さらに自身で状況を悪化させた事に気づいたティルは、
「や――いや、ですよぅ……」
ついに目に涙を浮かべ、ぽろぽろと零しだす。
恐怖が全身を支配して、やがて立っていられずにティルは地に腰を落とす。白いマントが汚れるが、そんなことなど気にも留まらない。
「いや、いや、いやぁ……」
こんなところで、無駄に死にたくなんかない。死ぬのならば、誰かの為になれる死がいい。誰も救わぬまま、野犬のエサになんかなりたくない。
そんな感情が言葉にもならずにただグルグルと頭のなかを巡り、ティルはその場にうずくまることしかできなかった。
恐怖と対面する十分な時間をおいて――あるいは、狩猟者に取って当然の慎重さをもって、やがて彼らはその姿を現す。
「――ひっ」
月光にわずか光った両の目を、ティルは見逃さなかった。
犬に似た形の、狩猟型の小型魔物。
それが七匹。絶壁を背後にしたティルの周囲を扇状に囲んでいた。
おそらく群れなのだろう。連携のとれた動きで慎重にティルを包囲していた。
「や――いや、許して、ください――」
自らは何も悪くないにも関わらず、とっさに許しを請う言葉が溢れる。けれども当然のように狩猟者はその言葉を無視してにじり寄る。
滅多にない上物のごちそうにありつかんと、魔物たちは慎重に慎重を重ね、間合いを計り、そして、
――瞬間に、彼らは木々ごと焼き払われていた。
「え……?」
その光景をティルはとっさに理解することができなかった。
暗闇が一瞬にして紅蓮に染まり、魔物たちがいたはずの場所からは炎が上がっていた。
そして、まるで炎に薙ぎ払われたかのように魔物たちの気配が消失していた。
「たす、かった……?」
呆然としたティル目に、ふと一匹の魔物の死骸が留まる。
半身を失い、断面から焦げた臭いと煙を上げるその死骸を見て、ようやくティルは自分が助かったことを実感する。
……助かった……いや、
「誰かが、助けてくれたのですか?」
こんな現象は人為的なものでしかありえない。おそらく枢機卿か騎士団の誰かが戻ってきて助けてくれたのだろう。
そう思い、改めて助けを求めようと周囲を見渡せば、背後、
絶壁の向こうで、巨人が宙に浮かんでいた。
「へ……?」
今度こそ、彼女の理解を超える存在に、相当な時間彼女は呆然としていた。
巨人。
彼女の知識と語彙では、そうとしか言い表しようのない存在だ。
背丈は、ティルの身体の十倍はある。
顔はマスクか何かで覆われているのか、目も鼻も口も見えない。
肌も甲冑なようなもので覆われているのだろうか。表面の質感は、光沢のない硬質な何かに覆われている。
だが、ふと一部分に目が行った時彼女はそれが何なのか理解した。
……翼!?
その背には直線的な――板に近いようであるが、独立して可動する、一対の翼と思しきものがあった。
偶像画に数多く描かれてきたような鳥類に近いものでは無いものの、それが生える場所、その長さは、たしかに彼女の想像していたものに相違ない。
ならば、それは、
「もしかして――天の御遣い、様……?」
ティルが信じ待ち焦がれた、そのものに違いなかった。
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