第一章 あなたの呼ぶ声 1
朝、玄関にて。神島真美花は制服に身を包み、学校に行こうとしていた。
今日は体育がある為、普段履いているローファではなくスニーカーに足を通して緩んだ靴ひもをぎゅっときつく結ぶ。
そして下を向いたまま立ち上がると膝より上のスカートが自然と視界に映った。
中学生の頃と比べると随分と勇気を出したものだと思うけれど、それも今は珍しい事でもない。
あの時から五年。高校生になって気づけば二年が経つ。
真美花は家から一番近い、評判も悪くなければかと言って進学校でもない公立高校に進学した。
成績はそこそこ。部活は吹奏楽。友人は片手で数えられるほど。誰もが経験する何事もない学生生活。それが今の真美花の全てだった。
その中で、ちょっとした変化に心を揺さぶられる日々。
変化と言えば、真美花にとって一番の変化は家族が増えたことだった。
五年前に不仲になり出した両親。しかし、真美花の進学と同時に父が出張で単身赴任をすることになり、二人の間に物理的な距離が生じたことにより思うところがあったらしい。
突然夫婦仲が良くなったと思ったら二年生に進級した時に妊娠を告げられた。
その時の母の嬉しそうな顔を真美花は忘れないだろう。実際、真美花も嬉しかった。
今までずっと何か物足りない気がしていたのだ。急にやることがなくなったような感じ、というか。だから妹か弟でもいれば良いのにとずっと思っていた。
でもそれと同時に母の体が大丈夫なのかという不安もあった。本人に言えば当然怒られるが、母ももう若くはない。妊娠が体に大きな負担を掛けることは想像に難くなかった。
とはいえ今日も元気に父の単身赴任先へ出掛けて行った姿を見る限り、今のところ問題はなさそうだけれど。
とにもかくにも、それ以上は何の変化もない毎日だった。
そう。何の変化もない。
未だ帰ってくることのない親友達を待ち続ける生活。
「…………」
どれだけ月日が経とうと、五人の事を考えない日はなかった。そしてそれは時々ふとした瞬間に心に暗い影を落として足を竦ませる。
真美花は玄関ドアに手を掛けたまま何度か深呼吸をした。
大丈夫、と心の中で繰り返す。
今日も私は五人を忘れてない、と。
そうしないと全てを忘れてしまう気がするのだ。周りの人々と同じようになってしまうことが真美花は恐ろしかった。
だから外の世界に呑まれてしまわないように自分を強く意識する。自分はここにいて、その自分を作ってくれたのは彼らだという事実を噛み締めて。
そして、ドアを開く。
開けた視界に飛び込んできたのはどんよりとした曇り空。
湿気の多さからかじとっとした空気が肌に纏わりつく。
今は五月の中盤。そろそろ梅雨の時期に入ろうかという頃合いだ。空気は何処か重く、なんとか持ち直した心がつられてしまいそうになる。
それに追い打ちをかけるように午後から雨だという天気予報を思い出した。思わずため息を吐きそうになって、それを寸でのところで飲み込む。そしてドアの近くに掛けてある傘を取り、真美花は今度こそ外へ躍り出た。
そして吐かなかった溜息の代わりに誰もいない自宅へ向かって
「いってきます」
と呟く。
当然ながら返事はない。
――そのはずだった。
「…………?」
誰かに呼ばれた気がして真実花は後ろを振り返った。
しかしそこにあるのは閉ざされた扉のみ。辺りを見渡しても人の姿は見えない。
小さく首を傾げて、近所の犬の鳴き声が人の声に聞こえただけだと自分を納得させる。
真美花は「疲れてるのかな」と小さく苦笑を浮かべつつ、カバンの中から鍵を取り出すと玄関ドアを施錠した。鍵を抜いた後もノブを引いて閉まっている事を確認する。
と、
「っ……!」
また誰かの声が聞こえた。
今度はさっきよりもはっきりと”応えて”と囁く声が。
弾かれたように後ろを振り返る。しかしどれだけ見渡しても人の姿はない。
「何?」
声は断続的に聞こえてきた。けれど全てが途切れ途切れでうまく言葉として理解することが出来ない。
わかったのはそれが女の子の声であるということだけ。
そして遠くから聞こえてくるような、それでいてとても近くで響いているような、そんな声であるということ。
「誰?」
関わらない方が良いと、そう思うのに気が付いた時には真美花は声を上げていた。
「どこにいるの?」
そうして叫んだ時、
”やっと、見つけた”
耳元で柔らかい声が囁いた。
慌ててそちらを向こうとする。けれど、それは出来なかった。
「え……っ!!?」
なぜなら、気付いた時には真美花は地面から落ちていたから。
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