第20話「無力を噛み締め」
アルバン帰還から二週間後――。
くたびれた革張りの椅子に腰掛けながら正一は、雲の形に似た天井の染みを見つめていた。
探偵事務所を開業してから一週間。
リエラとの約束を反故にした影響が正一のやる気一切を奪い、比例するように客は一人も訪れなかった。
客が来なくとも暮らしていくには困っていない。
マリモと縁のあるドラゴンで街の当主を勤める樹牙竜が暮らしていくには必要最大限の金を与えてくれるからだ。
しかしそれでは、まるでペットと同等である。
正一の無力さを鑑みれば犬猫以下。
せいぜいがハムスターか何かであろう。
ケージの中であたふたと動き回り、与えられるままに餌を貪る。
今の要正一は、それ以上の存在ではない。
堕落が人を殺す事を知っていても、それに頼らねば精神に安寧を与える事も出来なかった。
黒檀に似た材質で出来ているらしい年月を経たデスクの上で、我が物顔にクッキーを貪っているマリモの図太さが酷く羨ましく思える。
大事そうにクッキーの入った缶に縋りついている姿は、悩みという概念すら忘却しているかのように見えた。
人と流れる時間が違うからこそ一日程度を棒に振っても気にしない。
そんな物は人が瞬きの間、意識を空にするのと似たような感覚だろう。
それを見習い、今日は一日菓子でも食べて過ごすのも一興かもしれない。
正一がクッキー缶に手を伸ばすと、
「こんにちは」
あらゆる感情の入らない明るさを装った声を上げてリエラ・トップが事務所にやってきたのだった。
「リエラ!?」
どうしてここに居るのか。どうしてここに来たのか。
あれから二週間。
病院で会ったのを最後に一度も顔を合わせていない。
正一としては文字通りに合わせる顔が無かったし、リエラとしても希望を無下にした正一となど会いたくもなかったはず。
「ごめんなさい。遅くなって」
なのにリエラは、それが本音であるとでも言いたげに嬉々として振る舞っていた。
「いや、なんで」
「なんでって。だって約束じゃないですか」
アルバンに行く前、リエラとした約束。
この世界で出来た初めての友達として一緒に居てほしい。
無事に妹のリゼルを救えたならそんな勝手を言う事にも抵抗はない。
しかし結局彼女のために何もしてやれず、正一が果たすべき約束を何一つ果たせないままだ。
「あんなのは無効だ。俺は約束を守れてねぇよ」
こんな状況でリエラと向かい合っても初めて出会った時のような柑橘類みたいな感情は滲んでこない。
罪悪感と羞恥心。果たしてそれ以外に一体何があるというのだろう。何を抱けばよいと言うのだろう。正一は自問に戸惑う事しか出来なかった。
そんな男を憐れに思ったのか、それとも本心からか、
「いいんです……諦めがつきましたから」
リエラの笑みには、華やかな色も甘い香りもありはしなかった。
仮に正一だけの言葉だったらもっと懸命に頑張れていたはずである。
だが問題はマリモだ。
リエラは、森の中で正気の内にマリモの正体を目撃している。
ドラグン地区のリュベイルで生まれ育ったリエラにとってドラゴンの言葉は、まして街を納める樹牙竜すらも凌駕する伝説の存在であるならどんな理不尽にも頷くより他にない。
神から直接諦めろと言われたようなものだ。
「納得出来んの?」
たとえそれが神の言葉であろうとも、たとえそれが揺るぎようのない真実だったとしても。
「リエラは、それで納得――」
「出来るわけないでしょ!!」
出来る訳がない。
出来るはずもない。
そう簡単に大切を捨てられたらきっと人間はもっと生きやすかったろう。そしてとっくの昔に滅んでいただろう。
諦めの悪さの一点に絞れば、人とは何もを超え得るものだ。
だからこそ爪も牙も膂力も失いながら、知恵という唯一の武器を手に進化し、生き延びて来たのだから。
「でもどうにも出来ないんじゃないの! そんなに言うなら何とかしてよ! 助けてよ!!」
「違うだろ」
リエラが求めているのは奇跡ではない。
正一は理解していた。
彼女が求めているのは誰か奇跡を起こす人を待つ事ではない。
「助けたいんだろ。なら手伝うよ」
自分で奇跡を起こす事。
ならば正一に出来るのはその奇跡の手助け以外に有り得ない。
「リエラは俺の最初の依頼人だ。俺は一度受けた依頼は投げ出さない」
そう。彼女を救わず、他に仕事をしようなんて探偵を自称する意味がない。
一度受けた依頼を完遂してこそようやくの仕事だ。
「ったく。お前も厄介事に首を突っ込む趣味なんかやめとけ」
デスクに居たはずのマリモはいつの間にか正一の左肩に乗り、口の周りに付いたクッキーの粉を無遠慮に落としていた。
出会ってからおよそ一ヶ月弱。
マリモというドラゴンの思考という物を正一は理解し始めていた。
マリモがこんな風に言う時は、大抵何かを知っている。
それも核心に迫る重要な何かをだ。
「どうせお前は、何か知ってるんだろう」
正一の問い掛けにマリモは、鼻息をすぅと出しながら気怠そうな顔をする。
「俺も詳しくは知らん領域だから、黙ってたんだ」
「教えて!!」
矢よりも速くこの話題にリエラが食らい付く。
リエラはマリモの正体を知っている。
知っているからこそ彼の知識は、何よりの希望足り得るのだ。
そして落涙間近の少女を前にして、さしものマリモも気が咎めるらしい。
面倒そうな態度をしまい込んでリエラと向き合った。
「人間が外来種を呼び出す儀式に人の精神を餌に使うと聞いた事がある。もっともこいつは人間の術で二百年前には確立されていなかった技術だ。俺も詳しい事は知らない」
「人間が……つまり召喚魔法的な物って事か?」
これに関しては正一が同様の現象を経験済みだ。
その存在に驚きはない。
しかしリエラの方はと言えば、正一の事情や外来種の真実を知らない事も手伝ってか腑に落ちないという顔だ。
だがマリモはありありと浮かんでいるリエラの疑問に答えてやるそぶりは見せず、
「今までの事は俺自身多少なりともかかわりのある事だったからな最善手を打つ事が出来た」
マッチ棒のような手に付いたクッキーの粉を舐めながら続けた。
「しかし、これは俺も詳細を知らん。それに人間相手となると外来種相手とは、ちと違う。俺もドラゴンに変身して食い殺すってわけにはいかなくなるんだ」
それはリエラの言葉というよりは正一に対する忠告に聞こえた。
確かにマリモは一度人類を滅ぼそうとしたらしい。
その事情は定かではないが、もう一度人間に手を出せば、さすがの樹牙竜でも庇い切れないだろう。
つまり今回の事件。背後に居るのが人間ならアルバンの時以上にマリモの力は当てに出来ない。
正一自身の力で敵や困難に立ち向かう。
相手が人間であれば今の正一が遅れを取る事はまずない。
だがそれはあくまで相手が個人であればだ。組織的に来られたり、多勢となれば脆さはある。
正一のあるのは個としての強さのみ。それは数という強さの前では無力に等しい。
マリモのような力があれば話は別だが、正一の力ではどうやっても限界がある。
「だそうだけど」
それでも前へ進まなければそれは人類に与えられた最も偉大な権利の放棄に過ぎない。
諦めてしまえば楽かもしれないが、それは楽なだけであって幸福や信念に対する反旗である。
「依頼人が行って来いって言うなら行かざるを得ないよな」
進むと決めた道だから進まないと言ってしまうのはもったいない。
ここで逃げるときっと他の時も逃げてしまう。
何か一つ逃げないと、立ち向かうと決めた事があるのなら、向かい合って進むべきだ。
「私も行きます」
誰も足を踏み入れない禁忌である森に入ってまでリエラは、妹を救いたいという強い信念がある。
手を拱いて助けを求めるだけの少女ではない。
しかしそんな物など関係ない。
正一の左肩に座すドラゴンの瞳にはそんな念が込められていた。
「小僧だけならともかくお前が付いてくるなら行かんぞ」
勿論正一にも理由の察しは付く。
本来ならマリモを止めるべきだろうが、
「お前は足手まとい以外の何物でもない」
その真実は、確かに揺るがなかった。
リエラは魔力の類を扱えない。
各種戦闘訓練を受けた経験もない。
まったくの素人が生きて帰って来られたのは、ひとえに正一とマリモとの出会いがあったからだ。
「小僧みたいに自衛出来るならいいが、お前では」
マリモの言い分も痛いほどよく分かる。
意地が悪くて言っているのではない。身を案じているからこその言葉。
分かるからこそリエラの願いに頷いてやれない自分が恨めしかった。
「お願いします。もしも何かあれば私を盾にしてくれて構いません」
「小僧も俺も避けるからいらない」
「妹を助けたいんです」
「却下だ」
「だけど」
リエラの懇願にマリモが耳を貸す様子はなかった。
彼の思考は合理的だ。リエラが共に行く事に何のメリットもないのだから許可するはずがない。
正一とマリモにとっては戦闘の際、お荷物になる。
まともな自衛策を持たずに行けば致命は必至だ。
リエラの様子を見る限り、マリモに何を言われても引き下がるつもりには見えない。
ならここは正一が言うしかない。
「リエラ、俺とマリモだけで調べるから。ここで待ってて」
正一が告げるとリエラの顔は想像通り、暗色へと沈んでいった。
正一ならマリモの意見してくれる。リエラはそんな風に思っていたのだろう。
だが今回ばかりはそうもいかない。彼女の安全を守るためにも正一がリエラの味方をする訳にはいかないのだ。
「でも……」
諦めの付かない様子のリエラに正一は衝動に駆られた。
声を掛け、慰めようと。
けれど今すべき事は違う。
今すべきはリゼルの精神を一体誰が持っているのか。
召喚術を成そうとしているのが一体誰なのかを探る事だ。
「心当たりはないのか?」
「さすがにな。樹牙竜だったら何か知ってるかもな」
そう。正一の予感が告げている。
リゼルを救う時間は、あまり残されてはいないのだと。
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