第17話「思念日記」

 正一が歩き始めて一時間ほど。老人の紹介した図書と官と思しき建物が見えてきた。

 図書館と言っても木造一階の小さなもので今にも腐りおちそうな壁には無数のシロアリが集り、僅かに残った腐食していない壁を取り合っている。

 ノックするだけでも倒壊してしまいそうなボロ屋を前に、正一は溜息を吐きながらひび割れたドアの鍵穴に老人から受け取った鍵を差し入れた。

 鍵を開けてノブを捻ねりドアを開けると途端に濃縮された陰気が正一の身体を打ち付けるように溢れてくる。


「嫌な空気だな」

「正一、気を付けろよ」


 およそ人間という生物が絶対に入りたくない場所だ。

 カビや埃の有無はどうでもいい。図書館から流れ出る空気は、森のそれによく似ている。

 けれどここに入らねばならない、そういう衝動が正一の胸中をくすぐっていた。

 あの老人に勧められたからではない。今では要正一という個人がこの中にある真実を欲している。

 正一が一歩踏み出し、図書館の床を鳴らすと、奥から一人の女性が現れ、出迎えた。


「ようこそ」


 その容姿は、人の概念を根底から舐る横暴だった。

 身体つきは人間の女性だが、頭は収縮する肉塊のようで下半分には、蠢く数十の触手で埋め尽くされている。ドルヴィンの屋敷で出会ったメイドと全く同じ姿の女だ。

 しかしベージュのシャツと焦げ茶のロングスカートという出で立ちと、小鳥のような庇護欲をそそる声が別人である事を認識させる。


「声は可愛いな」


 顔はともかくとして素晴らしい声だった。

 日本であれば声優として大成出来る。

 そう確信させる美声なのだ。


「おい、無理に美点を見つけて慰みにするな」

「そうでもしなきゃ正気失いそうだよ」

「もう慣れたかと思ったぞ」

「慣れてたまるか」


 この状況に慣れてしまったら精神的には人の域ではない。

 ここでの暮らしは楽になるかもしれないが、慣れる前に元の世界へ帰りたい。

 そう願いながら正一は、図書館の内装を見回した。

 埃が舞い、嗅覚を麻痺させるほど濃厚なカビの匂い以外は、小さい普通の図書館という風情である。


「どのような本をお探しですか?」


 美声の君に尋ねられた正一は、顔を見ない様目を背けながら答えた。


「この街の真実について」


 そう呟くと美声の君は、正一の視界に飛び込んでくると一冊の本を差し出した。


「どうぞ」


 正一が受け取った青い表紙の本だが、まず題名などは書かれていない。それにかなり古めかしく見え、ここ数年のうちに作られた本であるとは思えなかった。


「これは?」


 本から視線を上げ、美声の君を見やろうとした正一だったが、既に彼女の姿はどこにもなかった。気配もなく消え失せる辺り、彼女もまた神格種の眷属だったのだろうか。

 手酷い扱いに怒ったのか、それとも役目を果たしたのか分からなかったが、全者であれば女性に申し訳ない事をしてしまった、と後悔の念を抱きながら正一は本を開いた。

 そこにはこう書かれていた。




 捕えられてしまった。あの忌々しい竜に。

 こちらの予想、その遥か高みの存在。

 侮っていた。この世界を、その守護者を。

 今の状況がどれほど続くかは分からないが、百年単位で済めば幸運だ。

 だからこれから起こる全てを忘れないためここに綴る。




 まるで日記帳の様である。小説の書き出しと思えなくもないが、恐らく違うと正一の直感が告げていた。


「日記帳だな」


 自身の推測を正一が口にすると、左肩に乗っているマリモが本を覗き込んだ。


「なるほど、思念日記の写本だな」

「思念日記?」


 聞き覚えのない単語に正一が眉根を寄せると、マリモは日記に視線を向けたまま続けた。


「ああ、頭の中に用意したスペースに文章を書き込む術だ。高等な魔法が使える者ならやっている者も多い」

「そうなのか。でもなんで?」

「数万年を生きるとさすがに記憶の全てを詳細にとはいかんからな。まぁ記憶術の発展型とでも言えばよいか」


 それは、人間よりも長い時を生きる生物の知恵だ。

 誰が始めたにせよ、その日の事を詳細に書いておけば、それがまして頭の中なら、文字通り記述者が死ぬまで忘れない。

 ここで正一にある疑問が浮かんでくる。左肩の存在は、まさに数万年を生きているのだ。


「お前もやってんのか?」


 そう問いかけるとマリモは正一の瞳を凝視したかと思うとすぐさま背け、頬を赤らめた。


「恥じらうな」


 何故この状況で恥じらいを見せるのか。得も言えぬ不気味さに正一はマリモの額を指で弾いた。


「それで? 書いてんのか」

「まぁ書いとる。ただ中身は読ませんぞ」


 頑なな様子のマリモだったが、正一にはそれとなく内容の見当がついていた。


「読みたくもないわ。どうせ俺の悪口の羅列だろ」

「そそそ、そんなこと!」


 マリモの慌て振りが事実の証明である。

 狭量な行いをしていた稀代のドラゴンを、正一は溜息を吐きながら睨みつけた。


「いや図星じゃねぇか」


 もう一度額を弾いてやると、マリモは口元に手をやって体をくねらせた。


「だから恥じらうな!」


 どうやらこの話題に触れている限り、まともな対応は期待出来ない。

 どんな悪口が書かれているのか少々興味もあった正一だったが、問題は美声の君に渡された思念日記だ。


「でもなんでこれがその思念日記か、だって分かるんだ? 頭の中に文字を書く記憶術なんだろ?」


 マリモの言によれば、思念日記とは記述者の頭の中に存在しているはず。

 書いた本人しか見られない物がどうして本という物質的な存在としてここにあるのか。


「見れば分かる。こいつはその写本だな」

「写本ねぇ……」


 マリモは当然の事と言わんばかりだが、記述者の頭の中にしかない物をどうやって写本にするというのか。

 魔法的な方法もグロテスクな方法も想像出来るが、願わくば前者である事を祈りながら、正一が次のページをめくろうとした時、


「気を付けろよ」


 マリモの声が制止した。いつもの調子のいい様子ではない。

 やや強張りのある声に正一の警戒心も肥大した。


「外来種の思念日記の写本かもしれん。読むだけでも魔力が発生する事がある」


 封印されて尚外界への接触手段を確保できるのが外来種、特に神格種の魔力だ。

 状況を考えるにこの思念日記を描いたのは間違いなく揺蕩う者である。

 迂闊に一頁目を読んでしまったが、もしも読み進めればどうなるか。

 このアルバンの街やそして煤の封印された森の事を考えると、想像に容易い。


「恐ろしいね……」

「だろ?」


 これは人間が読み進めていい物ではない。正一は写本を閉じると、マリモの前に差し出した。


「ほい」

「なんだ?」

「読んでくれ」

「俺がか!?」

「そんなやばそうなもん読みたくない」


 読み進める事で森でのリエラやリゼルのような目に合う可能性が僅かでもあるなら、そんな危険な代物を好んで読む人間は、この世に居ないだろう。


「いやだが、これはお前がだな」


 マリモの言うように写本を渡されたのは正一である。

 そして試されているのも正一である。

 けれど正一の内心からすれば「だからどうした」という話だった。


「お前ドラゴンなんだろ。変な術かからないだろ……多分」

「多分っていい加減な……」


 世界を滅ぼそうとした豪胆なドラゴンですらこの消極的反応だ。

 まかり間違っても読んでなる物か。では、どうすれば読まずに済ませられるのか。

 マリモが納得せざるを得ないだけの理由とは――。


「あーあー。俺まだ傷付いてんだよなぁ」


 この間の件かをまだ引きずっているとアピールする事だ。

 先程の一時休戦から数時間、既に正一の中に残っていた遺恨は消え失せているのだが、命と精神の安寧を守るためならば仕方がない。

 今回の件に関してマリモは、妙にしおらしい。

 理由は不明だが、強い罪悪感すら抱いている風であり、かなり気にしている。ならそれを突かない手もない。


「叔母さんしか居ないかぁ。傷付いたなぁ」

「分かったぁぁぁぁ!!」


 トドメの一押しが効いたのか、実に渋々という体ではあるがマリモは写本を受け取って開いた。


「もうったく。本当に人間は根に持つな。寿命短いくせに」

「寿命短いから根に持つんだよ」

「短い人生有効活用せんか。まったく。どれどれ」


 危険な物を読ませる行為に幾ばくかの罪の意識を抱かない訳ではないが、正一とマリモでは生物としての基礎が違う。人間のとっての不可能は、マリモにとっての児戯であるはずだ。


「あー」


 しかし読み始めて物の数秒でマリモが気の抜けた声を上げた。


「そう言えば俺、活字読むの嫌いだった」

「えええええええ!」


 正一の中でドラゴン像という物が崩壊した瞬間であった。

 誰よりも強く誰よりも賢い。

 神にもっと近いか、あるいは神そのものか。

 強大な力と知性や品格を合わせて持った存在。

 それが要正一の抱いていたドラゴンという生き物に対するイメージだった。

 力は強いが口は悪く、あまつさえ活字が嫌いと言ってのける目の前のこれをドラゴンと呼びたくない。ドラゴンとは認めたくない。


「やっぱお前読め。流し読みしたが危険な代物じゃない」


 そう言ってドラゴンらしからぬドラゴンは、正一に写本を返してきた。

 威厳のなさもここまで来ると却って清々しくすらある。

 マリモに読ませる事は諦めるにしても、流し読みしただけで安全と言われようが、信用出来るはずもない。


「本当だろうな」


 疑いの眼差しを向けるとマリモは、何時のも偉そうな風体で言った。


「いいから読め。変な術に掛かったら俺が治してやる」


 この段階に来てしまうとそれが出来るかも怪しい物だ。

 確かに眷属を一撃で屠る力強さは見せたが、正一の言語機能をこの世界い順に調整した時と武器を買った際の偽造通貨以外に目立った魔法は披露していない。


「言っとくが俺はパワー馬鹿じゃないし、他の魔法も色々と使えるからな」

「そう言えば頭の中読む変態魔法も使えたな」

「なんだと! お前人の思考を読むのがどれだけ高等な魔法か」

「はいはい」

「聞こうよ。無視はやめよう。傷つくぞ」


 マリモの自慢話を聞くには、寿命は足らないだろう。

 そんな事を思いながら正一は写本の二頁目を開いて目を通した。




 封印されてからどれほどの時が過ぎただろう。

 私を中心として小さな町が出来ていた。

 この辺りには希少な金属が眠っている。

 この世界の人間達には無用の長物であろうに、それを採掘しようとしているのだ。

 まったくもって無駄な事をする。

 あれらの金属は、星の抑止力とも聞くが、この世界の技術で加工が出来るはずもない。それなら何故生み出されたのか。その点についての考察も必要だ。

 ここから出られるのは百年二百年先の話ではない。もっと膨大な時間をここで過ごす事になるだろう。

 悔しい事に時間は有り余っている。有効的に活用させてもらおう。

 来たるべき時の為に――。




 外の様子は相も変わらずだ。あれから二十年経ったが、町の規模は少し大きくなったのが唯一の変化である。

 金剛石や白銀鋼、そして極鉄鋼。これらの宝石や金属が多分に採掘されている。

 しかし私に送り込まれた討伐隊は、これらの武器を使ってはいなかった。

 実用化に向けた実験段階という所だろう。

 理由に察しはつく。我々尖兵の存在が彼等の危機感を煽り、軍備を増強する発想に繋がったのだ。

 人間がいくら武装した所でこの世界の科学技術・魔法技術は、侵略対象レベルに達したばかりの拙い物だ。叩き潰すのは訳はない。

 しかし問題は、あのドラゴンどもだ。あれは別格だ。

 各個体の戦闘能力について考察したが、驚くべき結果が得られた。




 先日記述したドラゴンについてだが、これの戦闘能力は凄まじい。

 上位固体ともなれば一頭で惑星……いやそれを遥かに上回る規模を侵略ないし防衛可能と考えて良いだろう。

 生物としての強靭さ。

 魔力の高さと魔法の練度。

 筆舌に尽くしがたい。

 大凡個の性能は、私の知る生物の中では最高峰だ。

 私を封印した固体もいとも容易くこの私を封じて見せた。

 まったく恐ろしい物だ。

 だが不思議なのは、あれなら私を簡単に殺せたはずだ。

 何故生かして封印した?




 ここ数年、私の頭上が騒がしい。

 町にはアルバンという名が付けられ、相応の規模となり、人も増えている。

 ただ騒々しいだけなら我慢も出来る。どんな生物の物であれ、喧騒という物は退屈を紛らわせた。

 だがこれは違う。明らかに私の封印に対して魔力が流し込まれている。

 何故こんな事をする?

 私が封印されて既に六百年近く経っているはずだ。

 その存在を忘れたのならまだ分かる。

 しかし彼等の行動は、明らかに私が居る事を想定している様だった。

 まさか仲間が彼等を使っているのか?

 いやそれありえない。もしもそうなら私に何かしらの連絡をしたうえで行う筈だ。

 ならこれは人間達が私の存在を知りながら意図してやっている?

 メリットは何だ?

 侵略者である私を解き放つメリットは?

 人間という生き物は愚かだが、悪知恵に関しては、こちらも舌を巻く事をしでかす。

 警戒しておいた方がいい。魔力を少し外へ放出し、眷属を作るしかない。




 封印は、中途半端に解かれた。向こうからはこちらに接触出来るがこちらは向こうに干渉出来ない。

 あれらは化け物だ。

 何をしでかすかとこの数年間警戒していたが……。

 これは書くべきではないかもしれない。残しておきたくはない。

 それでも真実を書かねばなるまい。それが仲間に対する警告となるなら。

 私は人間達に犯された。

 男共に代わる代わる犯されたのだ。

 あの異形共は私を弄んだ。

 私にとって連中は異質だ。尋常な姿ではない。

 しかし向こうに取って見てもそれは同じはずだ。私の姿は尋常ではないだろう。

 何故こんな事をしたのか。理由は分からない。

 それでもいずれ分かるだろう。

 今夜もまた彼らが来た――。




 妊娠した。

 人間との子供だ。

 遺伝子のまるで異なる我らと人間とで子供が出来るとはまるで予想していなかった。

 この世界の魔法技術は、歪ではあるが進歩しているらしい。

 我が子は、愛する人の間に出来ると子供の頃から信じていた。なのにこれではまるで。




 百人の我が子が生まれた。

 男の子は人間の姿のままだ。

 だが女の子は私と人間との間を取ったような姿をしている。

 しかし姿などどうでもいい。経緯などどうでもいい。

 今はただこの子達が愛おしい。私の子供だ。

 けれどやはりと言うべきか。音叉を宿した子供が数名いる。

 連中には精神を崩壊させるに足る魔力をぶつけてやったのだが効果が見られる節はない。

 恐らく音叉を持っていたのだろう。

 そして私を犯した時、我が胎内にその欠片をも埋め込んだのだ。

 真珠がそう出来るように、奴らは音叉を養殖しようとしている。

 あれが蔓延すればこの世界は多大なる力を得る事になりかねない。

 そうなれば後続部隊が致命的な打撃を受ける確率も万に一つではないだろう。

 この世界は、既に侵略するに足る価値を失いつつあるのかもしれない。 




 子供達は、私を母とは思っていない。子供達は、私を化け物と呼ぶ。

 近親交配が繰り返されている。私を息子が犯し、息子が娘に犯される。娘は息子と寝ている。

 連中のやろうとしている事が段々と分かってきた。

 血を濃くしようとしているのだ。

 この異常事態を知ってか知らずか、共和国政府は、この町は隔離されてしまった。

 これからどうなるのだ。




 ドルヴィン家。今となっては、このアルバンで唯一人間同士で交配し、血を繋げてきた一族である。

 その現当主は、今一番若い世代の赤子から血を抜き取って何かをしているらしい。

 我々の血を人間の身体に入れれば凄まじい拒否反応と主に身体を侵食され、我々と同族になる。

 私に子供を産ませた事。そしてその子供達が交配を続けた理由がようやく分かってきた。

 血を濃くしたかったのではない。血を馴染ませたかったのだ。

 恐らくは人間の身体でも拒否反応なく適合する物を。

 使用目的にはなんとなしにだが見当が付く。

 この世界は、私の想像以上に毒されている。

 この日記を誰か読んでくる事を祈る。そしてお願いだ。

 この世界は諦めろ。

 この世界は侵略の価値はない。我々が食われるのみだ。

 人間という存在をこれ程恐ろしく思った事はない。

 奴等がやろうとしている事はビジネスだ。

 我々を使って莫大な資金を得るつもりだ。

 そしてそれを元手に恐らくは……ああ、また奴らが来た……。

 また私は、産まされるのか。可愛そうな我が子達を――。

 願わくば憐れな子供達と憎いあの男をこの手で。

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